見出し画像

分かち合えない人がいる

嬉しいことがあれば、他者であっても嬉しくなり、悲しいことがあれば、悲しいと思う。大なり小なり、人間には「他人と分かち合う」という能力が備わっていると思うのです。

1,喜びの向き合い方

何かを友人が達成したり、合格したり、そんな嬉しいことがあったとする。素直に受け止めるなら、「あ、嬉しいな」と思うのが、分かち合える人でしょう。

でも、これに反発したり、否定したり、素直に喜べないひとがいるのも確か。その背景にはそれぞれの事情があるのでしょうが、多くの場合は、嫉妬や妬み、あるいは負けを認めたくないといった「勝ち気」が邪魔をしているのでしょう。

それは失敗する

今だけのこと

まだわからない

いろんな遮る言葉をかけられても、それを真正面から受け取る必要はありません。未来に迎えば、それは不安や不確実なことはあるでしょう。でも、喜びとは「これまでの結果」として得られる感情であって、「過去のできごと」がもたらしてくれるもの。

まずは先を見据えるのではなく、今、この時点に立てたということを素直に祝福することから初めてみてはいかがでしょうか。

2、悲しみにこそ、教養がでる

別れや旅立ちという悲しみもあれば、闘病生活の末や、突然の出来事によって、命が失われることもあるでしょう。そんな「悲しみ」を感じるときにこそ、その人の「教養」と「生き様」が見えるというもの。

死人にまで、蹴りをいれるような冷徹な人は、想像したくありませんし、どんなに意見や考え方が違ったとしても、同じ「命を弔う気持ち」に、思想や信条は関係ありません。この世に生きた命を尊び、そして、弔う気持ちは、すべての人間の土台であろうと思うのです。

そして、そんな悲しみのときこそ、話す言葉、綴る言葉に、その人が生きてきた深い考えと、たくさんの経験、そして、受け止めてきた喜怒哀楽のすべてが表現されるのです。

3、マウンティングが増えてる?

そんな人生の節目や区切りとしての喜びや悲しみがない日常においては、人はたくさんの考えや見方に触れ、人生をしての幅を増やしていくことが、みのり豊かな人生となることでしょう。

それでも、最近は特に、知らない人やあったことのない人にまで、マウンティングと称する「ひがみ、やっかみ、否定、反対、口撃」が増えているように思います。

どうして、こんなにも人は攻撃的になってしまったのでしょうか。1つはネットにおける「リアルではない自分」という存在が、安全地帯から、好き法だ言える環境があるということが挙げられます。匿名のアカウントや、仮の名前でネットの世界に参戦することは可能。これが、リアルな自分との生活に線引をし、好きなように憂さ晴らしやストレス解消の掃き溜めにしてしまうという傾向はあることでしょう。

それでも、やがて、そんな仮想空間は、ログや事象を通じて明らかにされ、リアルとバーチャルはリンクしてしまうのですが…。

ネットのよい点は、必要だと思った情報や、その時のタイミングによって、隠れていたもの、小さいのもの、まだ知られていないものも「正面」に検索を通してもってこれるということ。これが逆に言えば、賛同を得ていない意見や極端な考え方さえも、表の一面に出てこれるということ。

ネット上でさっそうと現れては、好き放題言って逃げていく…まるで、玄関のチャイムをピンポンダッシュするようなものですね。真正面から受け止める必要のないことです。

そんな、否定的批判的な人に、毎日10人対峙したとしても、365日で、3650人。10年間で36500人。いくら相手にしても、この世の中の人すべてと出会えないように、際限のない作業と時間です。

だから、「建設的でない、批判」はブロックでいいのです。それが厳しいと思うのなら、せめてミュートしましょう。そうやって、通りすがりの出会い頭の事故のようなものに合わないことも、自分の命を守っていく上では大事なこと。ネットは、バーチャルかもしれませんが、今を生きる人にとって欠かせない存在。

リアルな世界では、事故に合わないように気をつけたり、危ないとおもったらその道を通らないように、ネットの世界も「自己防衛」するしかないのです。

危ない人はどこにだっている。わかり会えない人も言える。そんな人に時間を費やすよりも、愛してくれる人、敬意をもってくれる人と向き合うほうが、はるかに人生が喜ばしいものになることでしょう。

ただし、「心地よい」とはまた別。本質をつく、耳の痛いことを塞ぐようでは、同質化したコミュニティという安全地帯に逃げ込むだけになってしまいます。この辺が、ネット社会と人とのつながりかたで、難しいところですね…。

日本と世界を飛び回った各地域の経験と、小論文全国1位の言語化力を活かし、デジタル社会への一歩を踏み出す人を応援します!