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「議論しない」という在り方

ブログやSNSを通じて、自らの考えや体験を誰もが発信できるようになりました。一方で、想いを言葉にすることは難しく、表現不足や一部だけを読み取り、誤解されることも…そんな時代だからこそ、あえて「議論しない」というスタンスが大切になっている気がしています。

1、「議論」は本当に必要か?

 何か日頃問題になっていることや疑問を、ネットを通じて発信する。それは世界に向けて、一人の「個」が意見を晒すことにあるわけで、仮に、それをフォロワーのたくさんいる人や、インフルエンサーが取り上げ、リツイートや引用したとき、賛否含めてたくさんの考えに触れ、場合によっては、攻撃的な意見を突きつけられることもあるでしょう。

こんなことは、ネットが日常化した今だからこそ起こる現象であって、かつて人がリアルな場で、お互いの自己紹介や背景を知った上で、コミュニケーションしていた時代とは大きく変わりました。

すなわち、「匿名同士が簡単に知り合える」世の中になっているのです。

人の考えや思いは、経験やその時の状況によって様々です。よくある議論の1つが「家を買うのと賃貸はどちらが得か」という論争。どっちがいいかなんて簡単に決まらない上に、其の人の状況や置かれた環境、制約によっては、どっちにもいい場合があり得るのです。

そうやって、本質的で、かつ二項対立的に議論が持ち込まれると、少しのズレが、たくさんの人の間に発生し、それが、勘違いや誤解、感情的なやり取りへと参加者のエネルギーがまとまっていったとき、相手を尊重することができない事案や状態が起こるのです。それが、ネット社会における匿名の誹謗中傷や、集団での否定的コメント、さらには人権侵害とも思えるネットからリアルまでの事象に至ることだってあるのです。

幾度と繰り返されるこうした自体に、思うことがあります。それは「議論は本当に必要か」ということです。

Twitterの130文字で全てを語れるなんて甘いものではなく、Facebookのように長文だらけになっても読むのは困難。こんな不便で誤解を生じやすいツールで「議論すること」自体が、すれ違いや勘違い、あるいは他人を否定する環境をうみだしているような気がしているのです。

だから、簡単に議論しないこと。相手と違う意見に触れたら、そこで受け止めて終える、というスタンスも大事なのではないかと思うのです。

あなたと私の考えが違う。それがこの地球上で起こってもいい。少なくとも、命を今狙うような言動でない限り、「異なる」という状態のままでいることのメリットや相手に対する姿勢をもっと多くの人が持ったほうがいいのではないかと思っています。

2、「正解」はいくつもある

それぞれの人が全く同じ経験や知恵を持つことができないように、経験と失敗から得られる「正解」という答えは、1つではもちろんありません。だから、何かの問いや問題提起に対する「答え」だって、1つではありません。

賛成する声も、反対する声も、どちらの意見でもないものだってあるし、わからない、あるいはそもそも必要性自体を問うものだってある。そうやって、人はそれぞれ「異なる状況にいる」ということの証左でもある。

見方を広げるという点で、ネットが果たした役割は大きい。でも、「考えを収束させたがる」という圧力が高まるのは、ネットのデメリットでもあると思います。

どっちの立場をとるのか。正解ではない人はおかしい、間違っているといった考えも、「単純な一つ」という状態が、人間にとっては、世の中を捉えるときに楽だからです。

3,コメントを控えるココロ

少し、「議論すること」を早計にしたがる欲を抑えてみましょうか。正解や答えを欲しがる気持ちもわかります。ただ、少し、ちょっとだけ、どう世の中や問題がすすんで行くのか見守ってみるのです。

☑どっちが得か

☑どっちが問題か

☑どっちがいいのか

そうした答えを求めず、今起こっていること、思っていることだけを伝え、そして他人についても同様に「受け止めるだけ」でいい。

ツイートにツイートを重ねたり、コメントを応酬したりせず、「あなたの意見や考えをうけとめましたよ」という意味での「いいね」だけで終える。

そんな姿勢がSNSで増えて言ったら、もっと有益に、そして人が人を傷つけることなく、ネットが世の中に果たしてくれる役割は、人にやさしいものになっていくような気がします。

コメントする前に、ちょっと立ち止まってみましょう。それが、相手の感情や譲れない立場に火をつけてしまうかもしれないのですから…。

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