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針を置いたらあの海へ 第7話


<ここまでのあらすじ>
ニット男子レオ(17)は、彫り師たっちゃんさん(28)の眼を借りてカラフルなニット「フェアアイル」を編んでいる。
レオも、持ち前の画力でたっちゃんさんと共にタトゥーのデザインをする。
制作を通して心を通わせる2人は、それぞれの目的のもと、関門海峡への旅行を約束する。
ある日たっちゃんさんは、自分の過去をレオに打ち明ける。
それは、想いを寄せた「一馬(かっちゃん)」に勢いで、自分が同性愛者であることをカミングアウトし、それがきっかけとなって一馬は事故死した、という内容だった。

レオは、「バディ」と言いつつも自分が助けられてばかりの関係から脱却し、たっちゃんさんを救う側になりたい、と、旅行を前にフェアアイルを編み上げることを決意する。

 フェアアイルを仕上げて旅に出ようと決意してからは、取り憑かれたように編んだ。秋口に編み始めたのに、もう五月。俺はずいぶんと編むことから逃げていた。その時間を取り戻すために時に徹夜して編む。
「レオ、編む段数どんどん増えてるけど大丈夫なの?」
「いいんだ、とにかくこれを編み上げて、次に行きたいんだ」
 たっちゃんさんは、毎回寝不足顔の俺を案じ、そして不思議そうな顔をしていた。
 俺は、それぞれの腹の中の苦しみや後悔を納めに行かなきゃいけない、そして次の段階に行かなきゃいけないという思いに駆られてた。
 エンジンがかかれば、袖のないベストなんてあっという間に編み上がった。首元だけわずかに休み目のある、カラフルな大きな袋。V字の襟と、両の袖ぐりはスティークで繋がったまま。あとは、スティークを切り開き、端のゴム編みをするだけだ。このスティークが開くのを見届けるのは、俺だけじゃダメだ。
 翌朝起きてすぐにメッセージを送った。

“長いことありがとう。大分かかったけど、編み上がったわ。スティーク、一緒に切りたいんだけどさ、来週のたっちゃんさんとこの定休日に、どう?”
“お疲れ様!俺もさ、貴重な経験出来たよ。毛糸から服が出来上がる一部始終見られるなんてさ。一緒に切って、いいの?”
“もちろん”

 定休日の夕方、たっちゃんさんの店に向かった。
 俺が編んだフェアアイルを、たっちゃんさんの両手の上に乗せる。まるで、人間の赤ちゃんを渡すみたいに、まだベストになっていない、フェアアイルの赤ちゃんを渡す。
「すごい、キレイ。同系色が少し続いた中に、いきなり赤とか緑の強い色がパッと出てくる。レオみたい。ポップで、若くて、強めで全然一筋縄じゃ行かない生意気そうな感じ」
「後半俺に引っ張られすぎだろ」
 でも、多分言い得て妙だと思う。明度と彩度の強弱が、かなりはっきりしているのは分かる。黄色の面積の多さも、多分伝統的なフェアアイルとは違う。少なくともこれを着ている人を、大人しく淡々とした人だとは思わない。
 カバンの中からハサミを取り出した。曲線がいくつも連なる、複雑な輪郭をした、金色のハサミ。ドイツ製のアンティークのものを、母さんが譲ってくれた。
 ハサミを持っただけなのに、手が微かに震える。傍らに開いた本には、「反対の身ごろを切らないよう、注意してスティークを切る」と書いてある。そんなことしないだろう、と思うけれど、こうしてしっかり注意書きするくらいだから、きっとよくある失敗なんだ。想像するだけで心臓が痛い。
 裾から手を入れ、前後の身ごろにしっかり空間を作り、胸元のスティークにハサミをあてがう。この右手に力を込めたら、スティークは切れる。もし、スティークが切れるとともに、本体までバラバラにほどけてしまったら。俺とたっちゃんさんの数ヶ月も、決着を付けたい過去も、切り開きたい未来も、全てがバラバラにほどけてしまうような気がする。力を込めなければと、そう思うけれど、手は震えるばかりで、どんどん力が抜けていく。
「俺、無理だ。切れない」
 ハサミを一旦テーブルに置いた。ドアのガラスから射し込む西日で、左頬が仄かに暖かい。ハサミが反射して光り、いつもの何倍も鋭く見えた。
「切るんだ。レオしか、切れない」
「でも、もし失敗したら?全部ほどけてしまったら?」
「大丈夫。思い出してよ、レオ言ってたじゃん。毛糸同士しっかり絡み合っているから、切ってもほどけないんだって。万が一、万が一スティークがほどけたって、本体部分が一瞬にしてほどけたなら、それは魔法だよ。レオは魔法使いじゃない。ひと目ひと目編み続けないと完成させられない、人間だ」
 そう。俺はこの数ヶ月、怠惰に任せたり、たっちゃんさんとの関係が切れることを案じたりして、ぐずぐずとこのニットを編んだ、弱い人間。だからきっと、編み物の本にすら載ってない超常現象は起こせない。もう一度ハサミを手に取り、そして言った。
「たっちゃんさん、お願いだ。一緒に切って。ただ、手を添えてくれるだけで、いいから」
「レオ……『左手は添えるだけ』ってやつだね」
「知ってんだ」
「流石に有名だからねぇ」
「そうじゃなくて。いや、そういうこと。左手を添えるだけでいい。力を入れなくていい、だから、一緒に切って欲しい」
 たっちゃんさんは、すうっと息を吸い込み、分かった、と言って俺の右側に立った。
「ほんと添えるだけだからね!正直俺もすっごいすっごい怖いから!絶対力入れないからね、急に大声出したりしないでよね!」
 さっきめちゃくちゃ冷静なことを言っていた割に、俺よりビビっていて笑ってしまった。そう、フェアアイルの赤ちゃんが、ちゃんとフェアアイルになる最初の一歩は、ガチガチにこわばった顔で踏み出しちゃいけない。目はしっかり、カラフルなスティークを見据えて、でも口元は緩んだまま、たっちゃんさんの体温が乗った右手に、力を込める。
 シャキ。
 柔らかな編地は、驚くほど呆気なく、二つに切れた。呼気が俺の口を飛び出そうと、喉の奥で渦巻く。でも、興奮して手元が狂ってはいけないから、息を止め、一気に四度、右手に力を込めた。
「切れた……」
「すごい、本当に、ほどけないんだね」
 ゆっくりとハサミを置き、まだ震える手で、切り口を触る。柔らかく儚げな手触りのくせに、ちっともほどけようとしない。俺は、間違いなく、スティークを切り開いた。
 一度切ってしまえば、あとは容易い。もう手を添えてもらうことなく、両の袖ぐりを切り開く。たっちゃんさんが呟いた。
「レオ、これ、もうベストじゃん」
 ただスティークを切っただけなのに、あっという間に、袋がベストになった。たったこれだけのことで。まるで魔法だと思った。俺とたっちゃんさんが、数ヶ月かけて習得した魔法。俺たちは、カラフルに絡み合った、このどうしようもない袋小路に風穴を開けた。
 さっきまで止めていた息と共に、言葉が溢れ出した。
「出来た。すごい、出来たよたっちゃんさん。ありがとう、本当にありがとう。絶対に、俺だけじゃできなかった。俺達は、もうバディじゃない。でも、一緒に進めるよ」
「お、おお、ありがと。レオ今まで見た中で一番テンション高い……」
 スティークに意味を持たせすぎた俺と、そんな思惑を知らないたっちゃんさんと。温度差はあるけれど、多分オレンジの西日が俺たちを等しく、暖かく照らした。

 一学期の中間テストが終わったから、と、ルイが来店した。本格的に受験生になったルイが気軽に店に来られるのも今日までかな、とぼんやり考えていた。
 ルイは予備校で伸び悩んでるとか、俺は高校に編入する予定なんだ、とか話をした。話がひと段落して、ルイがそわそわと窓の外を気にし始めた。
「今日はたっちゃんさん、来るかしら」
「ほぼ毎日来るし、来るんじゃん?」
「今日は来てもらわないと困るわね。そろそろ伝えておかないといけないことがあるし」
「普通に連絡取ればいいじゃん。連絡先教えようか」
 全っ……と言いながら、ルイが天を仰いだ。
「然分かっていないのね、ファン心理を。それは越権行為よ」
 たっちゃんさんは一般人なのに、気が付けばアイドルのようになっている。本人は自覚しているんだろうか。
 おつかれさまぁ、とアイドル様が来店した。ルイは慌てて鞄の中からスケジュール帳を取り出し、推しのもとに駆け寄った。
「たっちゃんさん、こんばんは。お疲れのところすみませんが、ご相談が」
「ルイちゃんお疲れー、何何ぃ?」
「私、六月六日が誕生日なんです」
「ゾロ目なんだねぇ。おめでとう、何かお祝いしなきゃだねー」
「それで、六月の第二土曜日の夜、ご都合いかがですか」
「ちょっと待って……今の所、予約は十八時までかな」
「私その日、両親も妹も旅行中なんです」
 一瞬沈黙した後、たっちゃんさんが、へえそうなんだ、と目線を逸らしながら言う。
「たっちゃんさんの家に行ってもいいで」
「絶対ダメだよ」
「何考えてんだよ連絡先どころじゃねぇ越権行為だよ」
「皆さん、落ち着いて。私は闇雲にたっちゃんさんの家に行きたいわけじゃないんです。目的が済めば帰りますし」
 目的、とは……と言うたっちゃんさんに、緊張の色が見える。俺も、全く同じ。ルイが何を言い出すのか、ひとつも予想が付かない。
「たっちゃんさん、私とTHE SECONDを観ましょう」
 え?は?
「マジで意味わからん。普通にご飯食べに行きましょうとかでいいじゃん」
「私は毎年、THE SECONDを一回戦から結果をチェックし、勝ち上がった芸人の公式youtube等でネタを見漁ります。彼らの結成からの歴史、いえ養成所時代からのことも調べ尽くします。そして、決勝に残ったメンバーについては完全に把握した状態で、決勝戦を観戦します。少なくともたっちゃんさんの友人知人の中では、私が一番、楽しくそして余すことなくTHE SECONDを堪能させる自信があります」
 THE SECONDは、結成十六年以上の漫才師たちが「セカンドチャンス」を掴む、というコンセプトで開催されている漫才の賞レースらしい。
「あのぉ、俺、お笑いあんまり興味ないんだよね……」
「大丈夫です、私がTHE SECOND好きにさせます」
「お笑い好きじゃねえんだ」
「他のお笑い賞レースは全く興味ないの。ネタ番組もライブも。THE SECONDという大会が好きなだけ」
 お笑い好きからとても反感を買いそうな発言だ。たっちゃんさんは引き続き戸惑っている。そして俺はとても寂しい。友達なのに、誘ってもらえない。
「ね、俺もここに居るけど」
「市原君はもちろん参加よ」
「えっとぉ、俺の家に来てもらうのはちょっと問題あるかも。リモートで同時観戦するとかじゃダメかな?」
 やる意味分からないしつまらなそうだけど、穏便ではある。でも、ルイはそんな妥協はしなかった。
「せっかくのご提案ですが、却下です。テレビ放送と、ネットでのリモート通話は、確実にタイムラグが生じます。絶対に、リアルタイムで、同じ場所で観戦しましょう。たっちゃんさん、度々市原君と深夜まで話し合ったりするそうですね。私の場合は二時間半程度です。過去の実績と照らし合わせても、何ら問題はないかと」
 押せばどうにかなる、というたっちゃんさんの気質を、ルイも見抜いていた。そして畳み掛ける。
「たっちゃんさんの自宅で、と言う点に問題があるようでしたら譲歩します。たっちゃんさんのお店ではいかがでしょうか。未成年へのタトゥーの施術は条例で禁止されていますが、タトゥー施術店への立ち入りについては特に言及されていません」
「えっそうなの?!でも前にレオが……」
「俺は、出入りしてオッケーなの?って聞いただけだよ」
 詭弁を弄するクソガキ二人に、優しい優しいたっちゃんさんが太刀打ちできるはずもない。THE SECOND当日はたっちゃんさんには十八時以降の予約は開けておいてもらい、その後たっちゃんさんの店にあるデザイン用のPCを借り、リアルタイム配信で観戦する、という、完全にたっちゃんさん頼みのプランが決まった。
「最初ちょっとびっくりしたけど、決まったら何か楽しみになってきたかもー」
 どこまでも人が良い。ルイは越権行為がどうのと言っていたが、連絡用にグループを作り、とうとうたっちゃんさんとルイが連絡先を交換した。
 THE SECONDの予選期間中、ルイは予選通過者の中から注目のコンビをピックアップし、芸風やお勧めのネタ動画などを送ってきた。まるで公式アカウントの様だった。
 たっちゃんさんは
「番組二十一時までだし、心配だからルイちゃんは家まで送るよ」
 と言った。でも、一時間近くかけて家まで送り、また一時間かけて戻ってくると言うのは、たっちゃんさんの負担が大きいと思って、俺は
「いいよ、俺とルイ地元一緒だし、俺が送ってって、俺はそのまま実家泊まるから」
と言った。
「確かにそうだねぇ、その方がよさそう。ていうか俺が送ってるとこご近所さんに見られたら、凄く変な噂立ちそう」
「いえ、周りの目線とかは全く気にしないのですが、やはり家まで送っていただくと言うのは越権行為ですので」
 もう越権行為の定義がよく分からなくなってきたけど、ひとまずそういうやり方に落ち着いた。
 当日、俺は実家に泊まるから早上がりするわーとばあちゃんに言い、ルイと二人、たっちゃんさんの店のバックヤードで息を潜めていた。たっちゃんさんが早めに閉店すると、
「あー疲れた。じっとしてるから身体バッキバキだわ」
「たっちゃんさんここ飲み物置いていいですか。あ、十八時二十分にウーバー来ますから」
 クソガキのターンの始まりだ。ルイは、たっちゃんさんは何もしなくていいですから、と言って、たっちゃんさんのパソコンを一八〇度回転させ、TVerにアクセスし、リアルタイム配信の準備を整えた。俺はたっちゃんさんの閉店作業を手伝った。
「レオはやっ」
「ばあちゃんに代わってよくやってっからね。あと十分だよ。トイレとか行っといたほうが良いんじゃない」
「ねえ、ルイちゃんの誕生日ケーキ買ってあるけど、もうさっさと出しといたほうがいい感じ?」
「だな。中途半端なタイミングで出したら多分たっちゃんさんでもキレられる可能性ある」
 テーブルに、フライドチキンやサラダ、エビチリにバースデーケーキという、全く統一感のない料理が並び、コーラで乾杯したらちょうどTHE SECONDが始まった。
 ルイは、今まで見てきた笑顔時間の三百倍くらいの量笑っていた。俺もたっちゃんさんも、ひたすら笑い続けた。
「うわ、youtubeに載ってたあの犬のネタ、絶対ファイナルステージ用に温存してただろ」
「そうね。ここで出していたら勝ち上がれていたかも」
「もったいなかったかもねぇ、でもさっきのネタも面白かったけどね」
 事前知識があったおかげで、各芸人への思い入れが強く、手に汗握るようなシーンもあった。
 ブレイクのチャンスが巡ってこなかった実力ある芸人たちが、もう一度チャンスを掴む。必死なのに、漫才の間は、そんな必死な顔をしない。とにかく漫才を楽しみ、お客さんを笑わせる。
 俺もたっちゃんさんも、関門海峡を笑顔で眺めながら、でも内心必死で、もう一度、人生の躓きを取り戻すチャンスを掴めるだろうか。
 優勝者が決まった瞬間、ルイは立ち上がって目を瞑って天を仰ぎ拍手をした。優勝者の涙を見ると俺もこみ上げるものが、と思って横を見たら、たっちゃんさんは眉間に皺を寄せて泣いていた。完全に俺だけ置いて行かれた。
「すごいね、ルイちゃんいなかったら、こんなにガチで楽しもうと思わなかったよ」
「いえ、私も推しコンテンツを推しと楽しむという、私得でしかない時間を楽しめて最高でした」
「わたしとく?おし?って何?」
「たっちゃんさんは知らなくていいやつ」
「浪人覚悟なので、多分こんなことが出来るのは今年限りでした。いい思い出を、ありがとうございます」
「え、ルイ重っ」
「そっかぁ、そんな大事な年に一緒に楽しませてくれてありがとね」
 ルイはまた、「尊い……」の顔をしていた。
 週末の二十一時半は、電車は割と空いていて、俺もルイも席に座ることが出来た。
「良かったな、たっちゃんさんも楽しそうにしてたし」
「そうね、わが推し人生に一片の悔いなしって感じね」
「一応、俺も居たってこと覚えてて」
 ルイは、ふふっと笑った。
「市原君が居る前提で、ってことよ」
 俺はどうして、友達に対してこんなに重たいんだろう。たっちゃんさんにも、ルイにも。
「受験で忙しくなるだろうけどさ、俺と、友達でいてくれる?」
「物凄い剛速球ね。受験を経たら無くなる友情ってそれまでよね。そして、市原君がどうかは知らないけど、私にとっては貴重な友人よ。今まで、同級生から親しみを持たれることなかったし」
 確かに、俺がかつてルイを「カワベルイ」とフルネームで呼んでいたように、一般の生徒からしたらルイは有名人と言うか、「あの」川辺瑠衣、という感じで、友達になりたいとかいう発想もなかった。
「私のスマホ、家族と市原君との連絡と、たっちゃんさんのお店のインスタ投稿確認にしか使ってないから、市原君・たっちゃんさん専用機状態なのよ」
「いや、俺との連絡もたっちゃんさん通信だから、たっちゃんさん専用機じゃん」
「でも、市原君とじゃなきゃたっちゃんさん情報で盛り上がったりしないから」
 友達でいるのに裏付けなんて本当はいらない。でも、俺は、ルイに、異性であるルイに「貴重な友人」と言い切ってもらえたことでようやく、友達だと思うことを自分に許せた。
「たっちゃんさんの店のインスタとか、見てて面白い?」
「面白いわよ。タトゥーの写真しか載ってないんだけど、たまに『虎さんでーす』ニッコリ絵文字、っていうコメントと共に、凄くリアルでいかつい虎のタトゥーの写真が載ってたりするわ。シンプルなレタリングのタトゥーの写真に『今日は急にカレーうどん食べたくなっちゃって、白Tだけどカレーうどん屋さん行ったら、シミ付けちゃいました~』涙絵文字、っていうコメントが添えられたりしてて、ランダム感がたまらないわね」
 推し活を楽しんでいて羨ましい。俺も、たっちゃんさん推しなんだろうか。でもカレーうどんでシミ付けたとか結構どうでもいいかも。
「ルイはさ、たっちゃんさんにタトゥー彫ってもらいたいとか思うの」
「それは完全にノーね」
 即答。まぁ、ルイの性格とか今後の職業とか考えたらそうか。
「タトゥーを彫るかどうか、っていう点については何とも言えないけど、少なくともたっちゃんさんには彫ってもらわないわ」
「なんで?推しだから?」
「まあそうなんだけど、それだと言葉足らずね。タトゥーって、一生残るし肌に刻むものだから、この状態で私が彫ってもらったら、そのタトゥーが私にとって意味を持ちすぎてしまうでしょうね。しかも、『この図案を彫ってもらった』じゃなく、『たっちゃんさんが刻んだものだ』って。それじゃあ烙印めいてしまう、というか。上手く穏便な言葉で表現できないけれど」
「いや、凄く分かる」
 そう。俺にはとてもよく分かる。たっちゃんさんの脛のタトゥーを、ごく一部一緒に彫った、いや、彫っている手に俺の手を重ねた。それだけで、俺は妙な征服感や、「あれは俺が彫った」という達成感を覚えた。あれがタトゥー全体に及ぶとしたら、まさしく烙印だったと思う。
 たっちゃんさんが左腕に宿した白い鳥もまた、まぎれもなく、たっちゃんさん自身が押した烙印だろう。俺がそこに図案を上描きする事は、「烙印の上描き」になってしまうんじゃないだろうか。
 たっちゃんさんは、俺たちがかなり重いことを、しかも一生消えない重いことをしようとしていることに、気付いているのかが気になった。気になるけど、聞ける訳もなかった。

 旅行は二ヶ月半後に迫っている。俺たちにルイのような計画性はない。あるのは、俺の暴走に近い爆発的推進力のみだ。早めに準備を開始しないと直前にバタバタすると思って、閉店後のたっちゃんさんの店で、ガイドブックを開きながらどこに行こうかと目星を付けていった。
「レオ、一年前はすっごいすっごい俺に警戒して目も合わせなかったのに、今や一緒に旅行に行くくらい仲良くなるとはね」
「いやでもさ、俺はそういう存在居ないけど、たっちゃんさんは、別に友達と旅行とか珍しくないだろ」
 は?なんだそれ、と自分に対して思った。答えになっていないし、重いし、どう考えても「そんなことないよ」待ちだ。そして「そんなことないよ」と言われて、どうせ気使ってくれてんだろと思うところまで含めて、アンハッピーセットの出来上がりだ。
「そんなことないよぉ」
 ほら来た。
「俺、ホントに友達と旅行したことないの」
「え、嘘」
「ホントホント。ずっと仕事とか開業準備とか、開業したらまた軌道に乗せなきゃーって忙しかったし。だから、友達んち泊まりに行くとか向こうが泊まりに来る、がせいぜいでさ」
 俺には、ずいぶん心を許してるってことでいいのかな。いやでも。
「まぁ俺は子供だからな。気楽なんじゃん」
 たっちゃんさんが顔を上げて、ハハ、と笑う。
「俺は別に、十七歳なら誰とでも仲良くできる訳じゃない」
 は?は?なんだよそれ。言葉を正面から受け止める勇気がない。受け流さないと、どんな顔していいか分からない。ここで「俺も、二十八歳だったら誰とでも仲良くできる訳じゃない」と言ったら、この部屋の空気はどうなるんだろう。
 うっすらと気づき始めた。俺が知りたいことは、たっちゃんさんが俺をどう位置付けているかよりも、俺がたっちゃんさんをどう思っているか、ということなんじゃないか。
 答えが見えないどころか、方向もよく分からない考えを振り切ろうと、無理やり喋った。

「たっちゃんさんさ、何で花火見たかったの」
「え、だって花火綺麗じゃん」
「それだけ? なの? あ、いやこれただ気になって聞いただけだし、言いたくなかったら言わなくていいから」
 レオ、びくびくしすぎだよ、とたっちゃんさんが笑った。
「花火綺麗、ってのもあるし、子どもの頃……っていうか、施設出るまで、みんなで毎年庭で花火みてたんだよね。すごいロケーション良かったの。高校生の頃とかさ、たまに施設の先生にムカついたりしてたけど、花火見てみんなで『おーっ』とか言ってたら、ちょっとどうでも良くなったりしてさ。懐かしいし、せっかくだから見たいなって」
 たっちゃんさんの口から「ムカついた」という言葉を初めて聞いた。これまでずっと「ムカついた」なんて言わないしそんな素振りも見せなかった、たっちゃんさんという人の穏やかさに驚いた。
 一馬さんと写っている、あの写真を思い出した。写真の中のたっちゃんさんは、今とは対照的に、腕をだらんと伸ばして、舌を出し、だらしなくピースしていた。その頃のたっちゃんさんの、深いところまでは分からない。「反抗期だったんだね」とかいうコメントが相応しいんだろう。でも、そんなことは言わない。「反抗期」なんて一言で括られることに、俺は現在進行形でムカついてしまうから。
「たっちゃんさん、初めて会った日に俺のこと『反抗期』って言ったね」
「えっ急! ごめん、思い出し怒り?」
「いや、そうじゃなくてさ。たっちゃんさんはもう、反抗期抜けた人なんだなって」
「勘弁してよ、俺もう二十九なるんだってば。そんなロックンロールな生き方出来ないよ?」
「なんか、逸れたけどさ。花火に皆との思い出がいっぱいあるってことだね? 十八年分、くらいの」
「まぁ記憶ない時期あるし、毎年のこと鮮明に覚えてる訳じゃないけどさ。大人になってからしっかり見てないから、楽しみだよ」
 言いたいことが二つ浮かんだ。一つめ「そんな大切な思い出に加えてくれてありがとう」これは口が裂けても言わない。でも、もう一つの方は言っておいた方がいいかな、言わずにモヤモヤしたまま行きたくないな、と思った。

「あのさ、全然、水差したいわけじゃなくて、何も言わずにいるのもなって思ったから言うんだけどさ」
「何何、なんかマズいことあった?」
「えっと、俺、あんまり花火を……エンジョイしたことないんだよね。いや、キライとかじゃないんだ……俺は、花火の色百パーセント見えてないんだよな、って、冷静になっちゃう瞬間があって」
「あぁ、そっか……ごめん、配慮出来てなかったね」
「いやいいんだよ、配慮とかいう間柄でもないだろ。それにさ、というか、それでも、多分大丈夫だな、楽しめるなって思ってんだ」
「それは、なぜ?」
 ただの日常会話で、重くなりすぎないように、湿っぽくなりすぎないように感情を伝えるのが、こんなに難しいなんて。頭の中で文章をタイプして消してを三秒間に何度も繰り返した後、ぶっつけ本番で口に出した。
「あのー、フェアアイル、編んだじゃん。なんか、俺のままでも、あんなすごいもの編めるんだなって思ったし、編むの普通に楽しかったんだ。八色ぐらい使って、半分はよく見分けがつかなくて、それでも楽しくて。出来上がったら、綺麗だなと思って。それ考えたら、花火は動くしキラキラするし、色数だってJAMISONSの毛糸のラインナップより全然、少ない。楽しいだろ、って」
 毛糸玉から糸を引き抜く時のように、するすると、言葉が連なった。数分前の、たっちゃんさんは俺のことどう思ってんだ、なんて探りながら聞いてた俺とは違う人みたいだ。「俺のことをどう思うか」と、「どうすればうまく伝えられるか」は、似ているようで全然違った。
 そっか、そっか、とたっちゃんさんが嬉しそうにしている。
「楽しみですねぇ」
 楽しみだね、と俺に同意を求めてこない。ただしみじみと、俺にも聞こえるように、気持ちを言ってくれる。こういう伝え方もあるんだ、と思った。

 俺の素直時間は一日に三分程度しかない。さっさと話題を切り替えるべし、と思ってフェアアイルのベストを取り出した。
「ねぇ、ちっと作業しながらプラン考えていい?」
 スティークを開いたことで完全に完成した気になっていたが、フェアアイルの裏側には、糸を変える度に出来る糸端が百五十本近く、フリンジのように並んでいる。これを一本一本始末していくという、果てしなく面倒でテンションがさして上がらない作業が待っている。もうこれは、俺が一人で淡々とやるしかない。特に頭も使わないから、手を動かしながらでも話せると思った。
 たっちゃんさんが、糸始末をしている俺を黙って眺めている。何か喋ってくれないと非常にやりづらいな、と思ったら、全く想定外のことを喋り始めた。
「レオの卒業旅行前に、描いていいかな」
「え、何を」
「レオの顔」
「は?何言ってんの急に」
「前に描いてもらったお礼。たまには俺の気まぐれも聞いてくださいよ」
 珍しく俺の意志を無視して、たっちゃんさんはバインダーにコピー用紙を挟み、鉛筆を持ってきた。
「イラスト的じゃない絵描くの久々だなぁ」
 と楽しそうだ。
「ちょっと待って!」
 思ったより大きな声が出た。たっちゃんさんは、目はびっくりして開いているが、口元は笑っている。
「トイレ、行く」
「そんなに長丁場にならないよぉ」
 無視してトイレに行った。鏡で自分の顔を見る。別に、こうやって鏡に映すのと同じことだ。それがたっちゃんさんの網膜であり、紙の上なだけ。
「お待たせしました」
 と言って、店に戻った。
「レオ何か……目ヂカラすごいですけど……普通にして?自分が描く時、リラックスしてて欲しいでしょ」
「いや、してるよ?リラックスしてるよ」
 そうかなあ、と言いながら、たっちゃんさんが鉛筆を滑らせ始めた。自分が今、どんな顔をしているのか分からない。俺はどこまでも自意識過剰だ。絵を描かれる、被写体になる、それだけのことに、意味を見出しすぎなんだ。緊張を自己批判に刷り替え、二十分ほど耐えた。
「はい、出来ましたよぉ。レオの絵と比べられるとちょっとキツイけど」
 思わず立ち上がってバインダーを覗き込む。たっちゃんさんは謙遜したが、それは日常的に人の肌の上に描く人らしい、骨格と筋肉をきちんと意識した魅力的な絵だった。
 でも、俺はそれを冷静に見ることができない。目や鼻はともかく、口は「キリっとしてたいけど緩んでいる口元」そのもので、それを支える頬もまた緩んでいた。
 顔そのものから目を逸らし、エラの骨や首元を見た。
「ここ……」
 輪郭の下、エラの陰に隠れて俺からは見えない首元に、ほくろが描き込まれていることに気が付いた。
「俺、こんなほくろあるんだ」
「あ、そうだね。自分じゃ見えないでしょ」
 それを聞いて、猛烈な恥ずかしさがこみ上げた。俺の首筋は、この人に凝視されていた。
「色白いから、こっちから見ると結構目立つけどね」
 ダメ押しだ。首に余計な力が入り、震えてしまいそうだ。たっちゃんさんから見た俺は、一生懸命何でもないフリをしているけど、口元が緩んでいて、白い首筋にほくろのある少年。その観察的な視線を二十分ほど受けたのに、俺は、何の嫌悪感も抱いていない。俺はこの感情の名前を知らない。それどころか、こんな感情があることを知らなかった。
「え、どうした?ダメだった?まだ修行足りないかぁ」
「いやっ!」
 たっちゃんさんが小さく「わっ」と言う。何で俺は、ごまかしたい時大声でビビらせる戦法しか取れないんだろう。
「すごく、いいと思い……ますよ」
「あそう?良かった。なんかロボットみたいだけど良かったぁ」
 その言葉を聴きながら、俺は思い出していた。
 俺がたっちゃんさんを描いた時、「すっごい恥ずかしい」と言ったことを。
 あれはどんな気持ちで言ったんだろう。俺は今、「すごく恥ずかしいよ」と伝える勇気はない。恥ずかしいと思いながら、あっさりそう言えるたっちゃんさんの心理が分からない。
「知りたいのは、俺がたっちゃんさんをどう思っているかだ」という仮の結論が大きく揺らぐ。
 俺は、俺たちが互いをどう思っているのかを知りたい。そしてこの気持ちのまま、共に旅に出ていいのか、ということも。

 その夜は一晩中、ネットで検索をしていた。男も女も好きにならないということについて。それが例外的に覆されたということについて。性的惹かれという概念について。ぼんやりと見えてきたのは、俺に起きた事は、天地がひっくり返るような特殊な出来事ではない、ということだ。
 誰に対しても恋愛感情を抱かないが、深く心の結びつきができた時に、初めて誰かを好きになることがある。そういう「性的指向」というものがあることが分かった。
 そう、俺は、今のたっちゃんさんへの感情を暫定的に、恋愛感情であると定義づけることにした。苦渋の選択だった。でも、夜に一人でネットだけで情報を得ようと思ったら、感情を単純化して仮にでもラベルを貼るしかないから。そして俺は自分の性的指向を、また暫定的に「デミロマンティック」と分類した。それは俺をいくらか安心させた。同じような感情の動きをする人は、決して特異な存在ではないと分かったから。
 でも、自分が恋愛感情を抱くということは、俺には受け入れがたい。これまでいくつかの恋愛感情にまつわる出来事が、俺の安全を脅かし、居場所を諦めさせてきた。ラブソングは聴けるし、恋愛もののアニメだって楽しめるのに、現実の恋愛は、不快感と結び付いている。
 たっちゃんさんが語った、一馬さんへの告白の結末。それはさらに、恋愛への恐怖感を煽った。たっちゃんさんが怖いわけじゃない。二十分視線を浴びても、1ベッドルームの部屋を予約しようとも、羞恥はあるがその点に恐怖も嫌悪も感じない。俺が怖れているのは、「告白」によって関係性を失うということだ。
 たっちゃんさんはどう思っているだろう。二十分間見続けた俺の斜め前からの顔、その絵を見た時の俺の動揺ぶり。今までの俺の、気持ちを探るような言動。それらを総合したら、俺よりずっと早く、俺の感情に気付いていたのかもしれない。
 奇しくも、俺も、十九歳のたっちゃんさんも、兄のように慕っている人を好きになってしまった。俺は、自分がたっちゃんさんの人生を追体験しているように感じた。
 一方で、たっちゃんさんからしたら、自分の辛い記憶をなぞるような少年がやってきたようなものだ。その少年は、「兄」が眠る場所へのガイドブックを持って現れ、「兄」の絵のようなカラフルな物を作り出し、自分のことを慕い始めた。そう考えると、よく俺と正面から向き合って、仲良くしてきてくれたな、と思う。
 羞恥と恐怖と不安の材料はいくらでも湧いてきた。あぁこれは明日のバイトフラフラになりそうだ、朝ばあちゃんに濃い目のカフェラテを淹れてもらおう。そう考えた辺りまでの記憶はある。
 そこから一週間、再びたっちゃんさん通信は臨時休刊になった。購読者に休刊理由を伝えたいけれど、「取材対象をまともに見ることが出来ません」とは流石に言えない。休刊からちょうど1週間後、「元気なの?」とメッセージが来た。
 断片的に切り出して、文章に落とし込むことは多分できない。「時間がある時に電話で話したい」と伝えた。
 二十二時頃、ルイに電話した。
「あの、ルイはさ、人を好きになったことあるの」
 言った瞬間、俺ってめちゃくちゃ馬鹿だな、絶対犯罪とかしちゃダメなタイプだなと思った。この、「たっちゃんさんと何かあった」と思わせる状況で、人を好きになったことがあるかと聞く。単純な足し算一回で答えが出てしまう。書き言葉だと難しいと思ったから電話にしたのに、電話はもっと下手くそだった。
「それは、恋愛感情としてってこと?あるわよ」
「そうなんだ……あのさ、その時、自分が嫌だなとか、怖いなとか、思ったりしなかったの」
「特に思わなかったわね」
「そっか……」
 自分から聞いといて、電話までしといてそっかで済ますなよとは思うけれど、どこまで話していいものか分からない。いや、どこまでも気づかれている気はするけれど。
「あの、この会話、私がリードしていいのかしら」
「……いいです」
「市原君は、人を好きになったのね」
「……そうです」
「それは、市原君にとっては稀有なことなのね。だから、不安になっている」
「そういうこと、だね」
 本当はそれ以上のこと分かっているだろうけど、言わないで居てくれているんだ。でも多分、全て言ってしまったほうが、俺も話しやすく、ルイも考えやすいと思う。
「あのさ。それはすごく、近しい人、ルイも知ってる人、だよ」
 中途半端に伏せたかったわけじゃない。俺は、あれ以来、名前を口に出すのも恥ずかしいと思うようになってしまった。
「そう」
 ルイに動揺はない。ルイも気づいていたのか、なんて考えそうになるが、今はそういう時間じゃない。
「それって、相手が誰だから辛い、ということかしら。そもそも人を好きになること自体が辛いということなのか、どっちなのかしら」
「うーん……どっちも、かもしれない。あ、あぁ」
「どうしたの」
「いや、あの、俺はさ、相手の性別をあんまり気にしていなかったな、と思ったんだよ、ね」
「あぁ、そうなのね。それは……語弊があるかもしれないけど、友人として、安心した、かな」
 闇雲に自己否定的になるのは良くないものね、と付け加えた。
「ルイに言ってない、言えない事情があるから、ぼんやりした言い方になるけれど、俺があの人を好きになることで、俺は今シンプルに辛いし、相手も、過去の辛い経験を思い出してしまうんじゃないかなぁって。あと、人を好きになること自体が辛いっていうのは、多分俺の中高時代を見てきたから、何となく分かってくれるんじゃないかな」
「そうね、すごく、苦労してたものね」
「そもそも、俺は、自分のことを、誰にも恋愛感情を持たない人だと思ってたし、この先もそうやって生きていくんだって思ってた。気が早かったのかもしれないけど」
「じゃあ、尚更あの頃は大変だったわね。誰に話せるでもないし」
「そう、どうせ誰も、まともに聞いてくれないから……。でも、『無い』と思うことで安心もしてた。それが急にひっくり返ったから、うん、すごく、動揺してる」
 俺はずいぶん、論理的にこの状況を見られるようになったな、と思った。それは紛れもなく、論理的で、いたずらに感情に流されないルイのおかげだ。
 ハタと気が付いた。ルイは、この知人友人の恋愛感情の話をどんな気持ちで聞いているんだろう。しかも、どちらも男性。ルイがそういうタイプじゃないと分かってはいるけれど、嫌がる人がこの世に居ることは俺にも分かる。それに、たっちゃんさんはルイの
「推しなのに、ごめん!」
「えっ」
 最悪だ。変な匂わせする奴みたいになった。ファンに一番叩かれる奴。でもルイは今日初めてふふふっと笑った。
「あの、そういうスタンスで推してないの」
「……俺はすごく、カッコ悪い」
「いいんじゃない。市原君はカッコいいことに慣れすぎてたんじゃないの」
「うわ、俺すごいナルシストみたいじゃん」
「そこまでは言わないけど、容姿に関しては他己評価と自己評価が一致しているわね。それ以外の項目の評価がねじれているけど、まぁそれはいいとして。市原君は恋愛感情を巡って色んな人から嫌な思いをさせられたけど、市原君は、誰も傷付けたり不快になんて、させてないわよ。おそらくだけど、元々の指向に加えて……その、トラウマみたいなものも、乗っかってるんじゃないかな、って思う」
 俺はこれまでの経験を「ダルい出来事」という大きな箱に突っ込んできた。でも、その箱の中身のいくつかを「傷付けられた出来事」だと呼んでいいのだろうか。傷付けられた経験から生まれたこの嫌悪感を、トラウマと呼んでいいのだろうか。
「……でもさ、何か、危害加えられた訳でもないし、大袈裟に傷付きましたとか言っていいのかな」
「誰もそんなこと、否定する権利ないわよ。事実は市原君しか知らないし、勝手な邪推が入っていたら申し訳ないけれど、私だったら『自分は傷付けられた』と言うと思うわ」
 俺は、あの時傷付いていたのか。俺よりずっと体力テストのスコアの低い相手に、身体を触られて恐怖し、拒めば「用はない」とばかりに切り捨てられた時。好きでもないなら、思わせぶりに異性を家に呼ぶなと陰で謗られた時。自分に好意を寄せる異性に欲情しなかったら、どこかおかしいのではないかと噂された時。俺は傷付いていたのだろうか。
 女子と電話して泣くなんてカッコ悪い、と思ったが、それは紛れもなく、俺を「男のくせに手も握らなかったのか」と嘲笑う人と同じ思考回路だと気づき、全力で打ち消した。俺は「女子」じゃなく、川辺ルイという名前の聡明な友人と電話をし、彼女の優しさと鋭さに助けられて泣いている。カッコ良くはないが、いい友達を持つことが出来た幸運な少年だ。
 少し落ち着いた後、「もうすぐ二人で旅行というイベントがありまして……」と打ち明けると
「それはなかなか……落ち着かないわね。自分に置き換えたら、肩と首がカチカチに凝りそう」
「耐えるしかないかな」
「耐えるしかないわね。でも、楽しみでもあるでしょう。私だったら、物凄く緊張するけど、同じくらい楽しみだと思う」
「……ルイ好きな人居るんだ」
「そんなに意外かしら」
「どんな人?」
「論点をずらすなら切るわよ」
「ごめんごめん。楽しみなのかな。この数日、落ち込んだり自己嫌悪したりで、全然そんなこと考えられなかった」
「私は、『自己嫌悪しなくていい』と提案したけど、それを採用するかは市原君次第だし、すぐに効果はないと承知の上よ。しばらくは『市原君通信』を送って。それで気持ちを逸らせるなら」
 それから一週間ほど、その日食べたものやお客さんとの会話、絵を描いたらその絵を添付したりと市原通信を送った。しかし、一週間も終わりの方になると、「市原の日常を、たっちゃんさんの存在を意図的に無視してお伝えする通信」は非常に難しいという事実に気付き、徐々に、たっちゃんさん通信含む市原近況、を送るようになった。

“「宇部空港まで飛行機で行ったら、所要時間半分だし値段もたいして変わんないぞ」ってネットの予約画面入力してったら、確定ボタン押す直前に「あのさぁ、実は高い所苦手なんだよねぇ……」って言いだした。ムカついたから窓の外指差して「あ、猫ちゃん」って言って、「うそっどこどこ?!」って探してる間に確定ボタン押した。”
“いいわね。高所恐怖症・辛い物好き・猫好き、は売れるアイドルの必須条件と言われているわ”
“誰にだよ”
“私に”

 結局往路・復路とも宇部空港経由で、飛行機とシャトルバスを使うことにした。たっちゃんさんが
「どうせ門司に行くなら、二泊目福岡にして、福岡空港から乗っても良いんじゃない?中洲の屋台とか行きたいよ俺」
と言ったが却下した。
「えー、そっかぁまあ屋台はお酒飲めた方が楽しいしね!」
「そういうことじゃないんだ」
「違うの?あ、外で食べるの嫌い?」
「そういうことでもない。関門トンネルは片道じゃだめだ。門司に渡るなら、下関に戻らなきゃダメなんだ」
 たっちゃんさんは全然腑に落ちない顔をしていたが、了承してくれた。花火大会の日の昼に到着して毛糸の工房に行き、二日目は下関と門司を歩いて往復し、三日目に帰京、と大まかなスケジュールを立てた。
 腑に落ちないけど受け入れる、それは俺も同じだった。恋愛感情を抱くことを望んではいないが、その事実を無視することも拒むこともできないから、受け入れることにした。そうすることで少しずつ、日常生活と、恋愛感情の先が怖いという気持ちを両立できるようになった。いや、できる、と言っていいのかは分からないけれど、いつまでも日常生活をぎこちなく送るわけにはいかないから。

 カフェが休みの日、二泊三日の旅行にちょうどいいサイズの旅行鞄を買いに、ひとり渋谷に向かった。久しぶりに乗る山手線は混み合っていて、人と人の間の空気は熱いくせに、背中を擦る冷房の風だけが冷たく、電車はこういう所がさぁ、と苛ついた。
 JR池袋駅構内は同じように些細な苛つきを胸に抱えた人で溢れかえり、俺が方向を間違えたなと踵を返すと、斜め後ろから微かな舌打ちが聞こえた。どうにか人ごみをすり抜け、比較的空いている東京メトロ副都心線のホームに辿り着いた。地下鉄に乗り込み、ぼんやりと英会話の広告を見ながら考えていた。
 「普通」の人は、あの舌打ちしたくなる人ごみの中、きらりと光る、「三回デートしたら付き合える人」を見つけ出せるのだろうか。あるいは、その輝きを目にした瞬間に、恋に落ちたりするのだろうか。それは俺には出来ない。俺はその人ごみを傍のベンチで眺め続けても、誰かが放つ特別な輝きに気づくことはないだろう。
 そんな日々の中、たっちゃんさんは俺の座るベンチにやってきて、十か月の間他愛もない会話を交わし続けてくれた。その十か月の終わりに、ようやく俺は、彼の輝きに気が付いた。だが、特別な誰かを見つけ出すことが出来たという喜びは瞬時に、その先への怖れに掻き消された。
 俺には「ずっとここに座っていてくれ」「俺の知らない電車に乗らないでくれ」と言う勇気がない。もしそう伝えた結果、たっちゃんさんが、もう話すことはない、と人ごみの中に消えていったなら。俺は、いつ来るか分からない他の誰かを待つことは出来ないだろう。
 地下鉄が静かに副都心線渋谷駅のホームに滑り込む。このホームと関門トンネルは、どちらの方がより深くにあるのだろうか、と考えて立ち止まる。まばらな乗客は俺を追い抜き、舌打ちをすることもなかった。



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