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針を置いたらあの海へ 第4話


 朝目を覚ますと、家の中がやけに静かだった。朝のニュース番組の声が聞こえない。その分、窓の外の鳥のさえずりとか、車の行き交う音、小学生のさざめきがよく聞こえる。いつもなら一階から香ってくるみそ汁の匂いも、今日はしない。
「ばあちゃん?」
 そこそこ大きめの声で呼びかけたが、いつもの鷹揚な「はぁい」は返ってこない。
まさか、まさかね、と思いながら、厚手のカーディガンを羽織り、スマホを握りしめて階下へ降り、もう一度
「ばあちゃん!」
 と強めに呼び掛ける。俺の声が消えると、相変わらず家の中は無音になる、いや、時計の音、冷蔵庫の音、窓の外の喧騒は聞こえ、人の声だけ、そして包丁のトントンという音だけがない。
 ごみ捨てに行ってるだけだ、きっとそうだと思いながら、廊下を足早に歩く。気が付いたら眉間に皺が寄っていた。リビングの扉を開ける。
 電話台の前にうずくまるばあちゃんが居た。
「ばあちゃん!」
 駆け寄って肩に触れると、微かに震え、しっかりと熱を持っていて、身体中の力が抜けた。でも、もしかして心臓でも苦しくなって倒れ込んでいるのだとしたら、と、
「ばあちゃん、大丈夫?身体どうかした?」
 と問いかけた。ばあちゃんは首を横に振って絞り出した。
「アケミさん……亡くなったって。急に。昨夜倒れて……」
 苺のタルトが大好きだった、快活な笑顔が魅力的なアケミさん。みんなのムードメーカーだった。ばあちゃんも特に仲良くしていたし、何よりまだ六十代。お孫さんがいるから立場上おばあちゃんだけど、おばあちゃんと呼ぶのは失礼なくらい、若々しい人だった。
「ごめんね、心配させて、もう大丈夫よ」
「全然大丈夫じゃなさそうだよ、座ってて、お茶淹れるから」
 朝ごはんにおにぎりでも作ろうか、と言ったけど、食欲がないからと断られた。
「とりあえず、お店に臨時休業の貼り紙してくる」
 どうせお友達は皆来ないだろうけれど、念のため。と思ったが、憔悴しきったばあちゃんを一人にしていいのだろうか。迷った末、スマホをポケットから取り出しメッセージを打った。

“たっちゃんさん、おはよう。朝からゴメン
常連さんのアケミさん覚えてる?昨晩急に亡くなったらしくて、うち今日臨時休業する
お店に来たら、うちの店のドアに、「都合により臨時休業いたします」って貼り紙しておいてくれないかな“

 すぐに電話があった。スマホの通知で起き、そのまま電話してくれたんだろう、完全に寝起きの声だった。
「おはよ、メッセージ見たよ。お店のことは心配しないで。おばーちゃんは、大丈夫?」
 廊下に出て、小声で話す。
「あんまり、いや、だいぶ大丈夫じゃないんだ。ずっと泣いてて、ご飯もいらないって」
「そうか……そうだよね。レオも、大丈夫?びっくりしたし、おばーちゃんのことも心配だよね。こんな時にお店のことまで気回して」
「いや、俺は大丈夫だけど……きついよね。アケミさん、良くしてくれてたし」
「そうだね、俺も可愛がってもらってたから……。俺、今日店終わったらそっち行くよ。二人とも心配だから」
 そんなこと、悪いよって言いたかったけど、やっぱり俺も動揺してた。アケミさんが亡くなったこともそうだけど、一番身近な保護者である、ばあちゃんの様子に。動揺し、不安で、誰かに頼りたかった。
「うん、申し訳ないけど、そうしてくれたら、すごい助かる」
「全然申し訳なくないから。こういう時大人が助けないでどうすんの。昼間も行きたいところだけど、予約詰まってるから、ごめんね」
「いや、大丈夫、十分だよ」
「カーテン開けて、ちゃんと部屋明るくしてね。何か買ってくものあったらまた連絡して」
「うん、ほんと、ありがと」
 電話を切って家の中を見渡す。確かに薄暗かった。厚いカーテンを開ければ、俺らの気持ちと全く関係なく、澄んだ冬の空が広がっていて、アケミさんがこんな気持ちの良い晴れた日に空に逝くであろうことが、せめてもの救いのような気がした。
 夜、たっちゃんさんの店の閉店十分後ぐらいに、たっちゃんさんがうちに来た。早めに閉店し、クローズ作業も急いでやったか、あるいは持ち帰って、すぐに来てくれたんだろう。おばーちゃん、冷蔵庫失礼するね、と言って、中をひと通り見て、肉や魚は冷凍室に移した。そして、買ってきたうどん玉と油揚げ、冷蔵庫の白だしとネギで、きつねうどんを作ってくれた。ばあちゃんには、小どんぶりに少しだけよそって、
「おばーちゃん、食べられる分だけ食べてね。残してもいいから、でも少しだけでもお腹に入れて」
「ごめんねぇ、たっちゃんにまで迷惑かけて」
「何言ってんの、いつも俺が世話になってばっかじゃん」
 そして俺にはこっそり
「唐揚げあるから、あとで食べな。お惣菜だけど。レオうどんじゃ足りないでしょ」
 甘く煮たお揚げは、おいしかった。
 ばあちゃんが寝た後、唐揚げを食べながら話した。
「たっちゃんさん、何でも出来るんだね」
「や、何でもはできないよ?!」
「十分でしょ。ありがとう、こんなにしてもらって」
「いーのいーの、おばあちゃんにもレオにも世話になってるし、お隣さんじゃん。何かあったら助け合うもんよ」
「明日は、大丈夫だから」
 たっちゃんさんが心配そうに、ホントにー?遠慮しないでよ?と言う。でも、いつまでもたっちゃんさんに頼るわけにいかない。それに、こうするのが筋だ、と思って、俺は連絡をし、来てもらうことにした。母さんに。
「母さんが来るって」
「あ、そうなんだ!それなら安心だね。お通夜、十八時か。ギリ間に合うかちょっと遅れるかだなぁ。レオのお母さん来てくれてよかったわ。付き添ってくれるでしょ」
「あーまあ、葬儀場まで一緒にタクシーには乗ってくれるかも」
 もしかしたら、タクシーに乗せるとこまでで、行ってらっしゃいと見送られるかもしれない。
「そっか。お母さんは直接アケミさんと付き合いはないもんね」
「それもあるけど。ばあちゃんと母さん、仲イマイチだから」
 おっとりしたお嬢さん育ちのばあちゃんとは真逆で、母さんは、お嬢さん育ち故の威風堂々っぷりだ。親の意向に逆らって進路を決め、親の意向に逆らって外国人の夫と結婚し、あっさり離婚した。そんな母さんを、ばあちゃんは完全に持て余している。
 そして、俺が高校辞める・辞めないの話し合いで、ばあちゃんと母さんは大分やり合った。ばあちゃんからしたら、俺が社会からドロップアウトするように見えたかもしれないし、それを特に咎めない母さんのことは無責任に映ったんだろう。
「へえ。レオのお母さんってどんな人なの」
「強め、かな」
「強め、かぁ……レオに似てるってことか」
「ちげぇよ」
 自分の部屋に戻って、電気を消して横になってもなかなか寝付けず、特に見たいものも知りたいこともないのにスマホを触ったり消したりを繰り返した。
 翌日朝八時、母さんがやって来た。玄関ドアが開く音がした後、大声で
「入るわよー」
 と言うのと同時進行で廊下の足音が響き、ばーんとダイニングのドアが開いた。俺とばあちゃんはこの、黒い背景に太め明朝体で「母、襲来。」と書かれているような登場の仕方にすっかり慣れ切っているけど、たっちゃんさんは目玉焼きを箸でつまんだまま固まっていた。ピッタピタのニットのロングワンピースに、耳たぶがちぎれそうなでかいゴールドのピアスを付けた母さんが仁王立ちしている。そんなもんどこで売ってんだと言いたくなる、ゼブラ柄のロングコートを小脇に抱えている。
 たっちゃんさんが、ハッ、として立ち上がり
「お邪魔してます、私、お母さんとレオ君と仲良くさせていただいてます、佐藤です」
と言った。俺がパンを齧りながら
「たっちゃんって呼んでよ」
 と付け加える。
「レオから聞いてます、ご迷惑おかけしてすみません」
 ワンレングスの髪をかき上げながら言う。
「いえいえ、こちらこそ上がり込んじゃってて」
 恐縮するたっちゃんさんに構わず母親が言う。
「お母さん、気持ち分かるけど、よその方にお世話になる前に、レオに連絡させる前に、さっさと自分で報せて」
「あ、あのぉでも、お母さんすごく落ち込んでたので……」
「とりあえずしばらく、私いるから。レオ一人には任せられないし」
 相変わらずたっちゃんさんには目もくれず言った。
「レオ、あんた葬儀参列するの」
「あ、うん、そのつもりだけど」
「そ、喪服持ってきたから。あと革靴も。ごめんね周到で」
 落ち込んでいるばあちゃんは、一言も喋るスキがない。でも、平常時でもそういう調子だ。
 たっちゃんさんは、朝食もそこそこに急いで布団を干し、身支度をして、また連絡するね!と言って帰っていった。あんなに世話になったのに、追い立てたみたいで申し訳なかった。
「あの人、どなた」
「ばあちゃんの店のお隣さん」
「すんごい柄入ってんね。仲良いの」
「彫師さんだからね。ばあちゃんの力仕事手伝ってくれたり、編み物手伝ってくれたり」
「手伝うってどういうことよ」
「フェアアイル編んでて。色選びとか、配色間違ってないかチェックしてもらってる」
「はぁー、ずいぶん親切ね。レオが人と一緒に物作るなんてねぇ」
 母さんが嬉しそうに言った。
 俺たちが少しずつ和やかになっていくのをよそに、ばあちゃんは相変わらず沈んだ表情をしている。きちんと寄り添えて居なかった自分に、少し腹が立った。
 母さんがどかっとリビングのソファに座り、ばあちゃんはようやく口を開く。
「さやか、あなた、仕事は」
「在宅よ在宅。まぁ結構調整しましたけど」
「忙しいなら、無理しなくて良かったのよ」
 何のために無理してると思ってんのよー、と言って、母さんは台所に向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。湿気った空気がさらに重たくなる。勘弁してくれ、俺はさっさと部屋に引き上げたいが、ばあちゃんの気持ちを考えるとそうもいかない。何か間を持たすことを言いたいけれど、都合が悪ければだんまりを決め込んで生きてきた俺には、全く思い付かない。
「二階の部屋、使うわよ。仕事してるから、何かあったら呼んで。昼前に食材買いに行くわ。レオ、荷物持ち頼むわよ。お母さん喪服どこ。吊るしとかないと、箪笥の匂いするかも」
「え、ばあちゃん一人にして……」
「子供じゃないんだから。お母さんも、ちょっとは一人になりたいでしょ」
 ばあちゃんがため息をついて口を開いた。
「何でも一人で決めないでちょうだい」
「じゃあしっかりしてよ。決められそうにないから言ってんの」
 流石に、この空気は耐えられない。思わず口を挟んだ。
「やめろよ、ばあちゃんの気持ち考えろよ」
「何、あたしが悪いの?というかね、レオ、あたしはほぼあんたの為に来たようなもんだからね」
 今の言葉は、俺もばあちゃんも同時に刺した。ばあちゃんの為じゃない、と言ってるようなもんだし、俺は迷惑をかけたんだ、と思わされる。
 母さんは、さすがに言い過ぎたと思ったのか、気まずそうな顔をしたが、何でもなさそうな口ぶりで「仕事してるから」と再び言い、二階に上がっていった。
「レオ、本当にごめんね、おばあちゃんがしっかりしてないから」
「そんな事ない、急にお友達亡くしたら、落ち込むに決まってるよ」
 亡くした、と言ったのがまずかったのか、またばあちゃんは泣き出してしまった。俺は本当に、何も出来ない。
 意外にも母さんは、お通夜に参列した。
「お母さんが世話になったんだから、別に普通でしょ」
と言って。
 二〇分遅れでたっちゃんさんが来た。読経が終わり、お焼香が始まって、親族の中に知った顔があることに気が付いた。真っ黒なロングヘアをきっちりとポニーテールにした、俺が通っていた高校の制服を着た女の子。あれは確か、川辺瑠衣。いや、確かじゃなく、確かに、カワベルイ。相変わらずスンとした顔で、まっすぐ前を見ていた。あいつこういう場でも動じないんだな、と思った。
「レオ」
 式が終わり、ばあちゃんと母さんがトイレに行っている間、ロビーで一人座っていたら、たっちゃんさんに声をかけられた。俺は物凄くホッとした。一日中重苦しい空気の家に居て、そのままお通夜に来ていたから。
「間に合ったんだね」
「結構遅くなっちゃったけどねー」
 たっちゃんさんの肩越しに、カワベルイが歩いて来るのが見えた。そして目が合った。やべ、と思った。
「市原君、来てくれてたのね、お久しぶり」
 全く驚いた素振りがなく、スンとした顔のままだった。
「久しぶり……アケミさんは、常連さんだったから」
「そうみたいね、おばあちゃん、よく話してたわよ君のこと」
「え、そうなんだ」
「じゃあ」
 去りかけて、ふっと振り返った。
「近いうちに、行くと思うから。お店。よろしくね」
 ばあちゃんに挨拶でもしに来るんだろうか、でもなんでカワベルイが一人で。考え込みながら後ろ姿を見送っていたら、たっちゃんさんに
「レオ、知り合い?」
 と聞かれた。
「中高の同級生」
「そうなの?!あの子アケミさんのお孫さんでしょ?世間狭ー……」
「そうだね」
「あんまり関わりはなかった感じ?」
「いや、中学で同じ部活だった」
「マジ?だいぶよそよそしいけど」
「クラスも部活も一緒でも、全員仲良い訳じゃないだろ」
 思いがけず棘のある声になって、うわ最悪だ、と思った。小さく、ゴメン、と言った。
「いいよ、別に。レオ、疲れてるんでしょ」
 たっちゃんさんは苦笑いしていた。その通りだ。同じ家で家族同士がピリピリし合っている、全く気が休まらない。
「レオ。俺んちに逃げてきてもいいぞ」
「えっ」
「お母さんとおばーちゃん、ギクシャクしてんじゃないの?狭い部屋ですけど。お母さんの許可は取ってきてね」
「でも、ばあちゃん置いては」
「レオ。お母さんとおばーちゃんの関係は、二人の責任だ。レオが無理することはないよ。まぁ人んち泊まるの苦手とかなら全然、無理強いしないよ」
 いや、泊まらせてもらえるなら、あの家から一時避難させてもらえるならありがたい。でも、あの二人の関係が良くないのは、俺のせいでもある。
 あら、今朝の、と言って母さんが近づいてきた。
「佐藤さん?ずいぶんお世話になりまして、ありがとうございます。またお店にお礼に伺いますから」
「いえ、お構いなく……あの、今レオ君と話してたんですけど」
「俺明日から二~三日この人んちに泊まるから」
「は?」
「あら……」
「ちょ、レオ……あー、あの、まぁお友達みたいなものなので、ちょっと気分変えてって」
 その言葉に無性にムカついて、言い終わる前に俺は被せて言った。
「お友達、だよ。友達んちに泊まりに行くだけだけど、なんか問題ある?」
 たっちゃんさんが市原家のど真ん中で誰よりも困惑し気を使っている。
「レオー、やめてー……うーん、こんな感じでお宅でもちょっとピリピリしてるんじゃないかなって思いまして。差し出がましいですが」
「そう、そうね。たっちゃんありがとう。レオもよく知った方が亡くなって、ショックなのに、おばあちゃんにまで気を使ってくれて、ごめんね。」
 母さんが大きなため息を吐いた。
「別にいいけど、レオ、勝手に決めないで頂戴」
「ごめんね、誰に似たのかな」
「もおー、レオー」
 たっちゃんさん可哀想。俺のせいだけど。
 ばあちゃんが寝て、リビングで母さんと二人きり、になりそうだったから、さっさと二階に行こうとしたら
「冷蔵庫に苺あったわ。早く食べないと傷んじゃうし、デザート食べましょ」
 と言われた。ばあちゃんの栃木の友達から送られてきた、茎が付いたままの大粒の苺は、毎回目を瞑りたくなるような美味しさだけど、今は全然食べたくない。全然食べたくないけど、これ以上口論もしたくないので、無言でソファに留まった。
「しばらく会わないうちに、ずいぶん喋るようになったね、相変わらずの生意気口だけど。こっち来て、良かったみたいね」
 ハイどうぞ、と言って俺の目の前に苺の入ったガラスの器を置いた。
「……めちゃくちゃ美味しいわね」
「……めちゃくちゃうまい」
 ほぼ同時に言って、うわ、と思ったけど、なんか口角が上がってしまった。
「こんなシンプルなことで久々に笑顔見るとはねー」
 母さんも笑ってた。久々なのはお互い様だった。
「呼びつけて、ゴメン」
「何でゴメンなの。来るでしょ、流石に。レオが私に助け求めるなんてよっぽどでしょ」
 まぁそれ抜きにしても来るわよ、と続けた。
「楽しそうにやってるみたいね。初日に一緒にお出かけしてくれたたっちゃんってあの人ね」
「え、なんで知ってんの」
「お母さんから聞いてたわよ、私たち三日に一回はやり取りしてたから。レオ通信ってやつ?」
「えー……」
 だるいしうざいし恥ずかしい。でも、俺はまだ「保護者」される立場だということも実感し、悔しいが安心もした。
「おかげさまで、割と普通にお母さんとやり取りするようになったわ。ありがと」
「仲、悪くさせたの、俺だけど」
「はぁ?そんなこと考えてた訳?あんたこういう時に持ち前のふてぶてしさ発揮しなさいよ。あんなの大人の都合に決まってんでしょーよ」
 苺に目を落として、母さんがため息をつき、悪かったわね、と言った。
「お友達、出来たのね。まぁお兄さんに優しくしてもらってるって感じだけど」
 それはそう。あの場では友達だと言ったけど、たっちゃんさんも「お友達みたいなもの」と言ったし、俺自身も、たっちゃんさんの優しさに甘えてるだけだと思っている。ただそれを母さんにまで言われるのは、また癪だ。
「うるせぇな、これから友達になる」
「おっ、言い返した!絶対だんまりののち、でも苺は全部食べたのち、皿片付けて二階へ退避かと思った。いい生意気になってきたじゃん」
 もっと癪なリアクションをされた。黙っときゃ良かった。
「私とお母さんのレオ君再生計画も成功ねー」
「息子のこと駅前みたいに言うな」
「えー例えツッコミするようになってるぅ」
「うっせ」
 苺を食べ終わった後、母さんが皿を洗いながら
「レオが編んでるフェアアイルって、どんなのよ」
 と言ってきた。二階から編みかけのフェアアイルを持ってくる。
「あら、いい色じゃない。何ていうか、はっきりしてて華やかだけど懐かしい感じ」
「たっちゃんさん、日本的な朱赤と、クレヨンみたいな緑色、って言ってた」
「あぁ、ほんとそんな感じよ。たっちゃん、説明上手いわね」
 俺は、たっちゃんさんにまで育成されていたようだ。そして母さんまでたっちゃん呼びになっている。

 翌日の二十時ごろ、荷物を持ってたっちゃんさんの店に行った。
「おーいらっしゃい。ちょっと待ってて。あ、晩ごはんラーメンでいい?ていうか俺、もう朝からラーメンの口になってるからラーメンにさせて」
「いいよ、こってり系飢えてたから……ねぇ、気使ってる?」
「レオ、最近自分が気使って、俺にも気遣われたから疑心暗鬼になってるね?普通に食べたいだけだよ」
 本当かな、と思ったけど、友達の第一歩は気を使わないことと、信じることだ、多分。店から三分ほど歩いたところにあるラーメン屋に行った。
「ここ、来たかった」
 あるのは知っていたけれど、昼も夜もばあちゃんが作ってくれるし、食べる隙がなかった店だ。
「おお良かった。美味しいよ、すごい濃いけど」
 たっちゃんさんの言う通り、背脂ががっつり入ってて、チャーシューも分厚くて、味も濃く、めちゃくちゃ健康に良くなさそうですごく旨かった。寒い夜道を歩いて来たからなおさらだ。
「替え玉したい」
「さすがだねー、レオ細いけどよく食べるよね。まぁ俺も食べるけど」
「たっちゃんさんもうこういうのキツいんじゃないの」
「おっさん扱いしないでよー、俺まだレオ側だと思ってますけど」
「それは違うね」
 腹いっぱい食べて、たっちゃんさんのアパートに向かった。冷たい風を受けて頬と鼻が痛む。
 エアコンのタイマー予約をしていたみたいで、帰宅したときから部屋は暖かかった。広くはないけれど、そして普通の賃貸の部屋なんだけど、やっぱりインテリアにたっちゃんさんらしさを感じる。二人用のテーブルの天板は、暗めのヘリンボーンの寄せ木で出来ている。ソファやカーテンは無地で、照明も黒いシェードのごくプレーンな物だけど、ラグはオリエンタルな雰囲気の細かい模様が入っていた。棚の上に、ちょっと間抜けな顔のクマの置物や、優しい目のゾウのぬいぐるみが飾ってある。
「本棚、見せて」
 たっちゃんさんが俺の部屋に来た時みたいに、本棚を端から見ていく。洋書の、タトゥーの写真集がたくさんあって、逆に日本語の、タトゥーじゃなく「刺青」って感じの写真集もあった。一番端に、付箋の付いた、小さなガイドブックがあった。タイトルは、「萩・下関・門司」。俺が持っているガイドブックと同じシリーズだけど、微妙にデザインが違う。それを指差して、
「たっちゃんさん、関門海峡、マジで行きたいんだね」
 と言った。見ていい?とも。少し間があって、どうぞ、と返ってきた。五~六枚付箋が付いている中で、本の真ん中あたりのページを開いた。花火大会についての紹介ページだった。
「花火とかあるんだ」
 俺は寿司のことばっかり考えてたから全然知らなかったけれど、関門海峡で毎年大きな花火大会があるらしい。
「ああ、それもね、見たかったんだ」
 過去形なのが気になった。よくよく見れば、ガイドブックはずいぶん古びて、和紙のような質感の表紙や背表紙は毛羽立ちくすんでいた。
「じゃあ、行くなら夏場か」
「そうだねぇ。レオ結構前向きだね」
「いや、最初に行きたいって言ったの俺だから」
「俺はレオが子供の時から行きたいと思ってたから」
「なんだよこのマウント合戦。まぁ、そんなら本当に行こう」
 言いながら、引き続き部屋を物色していく。出窓の端に写真立てが一つ置いてあった。単独でも分かるくらいにすごく背の高い少年が舌を出して、腕をだらんと下げてピースをしている。定時制高校の卒業式の看板を挟んでもう一人、少年の肩くらいの身長の、黒目がちな眼の映える色白の、ちょっとかわいらしい感じの男性が、スーツを着て立っていた。
「これ、たっちゃんさん?」
「あ、うん、俺」
「高校の卒業式ってこと?俺の一個上?すごいね、ずっとでかい」
「まーね、小学六年生の時点で一七〇センチあったし」
「でか、俺とあんま変わんないじゃん。このへんの高校なんだ」
「そう、ここが地元。レオ、先に風呂先入りなよ」
 これ誰、と聞く間もなく追い立てられた。風呂から上がり、たっちゃんさんが風呂に入っている間にもう一度写真を見ようとして気づいた。これは、遺影だと。写真の横の一輪挿しに小さな花と、反対側にはスティックタイプのお香。よく周りを見ず、突っ込んだことを聞いてしまった、と思うと、さっきのラーメンが腹の中で氷に変わったように、身体中ひやりとした。俺は本当にガキだ、嫌になるくらいに。
 たっちゃんさんの足音が聞こえてきて、慌てて身体を一八〇度回転させてその場に座った。
 たっちゃんさんは、レオ、布団とベッドどっちがいい?と言いながら布団を敷き始めた。俺はちゃんと布団があることに驚いた。てっきり、ソファに寝るのかと思っていた。
「布団なきゃ誘いませんよ。友達泊まったりするしね」
「たっちゃんさん、友達、居るんだ」
「俺二十八年生きてるのよ?居るでしょ友達」
 俺は、たっちゃんのたくさんいる友達のうちの一人なのかと思うと、さっきの嬉しさがしぼんでいった。反射的に、どこで出会ったの、と聞いてしまった。
「え、それ友達についてする質問?高校の同級生とか、兄弟弟子とか」
「弟子?」
「タトゥーの。同じ店で修行してた人ってこと」
 ついでに、ふーん最近いつ泊まりに来たのその人たち、とひと息で聞きそうになったけど、客観的にめちゃくちゃ怖いし、明日泊めてくれなくなりそうだと思って堪えた。
 たっちゃんさんの友達は大人だから、この部屋に来ても俺みたいに、無神経にあの写真に触れたりしないだろう。だからあそこに、隠すことなく飾ってあるんだ。
 おやすみー、と言って電気を消した後、すぐには眠れそうになくて、ねぇ、起きてる?と声を掛けた。
「寝てまぁす」
「すげーベタ。縄文時代からあるやつじゃん……ねぇ、たっちゃんさんはさ、何で俺と仲良くしてくれるの」
 まあ、だいたい想像は付いてる。ばあちゃんが、仲良くしてあげてとか言ったんだろう。
「最初は、最初はね?おばーちゃんに、うちのとっても可愛い孫が来るから、弟みたいに可愛がってって言われたんだよ」
「あーあ、予想通り」
「あっ、拗ねた。でも、レオをうちに泊めるとか、タトゥーの図案作るとかは絶対おばーちゃんの想定外でしょ」
 それは、確かに。俺だって、こんなに親切にしてもらえるなんて想定外だった。
「じゃ、何で想定外に優しくしてんの」
 えーそれ理由いるー?と言いながらも、答えてくれた。
「初めて会った時さあ、すごい俺に警戒してピリピリしてたのに、ニットの話になったら急にイキイキして目キラキラさせてたじゃん。あれが可愛いなーと思って。もっとあんな感じで楽しそうにしてる顔見たいなと思ったんだよ」
 凄くまっすぐな答えで、ひるんだし、緩んだ。電気消えてて、良かった。せっかく質問に答えてくれたのに黙っていたら、たっちゃんさんが話を変えて
「昨日は帰ってから大丈夫だった?みんなピリピリしてなかった?」
 と言ってきた。
「母さんと一緒に苺食って、ニット見てもらった」
「えっ、すごい和やかじゃん!別におばーちゃんちで良」
「来たらダメだったの?」
 食い気味にめちゃくちゃ怖いことを言ってしまった。一瞬間があって、たっちゃんさんが大きな声で笑った。
「全然、ダメじゃないよ。ようこそわが家へ」
「明日も泊まるから、もう親にも言ってるし」
「だから良いって。明日晩飯どうしようかねー」
「ハンバーガーか牛丼」
 俺はジャンクに飢えていたことを実感した。
「そういえばさぁ、レオのお母さんほんとレオに似てるねぇ」
「は?俺あんなに圧ないから」
「いやその感じその感じ。その百獣の王みたいな感じよ。ていうか顔立ちのこと言ってたのに。まぁ似てても良いじゃん。俺は…」
 言いかけて、たっちゃんさんが黙る。
「いや、何でもないわ」
「え、何。言ってよ」
「いやー、いい歳して、言うことじゃない」
「何で。話してよ。俺ら……トモダチ……」
 友達じゃん、とサラっと言いたかったが、大縄跳びに入りそびれたみたいになってしまった。
「レオ、言い慣れてないんだね。宇宙人みたいだったよ」
「ほっとけ」
 たっちゃんさんはちょっと笑った後、言った。
「そうだね友達だもんね。俺はさ、自分が誰に似てこんなに背高いのかも分かんないからさーって、言いそうになったの」
「ああ、そういう……」
 と、俺が言い淀んでいると
「ほら、気使わせるでしょ」
 気なんか使ってない。気を使わないのが、友達の第一歩だから。それを証明しなきゃと、急いで言葉を呼び出した。
「いや、でも、お母さんじゃないんじゃん?ここまで背高いお母さん居ないでしょ」
「はは!確かに!スーパーモデルだぁ」
「スーパーモデルの息子だったら、それもまたいいじゃん」
「夢があるなぁ。今頃ランウェイ歩いてるのかなー」
「流石にもう引退してるんじゃないの?」
「いや、息長いモデルさんもいるよ」
 俺の拙いフォローでも、笑ってくれて良かった。
「たっちゃんさん、俺、生まれたばっかの頃から、何なら腹の中からふてぶてしかったらしいよ」
「そんなのある?」
「ある。エコー撮ろうとすると毎回顔隠すし、内臓痛いぐらい腹蹴るし、産まれたら産まれたで離乳食ぶん投げるし。この母譲りの性格、変わってないって、母さん本人から言われる」
「やっぱ似てる自覚はあるのね」
 良くも悪くも、やっぱり俺は母さん似だと思う。父親の性格なんて知らないけど。
「だから、まあ。分かんないけどさ。たっちゃんさんのお父さんかお母さんは優しい人なんじゃない」
 言った後、すごく無責任な言葉だったと思った。どういう事情でたっちゃんさんに家族が居ないのかも分かんないのに。
 でも、たっちゃんさんは
「レオ今日優しいね、ありがとう」
と、穏やかに言ってくれた。俺が今日優しいのは、この部屋に居るからだ、と思った。
 翌朝、
「レオ、ほんっと鼾うるさい!よくそのお綺麗な顔であんな騒音出せるね、何かの間違いかと思ったよ」
 と、人生で何度か受けたことのあるクレームを言われた。
「今日も泊ま……ってくれるんだよねぇ。あー神よ、レオの副鼻腔を広げ給え……」
 また、しょうもないことで神が呼び出された。神はきっと、耳鼻科かドラッグストアの方角に杖を向けているだろう。
 
 気が付けば俺は、「たっちゃんさんと旅行に行っても気まずくない」と思うように、というかそんなことすっかり気にしないくらいになっていた。
でも、どこか釈然としない気持ちが残っている。あの妙に古びたガイドブックと、たっちゃんさんの反応。何か引っかかるものがあった。旅行に行くなら、そのあたりをはっきりと教えてもらえるくらい、仲のいい「友達」になりたい。それは一体いつになるんだろうか。友達作りを長いことサボっていた俺には分からず、軽く途方に暮れた。





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