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何も共有していない共同体の中で

自分の中に今、興味深い感情が芽生えている。
それから逃げ出したくもあるし、もう少し、ゆっくりと、味わっていたいとも思う。

何か、対象はよくわからないけれど、切なさがずっと胸の中に滞留している。
込み上げてくるような激情的なものではない。
それは静かに、そこに、ある。

別に今何か悲しい事があるわけではない。むしろ今本当に幸せだ。
でも少しだけ、なんだか、ちょっと寂しい。

僕の中の「人間」が、新しい形へと脱皮しようともがいている
そんな感じなのかもしれない。変化の過程に感じる感情なのだろう。


今日は久しぶりに、アイドルの現場に行ってきた。
顔なじみのオタクの人たちもだいぶ増えた。
ライブハウスに行けばいつもいる顔ぶれ。いつもあたたかく声をかけてくれる。
その空間では、僕たちは互いのことを仮の名前で呼び合う(最も、その現場においてはその名前が真実で、戸籍上の本名自体が有名無実化しているのかもしれない。)。ちなみに僕のそこでの名前は「すこってぃ」だ。

いつも会話するあの人やあの人、その人たちのことを僕は何も知らない。
本名、年齢、職業、住んでいる場所、家族、他の趣味、好きなお酒、昔の部活、中学時代好きだった人の名前、全くしらない。

日常で知り合った人と共有すべき情報の何も、僕らは共有していない。
身の回りに、そんな人がいるだろうか。まず僕らは相手に情報を求める。
安心したいと思う。

それでも僕は、ライブハウスにいる時、圧倒的に安心している。
それは僕たちが間違いなく共同体だからだ。
およそ日常の中で最も激しく動き最も大きな声で叫び続ける時間であるにも関わらず、心の真ん中に白っぽく光る柔らかな安心感がいてくれる。そんな時間だ。


あの暖かな空間に参加して、心の中にあった切なさが少しだけ増した気がする。
減ったのではなく、増したのだ。
この切なさは、回避すべき類のものではないのだと思った。
自傷行為に似た感情から生まれ出でる切なさ、寂しさではないような気がする。
これは、自分がより人間的であろうとし、その人間化した自分を他者の人間的な部分と重ね合わせようともがく、その途上に生まれてくる感情なのだと思う。

だからこそ、それを否定して蓋をすることなく
「ああ、今は、そういう気持ちなんだね」と自分に投げかけてあげようと思う。

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