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#3 僕がDeSci(分散型科学)に懸ける哲学

◆はじめに

 こんにちは、東北大学理学部4年の永田将真と申します。noteは一人で、誰にも言わずにひっそりとやっていこうかなと思っていましたが、なぜだか最近それが少しばからしくなってきて。別に隠すこともないかなと思い、本記事を機に普通に公開していこうと思います。

 ここ数ヵ月間、いろいろなものが自分に押し寄せて来ています。大好きな研究の進展、研究業界を変革しうる新たな概念との出会い、念願だった起業(個人事業主ですが)、あこがれだった同業界の先輩起業家との出会い、世界を変えようと挑戦する同年代の友人との出会い。

 まだ21年しか生きていない小僧が言うのもなんですが、人生においてこんなに出会いが重なる時期があるんだなって。
『あぁ。これが人生の岐路ってやつか。』なんて。

 そんな、まだまだ未熟な僕がここ数ヶ月の出会いから考えたこと、感じたことを、ここでは素直に記録していけたらなと思います。文章化するときはいつもカッコつけてしまう癖があるので音声媒体でもいいかなと思ったんですが、やっぱり思考を整理するのは文字が好きなんです。

◆起業家はテロリストである

 アートに着目したSNSで起業をしている、同い年の学生に出会いました。ここでは彼をAと呼ぶことにします。Aの事業について話を聞いていると、その話し方にはどこか惹かれるところがありました。最初はそれがなぜだか分かりませんでしたが、議論を重ねるうちに1つ、他の人にはないAだけの特徴があることに気が付きました。

 Aは自分の中で『人類ってこうなった方がもっと幸せだろ』という”幸せの押し付け”(僕はそれを彼のエゴイズムと呼ぶことにしました)をし、そしてそれが世の真理であると信じていました。今のSNS(例で話していたのはInstagram)によって我々人類が提供されている幸せを偽物だと言い、彼が作るプロダクトならば本物の幸せを追求することができるのだと。

 この話を聞いた時、僕には彼がまるでテロリストのように思えました。自分の信じる正義と思想を貫き通し、世界を変えようとしている。Aがテロリストと違うところは手段だけ。暴力に訴えるのではなく、自分のプロダクトを人々に知ってもらい、選択してもらう。ただその選択には、恐らくAの策略が介在する。現代人がアプリが提供する承認欲求によってInstgramを選択させられているのと同様に、Aが提供する”新しい幸せの形”をプロダクトを通して体験し、その上で選択することになる。

 
人間は結局、その根底にある動物的本能に逆らえないんだと思います。マズローが提唱した欲求5段階説。Aはそこに一本の楔を打ち込み、承認欲求にとって代わる新たな欲求を人々に知覚させようとしているのです。

 尾田栄一郎先生の作品、ONE PIECEに登場する悪のカリスマ、ドンキホーテ・ドフラミンゴはこう言っています。

頂点に立つものが善悪を塗り替える!!! 今この場所こそ中立だ!!!
正義は勝つって!? そりゃあそうだろ 勝者だけが 正義だ!!!

尾田栄一郎 ONE PIECE

 もちろんInstagramなど既存のSNSとAの提供する新たなSNS、どちらが善、悪という考え方ではないと思います。どちらも我々の生活を彩り、豊かにすることは間違いない。ただ両者の本質である『それによって提供される幸せの定義』の衝突は避けられない。だからこそ、両者の哲学の下に提供されるプロダクトが生み出す幸せを人々が評価する。人々がこの先どちらの幸せを選択するのか、僕はこれからの未来を楽しみに待つことにします。

◆哲学における『多様性』という逃避

 Aと議論をする最中、僕は『「みんな違ってみんないい」のか?』の著者、山口裕之先生のお話を想起していました。

大学で哲学などを教えて20年近くになるが、学生さんたちはいつも口を揃えて“人それぞれだ”と言う。授業で選択的夫婦別性のような主題についてレポートを書かせると、いつも結論が“人それぞれ”みたいになる。“人のことはええから、君はどう考えるの?”と尋ねると、ウッと詰まる。例えば臓器移植の問題についてだと、“人それぞれ”と言いながらも、ほぼ全員が“賛成”だと答える。でも、“なんで?”と聞くと“ええっ…”と詰まる。要するに、ちょっとかっこいいこと言っておいて、でも考えないという言い訳として、“人それぞれ”という言葉が使われていると思う」。

ABEMA TIMES「“人それぞれ”はもうやめよう」「意見を変えるのは恥ずかしいことではない」…
“多様性”時代に一石、『「みんな違ってみんないい」のか?』の著者に聞く

 先ほど僕はAをエゴイストだと言いました。なぜなら、彼の信じる幸せこそが人間が本来感じる幸せであるべきだとし、それをあの手この手を使って浸透させようとしているから。すでに誰かが描き上げたキャンバスに、自分色の絵の具で大胆にも上書きしようとしている。

 それでも僕は、そんなエゴの塊であるAが大好きだった。なぜでしょうか。

 僕は研究という営みが好きで、研究者が大好きです。現代ではPh.D(Doctor of Philosophy)と呼ばれる研究者たちは日々、サイエンスという土俵の中で己の哲学をぶつけ合っている。僕にはAが、戦う場所は違えど研究者、もとい哲学者に見えたのです。古来の哲学者たちが生み出した崇高な営みに、Aも果敢にも挑んでいるように思えました。

 有名なところで言えば、天動説 vs 地動説の論争でしょうか。
 1600年代、西洋では天動説か地動説かの論争が激化していました。それぞれを簡潔に説明すると、天動説とは『宇宙は地球を中心に、他の星々は地球の周りを回っている』という説、地動説とは『宇宙は太陽を中心に、地球を含むその他の惑星は太陽の周りを回っている』という相反する宇宙論です。現代に生きる皆さんは、『太陽が動くわけないじゃん、、、』と思うかもしれませんが、実はこれ、非常に難しい問題なのです。なぜなら

運動は相対的なものであるから、単に観測する座標の原点に地球を置くか、太陽を置くかだけの違い。つまり座標系の取り方の違いであって二つの説は両方とも誤りではない。

参考:石川史郎(2018)「理系の西洋哲学史:哲学は進歩したか?」

と言ってしまえば、当時のカトリック教会(天動説派)は強引にでも勝敗をつけることなく水掛け論に持ち込むことができてしまったからです。これが、本章で最初に引用させていただいた山口先生の論で言うところの『人それぞれ』なのではないかと僕は思います。あなたはXの立場から、私はYの立場から話しているから、意見が違って当然だよね、人それぞれだよね。

実際ガリレオが異端審問所にて

『それでも地球は回っている(And Yet It Moves)』

ガリレオ・ガリレイ

と言うしかないほど、教会はこの議論に勝敗をつけることを嫌いました。もしかしたらこの時点で、観測結果だけを見ればガリレオの唱える地動説の方が、天動説よりも世界を記述できていることに、多くの人間が気づき始めていたのかもしれません。しかしこれはもはや、物理学的に何が正しいとかの話ではありませんでした。『人々が誰の創り出した世界観を信じるか』の議論なのです。教会はガリレオの記述する世界よりも、アリストテレスが記述した世界を信仰しました。

 だからこそ、ガリレオの死の翌年に誕生した天才、アイザック・ニュートンが大著『プリンキピア』を通して運動方程式と万有引力という圧倒的にシンプルな法則から導かれた世界観の登場により、思いのほかあっさりと天動説はその地位を失うことになりました。人々に必要だったのは理論や観測根拠による説得ではなく、信仰を変えるきっかけただそれだけ。アリストテレスを超える天才、ニュートンが生まれたという事実だけだったのです。

 長くなりましたが、僕がこの科学史を通して何を伝えたかったかというと、正誤や善悪の話ではない、『人それぞれ』に見える議論であったとしても、そこに自分なりの哲学(ガリレオやニュートンで言うならば、『実在的世界記述主義』を貫くことで、その哲学が人々を動かし、パラダイムシフトが起こる。
僕の友人、Aの生み出すプロダクトは『現在人々が感じている幸せ』に異議を唱え、新しい幸せの形を人々に説こうとしているのだと僕は思います。

◆科学とアートのお客様は歴史です。

 ある議論の中で、落合陽一先生が次のようにおっしゃいました。
(※文字ベースの記録ではないので、一字一句正確ではありません。)

科学とアートのお客様は歴史です。今の人類というよりは。

落合陽一(2022年 U-23サミット パネルディスカッションより)

 この言葉の意図は、『科学やアートは歴史よって認められていくものであり、今の人類に対して「誰にも認められないから辛い」と考える必要はない』というものであったと認識しています。楽天グループ
、チーフウェルビーイングオフィサーの小林正忠氏はこのような考え方について、『自我作古』という言葉で説明しました。

 僕はこれを聞いてなるほどなと思うと同時に、疑問も覚えました。
 確かに先ほどの天文学の話で言うならば、ガリレオは当時は異端として扱われながらも、めげることなく研究を続けて今では『近代科学の父』と呼ばれています。間違いなく彼は『歴史をお客様』とし、「我より古を作す(われよりいにしえをなす)」を体現したわけです。

 しかし、当事者の立場になってみるとどうでしょうか。ガリレオは、残念ながらすでに亡くなっています。天から見ているのかもしれませんが、彼の実在的世界記述主義にのっとればそうとは言えないでしょう。どれだけ歴史にガリレオの功績が認められようと、彼が生涯異端として扱われ続けた事実は変わらない。彼はそれで、『幸せ』だったのでしょうか。

 何が言いたいかというと、落合先生の発言にはどうしても、『生存者バイアス』が色濃く出ているように思えるのです。アーリーアダプターに歓迎されているからこそ、『(どうせ理解してくれない一部の)他人には理解されなくてもいい』と言えるのではないでしょうか。僕自身も落合先生の著書が好きで、アーリーアダプターといえるからこそそう思うのです。

 これらの意見はそれぞれ、見ている視点の違いでもあると思います。全体主義的に、世界がより良い方向に向かうという意味では歴史をお客様として研究を続けることには意味がある。ただ少なくとも僕は一人の研究者の卵として主観的に考えたとき、誰にも認められずに生涯研究をし続けることを想像すると辛く、『歴史に名が残せるから』で済ませられるとは思えません。現実問題、お金がないと研究はやっていけないのですから。

 そうは言っても研究のように、どうしても大衆に理解されづらいものというのはこの世に存在します。たとえ、未来でそれがどれだけ人類に貢献したとしても、今を生きる人類にはそれはわかりません。
 では研究者はみな、『我々のお客様は歴史である』という考え方を受け入れて生きていくしかないのでしょうか。

◆マイノリティの為の正義

 ここで少し議論から離れてみます。課題にぶつかったときは抽象化。僕の最近のルーティンワークです。抽象化すれば、他の事象との共通点から課題に対する解決策を見出すことができる。
 著書『五体不満足』を執筆した乙武洋匡氏が、ある議論の中で次のように発言していました。
(※文字ベースの記録ではないので、一字一句正確ではありません。)

 機械による駅の無人化が進められているが、身体障碍者としてあれはとても困る。その駅が使えなくなってしまうのだから。
 しかし、そこで「身体障碍者のために駅に人員を配備してくれ」と声を上げると、大衆からは「その人件費は誰が払うんだ。なぜあなたたちマイノリティの為だけに我々が払う運賃を上げられないといけないんだ」との意見が上がります。
 こうなると、駅もお客さんである大衆の意見を無碍にはできないため困ったとなるわけですが、時代はESG投資。社会的配慮に欠ける企業は投資を受けられない時代です。この圧力によって、駅に人員を配置するような動きが促進され、身体障碍者が助かっていることがあるのです。

乙武洋匡(2022年 U-23サミット パネルディスカッションより)

 この話を聞いたとき、なるほど、と感じました。
 何らかの手法でマイノリティの意見をマジョリティに理解してもらうような働きかけももちろん大切ではありますが、そもそもマジョリティに理解してもらおうとはせず、第3者の介入によってマイノリティ支援を実現する。非常に面白い考え方です。

 先ほどの科学の例でも、同じように考えることはできないでしょうか。大衆に理解してもらえない研究であったとしても、本当に価値があるのならばその研究に思い切って投資する(もちろん、ここで『本当に価値のある研究』なんてわからないという議論もありますが、趣旨から外れるので置いておきます)。とりあえず、ここでは大衆を無視するのです。

 すると、もちろん問題がありそうですね。研究と大衆との分断です。
「役に立つのかもわからない、わけのわからない研究にお金を使いやがって。そんな所にお金を入れるなら消費税を減らしてくれよ。」

 このような動きにつながることは、容易に想像がつきます。しかし、それでいいのではないでしょうか。研究者からすれば、とりあえず研究を続け、生きていけるだけのお金はもらえるのです。それに、わかる人にはわかってもらえている。大衆に認められるのは、何十年後、何百年後でいい。それこそ、『歴史が認めてくれる』はずです。


◆僕が分散型科学(Decentralized Science)に取り組む理由。

 最後に、今僕が今後数年、数10年をかけて取り組もうとしているDecentralized Scienceについて書きたいと思います。

 僕がこのDecentralized Science(以後、DeSci)の概念を知ったのはほんの数か月前。サイエンス領域で戦っている、ある先輩起業家から教わりました。それまでも大学に入ってからの4年間、地道にサイエンス領域での社会課題解決に向けて日々歩み続けてきましたが、その話を聞いた瞬間に『これだ!!!』となりました。僕の哲学を叶えるには、これしかない。

 DeSciとは何か。その現段階での定義は、濱田先生のnote『DeSci (分散型サイエンス)を求める科学者の背景 ver 1.0』にて次のようにまとめられています。

分散型のガバナンスに支えられた民主的なサイエンスシステムの構築と、それによるサイエンスの実践のこと

濱田太陽

簡単に言ってしまえば、国や出版社などの既得権益の大きなところに偏っているサイエンスの権利をブロックチェーンを用いて民主的に分散させよう、ということです。これによって

  • 仲介による出版社搾取の回避

  • 論文だけでない、科学対する包括的貢献による、研究者の新たな評価指標

  • 新たな資金調達経路

など、これまでのサイエンスシステムでは解決が難しかった様々な問題に対処することができるのです。

 中でも僕は最後のポイント、新たな資金調達の経路設計の部分に非常に興味を持っています。

 現状、サイエンスの世界で資金調達というと、国や財団に申請を出して補助金を受けることがほとんどです(一部、クラウドファンディングや事業化に伴うVCからの資金調達などもありますが)。しかし、短期で成果につながりづらい研究(例えば長寿研究など)業界では、研究初期の投資が圧倒的に不足しており、これは世界的に問題となっております。日本でも、国による『稼げる大学法案』『選択と集中』という投資方針が推し進められ、この問題はより顕著となっています。

 そんな中、この基礎研究における資金調達問題、とりわけ長寿研究の領域で改革の芽を見せているのが、VitaDAOです。彼らは独自で発行するトークン『VITA』を用いたガバナンスにより、非中央集権的な組織によるサイエンスエコシステムを形成しようとしています。実際、コペンハーゲン大学の研究グループがこちらのVitaDAOを通したIP-NFTによる資金調達を実現しています。
(参考:柴藤亮介『長寿研究の民主化を目指す「VitaDAO」 - 分散型科学の先端事例』

 このようなDeSciの先駆けとなるプロジェクトは現在着々と推し進められており、クリプト業界で有名なVCであるa16zやサイエンスの有名雑誌『Nature』もその動向に注目しています。

 僕はこのDeSciのムーブメントは、先ほどの章『マイノリティの為の正義』でお話ししたものに近いのではないかと考えています。国や一般大衆がその価値を簡単には理解できないような、しかし長期的に世界を、人類を発展させるのには欠かせない研究に対して非中央集権的なガバナンスによって投資を推進する。研究さえ前に進めることができれば、仮にその時国や大衆に認められなかったとしても、歴史が迎合してくれる。

 そんな世界がやってくれば、僕の生涯のミッション

研究が好きな人誰もが、研究を好きでいられる世界を創る

に少しだけ近づくことができる。これが、僕がDeSciに懸けている哲学です。



参考

  • 佐藤舜(2019)『マズローの欲求5段階説とは?知っておくべき心理の法則』, STUDY HACKER

  • 山口裕之(2022)『「みんな違ってみんないい」のか?--相対主義と普遍主義の問題』, ちくまぷりまー新書

  • ABEMA TIMES(2022)『「“人それぞれ”はもうやめよう」「意見を変えるのは恥ずかしいことではない」…“多様性”時代に一石、『「みんな違ってみんないい」のか?』の著者に聞く』

  • 石川史郎(2018)『理系の西洋哲学史:哲学は進歩したか?』, 慶応義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)

  • 慶應義塾大学ホームページ『慶應義塾豆百科』

  • 乙武洋匡(1998)『五体不満足』, 講談社

  • 濱田太陽(2022)『DeSci(分散型サイエンス)を求める科学者の背景 ver 1.0』, note

  • 石田かおる(2022)『「稼げる大学」って何? 国立大学授業料、年500万円もありうる? 石原俊・明治学院大学教授に聞く』, EduA

  • 漆原次郎(2010)『基礎研究に「選択と集中」の動き(前篇)』, Wedge ONLINE

  • 柴藤亮介(2022)『長寿研究の民主化を目指す「VitaDAO」-分散型科学の先端事例』, note

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