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第八話 さよなら、バルバラ

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 バルバラの目は本当に治っていた。
 庭で眠っていたぼくを起こしたバルバラの目と顔の傷は、そのときにはもう治っていた。それで、バルバラはぼくをあまり強く叱らなかった。バルバラにしても、朝目が覚めたらすべての傷が癒えていたのだから、不思議さとうれしさでいっぱいだったのだと思う。おかげでぼくは、朝方早くに庭で何をしていたのか(まさか夜中に抜けたとは思っていなかったようだ)という問いにも、甘く許された。
 バルバラにしても、誰にしても、何が起こってバルバラの傷がすべて治ってしまったのか、わかるものはいなかった。父も母も驚いていたし、当の本人も驚き、それから鏡を見てはにんまりと笑みを浮かべていた。町ゆく人たちも、誰もがバルバラの変身を驚いた。
 人に聞かれるとバルバラは「朝目が覚めたらこんな風に」と嘘をつかずに話したけれど、聞いた人は嘘だと思わないわけがなかった。しかし、それが本当なのは誰よりもぼくが知っていた。
 それからというもの、バルバラはこれまで浮かべていた笑顔より、さらにきれいな微笑みを浮かべるようになった。ぼくは両目のそろったバルバラの顔の笑ったり怒ったりする様子を毎日のように見ては、その目が治ったことに満足していた。


 それからぼくは、バルバラや両親と一緒に毎日を過ごした。気楽な年頃で、まだ未来は決まっておらず、勉強と遊びでいっぱいの日々だった。
 冬には大雪が降り、屋根から落ちた雪の山でそり遊びをしてた。ズボンがびっしょりになったぼくを見て、バルバラはズボンを引っ剥がして怒りながら暖炉の近くに干していた。
 雪解けの春、本格的な冬が去ってのびのびと走り回れるようになると、ぼくは友達とまだ手の入っていない畑を駆け回り、ときどき雪解け水の残ったぬかるみに飛び込んでは泥まみれになり、またバルバラを怒らせた。
 夏、そろそろバルバラが来て一年が経つ頃になると、ぼくはバルバラに野の花を束ねたものを渡して、それが何の意味があるのかなどは言わないままにして、プレゼントした。バルバラはよろこんで受け取ってくれて、彼女が使っている小間使いの部屋に飾っていた。
 ある日、ぼくはいつものようにバルバラに「いってらっしゃい」と見送られて学校に行った。授業中にほんのちょっと居眠りしただけで怒られたことを根に持ちながら、学校が終わった後には友達と遊ぶ約束をしていた。
 その日はしばらく前にタルトを焼いてくれるとバルバラが約束していた日で、焼けていたならば食べた後に出かけよう、焼けていなかったら夕食後まで待ってあとで食べようと思って走って帰った。
 玄関のドアを開けると、タルト生地の焼けたいい匂いが漂っていた。奥に向かい、バルバラがいる台所に向かって歩いていき、テーブルの上にタルトがすでに出来上がっていてぼくはよろこんだ。
 けれど、バルバラの姿はなかった。
「バルバラ、食べていいかい?」
 ぼくの呼びかけにも、バルバラは答えなかった。不思議に思っていると、母がやってきて、そしてバルバラは里に帰ったのだと伝えた。ぼくは母が何を言っているのかわからなかった。
「いつ、いつ出ていったの!」
「もう一時間くらい経つよ、もう汽車に乗ってるはずだね……」
 それから母は最初から今日、この日に去る予定だったのだと話した。
「バルバラもお家の方でいろいろ忙しいからって、暇を出してくれるように前々から話していたんだよ」
「どうして何も教えてくれないの! バルバラが帰っちゃうなんて、そんな」
 驚きと悲しみでいっぱいになったぼくは、ずいぶんと母に当たって大声で叫んだ。けれど、ぼくの納得のいく答えは返ってこなかった。
「……いいよ、もう!」
 ぼくは自分の部屋にしばらく籠もった。机に座って頭を抱えて、バルバラが黙って帰ってしまったことを恨んだ。
「なんで黙って行っちゃうんだ。ずっと一緒にいられると思っていたのに」
 バルバラを恨んだぼくは、それから顔にまだ傷があったときのバルバラを思い出し、星の子が叶えてくれたことを思い出し、せっかくぼくが治したのに、といろんなことを考えた。ぼくの頭のなかはぐちゃぐちゃで、とにかくバルバラにもう会えないということが受け入れられなかった。

 夜になり、母が夕飯だと声をかけるのにも返事をしないで、ぼくはベッドで横になっていた。動揺や怒りはすでに落ち着いて、心は無気力に、ただ沈鬱と脱力だけが占めていた。そのまま朝になっても、ぼくは目覚めないつもりでいた。バルバラに布団を引っ剥がされて床に落ちるまで、目覚めないつもりだった。
 ドアがノックされた。父だった。
「入るぞ」
 そう言って父は近づき、ぼくの寝るベッドに腰をかけた。
 そしてやさしくぼくに語った。
「バルバラだって寂しくてつらかったと思うぞ。本当は、もっとおまえと遊びたかったんじゃないかな。バルバラが帰る話は三ヶ月くらい前から出ていたんだが、そんなことを話したら毎日が暗くなったんじゃないか? 一緒にいられる日が一日、また一日と減っていくなんて、苦しいじゃないか」
「そんなことあるもんか! そしたら、もっとずっと……もっとずっといろんなことができたのに」
 ぼくは飛び起きて父の顔を睨んだ。けれど、父の理解を示す目付きをずっと睨んでいることはぼくにはできなかった。
「わかるよ、おまえの気持ちは。でも、バルバラはその方がいいと思ったんだ。ごく普通の毎日があって、それを最後まで続けたいって。前々から終わりの日が決まっていて、それに向かって悲しみが増していくのがいやだったんだよ。バルバラの気持ちもわかってやってくれ」
 さあ、と促されてぼくは階下に降りた。台所ではテーブルにバルバラが最後に作っていったタルトがあって、母が切ろうとしていた。
「さあ、食べましょう」
「そんなの……いらないよ!」
 ぼくは何を間違ったのか、そんな意地を張ってしまってぷいとそっぽを向いた。父も母もぼくに「そんなことは何にもならない」と言ってくれたけれど、それだけではぼくの気は収まらなかった。

 でも、最後にはぼくはタルトを食べることにした。バルバラの姿が頭をよぎったのだ。バルバラがタルトにナイフを入れるときの顔はとてもやさしかった。紅茶を淹れるこなれた手つきを思い出すと、タルトのほのかな香りがする後ろのテーブルにバルバラが立っていそうな気がした。
「ちょっと待って!」
 ぼくは母が手にしていたナイフを手にした。そしてバルバラの真似をしてタルトを切った。タルト生地がボロボロ剥がれてしまい、バルバラのように上手くはいかなかった。
 見た目の悪くなったタルトを眺めていると、怒りに満ちていたぼくはついに涙を我慢できなくなった。
「バルバラ、もういないのか」
 タルトに乗った果実はちょっとだけ酸っぱくて、でもものすごく甘かった。


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