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人権教育が根付かない日本の中等教育 ~「ブラック校則」の問題点

経済が著しく停滞したこの30年の間に激増した「ブラック企業」。「ブラック企業」は、労働者の権利や人権を無視した劣悪な環境で働かせる企業のことで、自分のようなロスジェネ初期世代が就活をした頃には「ブラック企業」なる言葉はなかった。しかしあまりにもそうした企業が増加したことを受けてこの「ブラック企業」という言葉が生まれ、2010年代くらいから一般化しつつあるように思う。

その「ブラック企業」の「ブラック」の使い方から派生したのが「ブラック校則」という名称。児童生徒の人権を無視し、理不尽な校則が見直されることなく残る、または逆に増えている現状は、最近この「ブラック校則」という名前と共に可視化されてきている。

頭髪検査と教師による散髪 ~「ブラック校則」の一例~

ここで自分の教師としての経験から、話題の頭髪検査について考えてみよう。

2000年代に自分が勤めていた都内私立校では頭髪検査が厳しく、部分的に目立つ若白髪を持つ男子生徒が白髪染めをしているという保護者からの証明書なるものも確かに預かっていた。髪の色はもちろん、男子生徒の襟足はシャツの襟につかない、もみあげは耳の半分の長さまで、女子の前髪はオンザ眉毛、などなど。そんな校則微塵もなかった私立女子校出身の自分は、映画『ぼくらの七日間戦争』のような話が2000年代の東京でまだあることに衝撃を受けたけど、雇われ契約教員の自分になす術はなかった。

頭髪検査で髪色が明るい、髪がカールしている、また髪が長いとダメ出しされた生徒は、授業を受けさせてもらえずに床屋か美容院に行かされる。それだけでも生徒の学習する権利を侵害する大問題だけど、学校でそれが問題になることはなかった。授業に出られず勉強が遅れることより、校則に従うことの方が当然のように優先されたのである。

さらに、髪を床屋や美容院で直して学校に戻って来ても、まだ長い!まだダメだ!とされる生徒が後をたたなかった。その場合は、校則に合うように教員が髪を切って直す。

自分のクラスに、日頃の態度が決して模範的とは言えない男子生徒がいた。服装もネクタイはだらん、当時流行りの腰パン故に逆にズボンの裾はぼろぼろ。確かに、いわゆる「教師に目を付けられやすい」タイプだった。彼は本当に毎回襟足ともみあげの毛が長いと引っかかり、美容院に行かされるのだが、帰ってきても毎回長いと学年主任や他教員に言われてしまう。学年主任に担任が校則に合う長さに切るように言われ、自分が彼の襟足の毛を見たらすぐにわかった。

彼は襟足につむじがあったのだ。

彼の髪は全体的にはストレートだが、そのつむじのために襟足だけはかなり強めのくせ毛だった。襟足の毛を短くすると跳ねあがってしまうから、プロは長さと重みを残していて、襟足の長さに合わせてもみあげも長めに残してバランスをとっていたのである。自分もうねって広がるくせ毛だが、自分の場合は右側の後ろの毛が一番癖が強くてうねりが出やすい。美容師はそのためによくその部分だけ重みを利用して整えやすい髪形にしてくれていたので、プロの意図はすぐにわかった。そう、くせ毛なんか、一律誰もがパーマをかけているように見えるくせ毛なんかではない。
部分的に襟足だけくせ毛だという地毛証明書でも親に書かせる?そんなことを言い出したら本当にきりがない。それに、坊主にすれば問題解決!とか言われかねない。

そこで自分は、わざと大袈裟な演技を学年主任の前でしながら、髪を適当にすく作戦に出た。
「ちゃんと切ってもらってこいよ!」
「えー、ちゃんと言ったんすけど」
「これじゃまだ長さがあるんだよ、わかるでしょうが」
跳ね上がらず、かと言って学校も納得の長さに少なくとも見えるまでには切る必要がある。生徒を「指導」しながら、恐る恐るハサミを縦に入れ、長さと厚みをぎりぎりまで減らした。
それで、学年主任の前に連れて行く。これでいいですか、と。正直、学年主任や他の男性教員が切る場合より全然長めだが、担任が「指導」しながら切ったものを、担当生徒の目の前では全否定はしにくいものだ。その学年主任の心理を自分は利用した。

生徒は何となくわかってきたのか、頭髪検査の時だけは自分は男子に人気があった。生徒たちも演技するようになり、学年主任の前に連れて行かれる時「短くし過ぎっすよ」とか「スースーする」とか、不満げな顔を見せる。が、彼らもわかっていたと思う。自分がわざと甘めに切っていたことを。

この話にはオチもある。

3年担任をした生徒たちが卒業式を迎える時、事前のホームルームで散々念を押した。

「いいか、卒業式は式典だから絶対に頭髪検査は厳しいだろう。私は当日袴を着ることになっていて、あなたたちの頭髪検査には加われないし、散髪もできない。だから、なんとなくとあまく考えず、いつも以上に気を付けて床屋なり美容院なりに行ってこい!」

卒業式の朝、袴を着た自分が教室に行くと、一人だけ、襟足にくせがある生徒とは別の男子生徒がいない。推薦で大学も早めに決まっていたその男子生徒は「気の緩み」を他の教員に指摘されることも多かったため、頭髪検査に引っかかったのだろうとすぐに想像がついた。日頃から頭髪検査後に自分に髪を切られる「儀式」の意味をよくわかっていた生徒たちには自分の事前メッセージの意味が痛いほどわかっていたが、進路決定後に浮かれてデビューしたような男子生徒には伝わらなかったのだ。

数分後、彼は真っ青で泣きそうな顔をして教室に現れた。びっくりするくらいぱっつんと校則の通りにまっすぐに切られた(剃られた)襟足、前髪、そしてもみあげ。どういう髪形で登校していたかは知らないけど、誰か男性教員が切ったのだろう。クラス中が憐みの目で彼を見るしかなかった。

「だから言ったでしょう?甘く考えるなって・・・」

彼にかける言葉は、そのくらいしか出てこなかった。

「ブラック校則」がもたらす教師の違法行為

さて、上記の話、いかにも「いい教師話」に読めるでしょう?でも自分自身絶対に忘れてはならないと肝に銘じているのは、自分が3年間、法を犯していたという紛れもない事実である。

理容師や美容師の免許も持たない素人が、他人の意図に反して、首元や耳近くにハサミという刃物を向ける行為は違法。

こう文字化したらヤバさが明確になるだろう。自分だって、その学校の生徒達以外にはこんなことは絶対にやらないと断言できる。例えば同じ学校でも、同僚の教師の髪形にダメ出しをし、同僚の意図に関わらず頭周りにハサミという刃物を向けることはないだろう。なぜなら、それは誰の目にも人権侵害だとわかるからである。親がやるにしたって、本人に頼まれた場合以外で無理に刃物で髪形を変えるなど、やはり虐待に相当する行為ではないだろうか。

でも、生徒教師の関係性、また校則というものがそこにあるだけで、その人権侵害が易々と行われてしまう。当たり前かのように考えられてしまう。自分が知る限り多くの教員はそれが人権侵害に当たるという感覚が麻痺しているが、自分のようにヤバさがいくらわかったところで、その学校の教員の一員としては抗いがたく、結果加担することになる。しかもさらに問題なのは、そこに安全管理が全くないことである。例えば、友人が指摘していたけれども、理容師の場合、働くには皮膚病がないことなどを証明する診断書がいるが、教師はそうしたチェックも当然ない。さらに、生徒の中には先端恐怖症などもいるだろうし、嫌がる生徒がもし予期しないタイミングで首を動かし、首元や耳近くに向けたハサミで教師が傷つけてしまった場合、どうするのか、ということが全く考えられていない。専門の免許も診断書もなく、毎回本人との同意書や保護者の承諾を取ることなく、安全すら確保されない環境で、ただ校則がそうだという理由と、教師だというだけで、教師が当人の意図に関わらず生徒に刃物を向ける行為が正当化されていたということである。

この問題点は二つある。一つは、教師に、生徒教師の関係性の中では無駄な万能感というか、法律や人類普遍の人権をも超越した力を与えてしまうことである。もう一つは、生徒は憲法でも法律でもない、もっと下のレベルの校則という規定の下で、自分の意思を尊重されないことを当たり前だと学んでしまうことである。この状態では、公民の教科書で「すべての人間は自由かつ平等で、人間としての尊厳が保証される」といくら習っても、それが自分たちとは関係ない話のようにとらえられ、上滑りするのは当然だろう。

「下着の色」を規定することの何が問題なのか

もう一つ、「ブラック校則」で毎度話題になるのが、女子児童生徒の下着問題である。記事に指摘されているような、男性教員が、当人の意思に関係なく、女子児童生徒の下着をつけているかつけていないかや、色を確認するなど、一般的に考えれば性犯罪のにおいしかしない。それが、学校、生徒教師の関係性、校則の三つが揃うと正当化されてしまう。

では女性教員が確認したり指摘するなら問題はないのだろうか。元同僚の経験に基づく話をもとに検証してみよう。

彼女は、男子中学生徒から、別の女子生徒の下着の色が白シャツに透けていることを指摘され、思春期である自分たちにはつらいと訴えられたそうだ。生徒指導に相談すると、女性教員である彼女の方から女子に注意して欲しいと言われ、注意したと。これは、自分も現役教員であった時に行ったことがあるし、世の女性教員なら多かれ少なかれ経験があるのではないだろうか。

思春期真っただ中の男子生徒が自分の欲情を自分でコントロールできない、これはわからなくはない。が、その理由を自分自身の問題ではなく、他人である女子生徒の格好に起因するものだ、と主張し、しかもその論理を学校が受け入れ、女性教員が加担して女子を注意するという流れになっている点には注意を要する。

では、極端な話をするが、男子生徒がピンクの下着が透けていた女子生徒を同意なく犯してしまった時、いつもの延長でピンクの下着が悪いと被害者女子にも責任を負わせる主張を彼がしたら、学校はどうするのだろうか。その通りだと加害者男子の主張を認め、被害者女子を「指導」するのか。被害後に「あなたが着ていた服にも問題があるんじゃない?」「あなたも悪かったんじゃない?」と被害側に言うことは、明確な二次被害、セカンドレイプに相当する。学校はセカンドレイプをするだろうか。

それはさすがにしない!というならば、日頃から男子生徒、場合によっては地域住民の性的欲情を理由として女子生徒の下着や服装に制限をかけている学校は、本当に性犯罪が起こった場合にのみ「女性がどんな服を着ていようと、どんな下着をつけていようと、それはその女性の自由な選択権である」「女性の下着や服装で欲情するという自分勝手な理論で、相手の合意なく欲情のはけ口にしてはならない」と加害者に強く主張するのか。性犯罪は人間の尊厳を大きく傷つける行為であり、いかなる理由があろうと絶対にやってはならない。相手がどんな下着をつけていようと、どんな服を着ていようとその罪が免罪されることはないが、学校は日頃から自分たちの欲情をコントロールできないのは女子の下着が透けるからだという男子の主張を受け入れ、女子の下着や服装を規制することを当たり前に行っているのに、最悪の事態が起こった時だけ「下着や服装なんか関係なくダメだ」と言ったところで、どんな説得力があるのだろう。

無駄なトラブルを避けたいから、現実的に対処したくて、女子側にリミッターをかけて対応したい現場の気持ちは痛いほどわかる。が、男女とも、思春期の生徒たちに学校が必ず教えるべきことは、当人の意思に関係なく、他人を自分の欲望や不満のはけ口にしては絶対にならない、どんな人にも等しく自由に選択する権利があり、他人の権利を互いにリスペクトし合う関係性を築く必要があるのであって、自分のために他人の自由を安易に制限したり、他人の尊厳を冒す行為は絶対に許されないという基本的な人権教育だろう。

学校は10代の若者にとっては社会の代表格である。思春期という、自己の欲望が多岐にわたって激しい葛藤を生み出す時期に、自分の欲求や不満などの感情をコントロールして社会と折り合いをつける責任は自分、自分の思考にこそある、ということを社会を代表して学校が教えるならともかく、男子生徒の、自分の欲情が暴走するのは相手が悪い!だから相手を変えさせろ!という発想に日常的に成功体験を与えていると、こちらの理論が日本の「普通」になっていく。男子の欲情のために女子の自由を制限するのが当たり前な学校で、男女平等なんて人権の基本をいくら教えたところで、「試験に出るから暗記しないといけない知識」以上の意味なんかなくなる。そりゃこんな21世紀になっても女性差別発言が繰り返しまかり通るわけですよ。

個人的には、思春期生徒の間だけでなく、日本社会全般に蔓延する、性犯罪はもちろん、DV、各種いじめやハラスメントなどの暴力問題の多くは、この理論があまりに「普通」になって内面化されていることに起因していると考えている。中学高校という中等教育段階の「ブラック校則」とそれに基づく指導は、21世紀になってさらに多忙になり余裕がなくなった教員たちの、直近のトラブルをささっと回避したい、という目的のために一般化し、閉塞感しかない現在の日本社会ではしょうがないと受け止められてしまっている。が、それは日本社会全体において、人類が長いことかけて獲得した人権という尊い権利を形骸化させていくことに期せずして貢献しているのではないだろうか。

人権問題としての可視化

生徒の人権侵害、生徒の意図に関わらず彼らの首元に刃物を向けるという違法行為に加担した元教員として訴えたいことは一つ。「ブラック校則」なんて、生温い言葉で誤魔化してはいけない。これはれっきとした人権問題だということである。

こうした校則は日々深刻な人権問題をはらみ、児童生徒をいたずらに傷つけている。それだけでなく、教員は、悲しいくらい無自覚かつ「子供のため」という号令の元、日々違法行為を行う、行わざるを得なくなっている。考えてもみてほしい。もし万が一、生徒がやはり抵抗して向けていたハサミで生徒の首元を傷つけたら、一体誰の責任になるのか。黒く塗るスプレーを吹きかけるために複数の教員が一人の生徒の頭からビニール袋を被せた事例が記事には載っていたが、そんなのあからさまな暴力だろう。それでも、10代の当人が、校則が定めるストレートの黒髪しか許されない規定に従わなかったという理由で、教員側は本当に完全に免罪されるのか?染めたくない、切られたくないという自分の意思を持つことは、他人に暴力的に心身を傷つけられても仕方ないくらいの罪?そうでないなら、教員側はいきなり犯罪者に転落する危険をはらんでいるのである。管理職なんか簡単に見捨てそうだしね、そう思いません?

この問題は人権問題に関わるということを、違法性があるのだという認識を日本社会全体が持ち、児童生徒と教員のスレスレ綱渡りな関係性を、人類普遍の人権概念に合うように修正するべきだろう。そうしないと、人権教育なんか上滑りし続けてしまう。大人たちは、俺が若い頃は…とか、自分が高校生の時は…という、個々人の具体的な体験経験に基づく感覚のみで考えず、抽象的な人権概念に基づいて考えて欲しい。

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