グローバル人材育成とは?
自分が何故か10年以上関わってる日本の「グローバル人材育成」とかシティズンシップ教育に関するネタなので、備忘録的にメモ。
進次郎氏はペーパーも見ず自分の意見を十分通じる英語で堂々と話しており、その点は本当に大したものだと思う。こんなに軽快に英語で答える日本の大臣の姿が報道されることなど、今まであっただろうか。英語がラフだった点は認めるけど、どうせ母語じゃないんだからそれだけでやいのやいの言ってもしょうがない。それだけで英語圏のメディアが彼を批判しているなら、それは差別として抗議していいレベル。それで思った。ここ30年くらい日本が掲げてきた「グローバル人材育成」って、確かにあーゆー若者を育てよう!って話だったではないか。通訳など介さず、通じる英語で多少の間違いも恐れず堂々と自分の意見を外に発表する。前任校でも山ほど聞いた、教育の先にイメージするグローバル人材像って確かにそうだった。だから彼や彼のサポート役の人達は、国内で考えられている最強の「グローバル人材」っぷりを、国際的にではなく国内にアピールしたかったのだろう。
でも発言内容、英語で堂々と発言する「自分の意見」とやらが、国内ではぶいぶい言わせてるイベサーを仕切る意識高い系の兄ちゃんのままだから、国際的には「はぁ?」って言われただけである。彼の会見は結果的に、スウェーデンの少女が大人の欺瞞を怒りを込めて厳しく批判する中、日本の大人代表として参加した大臣が、若者の関心を集めるには楽しくなくっちゃだよね!✨と、国内では通用するけど、同時多発で若者のデモが起こる世界の現実から見るとかなり的外れなことを極めて軽いノリで言い、基本のhow?の質問には答えられず、しかもそれを僕大臣になったばかりなんだもん、と悪びれることなく英語で堂々と言った、というものになった。こう文章にまとめると幼稚っぽさが出る。国内ではですよねー、と通じてしまうが、確かに、子供じゃあるまいし、大臣になって10日間でサポート役の人達と想定問答の一つもまともにやってこないまま参加したのかよ?と海外記者は「はぁ?」となったのだろう。彼の話す英語が間違ってるとか、発言内容が間違ってるとか、そういう話では決してない。彼のペラペラ英語での会見は「グローバル」に見えて日本のコンテクストからは全く出ていなかったから、ペラペラ英語だっただけに国際的には批判の対象になってしまった、ということである。
要するに今回のsexy騒動は、ここ30年くらい日本でやたらと推奨されたグローバル人材育成!のイメージが、実はグローバルからは掛け離れていることが露見したって話である。だって世界が今イメージする新世代の「グローバル人材」ってこの子達でしょ?日本の周回遅れ感は否めないものね。英語で…にハードルが高かったんだからそれは十分評価すべきだが、結局「自分の意見」の内容がグローバルコンテクストに乗ってるかどうかが重視されることは忘れてはならない。グローバル人材育成とは、英語という言語育成の問題ではなく、国際的に発信する「自分の意見」をいかに成熟させ、国内コンテクストではなくグローバルコンテクストの中に乗せられる能力を育成するか、である。
ただし。若者がグローバルコンテクストに乗せて考えて、若者に今できる行動したらそれでただ絶賛していいのか、というと、そこはバランスだと思う。グローバルシティズンシップ教育実践の現場では、ここに挙げられる5人の若者のような生徒たちにたくさん出会う。彼らは市民権のある国を飛び越えて軽快に世界と繋がり、行動し、その解決を目指そうとする。資本主権経済が肥大化した現在、貧困や環境問題、移民など、国境を越える問題は山ほどあるが、それでも現在のところ直接政治を動かすことができるのは市民権のある国でのみであり、国連は所詮、近代以降の主権国家の話し合いの場に過ぎない。そして大抵の場合、その「国境を越える問題」の片棒を、こうした言葉を持つ若者が市民権を持つ国だって担いでいて、彼らが世界に向けて解決を叫ぶグローバルイシューは彼らのすぐ隣にもちゃんとあったりする。それを素通りし、大きな問題に飛びついてしまっていないか?ラピュタじゃないけど、インターネットが発達した現在でも、人間は土から離れては生きられない。このリアルにどう向き合うか。10代のうちに全ては無理でも、生涯を通し、こうした連環した思考ができる市民を育成することが、「グローバル人材育成」なんじゃないだろうか。