あの日から立ち上がった、給食を作る人びと
仕出し弁当を工夫して提供 〈岩手県山田町〉
11年前、東日本大震災から3ヵ月後の2011年6月に取材で訪ねたのは、岩手県山田町でした。途中、宮古市・田老地区に立ち寄りましたが、大津波により世界に誇った巨大防潮堤が破壊され、人の痕跡すら消し去った赤土の光景に言葉を失いました。その後商店街を歩くと、閉じたシャッターの前に、色とりどりの花が並べられています。失った“町の色”を何とか取り戻そうとする、人の思いに触れた気がしました。
山田町立大浦小学校(2020年閉校)では、3ヵ月たっても生鮮食品がなかなか手に入らない状況にありました。給食は、仕出し弁当と、支援物資の食材で温かい汁物を提供していたのですが、特に印象的だったのが、たまねぎです。「たまねぎの芽」をわざと伸ばして、汁物の彩りに使っていました。給食室の温かな心遣いと“生きる知恵”を見せていただきました。
支援物資を利用した「炊き出し給食」 〈福島県南相馬市〉
福島県南相馬市は、東日本大震災後に、津波の被災と児童数の減少で1校が閉校となり、15の小学校と6つの中学校になりました。また福島第一原子力発電所の事故により避難指示が出され、距離によって3地域に分断されます。仮設教室や仮設校舎を利用して授業が再開されました。当時学校給食は、震災と原発の影響で物流が途絶えたため、支援物資を利用した「炊き出し給食」として再開します。市内2,500食分の食材調達は難しく、毎日手に入る食材によって献立を考える、学校給食センターの記録が残っています。
震災後、小高区は原発事故の影響で、警戒区域(半径20km圏内)と避難区域に設定されたため、区内4つの小学校と小高中学校は、鹿島区の仮設校舎等に避難していました。仮設校舎で、子どもたちは少しずつ日常を取り戻していきます。学校給食も、卒業バイキング給食を実施するなど、子どもたちの楽しみを増やしたいと、心のこもった給食作りが続きました。
その後、避難区域の解除に伴い、2017年に4つの小学校を小高区の本校舎に移し「小高区4小学校」として開校。2020年2月現在の児童数は63名です。震災前に比べて約8%、中学校は49名で12%の人数です。だいぶ少ない人数ですが、子どもたちは伸び伸びと元気に毎日を過ごしています。
月刊「学校給食」では、震災後の福島県南相馬市の学校給食について、継続的に記事を掲載してきました。2021年4月号では、震災後10年を振り返り、南相馬市教育委員会・鈴木美智代氏が寄稿しています。多くの方の支え合いの上に給食があり、子どもたちの笑顔があることを、教えてくれる記録です。ぜひご一読ください。[本稿は月刊「学校給食」2011年8月号・11月号・2016年5月号・2021年4月号より改編]