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あの日から立ち上がった、給食を作る人びと

仕出し弁当を工夫して提供 〈岩手県山田町〉
 

 11年前、東日本大震災から3ヵ月後の2011年6月に取材で訪ねたのは、岩手県山田町でした。途中、宮古市・田老地区に立ち寄りましたが、大津波により世界に誇った巨大防潮堤が破壊され、人の痕跡すら消し去った赤土の光景に言葉を失いました。その後商店街を歩くと、閉じたシャッターの前に、色とりどりの花が並べられています。失った“町の色”を何とか取り戻そうとする、人の思いに触れた気がしました。

津波により海側の巨大防潮堤が一瞬で倒壊し、多くの犠牲者を出した宮古市・田老地区。4階まで浸水した「たろう観光ホテル」(写真中央)は、「津波遺構」として現在も保存されている。
津波が襲った住宅街では、家の土台だけが残され、生活品が散乱していた。
どこを見ても津波の傷跡が残る景色の中、閉じられたシャッターの前に一列に並んだプランターの花々。人の温かさを感じた。

 山田町立大浦小学校(2020年閉校)では、3ヵ月たっても生鮮食品がなかなか手に入らない状況にありました。給食は、仕出し弁当と、支援物資の食材で温かい汁物を提供していたのですが、特に印象的だったのが、たまねぎです。「たまねぎの芽」をわざと伸ばして、汁物の彩りに使っていました。給食室の温かな心遣いと“生きる知恵”を見せていただきました。

生鮮食品が手に入らない中、「ねぎを栽培しているんです!」と言われて見に行くと、支援物資のたまねぎの芽をわざと伸ばして、給食に使っていた。
支援物資や校長先生が育てたキャベツを使用したさつま汁に、たまねぎの芽で彩りを加える。地域の避難所の分も作って提供していた。
ご飯に、ごま昆布を添える、栄養教諭の刈屋保子先生。支援物資をやりくりして毎日の仕出し弁当を少しでも食べやすくなるように、さまざまな工夫をしていた。
給食は最初は支援物資を使用して提供していたが、災害救助法により町内の学校には弁当の無料配布が始まった。大浦小学校には給食室があるため、支援物資による汁物と果物を加えて提供。
1、2年生にとっては弁当の量が少し多いが、汁物は先に空っぽになり、温かい料理のなせる技だと感じた。同校の児童は全員無事だったが、7割が被災し、避難所に身を寄せていた。
[月刊「学校給食」2011年8月号より]

支援物資を利用した「炊き出し給食」 〈福島県南相馬市〉

 福島県南相馬市は、東日本大震災後に、津波の被災と児童数の減少で1校が閉校となり、15の小学校と6つの中学校になりました。また福島第一原子力発電所の事故により避難指示が出され、距離によって3地域に分断されます。仮設教室や仮設校舎を利用して授業が再開されました。当時学校給食は、震災と原発の影響で物流が途絶えたため、支援物資を利用した「炊き出し給食」として再開します。市内2,500食分の食材調達は難しく、毎日手に入る食材によって献立を考える、学校給食センターの記録が残っています。

海岸から約1.5km の距離にあり、津波で被災した真野小学校。幸い、全員無事に避難できたが、再開の目処が立たず、 閉校となった。
給食に使用する支援物資をトラックから学校給食センターへと運び出す。
2011年4月22日から始まった炊き出し給食。2,500食分の食材の調達は難しく、何度も献立を書き変えたメモが。
4月22日に再開後初めての給食。食器も使えない中、確保できた米で約5,000個のおにぎりを握って提供した。
6月後半の炊き出し給食。物流が途絶え、最初は野菜などのおかずがない給食の連続だったが、徐々に支援物資が届き始め、以前の給食に近づいた内容になっていった。
2学期からは完全給食を開始することができた。北海道からいただいたトウモロコシを1本丸かじりする子どもたち。この子たちも、もうすぐ成人を迎える。

 震災後、小高区は原発事故の影響で、警戒区域(半径20km圏内)と避難区域に設定されたため、区内4つの小学校と小高中学校は、鹿島区の仮設校舎等に避難していました。仮設校舎で、子どもたちは少しずつ日常を取り戻していきます。学校給食も、卒業バイキング給食を実施するなど、子どもたちの楽しみを増やしたいと、心のこもった給食作りが続きました。
 その後、避難区域の解除に伴い、2017年に4つの小学校を小高区の本校舎に移し「小高区4小学校」として開校。2020年2月現在の児童数は63名です。震災前に比べて約8%、中学校は49名で12%の人数です。だいぶ少ない人数ですが、子どもたちは伸び伸びと元気に毎日を過ごしています。

福島第一原子力発電所から半径20km 圏内にある4つの小学校は、2012年、仮設校舎に移転。給食の食缶を運ぶ給食当番たち。
運動不足により増えた肥満児対策や、放射性物質から体を守るための食事の大切さなど、仮設校舎でも継続して食に関する指導に力を入れる。
子どもたちの楽しみを増やしたいと、卒業生へのお祝いの気持ちを込めたバイキング給食を実施。飾り切りされた果物が調理員さんによって盛り付けられる。
2016年3月8日、この日は、仮設校舎の4つの小学校、全学年・教職員へ、190食分のバイキング給食が用意され、一緒に会食した。
仮設校舎はなくなっても、思い出を「心に残してほしい」と語る、2016年当時校長だった高野博幸先生(中央)。仮設校舎での学校生活は2017年3月まで5年間続いた。 
2014年当時、警戒区域内だった小高小学校の本校舎。遊具はさびつき、草は伸び放題の状態だった。
校舎内の除染作業は手作業で続けられ、整備された本校舎。2017年4月から学校は再開された。

 月刊「学校給食」では、震災後の福島県南相馬市の学校給食について、継続的に記事を掲載してきました。2021年4月号では、震災後10年を振り返り、南相馬市教育委員会・鈴木美智代氏が寄稿しています。多くの方の支え合いの上に給食があり、子どもたちの笑顔があることを、教えてくれる記録です。ぜひご一読ください。[本稿は月刊「学校給食」2011年8月号・11月号・2016年5月号・2021年4月号より改編]