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マッチングアプリのマッチングアプリ

かねてから主張しているが(みなさんはご存知ないだろうが)、マッチングアプリのマッチングアプリが必要である。

近頃、マッチングアプリの存在感が著しく増している。出会い系サイトといえばいかがわしく聞こえるが、システム自体はインターネットが普及した1990年代後半あたりには既にあったものである。これがここ2,3年で一気に人口に膾炙してきたように思う。私は別にマッチングアプリの専門家でも何でもないので私見に過ぎないが、かのようなものがどれほど効果のあるものなのか懐疑的な立場にいる。

そもそも、数が多すぎる。Tinderにtappleにwith、ペアーズなどなど。ここでまず第一段階の「マッチング」が必要なのではないかと思ってしまう。どのアプリが自分に一番合っているのか。しかし同時に疑問に思うのが、それほど出会いに能動的な人であれば一つのマッチングアプリで満足するとは思えず、それゆえ複数のアプリに登録しているという状況が生じえるのではないかということだ。ならばそれほどアプリの種類にこだわる必要もないのではという気もしてきた。

いやいや、本題はここからである。「マッチング」という概念について考える必要がある。

人間、最初からウマの合う奴なんてまずいないと思っている。公立の小学校や中学校では近所に住んでいるからという理由で同じ学校に通うことになるのだが、勘弁してほしいものだ。勉強のできる人もいれば、どうしようもなくできない人もいる。同性でさえ羨むような美形の生徒もいれば、そうでない人もいる。スポーツだけは誰にも負けない奴や、ゲームの天才のような奴もいるだろう。近隣に住んでいるという条件下で集まった人間たちは、それ以外の部分では多様性にあふれていた。

生徒はそのような多様性を克服しなければならない。ここで言う克服とは、多様性の規制や排除を意味しない。そうではなく、多様性を自ら受け止める準備をするという意味である。つまり自分とは異質な野郎どもとうまく付き合っていく術を学ばなければならないのである。もちろん、これは「できないとだめ」というスキルではない。学生時代に周囲と上手くやっていなくても社会に出て活躍する人などごまんといる。それでも、自分以外の人間が少なくとも自分と全く同質な存在ではないことが明らかな以上、彼らと共生する技を身に付けねばなるまい。

初期段階では、これは「同調」という行動によって処理されると思われる。すなわち、-ごく少数に「同調させる側」に立つ人間もいるだろうが-こいつとはうまくやっていけそうだ、あるいはこいつには従わねばと思うような周りの生徒と行動を共にすることで、グループにマッチしているがごとく振舞うのである。うまくマッチしていれば、楽にやり過ごすことが可能になる。個人間のマッチはそれほど必要とされず、従ってコミュニケーションを通した軋轢の克服もそれほど行われない。

しかし多様性との付き合い方がより高度なものになると、自我とか自己を確立したうえでのマッチングが必要である。異質な他者と出会った時に自分を変えるでもなく、あるいは相手を変質させようと試みるでもなく、それでも一緒に居ることが求められる。最初は「なんか変な奴だな~」と思いつつも、コミュニケーションを重ねていくうえで互いに認め合い、一緒に居ていいなと思うことが可能になる。

いいクラスというのは、色んな個性が残ったままでそれでもうまくやっているクラスというのを指すように思う。うまく多様性を残した個人間の付き合いを「中学校的な多様性の克服」とでも呼ぶことにしよう(無論、幼稚園でも小学校でもいいが)。

マッチングアプリにおいて危惧されるのは、そういった中学校的な多様性の克服の余地が少ないのではないかということだ。アプリでいうmatchは、より選択肢を絞ろうとする点で多様性の克服に能動的であるが、それによって相手との差異を出来るだけ少ない状態からスタートしようとする点で消極的である。理想の顔、理想の職業、理想の趣味、理想の....。ようやくマッチした理想の人。さぁ最高の恋が始まる!?

付き合っていくうえで互いの良さが分かっていく、いわば足し算のような恋ではなく、100点からスタートして付き合っていくうちに嫌な点が増えていく引き算のような恋。そんな結末が待っていそうで、特に完璧主義的傾向にある私はマッチングアプリには手を出せないでいるのである。

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