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カメラと私

外出する時は、だいたいいつもカメラを持ち歩く私。でも、以前は海外旅行に行く時ですらカメラを持ち歩かないほど、写真を撮ることに関心がなかったのです。その私が、ある日を境にして、カメラを傍らに置くことなくしては暮らしていけないほど写真にのめり込むことになりました。その時から10年経つ今、あらためて写真と私について振り返ってみることにしました。

いつ、どのように、写真に興味を持つようになったのか。私ははっきりと覚えています。プラハの裏通りにある薄暗い小さな書店で、一冊の写真集を手に取ったのが全ての始まりでした。

1. 端緒

それは、チェコの写真家、ヤロミール・フンケ(Jaromír Funke, 1896–1945)がルーニー(Louny)という北ボヘミアにある小さな街を撮影した写真集でした。 何となく手にした写真集でしたが、私は即座にフンケの写真に夢中になりました。すぐさまこの写真集を買い、旅の間も外出からホテルへ戻ると眠る前に毎晩ゆっくり最初から最後まで目を通しました。そして思ったのです。
「私もこういう写真を撮りたい。」
当時、写真に関する知識が全くなかった私は、こうも思いました。こういう写真を撮るためには、古いカメラを使わなければならない。デジタルではなく、古いカメラを使ってフィルムで撮影しなければならない、と。2009年5月のことでした。

2. Hasselblad 500C/M

プラハから東京へ戻った私は、新宿の最も大きな中古カメラ店に向かいました。ズラリと陳列されたカメラのどれをどう選んだら良いのか、正直なところ、全くわかりません。途方に暮れてお店のスタッフに相談すると、丁寧に相談にのってくれました。フィルムのフォーマットのこと、その特徴、使い勝手やオススメのレンズ。いろいろなカメラを見せて頂き、予算とスタッフのアドバイスを考え合わせて決めたカメラは、Hasselblad 500c/mでした。フィルムの装填をはじめとするカメラの操作については、スタッフが文字通りつきっきりで手取り足取り教えてくれました。この日、昼過ぎには中古カメラ店に入ったのに、Hasselbladが入った紙袋を抱えてお店を出た時、あたりは既に薄暗くなっていたことを、今でも鮮明に覚えています。

3. Leica M4

ところが、その後ずっと悶々とした日々が続くのです。何本撮っても自分の思うような写真を撮ることができません。Hasselbladが自分に向いていないのかもしれない。12月にボーナスが出ると、今度は清水の舞台から飛び降りる気持ちでLeica M4を買ってみました、当時の私は「高価なカメラを使えば、良い写真が撮れる」と思い込んでいたのです。

しかし、Leicaもダメでした。この時期は、今考えるとなかなか辛い日々でした。HasselbladやLeicaが私に合っていないのではなく、そもそも私自身が写真を撮ることに向いていないのかもしれないと思う一方、机の一番目立つ場所においてあるフンケの写真集を見ると、どうしても写真を諦めきれません。考えに考え抜いた結果、「あと一台、全く異なるタイプのカメラを使ってみよう、それでダメだったら、すべてのカメラは売り払って、写真はスッパリやめよう」と決めました。

4. Rolleiflex 2.8F

そんな私が向かった先は、当時フィルムカメラ雑誌に協力店として時折掲載されていた老舗の中古カメラ店でした。すがるような気持ちで店内に入ると、正面のカウンターの上にポンと一台だけ乗っていたカメラの大きな目と、目が合いました。「目が合った」というのは話を面白くするための比喩ではなく、その時は本当にそう思ったのです。どんなカメラなのかスタッフの話を聞くこともなく、そのカメラを手に取ることもなく、値段を聞くこともなく、目が合ったその瞬間に、たぶん私はこのカメラを買うと決めていたと思います。私が「そのカメラ… 」と指差すと、「ああ、これね」とスタッフは言いました。そして、「たった今入ってきたところなんですよ」と私のほうへ向かってそっとカメラを押し出しました。
それが、Rolleiflex 2.8Fでした。

いわば一目惚れしたカメラで写真を撮ってみたら、ビックリするほど素晴らしい写真が撮れて、「写真を続けていて本当に良かった!」と感動した…とは、いきませんでした。一本撮ってみたものの、泣かず飛ばず。「ああ、やっぱり私には写真は向いていないのか」と肩を落とす日々が続きました。そして、思ったのです。次にヨーロッパへ行く時、このRolleiflexを持っていこう。それで、全く箸にも棒にもかからないようだったら、本当の本当にこれきりにして写真はやめてしまおう。

5. 転機

2010年8月の夜、仕事から帰った私はラボでCDに焼き付けてもらったRolleiflexの画像をPCに移し替えていました。撮影している時は自信のなさも手伝って、特に「撮れた」という感触がなかったドイツの旅でした。一件一件画像を見ながらCDからPCへ移し替える作業。だいたいはダメ。いつものとおり。ため息ばかり。でも、一件の画像を見た時、機械的にPCの上を動いていた手が止まりました。

それは、ハイデルベルクのカフェで、ケーキを頬張りながら撮った写真でした。

「もう少し頑張って続けていれば、いつか私も自分が撮りたいと思うような写真が撮れるかもしれない」、そう思った瞬間でした。

それから9年、私は今、ドイツに住み、写真を撮り続けています。
毎回毎回、現像・スキャンした画像を見ては頭を抱えることに変わりありませんが、それでも思わずガッツポーズが出てしまうような写真も少しずつ撮れるようになりました。夫はやはり写真好きなドイツ人。写真を通して知り合いました。彼と結婚してドイツに移住する時には、Rolleiflex 2.8Fを抱えて一人飛行機に乗りました。私に「相性が悪い」と勝手な烙印を押されてしまったHaselblad 500c/mは、現在夫が使っています。

6. 写真と私

時折、「もし、あの時私がヤロミール・フンケの写真集を手に取らなかったら」と考えることがあります。それでも、私はどこかでなんとか暮らしているでしょう。でも、それはきっと、写真がある生活よりも味気なく単調な生活に違いないと思うのです。

フィルムを装填する、露出を設定する、チャージしてシャッターを切る。一本撮り終わったら、現像してスキャンし、PCで画像を眺める。時々、プリントして自分の部屋に飾ってみたりする。「写真を撮る」といえば、表面的には、まあそんなものですが、私の場合、フンケの写真集を手にとった瞬間、人生のポイントが人知れず静かに切り替わったように思えるのです。やがて、そうとは知らずに異なる路線に乗り込んだ私は、当時想像もしなかった全く違う方向に進んでいく…。

…いやいや、ここから先は後の話。今はともかく、写真は私の人生にとって欠かせないものであること、写真と出会うことができて本当に良かったこと。カメラやフィルム、すべてを含めた「写真」というその存在に感謝していること。それだけは、写真と出会ってちょうど10年目にあたる今年、ここに言葉としてきちんと残しておこうと思います。

7. 後記

私の写真生活の転機となった写真を撮影したハイデルベルクのカフェ。ドイツに移住した後夫とともに久しぶりに訪ねてみたら全面的に改装されており、かつて写真を撮った時の面影はきれいサッパリなくなっていました。確かに明るく清潔な感じにはなったのですが、古く小さな木のテーブルやギシギシと軋む座りづらい椅子、色鮮やかなケーキを並べたクラシックなショーケースなど最初から存在しなかったかのように全て消えてしまっており、なんとも寂しい気分になりました。

(この記事は、2019年6月26日にブログに投稿した記事に新たに見出しをつけ、後記を書き加えた上で、転載したものです。)