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須賀敦子の背中を追う 2.

ミラノ

トリエステ、ヴェネツィア、ミラノ。
須賀敦子の背中を追って旅した三都市のうち、実はミラノは今年の春最後に訪れた場所なのです。でも、やはり私は彼女が長く住んでいたミラノから、書き始めたいと思います。

私が最も好きな須賀敦子のエッセイにの一つである『電車道』は、ミラノ中心部と彼女の自宅を真っ直ぐ結ぶ路面電車を一本の糸にして、そこに様々な色のビーズを繋いでいくように、小さな出来事が語られていくエッセイです。このエッセイはこんなふうに始まります。

五年半、夫と暮らしたミラノの家のそばの電車道には、35番の市電が通っていた。それは、ミラノの都心にある大聖堂のあたりから、ヴィットリア門を過ぎて、「三月二十二日通り」を私たちの住んでいるあたりまで、ほとんどまっすぐに来る路線だった。

須賀敦子『トリエステの坂道(須賀敦子コレクション)』白水社, 2011年

本当に便利な世の中になったもので、今やGoogle Mapsに通りの名前(原綴)を入力して検索すれば、その場所周辺を示した地図みならず、付近の列車やバスの停留所まで地図の上に表示させることができます。私はこれを利用して、35番の路面電車が27番と名前を変え、半世紀前と同じコースを走っていることをつきとめました。ミラノへの旅の一番の目的は、この路面電車に乗り、彼女が住んでいたムジェッロ街(Viale Mugello)に行くこと。そう決めました。

27番の路面電車の始発駅は、大聖堂の南東にあるフォンターナ広場(Piazza Fontana)です。私たちはここから27番に乗りました。エッセイに書かれているとおり、電車は幅の広い道に沿って東へ東へと真っ直ぐに走っていきます。両側に建つ建物は、間違いなく数十年以上の時を経ているように見えます。きっと、須賀敦子が電車に乗り自宅とコルシア書店を往復していた頃眺めていた風景とほとんど変わらぬ風景を、私は見ているに違いありません。電車が次に停車したら、30代後半の須賀敦子がヒラリと軽快に乗り込んで来るのではないか、そんな期待すら思わず抱いてしまいました。

路面電車が走る大通りから南に入った道、ムジェッロ街。Google Mapsが表示した地図を見て想像していたよりも、幅の広い通りでした。須賀敦子が『遠い霧の匂い』というエッセイの中で、夕方窓から外を眺めている時「あっという間に濃い霧の中に消えてしまった」と書いている「窓から五メートルと離れていないプラタナスの並木」もありました。彼女が住んでいた番地に建つ建物はかなり大柄で、彼女の部屋があったという一階にはいくつか窓が並んでいました。一体どれがかつての須賀敦子が住んでいたという部屋の窓なんだろう。建物の前で夫とともに並んだ窓の下を行ったり来たりしていると、「日本人の方ですか。ここに住んでいた作家の家を訪ねていらしたのでしょうか」と、見知らぬ男性に声をかけられました。イタリア語を話す夫を介して「そのとおりだ」と答えると、彼は「彼女はその窓の部屋に住んでいました」と一つの窓を指差しました。

さらに話を伺うと、彼はこの建物の管理人を長く勤めており、たまたま外で煙草休憩をしていた時に、私たち夫婦がやって来たとのこと。須賀敦子がかつて住んでいた家を探してやって来る日本人が、今でも時折いるのだとか。窓の下をウロウロしていた私も、きっとその一人に違いないと思い、声をかけてくれたのだそうです。

須賀敦子が住んでいたという部屋の窓は、しっかりした鎧戸で固く閉ざされていました。この窓の写真を撮り、お礼を言って帰ろうとすると、管理人の男性は「エントランスホールならお入りになってもかまいません」と言い、建物正面のガラス戸を私たちのために開けてくれました。この建物は当然、日本人作家を記念した博物館でもなんでもなく、ごくふつうの人々が住む一般住居です。エントランスホールまでとはいえ、内部に入ることができるなど想像もしていなかったので、この言葉を夫の通訳を通して聞いた時は、胸に温かい何かがフワッと広がるのを感じました。

そっとエントランスホールに足を踏み入れると、奥には中庭に続く美しい磨りガラスの扉がありました。半世紀前、須賀敦子がこの家に帰ってくるたびに目にした扉に違いありません。自分の頰が次第に熱くなるのを感じました。「写真を撮っても良いでしょうか」と管理人の男性に尋ねると、彼は静かに頷きました。私はこの扉に向かい、一度だけシャッターを切りました。振り返ると彼は穏やかに微笑んでいました。

再度彼にお礼を言い、私たちは建物を後にしました。私が手に持っているカメラは、約50前に製造された古いフィルムカメラ。露出もピントも自分で合わせます。もちろん、デジタルカメラのように撮影した画像をその場で確認することはできません。たった一度だけのシャッター。どうか手ブレしていませんように、露出が誤っていませんように。その時は祈るような気持ちでした。

写真はちゃんと撮れていました。

家に帰り、撮影済みのフィルムを現像し、窓際に立ってそのネガを日に透かすと、須賀敦子がかつて毎日のように目にしていたに違いない扉が、一コマだけ、ボンヤリと幻のように浮かんでいました。

後記

昨夜、最近復刊されたばかりの和辻哲郎『イタリア古寺巡礼』(岩波文庫)を読み終えました。ナポリとシチリアを除けば、彼が訪れた場所は全て私が訪れた場所であるため、記述に心当たりがある箇所が多く、読みながらまるで彼と一緒に旅をしているような気分になりました。しかし、彼がイタリアを旅して回ったのは1927(昭和2)年、実に96年前のことなのです。和辻哲郎が文中で「大戦」と書く時は、第二次世界大戦ではなく第一次世界大戦を指し、彼はローマではムッソリーニとすれ違っています。それでも同じ場所に立てば96年という長い時間を飛び越えて追体験できる。イタリアにはそんな場所が未だにたくさん残っているのです。
私が4年前に訪れたミラノもそんな場所の一つでした。須賀敦子がここに住んでいたのは1960年代から70年代にかけてですから、今から約半世紀も前のことになります。しかし、彼女の本に書かれたミラノと21世紀のミラノの「輪郭」は、まるで隙間なくピッタリ合わさっているように違和感がありませんでした。唯一残念だったのは、彼女が住んだ家を訪ねるために乗った路面電車が新型車両だったということでしょうか。私がミラノを訪れた当時、旧型車両がまだ時折走っていたので、もしこの車両に乗ることができたら、もうそれは完璧だったに違いないのですが…。

(この記事は、2019年6月28日にブログに投稿した記事に新たに後記を書き加えた上で、転載したものです。)