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麻雀ルールを肴に、外野が無責任にだらだらと語る

 Mリーグを観始めて3シーズン目ともなると、いくら何でもさすがに我に返るタイミングが増えてくる。
 「推し」とか言って無邪気にハシャげない面倒くさい人間なので、さすがにそろそろ途中で観るのをやめる日が増えてきた。

 これを単に「飽き」と言ってしまえばそれで終了なのだが、ここで少々そのメカニズムを考えてしまう。ほら、やっぱり面倒くさい人だ。

 理由としての一番は、やはり先に「我に返る」と書いたのは伊達ではなく、「何でこんな長い時間、クジ引きを見てるの俺は」と感じるタイミングが増えたということなのだ。
 麻雀の性質上仕方ない部分はあるにせよ、それでもやはり「運じゃなあ」と思わずにはいられない展開が目立つことと、何と言うか、戦術としての「型」がもはや確定しているからなのか、その対局で一旦順位が落ち着いてからの既定路線に「もう見なくていいや」と感じることが増えたからだ。
 もちろん、道中なりオーラスなりで順位がひっくり返ることも普通にあるわけだが、しかし多くの場合は「運じゃなあ」としか言えない事象でひっくり返っているわけで、総合するとやはり「クジ引きじゃなあ」と思って我に返ってしまうのだ。

 まあ、一つのコンテンツに対しての一人当たりの滞在期間が二~三年あれば充分と見れば、そろそろ潮時と捉えることも出来よう。消費文化ってそういうことだ。全く何も顧みることなく、全力で消費文化にどっぷりと浸かれば(振り返った先に、かつて消費したコンテンツのシュレッダー屑が散乱する光景に恐れを抱かなければ)、何の未練も無く「卒業」ということで良いのだ。

 とは言え、やはりここは面倒くさい人なので、そこはもう少し考察のネタとしてしゃぶり尽くしてやろうじゃないの、と考える次第。


前置き

 もうちょっと、ルールが何とかならんか。
 そもそも個人戦が前提の麻雀でチーム戦をやることをコンテンツの特色としているのだから、追加ルールの所在をチームメンバーの入れ替えなどという麻雀の外だけに求めるのではなく、麻雀ルールそのものにも特徴的なルールを設定すべきじゃないの、と思うわけよ。
 それがどのプロ団体も採用していないものであれば尚更、所属団体ごとのルールへの慣れという差が無くなるわけで、特別感も出るだろうに。
 何より、巷で普通に遊ばれているルールと合わせる必要も全く、1ミリも無いと思うのね。

 ただこれは、そもそも論として「Mリーグをどういう位置付けのものにしたいのか」に左右される問題でもある。
 言い換えると、Mリーグの対局を見て「俺でも出来る」と思わせたいのか、「やはりプロはすごい」と思わせたいのか、どっちなんだろう、ということだ。

 視聴している限りの現状としては、ルール自体は巷のそれと変わらないので「俺でも出来る」と思わせて、実況解説で何とか「プロはすごい」を演出しようとしてるんだろうなあ、ぐらいしか伝わってこない。

 とは言え、実況解説による演出にも当然限界値はあって、それこそ簡単にメディアにコロッといかれる模範的な視聴者なら問題ないけど、ある程度の批判的思考を持ってると(別に難癖云々ではなく、第三者的にフラットにジャッジできる人、ぐらいの意味ね)、さすがにどこかで「我に返る」。

 このへん、麻雀というコンテンツの立ち位置の奇妙なところで、何故かとにかく巷に慮って「合わせてあげないといけない」風潮でもあるのだろうか、と見えてしまう。別にプロの競技麻雀が巷で普通に打たれてるのと違ってて、何の問題もないじゃないかと思うんだが。
 格闘技を考えてみると良い。あれだって、一定のルールの元にそれぞれの競技が成り立っている。空手ひとつ取ってみても、大きくは伝統派とフルコンタクトに分かれておるでしょう。そして決定的には、いずれの格闘技も「街のケンカ」と比べるものでは決して無いわけだ。ルールが違えば比較対象にならないのは当然で、これは別に高度なリテラシーを要求されるような話ではない。

 故に、競技麻雀が巷で普通に打たれている麻雀と異なっていても、本来であればそれは全く問題ない話で、むしろそれがプロのプロたる所以とすることが出来るのではないか。
 先の例えを使うと、どうも競技麻雀と言いながら、常に「街のケンカ」と合わせようとしているように感じられる。(成り立ちがそうであるのが色濃く残ってるんだろうなあ、と想像する。このへんが抜けきらない限り、「プロの競技麻雀」は成立できないんじゃないかと思う。口さがなく言えば、いつまで経っても賭博の臭いを消せないんじゃなかろうか。)

 いつも前置きが長くなる。が、前提部分をハッキリしておかないと、伝わるものも伝わらなくなるし、自身の中で論理のバックボーンを明確化するためにも前置きは大切なのじゃよ。


そもそもルールとは何だ

 noteでもたまに麻雀ルールについて語っているテキストを見かけるわけだが、まあ何と言うか、いきなり枝葉のルールに言及しだしているケースがほとんどで、申し訳ないけどトホホ感を抱いてしまう。

 それじゃ何も変わらんよ。と。
 もうちょっと、上のレイヤーから言及しないと。

 そもそもルールとは何だ。
 最初に、ちょうどいい一節があったので引用しておこう。

(原泰久『キングダム』46巻)

 引用元においては法律の話題ではあるが、これは様々な場面における「ルール」全般に通じる話だ。
 企業内のルールでもそうだし、もっとローカルな、学校のクラスにおけるルールだとか、仲間内でのルールだとか、何なら家庭内のルールにだって適用できる話なのだ。

 もちろんこれはゲームのルールにも通じる。

 ゲームのルールにおいての「どうあってほしいか」は、以下のように言い換えることが出来る。

  • そのルールでどのように楽しんでもらいたいか

  • どのような場面や体験を提供したいか

 さらにこれがMリーグのルールであるとすれば、より具体的に以下のような意図が追加されるだろう。

  • どのようなプロの選択を見せたいか

  • どのような麻雀を観て楽しんでもらいたいか

 こういった意図もなく、いきなりドラがどうとかと語り出すのはド論外
 何故なら、そういった枝葉のルールによって「何を意図しているか」が全く伝わらず「で、それでどうなるの?」と切り捨てられて終わるからだ。そこで慌てて意図の部分を取り繕ったところで、その意図に繋がるかどうかの検証が不十分であるので、多くの場合はせっかく考えた枝葉ルールが見当外れという結果に終わる。

 要は、結論ありきで枝葉ルールから言及を始めるのは下策も下策なのだ。

 なので、既存ルールをどうこう言いたい人は、まずはそのゲーム進行の風景変化をイメージするところから始めると良い。
 多くの場合は現状の風景に不満があってルールにモノ申したいのだろうから、不満のある風景を具体的に列挙していく。
 それをどのように変えたいか、ということを突き詰めて考えていくと「本当に手を入れなければいけないルールのコアの部分」が見えてくる。同時に、変化させたい内容によっては、単純なオプションルールのON/OFFだけでは実現できないことだって見えてくるはずだ。
(麻雀ルールで話題に挙がる要素は、いずれも一局単位でのルール要素であることに気付けば、1ゲームを通して作用するルールのアイデアにも至れるはずだ)

 枝葉ルールに言及するのは、そこまで済んでからにしよう。


運ゲーであるのを緩和するために

 まあ、手垢のついた議題であろうが、ものは試しで考えてみよう。
 ここでもやはり、いきなり枝葉ルールから始めてしまうと、ドラや一発という要素だけに言及して終わるので注意ね。
 あと、この手の話の前提として、出来るだけ抽象化して捉えることも肝心。個別事象は一つのモデルにはなるが、それに囚われてはいけない。

 前節に提示した流れに則ると、まずは「どうあってほしいか」を考える。
 まあここは個人的感想で列挙していこう。

  • クジ引きの性質を緩和する

  • もうちょっとリスクとリターンの選択で頭を悩ませてほしい

  • トップ目がイージーに逃げ切る展開は面白くないので、もうちょっと苦労してほしい

  • ラス目がハードモードすぎるので、これは緩和

  • その対局において、どうなるか判らない状態を出来るだけキープして、見ごたえのあるゲームを増やしたい

 さて、そもそもの話、麻雀が運ゲーであると感じさせるコアは何か、という問いかけを交えながら続きを考えていこう。

 現状に対する不満というのは、「どうあってほしいか」の裏返しである。
 とにかく、トップ目が有利すぎる。逆を言えば、ラス目にとって厳しすぎる。
 しかもそのトップ目に至った経緯が簡単高打点というケースだと、視聴時の虚無感が増していく。
 さらに、これはチームごとのカラーもいくらかは影響するわけだが、そもそも原理的にトップ目に立つとイージーモードに切り替わる。(そのままの順位を保ったまま逃げ切るための、軽いアガリやベタオリにより局を流す行動が解禁されることから、追う側である他三者よりも自由が与えられる)
 場合によっては、トップ目を蚊帳の外に置いたかのような実況・解説が成されることがあるのは、この傾向があまりにも如実に顕れすぎて、「エンタメ的な」価値が落ちた瞬間を指しているのだと推察する。所謂「塩試合」というやつだ。
 もちろん、イージーモードだからと言って常にトップ目がトップ目のまま逃げ切っているわけではないが、その入れ替わったトップ目がどうやって追い付き追い越したか、の経緯が簡単高打点というケースだと、まあ結局は同じく虚無感を覚えることになる。結局のところ、構造的に行き着く先は同じだからだ。

 これをものすごく抽象化して捉えれば「クジ引きの成り行きを肴に一喜一憂するのを観て楽しむエンタメなので、それに乗れない人には向いてない」と見ることも出来る。
 このへんをひっくるめて「麻雀というゲームの性質」と言って思考停止するのは楽だが、それでは何も成長がない。

 ここで麻雀というゲームの性質を少々乱暴に図式化してみる。

 麻雀の醍醐味を伝えたい側からすると、中央の「リスクとリターンの押し引き」「打牌選択の妙」をクローズアップしたいわけだが、両翼があまりにも目立つために、単純に中央部をクローズアップしたところで、所謂「グラフの一部分を拡大して伝える」ことになってしまい、そのままでは欺瞞全開待ったなしになってしまうわけだ。
 とは言え、運要素を完全に取り除くことは、麻雀というゲームを根幹から再設計することになるので、現実問題として不可能と言って良い。よって、この図における両翼はどうしても残ってしまう。
 両翼が残るのであれば、手を付けるポイントは一カ所しか残っていない。そう、理不尽なまでの不等号の部分である。これは即ち、麻雀における運要素の影響度そのものを指している。これをせめて軽減できないだろうか、という点を考えてみたい。

 さて、麻雀における運要素に言及するに当たって、麻雀における「ツキ」を少し再定義してみよう。
 これは「向聴数の少ない配牌」「ツモが良い」「ドラや赤ドラが多い」といった一局単位の話からもう少し踏み込んだ話だ。

 トップ目が「ツイている」と見える状況を考えてみたい。
 トップ目としては今の順位を保ったまま終局、つまり南4局が終了してほしいと考える。南4局が終わるまで、ルール上局のスキップはあり得ないので、一局ずつ消化する必要がある。出来ることなら他家の連荘はさせず、望ましくは自分のアガリで局が進むのがベストだろう。(他家のアガリでも局が進めば良いが、点差が詰められるケースも考えると、最善とは言い難い)
 そうすると、トップ目からすると、とにかく早くアガれる配牌&ツモが「ツイている」になる。もちろん、そのついでに打点が伴えばより良しだ。(細かくは他家の手が進まないとか、他家の当たり牌を掴まないといった「ツキ」もあろうが、これらは別にトップ目に限らない話なので次点以降と見なす)
 ここで視点を変えて、追う立場を考えてみよう。トップ目からすると「好配牌」と言える「安目でも早アガリが期待できる配牌」は、それこそラス目からするとどう映るだろうか。
「順位を上げるために打点が必要な局面で、そんな軽いアガリで局を進めるような配牌をもらっても嬉しくない」となるのではないか。

 別の例として「ベタオリしか無さそうな字牌まみれの酷い配牌」などはどうか。トップ目としては安全にその局を切り抜けることも悪くは無い展開の一つであるから、これもどちらかと言えば「嬉しい」にカテゴライズできるだろう。
 ところが追う側、それもラス目からしてみれば、こんな配牌は地獄以外の何物でもない。

 もう一つ「少し手間はかかりそうだが高打点の見える配牌」も考えてみよう。このケースは、トップ目からすれば嬉しいは嬉しいが若干価値は下がるのではないだろうか。(もちろん、トップ目とは言え点差が小さい場合はリードを広げる価値のある手となる)
 反面、追う側からすれば逆転の一手となり得るので、普通に価値の高い手と評価されるのではないか。

 当たり前と言えば当たり前だが、麻雀というゲームにおいての「ツキ」は相対的なもので、もちろん「誰にとっても嬉しい」もあるわけだが、それ以外は「順位や状況によって嬉しさの大小が変わり、場合によっては嬉しい/嬉しくないが逆転する」のだ。
 そのことに気付けば、運ゲーであると感じられるコアの部分が見えてくる。

 トップ目が有利であることのコアは、とにかく局を進めさえすれば勝ちに近づくことから、「嬉しい配牌やツモ」のパターンが4人のうち最も広くなる点に集約される。さらに局進行という点で、全ての行動が解禁された状態(軽いアガリで局を進めるも良し、何なら他家への差し込みまで許容されるケースまである)とも言える。パターンが広いのだから出現率も高くなり、結果としては「運じゃなあ」と見える場面も自動的に多くなる。
 逆にラス目にとっては、「嬉しい配牌やツモ」のパターンは減り、局進行に係る行動にも制限がかかった状態になるわけで、当たり前のようにハードモードを要求されることになる。

 普通に、ゲームバランス悪すぎだろ。

 少なくとも、競技で使うルールとしてはアカンでしょ。(Mリーグもプロ麻雀団体も「競技麻雀」を謳ってるんだよね?)
 賭博由来だからという理由付けは、競技性を持たせる上では真っ先にデリートされるべきもので、間違っても錦の御旗にするもんでは無いのです。

 こうして見ると、麻雀を運ゲーたらしめているものは、ドラや一発といった偶発性要素だけでは無いことに気付く。
 諸悪の根源となっているのは「順位が高いほどイージーモードに近づく」点であり、これを改善するだけで相当に運ゲー傾向は緩和されそうに見える。
 つまり、順位が高い側にとっての「嬉しい配牌やツモ」のパターンを絞り、逆に順位が低い側にとっての「嬉しい配牌やツモ」のパターンを広げる方向でルールをいじれば良いのだ。
 そうすることで相対的な「ツキ」の平準化が図られる。
 一応言っておくが、さすがに完全な平準化は難しいので、そこはトレードオフの関係を見て割り切るものとする。

 そのように考えると、至ってシンプルには以下のルールが考えられる。

単独ラス目以外は手役2翻縛り

 こうすることで、まずは手っ取り早く「簡単に局を進めるアガリ」を封じる。役牌のみとかダマの平和なんかはアウトってことだ。同時に「役牌ドラ3でリードを広げる」なんてクソみたいな展開も無くなる。1~3着が簡単に局を進めにくくなるということで、翻数制限の無いラス目はチャンスが大きく広がるということでもある。(特にラス目の親番を軽いアガリで流せなくなるのが大きい)
 「トップ目のみ2翻縛り」にしないのは、一人だけの縛り条件はほとんどイジメなのと、南4局ギリギリまで誰もトップ目になりたがらないケースが想定されるからだ。これはこれで駆け引きが生じるかも知れないが、ものすごくショっぱい試合が増えそうなので、エンタメ性とラス目救済を重視して「単独ラス目以外」とした。
 「単独ラス目以外」であれば、1~3着は同条件でシノギを削りつつ、ラス目は比較的自由に打てる。とは言え、3着以上に上がった=単独ラス目でなくなった時点で「次は自分が2翻縛りになる」点も考慮する必要があるので、全く無邪気に打てるかと言うとそうでもない。
 つまり、慌てて僅差で3着に上がるよりは、ギリギリまで4着をキープして進める(=翻数制限のない状態を維持する)方が有利、というケースもあり得るわけだ。もちろんチーム戦でポイント状況もある以上、とにかく3着に上がっておこうという選択もあるので、そういう駆け引きも表現できるようになる。そのために、状況によっては故意に打点を落とす選択とかも見れそうで、これってプロならではな感じがしませんこと?(加えて、次の局に賭けた打点調整の思惑が、余計な裏ドラにより粉砕されるという、痛し痒しな面白展開も期待できる)
 2着3着がルールの巻き添えを食ったように厳しくなると思うかも知れないが、そもそも2着3着からすると局を流すような選択は次善策以降であるわけで、手役2翻縛りはそれほど重大な縛りにならないと考える。トップ目という一番早アガりしたい人が同じ制限を食らってる状態なので、足並みは比較的揃うのではないだろうか。

 また、常に全員が2翻縛りというわけではないので、手役の価値が全く変わるわけでもない。それどころか、赤ありルールで価値が下がると言われているチャンタの価値が相対的に上がったりするのでは無いか。(役牌のみがアウトという状況下で鳴きも絡めて役牌を活かすとなれば、役牌×2,ホンイツ、三色、トイトイ、チャンタぐらいしか無くなるので)
 加えて、2翻縛りによってドラの価値も若干落とせる。いくらドラ赤満載でも、アガリ条件である2翻に繋がらないと見切れば、ドラ面子ごと切り捨てるしかないケースも起こり得るからだ。(さらにリーチをかけたくない思惑も絡めば尚更だろう)
 さすがに食いタンのみの価値が暴落するのは、まあここは涙を飲んでいただきたい。

 今よりもアガリが出にくくなるのは間違いないが、除外されるのはラス目以外からの軽いアガリや、「手役1翻+ドラ満載」系の、まさに運ゲーの象徴みたいなアガリだ。(逆にラス目は、この運ゲーの象徴みたいなアガリが許されるので、不ヅキ展開に対するカウンターとなる)
 もちろん、こういった軽いアガリの中には技術を尽くした1翻も含まれてはいるだろうが、それならば次からは、何とか手役2翻に上げるために、時にはリーチをかけるリスクを負う、といった場面で技術や胆力を見せる方向にシフトしてもらうのだ。それ以前に、技術を尽くした2翻だって当然あるわけでしょ?(あと、ラス目は従来通りに翻数制限無しなので、技術を尽くした1翻はここにしっかりと残せる)
 このルールの最も特徴的な点は、一番アガリに近いのが翻数制限のないラス目であるということから、「局進行を左右できるのが、その時点におけるラス目になる」という点だ。これは従来ルールとは真逆であり、所謂「地蔵ラス」を防ぐ効果も期待できるため、それぞれがどのような方針を取るのかも一つの見どころとなるだろう。
 従来と比べて失われる見どころがあるかも知れないが、同時に新たな見どころも生まれるので、ルール上はマイナスにはならないと踏んでいる。たぶん、数シーズンは最適解探しのフェーズになって、成績も結構変動するのではないだろうか。

 念のため言っておくと、これはあくまで、相対的な「ツキ」の平準化を狙ったカウンター的なルールに過ぎず、「よく見かける展開のなりやすさ」を調整するものでしかない。
 故に、それでもやっぱり爆運で大トップ大ラスというのは当然発生し得る。そこをどうこうするルールでは無い、という点は強調したいところだ。
(と言うか、その部分をどうこうするならば、ルールで対処するのでは無く、技術者目線で恐縮だが、まずは機材を「競技水準で」評価するところからじゃね?と考えてしまう)

 あと、さすがに平均対局時間は少々伸びそうではある。

 このルールによって、Mリーグルールというのは「初心者が真似するには少し難しいルール」になるだろう。
 しかしそれは「初心者お断り」にしているのではない。
 むしろ「麻雀プロは、この少し厳しい条件でも思考を尽くしてアガリ形を作れるんですよ」を示すことが出来るのではないか。

 繰り返しになるが、「街のケンカ」を意識している限り、さらには「麻雀とはこういうもの」という発言をプロ自身が発している限り、そこでの競技性の発展は難しいんじゃないの、と思う。同じく、「街のケンカ」と同じ方式である限り、麻雀プロの権威性はいつまで経っても形成されないんじゃないの、とも思う。(結局のところ、「俺でも出来る」系の発言の拠り所はまさにそういう点だろうし。まあ、そう思わせることで参入障壁を下げようとしている世界なのであれば、そこに競技性も権威性も不要なわけだが)

 んで、自団体既存のリーグ戦でシノギを削ってる各団体として大きなルール改正が難しいんだとすれば、そのレベルの一石を投じれるのは、やはりMリーグが一番適任なんだよな。各所属プロからすれば別枠も別枠だから。
 そこからまさに格闘技のように、競技ルールの整備という形で、麻雀においての「街のケンカ」そのものである「賭博の臭い」を消していくことが出来れば、それはつまりMリーグが掲げているところの理念ともマッチするんじゃねーの?と思う。
 もちろん同時に、従来の麻雀も生き残ってもいいんですよ。「伝統派麻雀」でも「フルコンタクト麻雀」でもいいから、新たな競技性を付与した麻雀と区別していけばいいんだから。

 採用しているルールによって、その性質の明確な差を説明することになれば、団体なりリーグ戦なり大会なりの色付けもより判りやすくできるんじゃなかろうか。(その観点で行くと、「最強戦」なんかはまさに「街のケンカ」を意識した大会である、と位置づけることもできよう)
 まあ、客層の分散ということに繋がるかも知れないので良し悪しはあろうが、とは言え単一であることによって離れていくケースだってある。
 「統一」ってのは「そこが居心地が良い人」を選別する行為である、という危険性を常に孕んでおる。それ以前のそもそも論として、今の各麻雀プロ団体の採用しているルールというのは、そんな「統一」を目指すほど多様か?という話で、実はそのレベルにも至っていないんじゃなかろうか、というのは外野から見た感想。枝葉の違いはあれども、結局は枝葉というか。
 もっとこう、「どうありたいか」の違いを雄弁に語れるようなルールを提示できて初めて「競技」足り得るし、その先に初めて「統一」を語れる道が生まれるんじゃないかなあ、と思う。

 まあ、外野から見た勝手な願いでしかないのですが。


※書いてる途中で気付いたけど、種目を問わず、いわゆる競技ルールって大きく二つの性質が混在してるんだよな。
 「ゲームそのもののルール」と「お行儀に関するルール」。
 これらを色分けしてみると、その種目が何を以て「競技」を名乗っているか、言い換えると、「素人の遊びとはここが違うんだ」の差別化ポイントをどこに据えているのか、が見えてくるかも知れない。

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