CALLING [小説] (1/3)
プロローグ
例年よりも一足早い桜の開花に、街中が柔らかくあまやかな空気に満ちている。レジャーシートを敷いた花見客は、ほの白い光に囲まれて弁当を広げ、一様に明るい表情を浮かべていた。
浅野由貴は、職場の窓から白い渦のように咲きあふれる桜を見下ろした。デスクには今日発売されたばかりの雑誌「Live」が数冊置かれている。表紙の中央には、一際大きな明朝体で「春のぬくもり」と書かれていた。由貴の指が、ゆっくりと紙面を滑る。みどりの鮮やかな豆ご飯のおにぎりに、春色の卵焼き。カバーを飾る思い出深いおにぎりに、由貴は胸を熱くした。
食と生活を楽しむ雑誌「Live」20XX年4月号
編集後記
今号のテーマは「春のぬくもり」。この春に新しいことを始めてみたい、新しい環境で暮らし始める、という方も多いのではないでしょうか。大きな変化や挑戦の季節だからこそ、変わらずそこにある「ぬくもり」を探求しました。いつもに増して多くの方々にご協力いただき、まさに「ぬくもり」のある一冊に仕上がったかと思います。
また、特集「街を愛するあの店」は僕が編集者を志した原点とも言える大切なお店を取材することができました。街に根付き、日常の中で欠くことのできないピースとして、人々の生活と溶け合う飲食店、青果店、パン屋など、その街になければならない「ぬくもり」が、店主へのインタビューとともにお届けできていれば幸いです。
いつもそこにある笑顔に元気づけられたり、定番のレシピにほっとしたり、お気に入りの暮らしの道具に寄り添ってみたり、この春からのみなさんの生活がより心温かなものになりますように。
編集担当 浅野由貴
「お、浅野さん、わざわざ買ってきたんすか」
由貴が発刊された雑誌に見入っていると、右隣のデスクから羽田和樹が声をかけた。由貴は雑誌に視線を落としたまま深く頷く。
「念願叶って、僕がずっと取材に行きたかった店にやっと行けたんだ。とにかく感慨深いっていうか、書店に並んでるのを見たら買わずにはいられなかったよ」
「あぁ、『3rd kitchen HARU』行くとき、まじで気合いはいってたすもんね。他のメンバーも触発されちゃって。俺も、今月号はかなりいい出来だと思います」
「おかげさまでね」
羽田が由貴のデスクから一冊取り上げ、しげしげと見る。左隣に座っている夏川瑞生も由貴に話しかけた。
「浅野さんて、ほんとおいしいもの好きですよね」
「ね。しかも店にハズレがないんすよ。昔から食べるの好きだったんですか?」
「いや、まったくそんなことはなかったよ。味オンチじゃないかってぐらい、おいしいものをおいしいと気付いてなかったから」
「えぇ!そんな浅野さん、想像つかないです」
それほど意外だっただろうか。夏川がおおげさなくらい驚いた。
「いつからそんなにグルメに?」
「この仕事を志すようになってからかな」
「おいしいお店のリサーチはSNSからですか?」
「SNSの口コミは見るとしても、自分でお店に行った後にしてる。まずは自分で店に行って食べ物の声を聞くんだ」
「浅野さんってそんなロマンチストでしたっけ」
羽田と夏川が、由貴をはさんで顔を見合わせ、いかにも似合わないと言いたげだ。由貴は、同僚たちの会話を後ろに、いつの間にか聞こえなくなった声の存在を思い出していた。
第1章
1.
僕は、昔から食べ物の声を聞くことができた。
幼少期に、「この卵焼きさん。僕に『全部食べてー』って言ってるね」と嬉しそうに語っていたところまではよかった。ところが、ほかの園児の弁当を見ては、『晩御飯余っちゃったし、入れちゃお』とか、『期限すぎてるけど炒めてるから大丈夫よね』とか言うようになってしまい、不思議くんを通り越して気持ち悪いやつになってしまった。もちろんもっと拙い言葉ではあったが、そのころの僕は、意味も分からずに、弁当がしゃべっていることをオウム返ししていた。
小学生にもなれば、言っていいことと悪いことの分別がつくようになり、この声も僕にしか聞こえていないらしいとわかった。そしてつい最近には、食べ物が意思を持って話しているわけではないと気がついた。どうやら食べ物を作った人の気持ちや思考が、食べ物の声として聞こえているようだ。僕はそれを『料理の記憶』と呼ぶことにした。
たとえば、先月妹が貰ってきたバレンタインデーのお返しクッキーは、花柄のかわいらしい缶に詰められていたが、生地の厚さやオーブンの温度なんかを突然思い出したかのようにぶつぶつ唱えていて不気味だった。近所のパティスリーで購入されたものらしく、製作過程で作り手のレシピが刷り込まれてしまったようだ。
作り手の思いが、明確に込められた食べ物は馬鹿みたいによくしゃべる。込める思いは具体的であればあるほど、『料理の記憶』として強く主張される。『幸せになってほしい』、という漠然とした願いよりも、『息子がこれを食べて元気をだして欲しい』、『夫が仕事のストレスを忘れて欲しい』、『明日の試合で調子が上がりますように』、みたいな願いのほうが食べ物にとって印象的なのだと思う。
異世界のポーションや錬金術ではあるまいし、思いの込められた食べ物に特別な効能があるとは思わない。それでも、食べる人は『料理の記憶』に影響されることが少なからずあるらしい、というのが17年に及ぶ考察の結果だ。
幼いころは、この不思議な力が自分を特別な存在にしてくれると信じてやまなかった。謎の使命感のようなものに燃えていて、自分は何者なんだろうかとも思った。小さな子どもが戦隊モノのヒーローに憧れるように、いつかこの力で倒すべき悪が出現し、僕もそれに立ち向かうのだと夢見ていた。しかし、ごく普通の男子高校生にとって、そんな力は腹の足しにもならず、『料理の記憶』に倒されるような悪も存在しない。この力にどんな意味があるのか。散々考えたことだったが、答えは見つからないまま、いつしか考えることをやめてしまった。
2.
朝、テーブルの上に置かれた弁当は沈黙している。
結ばれたランチクロスを掴んでカバンにいれ、その足で玄関を出た。2年間歩き続けた通学路には桜が咲き乱れている。僕はあらゆるものの生命力が吹き出すこの季節が苦手だ。誰も彼もがやる気に満ちあふれているように見えて、暑苦しくなる。
僕は、春だ春だと浮き足だつ教室で精神を消耗しながら担任を待つ労力と、少しばかり長く歩く労力を天秤にかける。
急がなければならない時間でもない、ちょっと遠回りをしよう。
いつも歩いている大通りを途中で曲がって、一本北側の道に入る。向かったのは、できたばかりの少し変わった飲食店だ。普段はテイクアウトをメインにしている焼菓子屋さんで、週の何日か朝ごはんと夜ご飯を提供しているらしい。最近オープンしたこの店のチラシが、春休みにポスティングされていた。回収した郵便物をいつものようにダイニングテーブルに置いてみたけれど、書かれていた文言を妙に意識してしまって、結局この店のチラシだけ通学カバンに仕舞い込んだ。
ただの開店の知らせのはずが、ずっと頭から離れない。
僕は、この店に行きたいんだろうか。めんどくさがりの自分が、わざわざ外にご飯を食べに行こうとしているなんてにわかに信じがたかった。
『ひとと焼き菓子 better half』
open : 9:00-16:00 (Tue.-Sat.) ⤵︎50m
角を曲がる手前に、店名が書かれた立て看板が置かれていた。
店名の横に貼られた紙が、ひらりと風にたなびく。あのチラシだ。
『3rd Kitchen HARU』
「こどももおとなもみんなでワイワイが楽しい」
「こどもがひとりでくることのできる食堂です」
毎週火曜日、木曜日
朝ごはん6:00-9:00
夕ごはん16:00-20:00
*日替わりのおにぎり2個と汁もののセットのみの提供です。お汁のおかわり1杯無料。
そこに書かれていることを、僕は舐めるように読んだ。また胸の辺りがむずむずして落ちつかない。僕は高校生で、もう「こども」という歳でもないはずだ。ひとりでお店に入ろうと、入るまいと誰も咎めやしないだろう。そもそも、入るつもりもない、前を通るだけだ。僕は自分に言い訳した。だんだんと店の全貌が見えてきて歩くスピードが緩やかになる。通りに面してガラス張りの大きな引き戸があり、入り口はその向こうにあった。なんとも小洒落た外観に僕は二の足を踏んだ。今日仕込まれたらしいお菓子の大合唱が聞こえてくる。昔妹と行った近所の夏祭りを思い出した。屋台のおじさんの客引きの声とあの熱気。まだ店内にも入っていないのにこんなに大きな声で話されると、嫌でも店の中が気になるというものだ。もっとも、僕以外の通行人には聞こえている様子もないが。
『疲れた人は甘いものを食べよう。一緒に食べよう』
『焦がしバターの風味はたまらないよ〜、心の栄養剤』
『旬の柑橘、甘苦いオレンジタルト!甘い物が苦手な人にも喜んで欲しいな』
『ぎゅっふわっと握ったおにぎりは口の中で優しくほどけて〜』
『お野菜たっぷりのお汁で朝から頑張る人を応援!』
焼菓子の合間に、朝食が力強く声をあげている。心地よい賑やかさに、肩からストンと力が抜けた。どれぐらいの間そうしていただろうか、ドアを見つめていると、カラン、コロン、と音がしてスーツ姿の若い男の人が出てきた。お菓子の香りの中に、ふわり懐かしい香りがただよう。なんだか知っているような匂いだ。
「ごちそうさま!また来週来ます」
男の人が店の中に向かって、弾むように声をかけた。
「いつもありがとうございます。今週も頑張りましょう」
中からは女の人の明るい声が返ってきた。『3rd kitchen』の店主だろう。
「あっ、きみも入る?ここおいしいよ!ドアあけとくね〜」
「えっ」
僕はいつの間にか店に近づきすぎたようで、目があった男性客がドアを大きく開いて店に背を向けた。エプロンを着けた女性がひょいっと顔を覗かせる。
「おはようございます。どうぞ!」
店の前で聞き耳を立てていたことを説明するわけにもいかず、僕はそろりと目をそらした。
「いや、僕は前を通っただけで、すみません」
女性がわかりやすくがっかりした表情を見せる。なんだか申し訳ないことをした気分だ。
「そうなんですね、こちらこそ勘違いしちゃってごめんなさい。あ!ちょっと待ってて」
早口で告げて、カラン、とドアを引く。彼女は小さな紙袋を手に戻ってきた。
「また時間があるときに食べに来てください。最近オープンしたばかりなのでよかったらどうぞ」
ひとと焼き菓子 better half、と手書き風のフォントが印刷された小さな包みが差し出される。重ねられたショップカードと一緒に包みを受け取り、軽くお辞儀をして立ち去った。 お礼くらい言うべきだったか。焼菓子と言われて思いつくのはクッキーくらいで、僕には場違いな店だ。それにしても、お客さんがあんな顔をするなんて、相当おしゃべりなおにぎりをだしているんだろうな。焼菓子屋にきて、おにぎりを思い浮かべるとはおかしな話だ。振り返れば、店主はすでに店に引っ込み、焼菓子たちの声がかすかに聞こえた。
予定よりも長く寄り道をしてしまったものの、朝のホームルームの10分前には校門をくぐった。3年のフロアである2階の廊下を歩くのはまだ少し緊張する。3組が自分の教室だという意識も薄い。ドアを開けると馴染みのない顔が並び、ぐっと息が詰まった。自席に荷物を置けば、見知った顔が横から身を乗り出してきた。旧友の芝田祥郎だ。サチローとは違うクラスになりたいと願い続け、中学から6年間、結局同じクラスで隣の席になってしまった。
「由貴、今日はいつもより来るの遅くね?」
「ちょっと寝坊した」
「めずらしいな」
まるで準備してきたかのように言い訳が口から滑り出した。僕は本当のことを言いたくなかった。この恵まれた男には僕の抱く劣等感などきっと微塵も理解されないだろう。
サチローのカバンからは、毎日弁当の叫びが漏れ聞こえている。朝の店のように穏やかなものではなく、部活に行くサチローを応援したり、励ましたりする気迫に満ちた声だ。僕にとって、たとえ弁当でもあっても作りたてのご飯というのは、ステーキ肉にも劣らない贅沢品なのだ。それが自分のために作られたものであれば、高級鉄板焼きなんかよりもよっぽど価値がある。サチローの弁当の叫びは昼頃になれば落ち着くが、今から最低一ヶ月間は聞き続けなければならない。憂鬱だ。僕は次の席替えで、静かなやつの近くになるように祈った。
「今日は考査結果と一緒に進路希望調査が配られるらしい。なんか考えてるか?」
「全然」
サチローは勉強ができるし、将来は家のあとを継ぎたいと言って経済学部を志望している。できるやつほど周りを気にしてくるのは何故だろう。僕はこれまでの調査だって、適当な大学を3つ選んで埋めてきただけだ。学年が一つ上がったからといって、自動的に進路が定まるはずがない。せいぜい、自分の学力に見合った大学に変えるくらいだ。
「だよなぁ。俺たちもう3年だって。早すぎ、俺部活しかやってねぇし」
「それ、帰宅部の僕に対する嫌味でしょ」
「大正解」
ニカっと笑ったサチローは、用が済んだとばかりに自分の机に向き直った。本当に嫌味なやつだ。僕みたいなやつらが、なあなあにやっているのを見て安心しているに違いない。3年生に上がり、高校卒業というイベントが現実味を帯びてきた途端これだ。部活ばかりしている、ふりをして、教師に言いつけられた課題はやってくるし、テスト前になれば勉強もする。将来の目標があって、いまやりたいこともある。サチローが鼻歌を歌いながらカバンから教科書を取り出している。やりたいことに夢中になれるというのは、どんな感覚なんだろうか。
チャイムが鳴り、担任の池江拓実が教室のドアを開けた。去年、隣のクラスを担任していた英語教師で、この春結婚したらしい。この教師も、やたらと夢を押し付けてくるタイプの男だ。始業式の後、クラスの挨拶で「好きなことができる人生は豊かな人生だ」と言っていた。僕にはその「好きなこと」がない。熱のある話に新学年の期待を膨らませるクラスメイトを見て、自分だけは水風呂につかっているみたいに冷静だった。
池江が両手に抱えた山盛りの配布物を教卓に置いたところで、委員長が号令をかけた。次々と配られるプリントを流れ作業のように後ろに送る。
「最後に、進路希望調査を配布する。二者面談の資料にするから、行きたい大学、やりたいこと、興味のある分野、好きなこと、将来につながりそうなことはできる限り詳しく書いておくように。ゴールデンウィーク明けには面談をして、期末考査までに再度進路希望を提出してもらう。夏休みにはやらなければいけないことが明確になるように、それぞれしっかり考えておいてくれ」
僕にないもののフルコンボだ。学校推薦の面接を受けてみようものなら、面接官にはなんて退屈なやつだと思われるだろう。どうせならこういうときに役立つ能力が欲しかった。食べ物じゃなくて人の心が読めるとか、頑張らなくても面接官の欲しい回答がわかるし、試験もカンニングし放題じゃないか。
僕は大概のことを、まずめんどくさいと思うし、高校生活をかけて頑張っていることなどあるはずもない。しかしエネルギー消費量過多な、サチローのような生き方を否定しているわけではなく、むしろリスペクトしているとも言えよう。僕は常に省エネ主義で、エネルギーの無駄遣いが嫌いなのに、毎日を無駄に過ごしているのだから。
そもそも、将来について深く考える行為そのものが僕には不釣り合いだ。目標とか、そういうのは勝手に降って湧いて欲しい。僕は迷わず手元の紙にシャーペンを滑らせた。適当でいいや。前もそうやって書いたし。
♢
昼休みの教室は騒がしい。生徒のヒステリックな話し声と、蓋を開けられた弁当たちの声が学校中を満たしている。新学期が始まって数日で、僕とサチローの定位置は教室の窓側、黒板に近い場所と決まった。サチローの机は女子たちが持っていくので、2人でひとつの机を使う。窮屈だが、隣には賑やかな女子グループがいるし、騒がしい教室で話をしながら食べようと思えばこのくらいの距離がちょうどいい。
「杏花のお弁当っていつもカフェみたいに綺麗だし美味しそうだよね!」
「ママが料理に凝ってるだけだよ」
「インスタ見たよ、こないだの休みの日のお昼も豪華だったね〜。うちなんか、他人丼とか、適当な野菜炒めとか、いつもそんなだよ」
僕は今日も女子の話題に上がっている弁当を盗み見た。目にも鮮やかなサンドイッチが2種類、薄茶色の紙のボックスの中に並んでいる。丁寧に重ねられた具材がぎゅっとパンに挟まって、整然とおさまっていた。
新学期が始まって以来、僕は彼女、今井杏花の弁当が話しているところを見たことがない。彼女の弁当に詰められたおかずたちは『料理の記憶』を持たないのだ。料理に凝っているという彼女の母親は、出来合いのものを詰めているのではないか。僕は確信めいたものを感じていた。
今井はそれに気づいていないのか、あるいは体裁を気にしているのか、彼女がそれを周囲に打ち明けることはない。僕だって『料理の記憶』が聞こえなければ、なにも気付けずにいただろう。今井は分厚いサンドイッチを食べづらそうにかじっている。
斯くいう僕の弁当も、相変わらず沈黙している。母親の作り置きと、工場育ちの冷凍食品が多く詰め込まれ、カップの中に鎮座するおかずたちは無表情で無口だ。冷食、コンビニ弁当、お惣菜、『料理の記憶』を持たない食べ物はどこか味気ない。つめたいおかずを口に運ぶたびに、どんよりとした何かが胸の中に舞い込んでくる。サチローの弁当が、むんずと黙った弁当を煽るようにがなりたてた。
「いまさらながらお前って、小食だよな。そんなちょっとしか食べてなかったら5限はじまるころにはお腹すかね?」
サチローが自分のよりも一回りは小さい僕の弁当を見て言った。無機質なプラスチックの容器の中には、独特な風味のエビグラタン、分厚い衣の一口カツ、きんぴらに小松菜のおひたし、同じようなカップに入れられて、少量ずつ盛られている。企業努力の末に得られた大衆受け抜群の味付けのはずが、いくら食べても満たされないような気がして箸はそれほど進まない。
「量を増やしてもお腹は空くし」
「わかる、弁当って食べても食べても腹いっぱいになんないよな」
的外れなあいづちを無視すれば、サチローの箸が伸びてきて、僕の弁当からカツを攫っていく。
「てことでこのカツ一切れくれよ。卵焼きと交換な」
「ちょっと、勝手にとってかないでくれる」
「このカツより卵焼きが好きだろ」
「…なんで知ってる」
サチローが箸で挟んだままのカツを由貴の前に突き出した。衣には揚げムラがなくきれいなキツネ色をしている。まるで温度を感じないカツが「自分は誰に食べられようと関係ない」とばかりに、尻尾を抱えてうずくまっているように見えた。
「お前、卵焼きはいつも最後に食べてるし。はいこれ卵焼きな」
サチローが差し出した卵焼きが、明るい声を上げる。
『今日は祥郎の好きな、ネギじゃこ入りにしよう。中身がちょっと失敗したけど大丈夫、味には関係ないからね』
「いらない。卵焼きもお前に食べてもらいたがってるよ」
「ぶっ、由貴ってそんなメルヘンな冗談言うのかよ。意外や意外。じゃ、遠慮なく」
サチローにはこういうところがある。普段は飄々としているくせに、意外と人をよく見ている。そして無神経に見えて、繊細だ。僕はサチローに色々と見破られているようで、恥ずかしくなった。
♢
その日の6限は池江のコミュニケーション英語だった。3年になってから、英語の授業が一筋縄では行かない。教師が読み上げた英文を順に訳すだけではなくなってしまい、めんどくさいことが増えたのだ。
まず、授業の最初にwarm-upと称し、与えられたお題で数分間英会話の真似事をさせられる。会話が終わると、話したことや、言いたかったけれど英語で言えなかったことなど、短い振り返りをプリントに書き留めるのだ。そしてパートナーは日によって変わる。それがまためんどくさい。この時間、僕にあてがわれたパートナーは今井だった。
「…えと、What did you do during spring vacation?」
僕はなぜか彼女に睨まれながら、黒板に書き出された文字を読み上げた。
「浅野ってさ、お昼のときいつもわたしのこと見てるよね」
「見てないよ」
しまった、即答してしまった。
「うそね。もしかして私のこと気になってるの?」
「はぁ?」
なぜ女子はこんなにも惚れた腫れたの話が好きなのだ。それに僕が見ているのは、今井ではなく今井の弁当だった。「きみの弁当を見てました」と言ったらどうなるだろうか。下手な誤魔化しか何かだと思われる気がする。めんどくさい。僕は彼女の勘違いをそのままにすることに決めた。
「これ」
ぎょっとして思わず彼女の顔を見つめる。彼女が差し出したのは例のチラシだった。さらに彼女の意図が読めなくて、僕は知らないふりをした。
「それが?」
「やっぱりうそつきね。朝のホームルームでプリントと一緒に回ってきたよ。浅野のでしょ」
今井の前に座っているのは僕だけだ。カバンにしまい込んでいたチラシが、プリントを入れるファイルを出し入れするうちに配布物に混ざっていたのか。
「こういうの、『こども食堂』っていうんでしょ。行きたいならわたしと一緒に行こうよ」
「こども食堂?」
「親の帰りが遅いこどもがご飯を食べて親を待ってたり、まずしい家のこどもが安くでご飯を食べれたりするところよ」
僕は、今井の言葉をすぐには飲み込めなかった。ほんとにそうだろうか、『こどもがひとりでこれる』だけで、『こども食堂』とは書いてない。僕は小さく反論した。
「ここにはそんなこと書いてないよ」
「バカなの?そんなの馬鹿正直に書くわけないじゃん。余計に行きづらくなるでしょう?」
彼女は僕を二度もバカと言った。今井は自分の考えが間違っているとは微塵も思っていないようだ。世間から見れば、僕は、親の帰りが遅い子どもに該当するだろうが、彼女の言う「こども」のように親の帰りを誰かと待たなければならないほど幼くはない。それでも、チラシの文句にどうしようもなく引かれてしまったのだった。
「じゃあ今井は、どっちなの?」
「どっちでもないよ。帰ればご飯はあるし、母親は働いてないし」
ますます僕はわからない。どちらでもない彼女が、なぜ僕を『こども食堂』に誘うのだ。
「で、浅野は行くの?」
「…行く」
僕は渋々頷いた。家に帰れば、冷凍された作り置きがたくさん並んでいるというのに、わざわざひとりでご飯を食べに行くなどめんどくさすぎる。誰かと約束でもしなければ、自分はきっとこの好奇心を殺してしまうだろう。
♢
今井と約束した4月の最終週はすぐにやってきた。16時を過ぎると、学校に残っているのはほとんど部活のある生徒だけになる。この時間帯に学校にいることがとても新鮮だ。それに今日は隣を今井が歩いている。女子と並んで下校するなんて、これまでの人生で一度も起きなかったイベントに、柄にもなく少し緊張している。
「…いーちにー、いちにさんしっ、」
「ファイトっ、ファイトっ、ファイトー」
グラウンドの横を通れば、運動部が声を張り上げているのが聞こえる。彼女は何も話さない。僕は沈黙に耐えかねて、咄嗟に浮かんだ疑問を口にした。
「あのかけ声ってなんか意味ある?」
確か彼女はバドミントン部に所属していたはずだ。
「知らない。出すのが当たり前だもの。建前としては気合いとか、お互いの士気を高めるみたいなことじゃない?」
「今井は部活で声出しするたびに気合い入るの?」
「建前って言ったじゃない。練習じゃほとんどみんな適当にやってる。チームメイトの声聞くと頑張らなきゃってなったりはするけど」
「まあ、そうだよね。かけ声のたびにいちいちやる気出してたら、そのうちエンストしそうだし。燃費悪そうだ」
「でも意味があるかどうかは、その人次第なんじゃない?浅野はそういうのマイナスにしか考えなさそう」
「僕のことなんだと思ってる?」
「いつも気力ゼロで授業を受けてる。プリントを後ろに回すときは絶対に振り返らない。とにかくめんどくさがり。浅野は野球部のかけ声を聞いて、ムダなことするなぁと思った。たとえば、あの野球部の中に本気でランニングのかけ声を大事にしてるやつがいるかもしれないけど、そういうことを否定もしないけど考えようともしないタイプ。見えてるものしか見なさそう」
僕は思わず目を瞬かせた。
「怖いんですけど…。今井ってさ、もしかして僕のこと気になってる?」
どこかで聞いた記憶のあるセリフだ。そうか、あれは彼女なりの冗談だったんだな。白けた視線が刺さって僕は会話を続ける努力を辞めた。
『3rd kitchen』にはすぐにたどり着いた。今日は焼菓子の声がほとんど聞こえず、わずかに子どもの声がする。今井は躊躇なく、店のドアを開けた。
今日のおにぎりセット
・お豆ご飯 だし巻き卵のせ
・シャケ、ごま おにぎり
・春キャベツと新玉ねぎのみそ汁
黒板に書かれたメニューが目に飛び込んできた。僕は、まだ出されてもいないみそ汁を味わうかのように、店内を満たしている鰹出汁の匂いを肺いっぱいに吸い込む。
カウンター上には、炊飯器とガス台が置かれている。ショーケースの中には残り少ない焼菓子が端に寄せられていて、すぐ横には20%OFFポップが立てられていた。
本当に子どもがひとりで来ている。いくつかのテーブルを中央に寄せて作られた大きなダイニングテーブルに、小学生くらいの子どもが5人座っていた。僕たちはそこに向き合うよう座る。口々に挨拶され、僕は面食らった。店のダイニングテーブルに勉強道具を広げている姿はなんだか不思議だ。
「こんばんは。おにぎりセットでいいですか?」
「こんばんは。はい、ふたつお願いします」
僕が口をはさむ隙もなく今井が注文した。
「はい、かしこまりました」
お代を先にいただきますね、と言われてその場で400円支払う。
「どうぞ!召し上がれ」
みそ汁からは、出来立てです!と言わんばかりに白い湯気がたちのぼっている。僕はごくりと唾を飲み込んだ。皿の上には横倒しになったおおきなおにぎりがふたつ。みそ汁とおにぎり、そのありきたりな組み合わせが、眩く輝いている。おにぎりを口にした瞬間、胸が熱くなって、汁をすすれば、優しさがじんわりと体に染み渡った。
「…おいしい」と言葉を漏らしたのは、僕が先だったか、彼女が先だったか。人の手でふんわりと結ばれたおにぎりと、味噌の風味に出汁の味が立つみそ汁の限りなく穏やかな晩餐だ。
『こんな量で高校生のお腹はいっぱいになるかしら。心配ね』
『旬の食材を食べれば自ずと元気が出ますよ』
店主の女性が、嬉しそうにはにかんでいた。
その食卓で僕たちはいろんなことを話した。なぜか彼女と話をすることをめんどくさいとは思わなくなっていて、2年のときのこと、新しいクラスのこと、課題のこと、進路のこと、他愛のない話が続き、時折小学生から算数の質問が飛んできたりする。僕らが帰るころには、仕事帰りの大人がパラパラと入店しては、先客に「こんばんは」と声をかけた。
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