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【書評】『柚莉愛とかくれんぼ』の「リアリティ」

 困ったことになってしまった。『柚莉愛とかくれんぼ』、真下みことさんのデビュー作だ。これを書いているのが発売日当日ということもあり、著者のTwitterフォロワー数は100に満たない。私はすでにフォローしている。そして発売当日にデビュー作を読み、この感想を書いている。この記事を書き終えて公開した後、リンクを貼りつけてツイートすれば、リツイート、まぁ少なくともいいねはつく。これで私も立派な真下さんの「最古参オタク」になれる。その程度にしか考えていなかった。

 しかしそう簡単にはいかなかった。稿を繰っていく度に、余計な思いがどんどん膨らんでいく。この小説はまあまあな確率で「地下アイドル小説」として読まれるだろう。しかしながらこの小説には、「地下アイドルのリアリティ」などほとんど含まれてはいない。本のカバーにはこんな書店員のコメントが書かれてあった。

アイドル好きの書店員として断言しよう。これは今までに読んだ「アイドル小説」の中で最もリアリティに溢れた作品だ。

この方がどういったアイドル好きなのか、もちろん私は何も知らない。でもたぶん地下アイドル好きではないんだろう。そして繰り返すがこの小説には「地下アイドルのリアリティ」が溢れてなどいない。にもかかわらず、さらに繰り返すが、この小説はまあまあな確率で「地下アイドル小説」として読まれるだろう。

 証拠を挙げておく必要がある。『柚莉愛とかくれんぼ』から二ヶ所引用しておく。

僕は本格的な編集をしようとキーボードに指を置いた。まずはとなりの☆SiSTERsの説明をしなくてはならない。なんて言うのが正しいんだろう。地下アイドル? なんか違う気がする。
【@太郎:なんかとなりの☆SiSTERsとかいう知らん地下アイドルが炎上してるみたいだけど、炎上商法は今どきダサくね】

ひとつめは、となりの☆SiSTERsというアイドルグループを炎上させようとしている「僕」がそのアイドルの紹介文を考えている箇所。結局地下アイドルという言葉を使うことはない。ふたつめは、まんまと炎上が発生して一時的に大量発生してきたツイート群のなかの一つ。地下アイドルという言葉が使われている。どうせツイートやまとめ記事をたいして読みもせず、とりあえず「知らん」アイドルだから「地下アイドル」ということになったのだろう。

 この過程にはものすごく「リアリティ」があるとおもう。「SNS時代のリアリティ」が。そしてそれゆえに、この小説に登場するとなりの☆SiSTERsというアイドルグループは、先ほどの一つ目の引用で地下アイドルとは「なんか違う」と書かれているにもかかわらず、まさに二つ目の引用における「@太郎」がそうしたように、地下アイドルと見なされるだろう。地下アイドルという言葉が前後の文脈から抜け落ちて、それだけが残る。本書がまさにツイートのようにとても読み進めやすい小説であるだけに、なおさらこうした過程が生じる可能性は高い(そして実際に、「#柚莉愛とかくれんぼ」でツイートを検索してみたところ、まだ決して多いとは言えない感想の中に地下アイドルという言葉を使っているものをすでにいくつか発見した…)。

 以上のようにして、この小説が、「地下アイドル小説」として、さらには地下アイドルの「闇」を、「リアリティ」を浮かび上がらせるものとして、受容される可能性は十分(すぎるくらい)にある。そしてこのことは、著者がとなりの☆SiSTERsという架空のアイドルが地下アイドルとは「なんか違う」ことを、恐らく十分に理解しているにしたって少しも揺らがない。というかむしろ、このように受容されてしまうということが、本書が浮かび上がらせている「リアリティ」の一例になっている。

 さて、本書で描かれている「闇」、これには二つの別々な原因があると言えるのではないだろうか。ひとつめは、「他人を完全に支配することができるはず(=他者を他者として認めない)」という思い込み。ふたつめは、「ほんとうの確固とした私がどこかに存在するはず(=確かな主体性への信頼)」という思い込みだろう。私は、地下アイドルはこのどちらの思い込みにも揺さぶりをかけてくるような、あいまいで不気味な存在だと考えている。ここでは、こうした地下アイドルの分析にこれ以上立ち入ることはしない。強調しておきたいのは、本書におけるアイドルの「闇」を作り出している前提は、地下アイドルと全く相容れないということ、そしてそうであるにもかかわらず、本書は「地下アイドル小説」として受容されていくだろうということだ。

 つまりこういうことだ。本書には「地下アイドルのリアリティ」はないが、本書が「地下アイドルのリアリティ」を描いた「地下アイドル小説」として受容されてしまう可能性が高いことには、強烈な「リアリティ」がある。このような受容がなされればなされるほど、本書が明らかにした「リアリティ」の確かさがますます証明されていくだろう。現に、次のような文章が書き記されていたではないか。

もちろん、これは最初から最後まで全部嘘だ。だけどネット上で広まるのは正しい情報ではなく、わかりやすい情報だ。僕のこのツイートはある程度広がるだろう。時計は十一時を指していて、まだ時間があることに僕は安心した。

さて、この文章を書いているまさにこのいま、時間は十一時を少し回ったところだ。「名前」というキーワードに着目するとか、朝井リョウの『何者』と比較してみるとか、そういった感想はほかの人たちに任せて、この文章もネットの海に放流させることにしよう。

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