見出し画像

マーガレット・マーヒー流「異世界との遭遇」基本スタイルがここにあり

ニュージーランドを代表する児童文学作家マーガレット・マーヒー。

彼女の初期の絵本作品を読んでいたら、気づいたことが。

『うちのペットはドラゴン』という絵本のストーリーについて、

【起】最初は、ニュージーランドの一般的な家庭の日常生活が描かれる。そこに実に「あたりまえ」のように、ひとつだけ、「異世界のモノ」が紛れ込む(この絵本の場合は、おとうさんが会社帰りにペットショップに寄ると、イヌネコやハムスターに混じってドラゴンが売られている!)
【承】はじめはギョッとするものの、意外に周りの大人たちも、「ドラゴンなんてペットショップで買えるもんなんですねえ、へえー」くらいの反応で、なんとなく受け入れてくれる。おかげで日常の中にすんなり、異世界のモノが同居し始める
【転】しかし異世界のモノと現実世界との間で、なんらかの問題が起こる。そして「異世界のモノ」との別れの時は来るが、それは「いつかの再会」を約束しあっての、なごやかな別れになる
【結】主人公たちは日常に戻る。カッコつけた意味での「成長」ではないが、なんとなく、主人公たちがおおらかに、「フシギなこと」「珍しいこと」にも心をオープンにするようになった、という意味の「成長」が感じられて、物語が終わる

↑この起承転結の構造、「海賊たちの大パーティー」においてにせよ「足音がやってくる」においてにせよ、マーガレット・マーヒーの物語構成の「基本パターン」と言えるほど、彼女が毎回のようによく使うパターンではないか!それが『うちのペットはドラゴン』には凝縮されてわかりやすくなっているのでは、と思いました。

そしてこうやって分解したときに気づくこと。

これがマーガレット・マーヒーの作品からいつも感じる「あたたかさ」の正体かもしれない!→彼女の世界では魔女にせよ幽霊にせよドラゴンにせよ、「異世界から来たモノ」との遭遇が「隣の家に外国人が越してきた」くらいの、「珍しいけど、それほど緊張しすぎることでもない」という程度の出会いとして処理され、問題があったとしても最後には和やかな和解ムードに結びつく。

なんだか日本人にも通じるような「異界のモノとも結局はわかりあえるのだ!」感覚が彼女の特徴では?

いや、むしろ、日本のマンガや童話以上に「和やか」かもしれない。だって『うちのペットはドラゴン』にいたっては、

ドラゴンが大きく成長しすぎて、人間社会で面倒を起こすようになってきた

という問題が、なんとドラゴンのほうから「実は私も、最近カラダが大きくなりすぎてきたことを気にしておりまして。そういうことなら、ファンタジーの世界へ帰ろうと思うのですが、お手伝いいただけませんか?」とスナオに言い出してくる謙虚さから、解決に向かうのですから!

ドラえもんの長編でも、こういうときは

「いやだ!ドラゴンと離れたくない!」

「のび太くん!大人になるときは悲しい別れも乗り越えなくちゃいけないんだよ!」

うんぬんの、「のび太泣き」のひとつも挟む波乱があるものですが、マーガレット・マーヒーにはそれすら起こらないw。どこまで平和で愛くるしい世界観なのだろうと、このあたたかさがイヤミも恥ずかしさもなく出せてしまう作者の手腕に、嫉妬すら感じてしまうのです。マーガレット・マーヒー、恐るべし。



子供の時の私を夜な夜な悩ませてくれた、、、しかし、今は大事な「自分の精神世界の仲間達」となった、夢日記の登場キャラクター達と一緒に、日々、文章の腕、イラストの腕を磨いていきます!ちょっと特異な気質を持ってるらしい私の人生経験が、誰かの人生の励みや参考になれば嬉しいです!