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【私なりの怪談論】幽霊と妖怪の区分方法についてあちきにヒトコトいわせてください!

唐突ながら、稲田和浩さんの『怪談論』という本が好きです。

どういうわけだかAMAZONレビューでやけに点数が低い本なのですが(笑)、講談や浪曲といった日本の古典芸能の世界から怪談を説明しようとするスタンスが、現代の「怪談」イメージからするとなんだか縁遠く感じられるのかもしれません。

しかし(私のように!?)日本の古典芸能や民俗伝統の切り札として怪談・妖怪を味わいたがっている人間には、稲田さんの怪談論は、「我が意を得たり!」な論考な筈だ!ついでながら江戸怪談はやはり寄席で聞くべきですよ本当に!

しかし!!

てまえは不肖の怪談妖怪ファンにすぎませんが、ケチな市井の怪談妖怪ファンならではこそ、どうにも納得できねえことがありまして。そこには、恐れ知らずと言われようが、ひとつ、切り込ませていただきやすぜ。ハイ。・・・と、浪曲の任侠モノのノリを借りつつ、物申したいことがありんす!

稲田先生は本書の中で、幽霊と妖怪との違いについて、「目的があってバケて出てくるものが幽霊、目的が得にないのが妖怪」という意味のことをおっしゃっている。

いえ、この定義、便利なんですよ。なるほどなあ、と納得感があります。

ですがこれ、ちょっと私としては、考えちゃいました。微妙な境界線問題が残っちゃうんじゃないかと。

いえね、たぶん稲田先生は文学や芸能の中に出てくる「幽霊モノ」「妖怪モノ」を分類する目的でいる思うのでこれで十分なのでしょうが、あちきのような市井の「幽霊目撃談」「妖怪目撃談」のコレクターにはこれだけだとちょっと困っちゃうことがありましてね。

というのも。

深い怪談ファンならおわかりなハズだ。「最初のほうは、何の目的があるのかわからないけど、後から目的が判明する」怪異ってものが、けっこうあるんですね。

何が言いたいかというと、「目的の有無というものは、怪異を見た人間の検証しだい・解釈しだいで揺れるんじゃないか?」ということです。人間の側が目的を察してあげたか、あげられなかったで、同じ怪異が幽霊にでも妖怪にでも、なっちゃうんですよね。

このことは私を悩ませました。

悩まさせましたが、いったんの私は、結論を出してみました。

反対意見、異論、ブーイングがたくさんあることは百も承知で言いますよ。私の結論としては、

「同じ怪異現象が、体験者の解釈の仕方によって、幽霊と分類されることもあれば妖怪と分類されることもあり得るということ、これはあり得ることだ」というのが私の結論。

たとえば、同じ怪異が、最初は幽霊扱いだったのが、途中から妖怪扱いになるということも、認める立場を私は取る、ということです(そもそも私は、『呪怨』の伽倻子は、ビデオシリーズ時代は意味不明な妖怪だったが、映画になって出自と目的が明確になったときに幽霊に変わり、『貞子VS伽倻子』でまた妖怪に戻ったのだと思っています)。

これは「体験者の解釈に関係なく、異界のモノたちは幽霊だか妖怪だかがあらかじめ決まっている」と考える人とは対立するかもしれません。

いっぽう、私の如く、「怪談や妖怪は体験者の証言でどう報告されたかを徹底的に尊重すべき」という立場からすると、「同じ怪異でも体験者が違えば違うモノとして分類される」ということはたいして奇異なこととは思わない筈!

ここまで書いてみたら整理できてきた、、、!

怪異というモノは人間の解釈とは別に性質が決まっているという人は観念論的怪談派で、私のように「見た人・聞いた人の報告の仕方で定義はどんどん変わる」というのは経験論的怪談派なのだ!

で、私はどうするか?怪異が幽霊なのか妖怪なのかは、体験者がどちらだと思ったかを徹底的に優先したいと思います。この立場をとるがゆえに、私は幽霊や妖怪がどういうモノかを考察するよりも、「体験した人がどう感じ、どう記憶しているか」を、その感受性のレベルまでしっかり汲み取れる怪談妖怪好きでありたいと思います。

という、やや小難しいことを考えてしまった上での、今宵の結論は、、、

かような思考まで私を導いてくれた、稲田和浩先生の「怪談論」は、やはり私は決定的著作と思う、ということなのでした。それにしても「怪談」ひとつでこんなに語れることが沢山あるんですわ、日本文化の中で生きるというのは大変ですわ、しかし、やめられませんわ。


子供の時の私を夜な夜な悩ませてくれた、、、しかし、今は大事な「自分の精神世界の仲間達」となった、夢日記の登場キャラクター達と一緒に、日々、文章の腕、イラストの腕を磨いていきます!ちょっと特異な気質を持ってるらしい私の人生経験が、誰かの人生の励みや参考になれば嬉しいです!