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【紙の本で読むべき名作選#22】中上健次「紀州」で電子書籍を越えてゆけ!

戦後の日本人小説家としては三島由紀夫や大江健三郎などがしばしば言及されますが、私にとっては三島大江より遥かに敬愛できる人物がいます。中上健次です。私にとって、この人は別格です。

なんでこんなに文章が巧いんだろう、一生をかけてもこの人の文体は真似できまい、そんなふうに私を正しい絶望に導いてくれるのが中上健次。

そもそもこの人の文章は「文学をたくさん勉強しました」という秀才が獲得できる類のスタイルではありません。

「この人はこの文体を自分の生から引きずり出し、日々この文体と共に生きていた人なんだ」と感じられるものだから、迫力がある。鬼気迫る。

秀才が勉強して手に入れた文体は同じくらい勉強すれば模倣可能ですが、生き様の中から文体を編み出した人の文体は模倣できない。正確に言えば、模倣してもすぐメッキが割れるから、模倣することに意味がない

たとえていうなら、本当に複雑な家庭環境の中で苦しみながらも反骨心を叩き上げてきた高校生が、不良のファッションをして登校してきた場合と、ヤンキー漫画の影響を受けた高校生が不良のファッションをして登校してきた場合との違い。前者は怖がられつつも不良以外の子からもリスペクトされる。後者はファッション不良どうし以外からリスペクトを得ることはない。

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この作品、『紀州』は、そんな中上健次が和歌山県をドライブして回った感想を記した、旅行記です。

「さしもの中上健次作品でも、旅行記ならば、肩の力を抜いて読める本なのではないか」と勝手に予想し、自分の和歌山旅行の際のお供にと持っていったのですが、甘かった。

・被差別部落の人々にインタビューをしてシンパシーを感じ、
・大逆事件のことを追憶して、歴史の闇に葬られた和歌山県人たちに想いを馳せ、
・現代日本語にはそもそも、差別と被差別の構造がシステムとしてセットされているのだという恐ろしい認識を示し、
・天皇陛下を頂点にキレイにまとまろうとする「正しい日本語」に、和歌山の「闇の国のコトバ」をあえてぶつける意義を訴える

そんな壮大な視点に思考が向かっていく強靭な旅行記。中上健次自身が「真の物語とは切れば血が出るものである」ということを言っていますが、この旅行記自体、どこを切っても血がでてくる生々しさに満ちています。というか、中上健次はこの和歌山旅行の取材中に交通事故を起こしており、実際に死にかけています(本書の中にも事故の話が出てきます)。

「紀州のキとは、本来はきっと鬼の意味のキだったのだ」という見解を示す中上健次。でも私のような凡人には、中上健次さん自身が、何やら鬼のような存在に見えます。いろいろな意味でタダゴトな人ではない。

なによりも、私自身もあたりまえに使っている現代日本語というものが、そもそも明治以来の近代国家が必要とした為に作られた権威主義的なものであり、たくさんの土着方言や被差別者たちの言葉を犠牲にして作られた「てやんでい、と反抗したくなるようなもの」なのだという認識は、中上健次のこの本を読むまで夢にも思わなかったような(しかし言われてみるとたしかに鋭い)言語観でした。

その主張に賛成できるかできないかはともかく、読んだ後にそれまで思いもよらなかったようなところに「現代の問題」があるのだと気づかされ、考えさせられざるを得ない本。旅行記というジャンルでこんな迫力が出せるのかと圧倒されてしまいました。けれどもそんな中上健次もすでに鬼籍に入り。ひょっとしたらこれほどの文章家は二度と日本語圏には出てこないのではないでしょうか。なんだか寂しい。


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子供の時の私を夜な夜な悩ませてくれた、、、しかし、今は大事な「自分の精神世界の仲間達」となった、夢日記の登場キャラクター達と一緒に、日々、文章の腕、イラストの腕を磨いていきます!ちょっと特異な気質を持ってるらしい私の人生経験が、誰かの人生の励みや参考になれば嬉しいです!