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となりのとなりは私でもある

昨夜は眠りにつく頃、外で野良猫のケンカが開催されていたようで、鳴き声がすごかった。

高校の頃、教室のドアをちゃんと閉めないクラスメイトがいた。彼は教室に出入りするとき必ず引き戸を10センチほど開けたままにするのだった。
彼と私は普段会話する仲でもなかったから、そんな相手の細かい所作にまで意識を向けるはずもなく、最初は彼のこの癖に気付かなかった。
きっかけは、あるとき席替えによって、私が教室の一番廊下寄り最後方の席になったことで、それは冬だったのだけど、休み時間終わりに教室に戻ってきた彼が作り出す10センチの隙間から冷気が侵入してくるのを何度か繰り返すうち、この癖に気付かされた。
私はある日、ドアを閉めながら彼を呼び止め「ちゃんと閉めてよ」と言った。「いっつも微妙に閉め忘れてるから」
すると、彼はムッとするでもなく恐縮するでもなく平坦な口調で「ああ、ごめん」とだけ言ってから自分の席に着いた。私から見て隣の隣の席である。
それから授業が始まり、数分経ったとき小さく名前を呼ばれ見ると彼だ。椅子の背もたれを後ろに傾けて私の方へ顔を覗かせている。
「なんでかなって考えてたんやけど、俺むかしネコ飼ってたから、多分それで無意識にドアを少しだけ開けとく癖がついたんやと思う」
ネコが家の中を自由に往来できるように、ということらしい。
少しの時間を置いてからわざわざそんな申告をされるとは思っていなかったから、戸惑いつつも可笑しかった。
これ以降、私たちはよく喋るようになった。
かつて飼っていたというネコによって彼が得た習慣は他にもあって、例えば、彼は食事のことをメシと呼んだ。これは、食事のことを「ごはん」と呼んでいたらネコが「え! ごはんって言った!? 貰えるの!?」と自分の食事だと勘違いして興奮するようになり、それを防止するため、人間の食事をメシと呼ぶようになったらしい。

大学生になって一人暮らしを始めた彼の部屋に遊びに行ったことがあった。
まあ、普通のワンルームだったのだけど、一つ強く印象に残ったのが、風呂だけがやたらと汚かったことである。
水垢なのかなんなのか全体的にひどくくすんでいる感じがして、全く余計なお世話ではあるものの「妙に風呂汚くない?」とそのまま指摘した。一回ちゃんと掃除したほうがいいよ、と。
彼は恥ずかしがる様子もなくのんびりと「それは俺の視力が低いからかも」と言う。
お風呂に入るときは必ずメガネを外すから汚さを察知できず結果として掃除に至らない、という理論である。

少し前、久々に会ったとき、この学生時代の汚い風呂の話をすると彼は「懐かしいな」と言いながら、「今の家はもうあんなに汚くないよ」と笑っていた。
まだ会ったことはないけれど、彼には3歳の子供がいる。その子をお風呂に入れる際、浴槽で溺れるなどのアクシデントが発生してもすぐに視界を確保できるよう浴室にもメガネを持ち込むようになったらしい。
それに伴ってプラスチックのフレームではなく、お湯にも強そうなメタルフレームのメガネを選ぶようになったとも言っていた。
子供ができるというのはメガネがメタルになることなのだな。
それから食事のことも、子供が真似すると良くないという判断から、再びごはんと呼ぶようになっていた。ネコへの優しさというか気遣い由来の「メシ」がもう聞けないのは寂しく思わないでもない。


少しずつでもnoteをやっていると私の文章もちょっとはマシになってきて、出来ることも増えてきた。今回の話なんか、冒頭の野良猫のケンカより下は全て作り話である。こんな友達いない。モデルとした人物もいない。
野良猫の声を聞きながら、ためしにネコの話でも書いてみるかと思い立ち、ネコを飼ったことなどないけれど、ネコとの暮らしあるあるみたいなものを勝手に想像することからやってみた。
子供ができるとメガネがメタルになるというのは、想像にしては生活というものの質感があって結構いい感じではなかろうか。気に入っている。

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