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202202_全く関わりのなかった誰かの個人的なもの

noteの下書きに2022年の下書きを見つけた。
今になって見返すとちょっと恥ずかしいなと思う内容がほとんどで、今ならこういう書き方はしないなと思うことばかりである。裏を返すと今はもうかけない文章でもあるわけで、そういう意味ではその時しか書けないものでしたねと。とまぁ、そんなこともありましたねということで、2年半くらい前の日記。


「つくること」が好きである。


これを自分自身でちゃんと認識して、自分で何かをつくるということをし始めたのはおそらく3年前くらいだろうか。
「つくる」という行為は非常に抽象的だし、何を作るのかという対象も無限と言っていいほどにある。
料理をつくる、ネタをつくる、曲をつくる、詩を書く、写真を撮る、ロゴマークをつくる、具体例をあげるとその幅の広さにびっくりする。
デザイン・創作といった言葉にも「つくること」は近しいものがある。

「つくる」ことに関して、そのジャンルというよりは、個人性、その人らしさ、その人がやる意味、やる中で感じる手触りみたいなものに自分は関心がある。

結果として課題を解決することはあっても、目的として、課題を定めそれを解決するわけではないこと。
特定の誰かの要求に応えるのではなく、自分自身に純粋に応答しているもの。
自分で立てた問いに自分自身で挑んでいるもの。
作り手自身がやらずにはいられなかったもの。

そういう物凄く個人的なものに心を震わされたり、胸ぐらを掴まれたり、やさしく包まれたり、そういうものがお守りになったりする・してしまうことがある。

わかりやすく誰かのためになること、他者の要求に応えることではなく、自分自身に対峙し続けること。一見すると、およそする必要のない、無駄とも取れる行為かもしれない。
ただ、それをやらずにはいられない感覚。それを通してしか得られない手触り感。
つくることを通して、それを感じること。
(知ることとつくることが本質的に異なるのかどうなのかは、別途考えたい。)

そんな、まだ見ぬものを求める欲求のようなもの、そういった個人的な創作へと我々を突き動かすのか。

「全く関わりのなかった誰かの個人的なものが自分に掴みかかってくる」
そんな瞬間を生み出せることは「つくること」が成せることの一つかもしれない。

作り手の願いが意図せずに誰かに届いてしまうようなボトルメールに近いような。

✳︎

他者の要求に応えるわけではなく、自分との対話の一つの結果として創作をすること、何かをつくることに自分は意義を感じている。
それがアートと呼ばれるか、デザインと呼ばれるかと言ったのは、あくまで周りからの見え方にすぎない。

創作にも少なからず、自分を差し出す部分はある。もちろん自分の全てが創作したものに現れるわけではないし、自分の全てを差し出すような人もいれば、うまく距離感を取れる人もいる。

ただ、僕自身は未だに中々距離感を取れずにいる。
『最も個人的なものが最も創造的なのだ』
ボン・ジュノ監督がアカデミー賞の壇上で述べたマーティン・スコセッシの言葉は、自分自身を作品に投げ込むことを表している言葉のように感じる。

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2/11(木)、MOROHAの武道館ライブに行った。
開始数秒で僕は号泣してしまった。
小さいライブハウスでのライブはみたことがあったが、武道館のような大きい会場でのライブに行くのがはじめてだった自分は、行く前から気持ちが興奮していて、とても楽しみにしていたイベントの一つだった。
小さい頃なら、学校での遠足やディズニーランドなど、楽しみなことがある前日はウキウキして眠れないタイプだったが、わりかしすんなりと寝れてしまった。着実に大人になってるのかもしれない。

MOROHAはジャンルで言うと、ヒップホップが近いのかもしれないが、彼ら自身が、

ヒップホップもロックもジャンルじゃねぇ
それは魂の名前だ 
(MOROHA『革命』より)
と言っているように、ジャンルで語るようなものではない。

1アコースティックギター・1マイクロフォンで音楽をつくりあげているそれがMOROHAだ。
MOROHAについては全くもって紹介しきれないので、文末に記事をいくつか
添付しておくことにする。

MOROHAについて、どこが刺さっているのか、長い間ピンとはきていなかったが、ある日ふと腑に落ちることがあった。


「自分の身に覚えみたいなところに素手で触れてくるもの」
-どういう音楽が好きですか?
というインタビュアーの問いかけに答える中で、アフロさんはそのように言葉を発していた。

あ〜〜〜、そうか、なるほどなと。
それは言わないでほしい。そんなことはわかってるんだ、言わないでくれ。そんなことをMOROHAは真っ向から放っている。
これは正直言って、相当恥ずかしいのではないかと思う。
自分の素を言葉にするのは相当に恥ずかしい。

言い訳ができないことはとても苦しい。言い訳を常に用意しておくことで自分の言いたいこと言うという工夫は可能である一方で、自分の身体、その生身を直接曝すようなそんな言葉や行為は脆くて、鋭い。


この世の創作の大部分は知らない人がつくった知らないものだ。
でも、知らない誰かが書いたものやつくったものでも、それが偶然に自分のところに届いてしまうことがある。
起こった事象だけに着目すると、これは単に誤配と言えるかもしれないが、作り手にはやはり何かしらの願いがあるように思う。
得体のしれない誰かから、得体の知らない誰かへの願い。

そんな、無謀な営みに僕たちは身を捧げている。
今の自分が恥ずかしいと思えるくらいのものをつくったりしていけるように、なんとかやっていきたい。
やっていくほかない。

本日の誤配リスト

※タイトルや内容、文体はすべて当時のままです。

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