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#4 名前のないあそび

大都会で生活していてよく思うのが「東京には何でもある」はホントだけどホントじゃない、ということ。

確かに、東京にしかないお店は数多くあるし、繁華街へ出たら、お店の多さ、ひいてはモノの多さに圧倒される。

それなのに、どこか日々の中で「足りない」という感覚を抱いてしまうのは、きっと私だけではないはず。これは、いくら足そうとしても満たされない、という方が適切かもしれません。

いくら東京に住まうといえど、いやむしろ、東京に住まうからこそ
「日常は大体スーパーと百円ショップにある」と私は思っています。
それは、これらが人々の「暮らし」の拠点だから。

どんなにお金があっても繁華街での消費で衣食住、暮らし、すなわち文化のすべてを担保することはできないはず。というのが、私の意見です

(ちなみに私は、田舎×ショッピングモールの(=アメリカ的?)街で、文化で育ちました。これもまた、一考の余地があるでしょう。)


さて、そろそろタイトルに付けた「名前のないあそび」の話をしたいと思います。

都心のど真ん中で生まれ育つ子供たちがいます。いや、それは言うまでもなくいるんでしょうが、ともかく、私は大学生になってそんな子供をこの目でよく見るようになったのです。

このビルだらけの街で生まれ育ち、整えられた綺麗な公園で遊ぶ子供たち。当然なのかもしれないけれど道端にチョークで文字を書いている子はいないし、ドッジボールをしている子も、かくれんぼをしている子もいない。子どもだけでブラブラしている様子も見かけない。

住宅地で同年代に囲まれて育った私は、名もない道端も、階段の踊り場も、神社の裏の森も遊び場にして、よくわからないルールで、勝手に走り回って転んで、、
小さなことが許せなくてムキになって喧嘩して
身体を使って、全力で面白がって。

振り返れば、かなり遊んだ小学生時代だったと思います。

そんな私は、大都会に生まれ育つ彼らをみて

「遊び」までもが消費するものになって、主体性を奪われてしまったら
「私」はどうなるのだろう。

と、少し怖い。

私は児相の一時保護所で夜間指導員の仕事をしています。そこで出会う子どもを見ていて感じるのは、育ちのいびつさがあるのは前提として「遊ぶ力が弱い(小さい)」こと。

遊びは与えられるものではなく、自ら生み出すもの。

遊ぶ、遊べるということも、子どもにとって当たり前ではないのです。
ただこれは間違いなく先天的なものではなく、後天的な外的環境により子どもが育てられた結果です。

遊ぶ力を育てるためには、きっと、遊ぶことを子どもに委ねる勇気とか覚悟とかが必要なんじゃないか。

「名前のないあそび」が、勝手気ままに、その辺で見守られる世の中でありますように。。

うまくまとまらないケド、今回はこの辺で。


今日、初めて日本円をユーロに換金しました。友達に聞いた新宿の両替屋に予約して、寮費と現地で現金が必要な時のためのお金、しめて10万5千円をATMで下ろして。取り出し口から出てきた紙の束、その存在感たるや。さっと財布に納めて駅へ向かいます。なんだか気持ち、すこし早足。定刻通りお店に着き、受付へ。

ついに、初めてのユーロ紙幣とのご対面、、!!

「ほんとに10万がこれになったのか」

…誠に申し訳ないことに、第一印象は得も言われぬ驚きでした。なんか、こう、シンプルなのは良いのだけど、、、
諭吉の威厳はもうそこにはいませんでした。。。



今日も一日お疲れ様でした。そして2024年2月20日のおいもを読みに来てくれてありがとうございます。
私はついに、明日夜出発します。とりあえずパッキングをさっさと済ませて、ミラノとジェノヴァのグルメと歴史などなど頭に詰め込んでいく所存。!

Ci vediamo!!


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