汚い言葉と空虚な言葉
そうだ、昨日の日記書いてないと思い出して今日2個目の日記。昨日は日帰りで福井の高浜町へ。日本海とは思えない美しいビーチがあり、スーパーには魚1匹まるまんま売っている。小さな町だが、この名前を伝えると誰もが「原発の…」と言葉を濁す。
僕も最初、話がきた時に同じことを思い浮かんだ。食わず嫌いはこの仕事で一番よくないので昨年末ぶらっと車で1時間半。いろんな会話をしながら遊びに行った。ひとまず見に行こう。それが僕らのポリシーだ。
ネガティブなイメージが先行すると自分の目や耳、体や心で感じることをシャットダウンしてしまう。それが一番危ないことだったりする。北海道から京都へきて、ANTEROOM KYOTOや崇仁新町に関わる中で「あの地域は…」とリアクションされることがめちゃくちゃ多かった。
でも、僕らはそこで実績を残せた。多くの応援があり実現したことであり、京都市内と崇仁地区で何が違うか?と言われたら、崇仁の方が飯うめーわだった。市内の方が僕を大いに退屈させていた。
それと同じように誰かが人の悪い噂を僕に吹き込むのも嫌いだ。
良いか悪いかは常に自分自身で決めることであって、あなたが嫌いだから僕も嫌いにならねければいけない道理が嫌いだし、そう仕向けるようなコミュニケーションが悪口だと思う。それはヘイトスピーチと変わらない。個人的な感情の押し付けだと思う。
原発に頼らずこの国の暮らしを成立させることはできるだろう。でもそれは今すぐにはできない。それを誰もが知っている。子育てをしている身として、彼らの未来をできるだけ安全に可能性あふれるものにしたい。それはどの親でも思うだろう。
多くの人が偏見を抱く状況に対して、全然気にせず素手で掴む。
それ危ないですよ…なんていうのはフグを自分で捌くわ!ってときくらいにしか耳を貸さない。全ては自分を通じることでしか判断できないから。そして、一緒に体験した人とどうだったかを議論したい。ビビって近づかない人の言葉に耳を傾けるのは壮大な人生の無駄だ。
アイデアというすごく個人的な視点の提供と価値の見出しで仕事をしているからだと思うが、自分を信じていないと成立しない仕事だ。不安な顔したプランナーのアイデアなんて誰が買うのだろうか。
そういう意味で僕は僕を信じている。ちょっと太刀打ちできず困ってるという人がいれば実際に会って判断する。明日も遠く鳥取から京都まで飲みにきてくれる相談者がいる。今日も東京からわざわざ関西まできてくれる人がいる。良いかどうかは自分で決める。それらを実感の伴わないイメージや事前情報で処理するのは愚の骨頂である。
猫を買ったことのない友人がいた。よくつるむ仲間だ。
僕の家には猫がいっぱいいて、果てしなく可愛い。疲れた心を癒してくれる。絶対家族に迎えるべきだと酔っ払って色々話していた。
そんな彼が猫を引き取った。それも2匹も。それで彼が言ったことは「すばるさんのいってることわかりましたわ。やばいっす」だった。何事も(猫を飼うことも)自分の体験を通じてでないと本質的なことはわからない。
「ムッチャ言葉悪いっすねw」と言われることが多い。初対面の人とか。
簡単にいうと「そりゃクソだな」とか、「美味しい」と言えば良いのを「くそうめぇ」とか。ただただ語群が少なく感情的なだけではあるが、言葉は悪いがそこに込められている想いはクリーンだ。オブラートと語群を持ち合わせていないだけ。
僕は自分では手を触れず「危ないですよ、よくないですよ」という人が嫌いだ。お前が一番危ないし、よくないなと思う。どんな人も好きだけど、唯一こういう人は苦手で距離をおく。届く言葉全てが汚れているように感じるから。僕のローアイキューでゼロオブラートの言葉より、ずっとずっと汚いと思っている。そこには自分の言葉もなく、思いもなく、空っぽの言葉だから。言葉ってのは、全部伝えてしまうんだぜと思う。その空虚さがあなたそのものだと思うから、酔っ払ってない限り適当なことは言わないようにしている。
いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。