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遅れてしまった日本の教育

時代は、society5.0。

society(ソサエティー)5.0とは、サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステム社会
狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、情報社会(Society 4.0)に続く社会

1990年代のインターネット・携帯電話などから情報社会が始まり、2016年にsociety5.0が閣議で決定されるまで、わずか26年。それ以前の日本の工業社会は1890年から始まったとすると、1990年の情報社会まで100年。

だいぶ社会の変化はスピードが速くなった。

“教育と社会は両輪”

これは、こたえのない学校代表理事の藤原さとさんの『探究』にある言葉です。

著者が色々な国に行って思ったのは、教育だけが素晴らしくて、社会がよくない、というのを見たことがないし、教育がひどいのに、社会が素晴らしいという国もない、ということから浮かび上がった言葉。

この本はジョン・デューイというアメリカの哲学者の言葉で始まります。

“昨日の教え方で今日教えれば、子どもの明日を奪う”


約30年前の1990年代に比べれば、「子どもを真ん中」においた教育を取り入れている学校もないことはありませんが、公立の学校教育は未だに一斉授業です。

前回ご紹介した『2030年すべてが「加速」する世界に備えよ』の「教育の未来」には、

現代の教育システムはまるで現代的ではない。今とは違う世界のニーズに対応するため、別の時代につくられた制度だからだ。
つまり、18世紀半ばのアメリカで標準化された「製品」をつくるための工業的教育制度。
テストという名の品質管理によって、社会のニーズに合致した若者が育っているかが随時確認された。社会のニーズとは「従順な工場労働者」だった。

この教育は、ついていけない、いわゆる落ちこぼれ(言葉は悪いが...)と、退屈する、いわゆるふきこぼれを生む。

授業参観で授業中の子を見ていると...

・先生が黒板に書いている間
・みんな同じ課題を与えられてもう終わってしまった子
・「わかる人は手をあげて」と言われて、そもそも発言したくない子

この授業を有意義なものにできる子は何人いるだろうと思ってしまう。

さらに「教育の未来」の章は続く、

子どもたちを一括処理するというのは教育的には大失敗だ。
生物学的原理に照らしても明らかで、誰もが違うようにできている。先天的、後天的の両面で、私たちは違う個性の持ち主であり、全員を夢中にさせ、最大の学習効果を引き出すような画一的手法などあり得ない。

先日、年長さんのある双子の姉妹に、「なんで海は青いのか?」などなど、「なんで○○○?」に、本当の正解でなくても、自分なりの答えを持つ、という目的でお題を出した。

その際に双子の姉妹も、「なんかかきたい!」と言って、紙にお題を書き始めたのだが、姉は真似が上手なタイプで、ひらがなを書いている。妹はじっくり考えるタイプで、ひらがなが書けなかった。

この姉妹、絵を描くと、姉は少し描いて、飽きて他のことがしたくなる。妹はじっくりいつまでも絵を描いているなどの個性の違いがある。

この2人に画一的な手法の授業をしてたら、個性は見逃されるだろうと感じた。

そして、この画一的な授業の結果、アメリカの高校では・・・

大失敗という根拠は、2015年のアメリカ教育省調査で、1日あたり7000人の学生が高校を中退している。この半数以上が中退の最大の理由として「退屈だから」を挙げている。

日本では、周りの目を気にしたり、周囲と合わせるという性格的特性があるので、中退する割合はそこまで多くはないが、大学受験を見事合格した大学生の平均勉強時間が小学生の勉強時間よりも短いというある調査結果をみても、高校までの勉強が強制的にやらされているという感覚を、ほとんどの方が感じているのではないだろうか。

さらにジョン・デューイは言う

“教育は人生のための準備ではなく、人生そのものである”

子どもの明日を奪はないように、子どもの人生に寄り添い、耳を傾ける教育が必要だ。



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