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経済と教育

「経済」と「教育」。一見、さほど関係がなさそうなことだが、今日はこの2つを成長期の日本と成熟期に入った日本という視点でみていきたい。

1、成長期と成熟期の経済

4月18日中日新聞の視座で同志社大学の浜矩子の記事から

戦後は当時はGDP(国内総生産)ではなく、もっぱらGNP(国民総生産)が経済動向の尺度であった。だが、指標はどうあれ、あの時代は日本の経済規模とその成長ペースが人々の大いなる関心の対象だった。
日本経済の発展段階が大きく変わった。かつて、日本経済が成長期にあった時代には、その経済規模がどのようなペースで大きくなるかが社会的な注目の的だった。それは当然のことだった。だが、今の日本経済は伸び盛りの成長期の只中にあるわけではない。その時代は卒業した。今の日本経済は、とても大きくてとても豊かな成熟経済だ。
「後進国化」しているという言い方が流行り始めた。重要な指摘だ。だが、もしも日本経済が「後進国化」しているだとすれば、それは、日本経済が成長できなくなっているからではない。それは、この豊かな成熟経済が、その豊かさをうまく分かち合えていないからである。
今日の日本のGDPは、その規模と伸び方が問題なのではない。その分配の巧拙が、人々の景気実感と幸福感を決める。

2、成長期と成熟期の教育

これを教育環境に当てはめてみると、今まで続いてきた画一一斉授業は、より学力の高い大学、高校に入るために、中学校では学力テストに順位をつけられ、上を目指すことが良いこととされてきた。

確かに、戦後貧しかった日本が経済的に成長し国民の豊かさを取り戻すためには、そのような世の中の風潮から、教育現場にも上を目指すことを良しとする感覚が生ずるのもやむを得なかったのかもしれない。

しかし、社会全体ではなく、個人に目をやれば、経済的に満たされた生活を送る人がいる一方で、ぎりぎりの生活をしている人を生み出した。学校教育においても全ての子どもに同じ教育を課すことで、「いわゆる落ちこぼれ」が出ることも黙認された。

勝手な想像かもしれないが、「ぎりぎりの生活者」や「いわゆる落ちこぼれ」(言い方に問題があるかもしれないが、決して下に見ているわけではない)が小学1年生で入学した時、すでにそうなることが予想できたとは到底思えない。義務教育の画一的なやり方に馴染めなかっただけではないか。

成熟した経済、誰もが自分の興味のあることを探究しようと思えば調べることができる情報化社会における教育。浜先生がおっしゃるように、経済がその豊かさをうまく分かち合うことが人々の景気実感と幸福感を決めるように、教育もその豊かな情報資源をうまく活用し、競争をやめ、それぞれの子どもたちが求める教育資源を分かち合うことが、これからの社会を生きていく子どもたちの幸福感を高めることになるのではないか。

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