『バーバパパのがっこう』 絵本#2
子どもでなくても、バーバパパ家族のユニークなアイデアと、何にでも変身して遊ばしてくれる世界は、本当にあったらどんなにか楽しいだろうと感じるアラフィフも私だけじゃないだろう。
バーバパパと一緒にはじめて学校に行く双子。
ところが学校は荒れ放題。
「いたずらっこどもは、おんがくが すきらしいね。バーバララとバーバブラボーの おんがくを、よろこんできいている。」バーバパパは、そう きづきました。
バーバパパは子どもをよく観察していた。
「こどもは、びしびししつけることがかんじんだ。」おやたちが、くちをそろえていいました。
「そうだ、そのとおり」
おまわりさんもいいました。
でも、バーバパパは はんたいです。
「こどもは、たのしみながら べんきょうさせてやらなくっちゃいけません」
バーバパパは、みんなにいいました。
「おんがくがすきなこどももいるし、とりやどうぶつがすきなこどももいます。そんなじぶんのだいすきなことを べんきょうするのなら、きっと、よろこんでやりますよ。」
とバーバパパ。その後はみんなそれぞれ自分の好きなことを楽しんでいる。楽しみついでに、さんすうも、こくごも勉強している。
こどもたちは、がっこうで、たくさんのいろんなことをべんきょうしました。だけど、何よりもすばらしいのは、みんな、みんな、たのしく しあわせにやっているということです。
この本が書かれたのが1970年、フランスで発売されたそうだ。この時代も、そして著者のテイラーさんとチゾンさんの子ども頃の1940年頃も、学校教育には少なからず問題があったのだろう。
『創造性が育つ世界最先端の教育 CREATIVE SCHOOL』の著者ケン・ロビンソンは1950年にリバプールで労働階級の大家族の一員として育ち英国の無償の公教育の制度のお陰で今の人生が送れていると言いながらも、
あまりにも多くの人々が何年にもわたる公教育から受けるべき恩恵を受けていない。学業優秀者の成功は、その他大勢の犠牲のもとに成り立っている。教育標準化運動が盛り上がりを見せる中で、成績不振の代償を背負う生徒はますます増えている。
と、当時の教育環境と、不確かな未来に直面している今も変わらない教育環境に警鐘を鳴らしている。
日本においても1960年代のある本に、こう記されていた。
親たるものが、まず努めなければならないことは、子どもの感受性や気持ちを理解してやることである。
その努力をしないで、頭からピシャリと押さえつけ、常識のワクの中に、子どもをはめこもうとする。これでは子どもの独創の芽をつんでしまう。子どもを、凡庸にしてしまう。そんな教育は、むしろ無用である。有害でさえある。
だが、それに気づかぬ頭の固い人たちが案外多いようだ。彼らは、子どもの個性を伸ばすことよりも、とりしまったり、押さえつけたりすることのほうにばかり、力こぶをいれる傾向がある。こんな連中のやっている教育では、十ぱひとからげの人間しかできない。せっかくの天才を、凡人に終わらしめ、最大公約数的な人間ばかりつくりだす結果になりかねない。
と危惧していた。
哲学者・教育学者の苫野一徳先生も、「日本では、学校や教師主導じゃないと動かないシステムを150年間、変えずに続けている」と訴え、『「学校」をつくり直す』や『教育の力』で新しい教育のあり方を提言されている。
コロナ禍で学校のあり方も、今が本当の転期を迎えているのではないか?
バーバパパのがっこうとまではいかないまでも、子どもたちを1人として残さずよく観察して、楽しんで学べる学校が必要だろう。
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