今、社会は本当に生きづらいのか

これは先週(3月8日)、世界女性デーに、SNSに書いたことに端を発します。

この少し前、オンライン会議である女性と話しました。
この方は、愛知県の地方都市、まあいわゆる過疎地域の役場に勤めながら、女性として、お母さんとしてできることなどに取り組んでおられる方でした。この方が、田舎に暮らす女性が集まる場を作ったところ、多くの話が出て驚かれたそうです。
このとき、話の中で「田舎はまだまだ古い感覚が根強く残っていて、女性が声を出しづらい」というものがありました。

これは田舎に限ったことではありません。
僕が住んでいるのは名古屋市内の住宅街ですが、町内会の役員会に母が参加すると「何で女がいるんだ」と、あからさまに言った人がいたそうです。
また企業などでも、古い慣習や、それに基づく感覚が残っているのを、しばしば目にします。

僕の大学院での指導教官は女性で、経済学だけでなく女性論でも著名な方でしたので、僕も少し学びました。このときの会議で、僕は女性論の話をしました。
それは、「女性の権利を確立するためには、男性を古い男性社会から解放する必要がある」というものです。

この考えは、僕が大学の教員になった頃、2000年代に入った頃には、少し古い考えだと言われたことがあります。しかし社会や企業を見たとき、僕はそうは思いません。
あらゆる、とまでは言いませんが、今でも多くの場で、女性の進出を阻んでいるのは、男性の立場やヒエラルキーを維持するための仕組みだと感じるからです。そしてそれが、あたかも正しいことと、疑いもしない人がいるからです。

実際に、会議でこの話をしたところ、当の女性が大いに納得しておられました。

さて、今回のテーマの話に移りましょう。

今、『不適切にもほどかある』というドラマが人気になっています。僕も、最初の数話を観ました。
若い方からすれば、考えられない面白い話かもしれませんし、昨今の風潮が気に入らない方には、痛快に感じるかもしれません。感じ方は色々あると思います。

こうした中で、時々「昔は許された」という言葉を聞きます。僕はこの表現が好きではないのと同時に、違和感を感じます。

この言葉を聞いて、僕はまず「許された」のではなく「咎められなかっただけ」だと思っています。昭和の時代でもイヤな思いをしていた人はいたのだけど、文句を言えなかっただけなのではないてなしょうか。
例えば僕は交通経済学の研究をしていました。この学問で考えられていること、将来こうなるべきという考え方は、おそらく今の人が聞いたら「そこまでしなくても」とか「そんな世知辛い」と言う人がいるであろう内容ですが、いつかは社会は変わります。今の人達も、将来「昔は許された」と言うことになるでしょう。
次に、少し卑屈っぽく聞こえるかもしれませんが、「許された」ということは、昭和の時代でも本来は「許されないこと」、「良くないこと」をしていたというこで、それを認識していたことになります。

例えば僕の恩師達が、人柄を顧みるに、「昭和だから許されたこと」をしていたとは思えません。これは結局、それぞれの人の、良心や道徳観によるものだけだと、強く感じます。

僕は周りから、よく「生真面目な人」と言われます。自分では全くそう思いませんし、かなりだらしなかったりもします。
僕は今の世の中が生きづらいなんて全く思いません。話のネタで口にすることはあっても、世知辛いなんて思ったこともありません。
ただ、もし僕が大学を卒業して、そのまま社会に出ていたら、違っていたかもしれません。なぜなら今の僕の考え方や価値観は、学問研究、つまり恩師達の教えに多大な影響を受けているからです。

つまり文字通り、「教育の賜物」というわけです。

だから僕は、今の世の中が生きづらくなったのではなく、今だに今の世の中を生きづらいと「感じさせる」言動をしている人がいるのだと考えています。

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