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【7/15頃発売!】『恋する少女にささやく愛は、みそひともじだけあればいい』期間限定増量版試し読み公開!!


2024年7月15日頃発売予定のGA文庫大賞《金賞》受賞作
『恋する少女にささやく愛は、みそひともじだけあればいい』
本文の一部を公開!
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【恋もじ 増量版試し読み公開、感想ポストキャンペーン開催中!!】https://ga.sbcr.jp/bunko_blog/sawao/20240620os/

※本文は実際の製品版とは異なる場合がございます。あらかじめご了承ください。



『恋する少女にささやく愛は、みそひともじだけあればいい』


 [詞書ことばがき] 十一月三日 文化の日の夜に

『明日のお題ですが、〝恋愛〟にしたいと思います』
『え、またかよ』
 私立京英学園しりつきょうえいがくえんに通う高校生、大谷三球おおたにさんたには仲間がいる。
 夏の終わりにはじめた新しい趣味を、ともに楽しむ年下の女友達だ。彼女とはその頃に知り合って以来、毎日こうしてアプリのDMでやり取りをしている。
『仕方ありません。先輩の作る短歌には、えと……そう、情緒というものが足りないのです。読んだ人がきゅんとしてしまうような恋の歌を作って、そのあたりの力を養ってください。師匠の指示は絶対です』
『職権濫用してないか』
『何を言いますか。適切な指導です』
 そしてその仲間は同時に、サンタの師匠でもある。
 ずぶの素人だった自分に一から丁寧に教えてくれた、お節介でお人好しな短歌の師匠だ。
 ただその指導法については、サンタにも物申したいことがあった。
 最近とある出来事を経てからというもの、お題が偏りすぎているのだ。
『理由はわかったけど、にしても恋愛の出番が多すぎるだろ。もう少しいろんなお題を出してもいいんじゃないか』
『今日のお題は〝雨〟だったじゃないですか』
『そうだな。昨日と一昨日はどっちも〝恋愛〟だったけどな』
 つまり今週のローテーションは、恋愛・恋愛・雨・恋愛。さすがに酷使の度合いが過ぎる。だいたい人がきゅんとするようなものを作れと言われても、お題に沿って作った短歌は、今は師匠にしか見せないことにしている。ということはつまり、出来上がるのは特定の一人にだけ贈る恋の歌。あくまで添削をしてもらっているだけだとはわかっていても、どうしたって照れが先にきてしまう。送信ボタンを押してから、頭から布団をかぶって叫んだことも一度や二度ではないのだ。
「今日という今日は押し切られないからな」
 だから今回こそはお題を変えさせようと、サンタは真剣にスマホの画面を見つめた。
 恥ずかしいから嫌だという理由を悟られないように、どんなお題でも扱えるようになりたいという嘘の熱意を文面に起こしていく。だが渾身の言い訳を書きあげて送信ボタンを押す寸前、不意に着信を示すアイコンが表示された。
「……もしもし」
「あ、えと……こんばんは。その……やっぱり先輩はこのお題で練習するのには抵抗がありますか……?」
 聞こえてきたのは、本気でしょんぼりしていそうな弱々しい声。画面の上ではあんなに自信満々で威張っていたのに、直に触れあうとすぐにこれだ。
 マイクに拾われないよう、喉元まで出かけていた溜め息を飲み込んで、サンタはぐしゃっと頭をかいた。どんな言い訳も作文も、たったこれだけで無意味と化すのだからずるいとしか言いようがない。
「……わかったよ。ししょーの指示は絶対だもんな」
「あ、ありがとうございます。じゃあ待ってますからね! 先輩が本番で失敗しないように、わたしでいっぱい練習してください……!」
 たぶんこの先の人生において、短歌で想いを伝えるなんて特殊なシチュエーションに出くわすことはないだろう。そんな当たり前のことを思いつつも、サンタは了承の意を伝えて電話を切った。
 俺に短歌を教えてほしい。
 元々そう頭を下げて頼み込んだのはサンタの方だし、何かを創れるようになりたいのであれば、恥ずかしいなんて感情が邪魔なことくらいわかっているからだ。
「はあ~……」
 ベッドに頭から倒れこむと、さっき飲み込んだ溜め息が全部出てきた。頭の中では、待ってますねという弾んだ声が、まだ延々とリフレインしている。
 まったく、夏の時分には考えられなかった展開だ。
『なあ……。女子ってなんでそんな恋愛の話が好きなんだ?』
『別にわたしが好きだから選んでるんじゃありません。でも一般的に和歌や短歌と言えば恋の歌と、古来より相場が決まっているのです』
『あっそ。じゃあこれも一般的な話なんだけどさ』
『はい』
『三十一文字だけあればいいのか?』
 思わず聞いてしまったその問いは、前置きしたとおりあくまで一般論としてのもの。
 特定の誰かに向けての問いかけではなく、たまたま世界のどこかの少年が、文学や短歌が好きな女の子に想いを伝えたくなったとしたら。そんな仮定の話でしかない。
 だというのに彼女からの反応はそれきりなくなってしまい、おかしなことを聞いてしまったという後悔だけが胸に残る。

『許します ただし十万文字分の 想いがそこに込められてるなら』

 とても主観的で、なぜか少し上から目線の返事が届いたのは、それからだいぶ後のこと。ちょうど寝床に入ったサンタが、明日のアラームのセットをしていたときの出来事。
 歌の意味を考えて悶々としたまま目を閉じると、いろいろあった夏から秋のことが思い浮かんでくる。
「十万文字、ねえ……」
 結局サンタは眠りにつくまでの長い時間を、その思い出とともに過ごした。それがますます入眠を妨げる行為だとわかっていても、自分ではどうしようもないことだった。

 初句

 九月一日

 1

 一日が日曜日と重なったことで、九月にまではみ出してきた夏休みの最終日。
「ふーふふふーん、ふふふふふーふふーん」
 ふと聞き慣れたリズムの鼻歌を耳にして、サンタは思わず足を止めた。
 場所は、三年ぶりにやってきた図書館のエントランス。
 曲は、夏の甲子園の大会歌である『栄冠は君に輝く』。
 声の出どころはというと、壁際の椅子に座っている初老の男性だ。
 見たところその男は、まるで自宅の居間にいるかのように野球の配信にのめり込んでいた。小さなスマホから発せられる音量はかなり大きいが、わざわざ注意しようという暇人もいないようだった。
 そんな中でサンタだけが、抗いがたい誘惑に惹かれて近くの椅子に移動する。
 場面は六回の裏で、ワンアウト三塁。
 ピッチャーはここまで投げぬいてきたエースであるのに対して、バッターは七番打者に送られた代打の三年生。
 実況の音声から情報を整理し、頭の中でテレビのように情景を思い浮かべたその瞬間。
「スクイズーッ!!」
 アナウンサーの絶叫が、エントランスに一際大きく響き渡った。
 サンタにとっては、その一言だけで十分だった。
 見なくともわかる。サードランナーはきっと抜群のスタートを切っている。
 ピッチャーは飛びつくようにして弾む球を掴み、グラブトスでキャッチャーに球を返す。
 ヘッドスライディングに対してのタッチプレイ。ホームベース付近にわずかに土煙があがる。
 一瞬の間。
 真っ黒に汚れたユニフォームのランナーが、球審のコールを求めて顔を上げる。
 審判の手が動き、そして――
「あーっと! アウト! アウトです光陰高校! スクイズ失敗!」
「……はっ」
 その一連の流れを完璧に脳内で再生しながら、サンタは無意識に顔を歪めていた。
 わざわざ立ち止まったのは自分なのに、これ以上はとても聞いてなんていられなかった。
 無意識に漏れた声がため息なのか、それともやっかみからくる悪態なのか、それすら自分ではわからない。ただ配信の音声から受ける苦痛の度合いが、メンタルの耐久力を上回ったことだけが確かだった。
 最悪の気分でその場を後にし、ポケットからスマホを取り出して時計を見る。
 だが腹立たしいことに、画面にはプッシュ通知で第一試合の結果が表示されていた。
「クソ……ッ、なんなんだよこれ」
 苛立ちを声に出して思わず天を仰ぐ。
 振り返ってみれば、抜け殻のような夏休みだった。
 夏休みどころか、これからの学校生活にも夢も希望もなかった。
 その発端となった五月のあの打席のことを、サンタは今でもはっきりと覚えている。
 マウンドにいたのは、同じ一年。将来のエースとも目されている小糸。そのライバルと打席で向き合っていたのが、他でもない自分だったのだ。
 それは一年としては異例中の異例の出来事で、監督から「お前らちょっと来い」と直々に言われての対決だった。
 そこでアピールに成功すれば、今頃は上級生と同じステージで野球をやれていたかもしれない。だがそんな部内選抜とも言える大切な打席は、サンタの技術不足であっさり決着がついた。
 始めてからしばらくのうちは、打ったり打ち取られたり、それなりの勝負をしていたのに。お互いの手の内がわかってきたかなという頃合いになって、サンタが大きなへまをした。
 小糸最大の武器である外に逃げる変化球を警戒するあまり、鋭く内角をついてきた速球に差し込まれ、自分でも驚くくらい不細工なスイングをしたのだ。腕を窮屈に曲げながらおかしな角度で出したバットは、フェアグラウンドではなく自分の顔面に向けて打球を飛ばした。
 そしてサンタの記憶は、ボールの縫い目が緩やかに回転しながら目の前に迫ってくるところで途切れていた。
「動かすな!」
「一年! 保健室に連絡! 走れ!」
 強いて言えばバッターボックスにうずくまって痛みに耐えている向こうで、先輩や監督のそんな声が聞こえていたのをうっすらと覚えている気がする。が、それ以上は自分への呼びかけになんと答えていたかすら定かではない。
 顔面強打による、眼窩底がんかてい骨折。
 結局サンタが自分についた病名を聞いたのは、緊急手術の全身麻酔がすっかり抜けてから。意味もわからず病院の天井を見上げているのを、当直の看護師が見つけてくれたときだった。

 あのときと同じように、サンタは図書館の中でひとり天井を見つめていた。
 蛍光灯がちらちらと瞬くたびに、白い視界の真ん中にあの瞬間のことが浮かび上がってくるようだった。
 後悔の念は、四か月近く経った今でも消えない。
 もしもっと練習をして、きちんとした打撃フォームを身体に染みこませていたら。
 大事な打席だからと力を入れすぎず、いつものような自然なバッティングができていたら。
 そうしたらあの野球漬けの毎日が、今のようなリハビリの日々に変わることもなかったんだろうか。たまに物が二重に見えたり、急に視界がぼやけたりすることもなかったんだろうか。
 そしてなにより……ユニフォームを脱ぐという決断をしなくても、済んだんだろうか。
 不意に目頭が熱くなるのを感じて、サンタは慌てて肩口で顔を拭った。こんなことを繰り返してもう何十日も経っているのだから、心底うんざりというものだった。
 頭を振ってその感傷を追い払いながら、自分に言い聞かせるように声に出してみる。
「そうだよ。何か新しいことをはじめるって決めたんだろ」
 何がいいかはわからないけれど、今までとは違う、まったく別のこと。
 新しい挑戦。
 その新しい何かを探しにやってきた図書館で、サンタは気を取り直して本を探しはじめた。
 本棚の間を何度も歩き回るうちに、抱えた本は優に十を越えていたが、これだというものが見つからなくて止められなかった。
 だがその探し物の途中で、たまたま貸出窓口に近い棚の間を覗き込んでみた瞬間。
 サンタは驚きのあまり、呆然と立ち尽くしていた。
「う、うう~……と、とどかな……ぃ」
 目に入ったのは、全身を水色と濃紺でまとめた、和装風のアレンジ衣装に身を包んだ女の子。
 その少女が、小さい身体をめいっぱい伸ばし、棚の一番上に手を伸ばしている。だが彼女の小さな手は本の下の方を引っかくのが精一杯で、どうあがいても目的を達成できそうにはない。
 今日まで図書館というものを、自分には縁遠い一種の異世界と捉えていたサンタにとって、それはその幻想がそのまま目の前に現れたかのような衝撃だった。
 しかもどういう訳か、その独特な服装の女の子は、一生懸命本に手を伸ばしながらぽろぽろと涙をこぼしているのだ。
「……は」
 知らないうちに、そんな息が漏れていた。
 ただでさえ穏やかな図書館の時間というものが、今だけは完全に停止したみたいだった。
 採光の乏しい、決して明るくない本棚のあいだで、その女の子だけが煌めいて見えた。
 サンタはその光景にすっかり呑まれてしまっていて、我に返ったのは子供用スペースの方から大きな泣き声が聞こえてきたときだった。
 しかしおかげで、ようやく頭が回り始める。
 それが泣くほどつらいことなのかどうかは知らないが、本が取れなくて困っている人が目の前にいる。やることはひとつだ
「っと……取ろうか?」
「ぴぁっ……! え、え……?」
 ところが女の子の方はというと、サンタの申し出に文字どおり飛び上がるほどに驚いて、それから必死に涙を拭いながら後ずさっていった。
「あー、いや、急に話しかけて悪い。脅かすつもりはなくて、届かないなら手伝おうかって思っただけなんだけど」
「う……あ、ありがとう……ございます。えと……ではお願いしてもいいですか?」
「任せろ。で、俺はどれを取ればいいんだ?」
「こ、ここの一番上の棚にある、キミの心の……いえ、右端から……五六七……十二冊目の本をお願いします」
「わかった。『キミの心のすべてに触れて、夜が明けるまで抱きしめて』。これだな?」
「なんで言ってしまうんですかぁ~~……!?」
「いや、確認しようかなって思って」
「うう~……!」
 繊細な乙女心というやつだろうか。少女は書名を音読したサンタを涙目で睨むと、手渡された本をさっと背中側に隠す。
 だがサンタとしてはそんな小説のタイトルなんかよりも、目の前の女の子の方がよっぽど気になっていた。
 正確な年齢まではわからないが、どう見ても自分よりは年下だと思われる小さな背丈。
 全体的に色素の薄い儚げな容貌に、甘ったるい部分と子供っぽい部分が同居した特徴的な声。
 そして乱暴に触れたら折れてしまいそうな華奢な身体を、花柄模様が織り込まれた着物風の上着と、膝丈の女の子らしいスカートで包んでいる。
 怯えながらじっとサンタを観察している様子などは、今まで出会ったなかでもダントツで小動物のようだ。
 けれどそんな見た目や態度もさることながら、明るい紅茶みたいな色をした目の印象が何よりもずば抜けていた。しかもその綺麗な瞳は、今もまださっきの名残で濡れているのだ。
 どうしてこんな場所で泣いていたのだろう。それが気になって、サンタはその女の子から目を離せなかった。
 一方で、少女は居心地悪そうに身をよじっている。
「あ、あの……?」
「っと、じろじろ見てすまん。もう行くから」
「っ……待ってください、そうじゃないです。えと……その本」
「いっぱいあるけど、どれのことだ?」
「はい。その、えと……」
「えと?」
「その……うう……」
 ところがわざわざ引き留められたサンタを待っていたのは、またしても気まずい沈黙だった。
 きっとこの少女からすれば、こうして声をかけるだけで、持っている勇気の大部分を使い果たすくらいの出来事なのだろう。
 その証拠に彼女は何度か口を開きかけては、小さく頭を振ってまた閉じるというのを繰り返している。
 サンタの顔と手に視線を交互に動かしながら、見ていて可哀想なくらいに言葉を探している。
 話すべきか、話さざるべきか。
 何を言えばいいのか、何も言わない方がいいのか。
 彼女の中でいろんな考えが綱引きをしていて、その結論が出てくるのにはしばらく時間がかかりそうだった。
「俺は困っている」
 だからというわけではないが、サンタは彼女とは逆に、これっぽっちも考えずに自分の状況を口にした。
「へ? あ、そ、そうですよね……。ごめんなさい、引き留めてしまって……」
「違うぞ。俺が困ってるのはそういうことじゃないんだ。少し長くなるが聞いてくれるか」
「え? わ、わたしでよければ……」
「よし」
 引き出したかったその言葉をたしかに聞き届けて頷く。
 サンタがそれから話しはじめたのは、自分はここに新たに挑戦するものを探しにきたということだった。だが図書館にやってくること自体が三年ぶりという不慣れさもあって、これというものがなかなか見つからないということ。さらにはもし何か夢中になれるものを知っていたら、ぜひ教えてほしいということを説明する。
 そんなサンタの様子に思うところでもあったのだろうか。話し終えてふと我に返ると、彼女はいつの間にかサンタのシャツの裾をきゅっと握っていた。
「お……?」
 そして困惑するサンタにも気づかないまま、思いつめたような表情で顔をあげる。
「そ、それでこんなにたくさんの本を抱えていたのですね。偉いです、立派です……!」
「そうか? まあそれはどっちでもいいけど、それよりこの中で何かお勧めとかある?」
「そうですね。ええと……『油絵入門』『現代純文学の研究』『彫金超絶技巧集』。あとは『筝曲の手ほどき』に『流派別・生け花の哲学』、『短歌千年史』……。これ、本当にお兄さんがやるつもりなんですか?」
「何か問題でもあるか?」
「ないですけど、見た感じお兄さんは運動が得意そうなので、普通にスポーツ系がいいのでは……?」
「いや、スポーツはダメだ。危ないからな」
「危ない……?」
「とにかく、やるならインドア系の何かって決めてんの。だから図書館にまで来たんだし」
 怪我の部分を伏せながら、探しているものの方向性を説明する。
「なるほど……。だとするとわたしから言えるのは、その中では短歌だけは絶対にお勧めしないということくらいですね」
「なんで?」
「なんでもです。やると不幸になります。保証します」
「へえ……」
「……なんでそんなに見てくるのですか」
「いや。変なとこでムキになるんだなと思って。よし、まずは短歌をやってみるか」
「なんでそうなるのですか……!」
 サンタの天邪鬼な返事を聞いて、そこで初めて少女が大きな声を出す。言葉を交わすうちにいくらか慣れてきたのかもしれない。
 だが彼女はすぐにそれを誤魔化すかのように小さく咳ばらいをすると、それからまた澄まし顔で話しはじめた。
「ま、まあわたしには関係のないことですから。お兄さんがやりたいというなら、これ以上無理に止めたりはしません。本当は絶対やめた方がいいと思いますけど……」
「止める気満々じゃねーか」
「それと本当に短歌を始めたいと思うのなら、今持っている本は返してきた方がいいと思います。二階の開架書庫から持ってきたのでしょうが、そこは専門書が並んでるところですので」
「えーっと、つまりこの本は俺にはまだ早いってことか?」
「そうですね、何事にも順番というものがありますから。えと……お兄さんには、まずはあっちの本棚でしょうか」
 そう言って、彼女が建物の奥の方を指し示す。
「この真ん中の通路の、突き当たりの一つ手前を右に曲がってください。そうしたらきっと初心者さん向けの本がありますよ」
「そうか。じゃあ行こうぜ」
「えっ?」
「なんだ。一緒にいくんじゃないのか」
「だって、場所は伝えたじゃないですか」
「いやてっきりここはそういう流れなのかなって思って」
「う……」
「それにずっと俺の服掴んでるから、このまま引っ張ってってくれるのかなと」
「あっ、こ、これは違うんです!」
 本当に指摘されるまで気づいていなかったのか、女の子が慌ててサンタからまた距離を取る。
 しかし本当のことを言うと、サンタもどうしてこんな意地を張っているのかわからなかった。実際あれだけ詳しく教わればたどり着けるとは思うのだが、このまま「わかったありがとな」で解散するのはなぜか嫌だったのだ。
「そういえば、死んだひいばあちゃんの口癖だったな……。感謝の気持ちを持って暮らしなさいって。人は思いやりでつながっているんだよっていつも教えてくれた」
「急に何を言いだすんですか……」
「この前風に飛ばされてた帽子をとってやった小学生の子は、でっかい声でお兄ちゃんありがとうって言ってくれたな」
「わたしだって、困ってる人を見かけたらお手伝いくらいしますもん……」
「だろ? 俺はさ、信じてるんだよ。酷い世の中だって言う人たちもいるけど、それでも全然捨てたもんじゃないって。まあ、残念ながらそれも今日までかもしれないけどな……」
「もーっ、もうわかりましたよ。こっちです、こっち!」
 ひたすら良心に訴えかける作戦が功を奏したのか、彼女はついに観念したように声をあげた。
 それから無言でずんずんと先を歩いていき、説明どおり突き当たりのひとつ前で右に曲がる。
「ここです!」
「おお! こ、これが……!」
 本当に拍子抜けしてしまうほどあっさりたどり着いた詩歌コーナーの前で、サンタは冒険の果てにようやく宝を見つけたトレジャーハンターみたいに声をあげた。しゃがみこんで、震える手でそっと本をめくる。まさに探し求めていたような入門書が次々に見つかる。
「そうそう! こういうのが欲しかったんだよなあ!」
「そうですかそうですか。それはよかったです。じゃあわたしはもう行きますからね」
「おっ、こっちのもいいな。あとこれも持って帰りてえな。いや待てよ。つーか図書館って何冊まで借りられるんだっけ?」
「あの……聞いてますか? もうひいおばあさんとの思い出は守られましたよね?」
 少女が何か話しかけてきているのはわかっていたが、夢中になって本を漁るサンタの頭にはほとんど入ってきていなかった。
 そもそもサンタは単純で、比較的シンプルな性格をしている。楽しければ腹の底から笑うし、うれしいことがあればはしゃいで夢中になる。
 だからサンタは今もそんな自分の性質にしたがって、ただ感情のままに女の子に笑いかけた。
「なあ。こういうの読めば、俺でもちゃんと上手くなれると思うか?」
 その瞬間のサンタは、自分が笑顔を向けている女の子は、さっき出会ったばかりだということを完全に忘れていた。まるで生まれて初めてグローブを買ってもらったときみたいに、あるいは新品のおもちゃを自慢する子供のように、素直な興奮と喜びをぶつけていた。
 果たしてそれが目の前の少女にどんな感情を呼び起こしたかは定かではない。
 ただ事実として、少女はサンタのことを穴があくほど見つめたかと思うと、次の瞬間には再び目の端から大粒の涙をぽろぽろと零しはじめていた。
 しかも今回は、必死に押し殺した泣き声まで付属している。
「っ……ぐすっ……ふぇ……う゛うう…………っ」
「は? いや待て。どうしたんだ急に」
「うわあああん。ばか、ばかぁあああああああ」
 これに慌てたのはもちろんサンタだ。
 目の前の女の子がどうして泣いているのか。理由も意味も何もわからなかったからだ。
 だがそれらの正解がなんであれ、図書館で急に泣き出した女の子と、それを必死に宥めている男子高校生という構図。これが他の利用者に見せる画はひとしかない。
 現に近くを通り過ぎる人たちからは、既にサンタを責めるような視線が大量に降り注ぎはじめていた。
「頼む、落ち着いてくれ。言いたいことがあるなら聞くから」
「短歌なんて、短歌なんて今どき流行らないのです……。わたしはそれをよ~く知ってます……っ」
「そ、そうなのか?」
「ぐすっ……。もう二度と、この本棚の前には……こないつもりだったのに……っ」
「よ、よし。全然わからんがわかった。とりあえず今すぐここから離れよう。な?」
 サンタは泣きじゃくる女の子の手を取って、大急ぎで歩き出した。
 人気のない場所で落ち着かせて、とにかく泣き止ませる。はじめに考えていたのはとにかくそれだけだったが、少女の手が思ったよりずっと小さくて頼りないことに気づいてからは、そのことばかりが気になっていた。

 2

 たぶん司書や職員が主に使うのであろう、会議室やトイレが並ぶ長い廊下。
 図書館の利用者は滅多に訪れない施設の端の端に、サンタと少女はやってきていた。
 歩いているうちに少しずつ落ち着いてきたのか、先ほどのような嗚咽はもう聞こえてはこない。赤い目をこすって、必死に泣き止もうとしている彼女に回復の兆しを感じ取り、サンタは満を持して話しかけた。
「よし、ちょっと深呼吸してみろ。えっと……そうだ名前! お前名前は?」
「ぐすっ……救です。涼風すずかぜすくい……」
「じゃあスクイ。よくわからんが、たぶん俺が悪かったんだよな? その、泣くほど短歌が嫌い、みたいな」
「別にお兄さんが悪いわけじゃないです。だけどあんな顔で、笑ってるのを見せられたら……。ううっ……ふぇ……」
「待て待て泣くな。ほらもう笑ってないし、見てくれこの真剣な表情を」
「……変な顔」
「……作ってるからな」
「……ふふっ」
 渾身の決め顔を変顔に間違われたことはさておき、スクイと名乗った少女の方はそれでだいぶ持ち直したみたいだった。一度大きく息を吐いてから、ごしごしと目元を拭って前を向く。
 それからまた何かを言おうとしているのか、小さく口を開きかけて閉じる。だが今回の待ち時間は、先ほどよりもはるかに短かった。
「あの……。えと、それでお兄さんの方のお名前は……」
「あ、そうだよな。えっと俺の名前は大谷三球で、高校の一年だ。でもサンタさんとだけは絶対に呼ぶなよ。特にクリスマスシーズンはな」
「サンタさん、ですか……。わたし、おうちで西洋のお祭りとかやったことないから、初めて本物のサンタさんを見ました」
「呼ぶなっつってんのに。つかクリスマス祝ったことないってほんとかよ」
 とはいえずいぶんと変わったアレンジをしてまで和装っぽさにこだわっているみたいだから、世の中にはそういう家庭もあるのかもしれない。
 それに嫌味のない平坦な口調なのがよかったのだろうか。彼女が口にするサンタさんという言葉には、不思議と怒る気持ちも湧いてこなかった。
「あ、すみません。じゃあスクイは中学三年ですので、きちんと先輩と呼ぶようにしますね。先輩は本当にサンタさんみたいなので、ちょっとだけ名残惜しいですけど」
「どこがだよ」
「プレゼントをくれるところ、とかでしょうか」
「なんもやらないからな」
 その返事を聞いて、スクイがおかしそうにくすくすと笑う。
 それから彼女はすっきりした顔でサンタのことを見ると、唐突におかしなことを口にした。
「ところで先輩はうんめ……じゃなくて、運が良いって自分で思ったりすることありますか?」
「まったくないけど」
「そうですか。だけどスクイは今はちょっとだけ信じてます」
「信じる……? 運をか……?」
「あっ。えと、そ、そうです。つまりですね。もし先輩が本気で短歌をやるつもりなら、このわたしが手ほどきをしてさしあげましょうか、という話です。先輩が今日ここでスクイと会えたのは、本当に運がいいことなんですよ」
「てことはつまり……スクイは短歌に詳しいってことか?」
「はい。自分で言うのもなんですが、中学生短歌コンテストなんてものがあったら、優勝以外を取るところが想像できないくらいです」
「わかった。さてはお前、結構話を盛るタイプだな?」
「そんなことありません。訳あって今は短歌づくりをやめていますが、スクイより短歌に詳しい未成年なんてそうそういないと思います。中学生短歌女王と呼んでくれても結構です」
「ほんとかよ」
 こんなところに女王がいるのが信じられなくて、サンタは完全に疑惑の目でスクイを見た。ところがそんな視線を受けても、彼女は前言を撤回しようとはしない。それどころかさっきまでの猫背はすっかりなりをひそめ、堂々と細身の身体には不釣り合いな胸を張っていた。
 じっと見つめ続けたらさすがに照れた様子で顔を背けはしたものの、かなりの自信があるのは間違いなさそうだ。
「よし。それならさっそくだけど俺に短歌を教えてくれ」
「えっ? 今ここでですか?」
「ああ。具体的に言うと、今ここでその手ほどきってのをしてもらって、俺がちゃんと短歌を完成させられるかを見たい。できるんだろ?」
「……なるほど。これはつまり師匠としてのスクイがどれほどのものか試されている、ということですね?」
「そう思ってもらってもいい。なんか申し訳ないけど」
 サンタとて本来なら自分が試す側でないのはわかっているし、不遜な物言いなのも重々承知している。だが相手の力量も知らないまま年下の女の子を師と仰ぐつもりはなかったし、そもそも短歌を続けるかどうかだってまだわからない。だから少なくともそこだけははっきりさせておかねばと思ったのだ。
「いいでしょう、受けて立ちます。ですがその前に、先輩の短歌経験は?」
「小学校の国語の授業で、百人一首を暗唱させられたような記憶はあるな。あと競技かるたが題材の漫画は読んだことがある」
「……とてもよくわかりました」
 要するに競技かるたをそこに含めなければならないほど、短歌に馴染みがないというわけだ。
 当然スクイにもそれはわかっているのか、困り顔で考え込んでいる。
「ふ、勝ったな」
 冷静になればそんな勝負に勝ったところで空しいだけではあるのだが、サンタがそれを自覚するよりも早く、目の前の少女は顔をあげていた。
「そうですね……。では先輩が、ここ最近で一番楽しかったことを思い浮かべてください。時期は近ければ近いほどいいです」
「楽しいことか。最近はあんまないな」
「ええ……。じゃあ悲しかったことでもいいですよ。そちらはどうでしょうか」
「そうだな……。別に大したことじゃないけど、この図書館に入ってきたとき、入り口すぐの椅子に座ったお爺さんが甲子園の配信を見てたんだよ。それだな」
「それの何が悲しかったんですか?」
「それは……なんだろうな」
「……先輩?」
 不思議そうな顔で見上げてくるスクイへの答えは、なぜかすんなりとは出てこなかった。自分が嫌な気持ちになったのは間違いないのに、その解像度は恐ろしく低いままだった。なぜ嫌だったのか。何が苦しかったのか。顎に手を当てながら自分の心に意識を向けてみる。
 想像でしかないとはいえ鮮明に残っているのは、タッチアウトになったサードランナーの姿だった。そして白いユニフォームの胸から下を、甲子園の土で真っ黒に汚して、悔しさを押し殺しながらベンチに駆け戻っていく様子。
「スクイズに失敗したんだよ、そのチームが。ええと、つまり、作戦に失敗して点が取れなかったわけ。それがさ、なんていうか――」
「はい」
「……羨ましいなって、思ったんだ」
「え?」
 たとえアウトになったとしても、ホームベース目指して全力で走れた選手が羨ましかった。青春を部活に捧げきって、きちんと勝ち負けという区切りで終われる人たちが羨ましかった。
 だからサンタは逃げるようにあの場所を後にしたのだ。このままでは彼らへの嫉妬心を自覚してしまいそうだったから。
「先輩って……」
 どこまで察したのかはわからないが、スクイはそこで申し訳なさそうに目を伏せた。それから黙ったまま、そっとサンタの手に触れる。頼りない手だという印象は変わらなかったが、それ以上にあたたかい手をしていた。
 自分の行動に誰よりも自分が驚いている。そんな戸惑いを顔に浮かべながら、スクイは囁くように言った。
「あの……お題を変えましょうか。それとも、この話自体なかったことに……」
「え、なんで? このまま続けようぜ」
「いいのですか?」
「何も問題ないけど」
「……わかりました。では先輩。できれば目をつぶってほしいです」
「なんでだ?」
「ここは先輩とわたし以外、余計なものは何もない平和な場所。そう思ってほしいからです」
「よくわかんないけど、わかった」
 スクイの囁き声に引っぱられ、サンタも小さな声で返事をする。
 真っ暗になった視界は、図書館の入り口で見つめていた真っ白な天井とよく似ていた。だが手の甲から伝わってくるスクイの熱だけが、あのときとは決定的に違っている。
「では……すみませんがもう一度、さっきの話で一番印象に残ってる場面を教えてください」
「タッチアウトになったランナーが、真っ黒なユニフォームでベンチに帰っていくところ」
「長さを半分にしてください。要らない部分はすっぱり捨てて」
「難しいな……。真っ黒なユニフォームのランナー、とかか?」
「ありがとうございます。でもそのランナーはどうして真っ黒なんですか? 黒色のユニフォームのチームって珍しいですよね」
「そうじゃないな。スライディングしたときに土で汚れたんだよ」
「なるほど。じゃあその理由と、ランナーという言葉をつなげてみましょう。甲子園の、からはじめてください」
「えっと……甲子園の、土で汚れた、ランナーが――?」
 頭をフル回転させながらどうにかスクイについていくと、いつの間にかサンタが一番注目していたものが、上の句のようなかたちで残されていた。
「完璧です。最後の助詞が〝が〟なのか〝と〟なのか、それとも別のものになるかは、下の句次第ですが」
 そう褒めてくれるスクイの声も、心なし満足気に聞こえてくる。
 だが逆に言えばサンタが見ていたものは前半で書ききってしまっていて、これ以上何を足せばいいのかは見当もつかない。
 ところが自称女王であるスクイの方はそこで少しだけ手に力を込めて、それから今までで一番優しい声で言った。
「気づいてほしいことが……。いえ、本当は気づかせてあげたくないけど、気づいてもらわないといけないことがあるんです」
「なんだそりゃ」
「そのランナーさんは、どうして存在しているのですか?」
「哲学の話か?」
「違います。別の言い方をすると、さっき先輩が話してくれたことの中には、もう一人絶対に忘れちゃいけない人がいるんです」
「わかった。ピッチャーだろ?」
「いいえ。それはランナーと同じで、あっち側にいる人です。あそこで野球をやっていた選手たちは、何人増えたって役割としてはひとつです。なのでそうではないのです。だってスクイには、スクイにはその大事な人のことがちゃんと見えているのですから」
「ああ……、そういうことか」
 サンタは賢いわけではないが、そこまで言われてわからないほど鈍くもないつもりだった。
 その台詞とともに一際強く握りしめられた手が、スクイの謎掛けに対しての答えだった。
 そう、つまりはサンタ自身。
 あっち側にいる選手に対して、こっちで見ているだけの自分。
 真っ黒にユニフォームを汚した選手に対して、洗い立ての服を着た自分。
 立派で尊敬できて憧れの的である選手に対して、平凡で情けなくて何者でもない自分。
 彼らに嫉妬する気持ちもたしかにあったが、それだけではなかった。
 サンタがずっと目を背けていたものの正体は、挑戦することすら叶わなかった自分への苛立ちだったのだ。
「そうだな……。スクイの言うとおり、なんだろうな……」
 出会ったばかりの少女に探り当てられてしまったものは本音であると、認めるしかなかった。
 嫌いなのは自分。
 うじうじと悩んで立ち直ろうという姿勢すら取れない、ひたすらに無力な自分。
 スクイが教えてくれたおかげで、サンタは初めてそこに目を向けられたのかもしれなかった。
「……短歌、できたかもしれない」
「聞かせてもらえますか?」
 スクイの言葉を聞いて、ずっと閉じていた目を開ける。
 なぜかまた潤んだ目をした彼女がじっと見上げてくる中で、サンタは淡々と言葉を紡いだ。

「甲子園の土で汚れたランナーを、私服のままの俺が見ている」

 土にまみれた英雄を、画面のこちら側で見ているだけの自分。
 どこまで織り込めたかはわからないが、ようやく自覚した気持ちをサンタは短歌の文字数にまとめた。
 これが上手いかどうかは知らない。
 知らないが、そんなのはもうどうでもいいことだった。
「あのさ、スクイ――いや、師匠。お願いがあるんだけど」
「きゅ、急にどうしたのですか先輩」
「俺に短歌を教えてくれないか。専属師匠として、俺をびしばし鍛えてほしい」
「えと……それはつまり、先輩はスクイのことを認めてくれたってこと、ですか……?」
「そうだよ。スクイはすごいし、短歌ってのもすごいんだなって本気で思った。だから頼む、このとおりだ」
「ちょ、こんな人気のないところで頭なんて下げないでください。これじゃまるで……スクイが告白されてるみたいじゃないですか……」
「なんか言ったか?」
「いいいい言ってません! というかもういいです。最初に教えるって言ったのはスクイですし、今さらやめたなんて言わないですから」
「そうか、助かる」
「ま、まあスクイの専門はいわゆる近代短歌というやつなので、先輩がやろうとしてる現代語のとはちょっと違うんですけどね。でも親戚みたいなものなのでたぶん大丈夫でしょう」
「ふぅん。よくわからないけど、ちゃんとしてそうだな」
 となるとスクイが詠む歌は、きっと百人一首みたいな感じなんだろう。
 サンタは勝手に間違った解釈で納得し、頭の中で平安貴族の十二単をスクイに着せてみた。いまいち似合ってはいなかったが、実態としてはそれで正解なんだと思っていた。スクイは貴族。歴史の資料集の時代から今日まで生き残ってきた、人間の生きる化石だ。
「よ、よろしくでおじゃる」
「何を言ってるのですか……?」
「……いやすまん。こっちの話だ。それで具体的に、俺は上達するために何をやっていけばいいんだ?」
「そうですね。いろいろ方法はあるのでしょうが、先輩にはまず毎日短歌を作ってもらいます。毎日詠んで、毎日読む。まずはそこからですね」
「作ったのは師匠が読んでくれるのか?」
「そのつもりです。いつ読ませてもらうかは考え中ですけれど」
「いや、そこはそんな難しく考えなくていいだろ。インスタとかLINEとか、なんかDM送れるやつ教えてくれ」
「ええええっ」
 サンタの何気ない一言に、スクイが大げさに声をあげて驚く。
「いや、俺の短歌が出来たらそのまま送信しておくのが手っ取り早くてよくないか? そのあとは好きな時間に見てもらえばいいからさ」
「それはそうですけど……。先輩って、誰にでもこういうことするんですか……?」
「変な誤解すんなよ。そうする必要があるから言ってるだけだからな」
「うう……やっぱりおじいちゃんの言うとおり外は危険がたくさんです……」
 あからさまに挙動不審なその様子からすると、スクイは本当は個人的なアカウントでつながるのは嫌だったのかもしれない。
 サンタがそう反省する程度には、彼女はかなり居心地悪そうに見えた。落ち着かない様子で連絡先を交換してからも、ちらちらとサンタの顔を見ては俯いてを繰り返していた。かと思えば、サンタがじっと見つめ返しているのに気づくと、慌ててぷいっと顔を背けたりもしていた。
 正直に言って、よく意味がわからなかった。
「なあ。やっぱり……」
「そ、それじゃスクイは用事がありますので。必要なことはまたこれで連絡してください」
「お、おう。短歌送るとしたら夜になると思うから」
「わかりました。それではまた……っ!」
 結局その不自然な態度は最後まで変わることはなく、スクイは嵐のような慌ただしさで背を向けて行ってしまった。やっぱり嫌だったのかなと少し落ち込み、こちらから絡みすぎるのはよくないかもしれないなどと考えを巡らせる。少なくとも、必要以上にスクイにメッセージを送るのは避けた方がよさそうだ。
 だが入門書を借り、さっきの不思議な和装少女のことを考えながら貸出窓口を立ち去ったところで、さっそくサンタのスマホに振動がくる。
 スクイからだ。

『救さんがあなたをグループに招待しました』

「いや、意外とやる気あるのか……?」
 思わず独り言を言いながら承認をタップし、『歌会』という名の二人だけのグループに入る。それを確認したのか、すぐにスクイが反応する。
『先輩へ。毎日ひとつでもいいので、ここに短歌を投稿してください』
「わかった、と……」
『スクイはそれを読んで、添削したり感想を言ったり、気が向いたら自分も投稿してみるかもしれません』
『短歌作るのやめてるんじゃねーの?』
『ですから、気が向いたらです』
『なるほど、了解した』

 テンポよく返ってくるメッセージの最後にスタンプを送って、サンタはスマホの画面を消した。が、それからしばし考えてもう一度ロックを解除する。閉じたばかりのアプリを開き直す。

『これからよろしく頼むぜ、師匠』
『こちらこそです。よろしくお願いしますね、先輩』

 それを見て、無意識にサンタの口元がほころぶ。
「あ――っ。す、すんません」
 しかしちょうどその瞬間。スマホを見ながら歩いていたせいで、サンタは向かいから来た女性の通路を塞いでしまっていた。
 慌てて謝って道を譲る。けれど女性の方は、珍しいものを見たとでもいうようにサンタのことを観察していて、すれ違って中に入っていこうとはしていない。
「あの、もしかして怒ってますか?」
「あ、ごめんなさい。別にそういう訳ではないの。ただ貴方が持ってる本が気になって」
 長い黒髪に、長い脚。すらりとしたプロポーションの綺麗な女の人は、よく通る綺麗な声でそう口にした。その落ち着いた雰囲気からして、サンタは自分より年上だろうと推測した。自分以上、大学生未満。そのくらいだ。
 ただその女性は言葉通りサンタ本人にはあまり興味はないようで、視線は借りたばかりの入門書に注がれている。
「その本――短歌に興味があるの?」
「え? ああ、まあ」
「そうなんだ。がんばりましょうね。それじゃ」
「どうも」
 最後に軽く会釈をして去っていく姿は、まるで品のある黒猫のようだとサンタは思った。それからなんとなくどこかで会ったことがあるような気がして、あとからもう一度振り返る。
 だが彼女はもう図書館の奥に引っ込んでしまっていて、さすがに追いかけようという気にはならなかった。そこまでしたらただの不審者だし、改めて考えてみても面識は多分ない。
「なんだろうな……」
 引っかかっているのは、あの落ち着いた雰囲気や凛とした立ち振る舞いだろうか。それとも声や仕草といった部分だろうか。もしかしたら、知り合いの誰かのお姉さんだったりするのかもしれない。
 だがしばらくして、わからないものはわからないという結論に達したサンタは、諦めて図書館前のバス停へと歩き出した。
 前を見ると、ちょうどひとつ先の交差点を曲がって、帰りのバスがやってくるところだった。

 九月二日

 俺の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに

『あの……意味、わかって書いてます?』
『……あんまり』
『でしょうね。だいたい先輩の見た目は移ろってなんて――』
『うつろ……なに?』
『な、なんでもありません。そんなことよりも朝起きてこれを見たわたしと、それから何より小野小町に謝ってください』
『いや待て、これはパクリとかじゃなくてだな――』
『次やったら破門ですからね』
 昨日が日曜日だったため、一日遅れでやってきた始業式の朝。
 時間に余裕を持って出てきたこともあって、人もまばらな教室に着いたサンタは、さっそく昨日の深夜に送った短歌の言い訳を試みていた。
『まったくもう。怖いです先輩。どんな目覚ましよりもばっちり目が覚めましたよ』
『悪かった。初回だから上手く書きたいって思ったら、逆に何も思い浮かばなくて……』
『……まあ、そのためのスクイみたいなとこもありますし。今回は大目に見てあげます。でも先輩。いい機会だから今ここできちんと伝えておきたいと思います』
『お、おう。何をだ』
『まずひとつめ。今後はこういうことは絶対にしないでください』
『わかった、絶対もうしない』
『それからふたつめなんですが。ひとつめのことを踏まえたうえで、怖がらないでほしいなってスクイは思います』
『なんだそれ』
『つまりその……短歌って三十一文字しかありませんし、普通の人がいつも斬新な視点を閃くわけでもないので、いいなって思うモチーフや言葉って結構当たり前にかぶるんです。だけどだからといって、それを表現するのを怖がらないでほしい。今回みたいに無理に格好つけようとしないで、素直に自分の言葉で文字にしてください。そうやって作ったら、もし誰かとよく似たモチーフを歌にしたとしても、ちゃんと先輩の短歌になってると思うので』
『下手でもいいのか?』
『大丈夫ですよ』
『俺自身納得いってなくても? なんだこりゃって笑われそうなやつでも?』
『いいに決まっています。いっぱい失敗してくれた方が師匠冥利に尽きるというものですし、さっきの短歌もあとで一緒に作り直しましょう。その代わり、外に出せないような失敗はスクイ相手のときだけにしてくださいね。練習相手としていくらでも付き合いますから』
『わかった。スクイだけにする』
『まあこれも師匠の務めですので! よかったですね、先輩の師匠が寛大な心の持ち主で』
 DMでのやり取りをはじめてわかったことだが、スクイには意外とこうして調子に乗りがちな一面があった。ただそれは決して不快というレベルではなく、むしろ会話の楽しさにつながるような可愛らしいものでもあった。初対面のときよりくだけてきた口調の数々は、サンタとしても受け入れてもらえている気がして普通にうれしい。だがそのまま気分よく長話をはじめそうになったタイミングで、無慈悲にも予鈴のチャイムが鳴った。
 慌ててスマホをしまい、会話を切り上げる。返事も何もしなかったが、始業式が始まる時間なんて中学も高校も大差ないだろう。状況は伝わっているに違いない。
 サンタはそれから担任がやってくるまで、ぼんやりと今日の分の歌を考えて過ごした。
 明日こそはスクイに褒められるようなものを作るというのが、さしあたっての目標だった。

 九月三日

 校長の長い話が終わるのと どっちが先か 短歌制作

『先生の話はちゃんと聞いた方がいいと思います』
『あれ?』
 この日サンタが送った短歌のテーマは、校長の長話。
 朝礼や始業式などにおける最大の問題点を歌にしてみたのだが、スクイからの返事は期待していたのとはだいぶ違っていた。
 サンタとしては退屈な時間を有効活用していて偉い、なんて褒められるつもりで送った歌だったのに、生真面目なお師匠様のお気には召さなかったらしい。
『おかしいな。褒められる予定だったんだけど』
『いえ。さっきのとは別に、褒めポイントもありますよ。きちんと完成させていて偉いです』
『なんか軽く馬鹿にされてないか?』
 求められているハードルがあまりにも低すぎて、うっすらそんなことを考えてしまう。だがすぐに返ってきた文面を見るに、スクイは大まじめにこれを言っているようだった。
『それは誤解です。何事もまずは完成させること。一番大事なことだとスクイは思います』
『そうか……』
 複雑な心境を語尾に託しつつ、とりあえず相槌を打っておく。スクイの言葉はどう考えても初心者をあやしつけるためのもので、野球に置き換えるならバットが振れて偉い、とかそういうレベルの話だと思われた。
 ただ、もちろんバットを振らなければ何も起こらないし、すべてはその最初のアクションからはじまる。そういう意味では、スクイに悪意があるわけではないこともわかってはいる。サンタだって、野球を始めたばかりの小学生に教えるならそうする。だから要するにこれは、今のサンタの力量がその程度だということであり、良くも悪くもスクイはサンタのことをとても大切に扱ってくれているということのようだった。
『……いろいろわかった気がするよ。とりあえず地道にやっていくことにする』
『そうしてください。繰り返しになりますが、先生の話は真面目に聞くものです』
『教師目線多いな』
『だってそうじゃないと、スクイが伝えたことも聞き流されてしまいそうじゃないですか』
『いやスクイの話なら全部聞くよ』
 何を馬鹿なことをと笑いながら、スクイからのDMに返事を打つ。
 だがそれはサンタにとっては当たり前のことで、スクイは自分の師匠なのだ。先生、コーチ、監督、師匠という順番で重きを置いていて、その最上位に位置しているのだ。ある程度は時と場合に拠るものの、始業式の訓示程度の話なら、スクイとのタスクに意識を向けるのもまったくおかしいことではない。
 ところがそれくらい師匠というものに敬服しているつもりなのに、その師匠はなぜか意味のわからないことを言い出していた。
『……先輩のせいでスマホ落としました。反省してください』
『意味がわからないんだが』
『反省の色が見られないです。せっかく次に会ったときはたくさん褒めてあげようと思っていたのに』
『待て。なんだその話は』
『だって最初に言ってたじゃないですか。……スクイに褒められたかったんですよね?』
「は?」
 思わず口から漏れていた言葉とともに、今度はサンタの方が手を滑らせてスマホを落としかける。本当なら最速で否定したいところだったが、そのせいで微妙にタイミングを逸してしまう。
 しかもその間の沈黙を肯定だと受け取ったのか、スクイはほくそ笑むようなスタンプとともにまたメッセージを送ってきていた。
『すぐに変なこと言うのはやめて、もう少し良い子になってください。そしたら今度会ったときに頭撫でてあげますから』
「ちょっと待て。もしかして俺、子供扱いされてる……?」
 たった今気がついた重大な事実に愕然とする。
 たしかにログ上には褒められる予定だったなんて戯言がばっちり残ってしまっているが、子供扱いというのは想定外だった。というかあんなに小さい年下の中学生に子供扱いされるなんて、さすがに沽券にかかわるというものだった。本来ならむしろ、こちらが撫でてやるくらいの身長差なのだ。それを考えれば、こんな倒錯的な関係なんてとても受け入れられない。
「覚えとけよ、さっきの台詞……」
 かくなるうえは、スクイの想定を上回るスピードで上達し、驚かせてやるしかない。
 そのときのスクイのリアクションを想像しながら、サンタはネットの短歌講座などを必死に漁りはじめた。自分では気づいていなかったが、毎日少しずつ、いろんなモチベーションが芽生えてくるような感覚に胸が躍っていた。

 

 二句


 九月八日

 先日の決意を胸に秘めたまま、スクイとの歌会は続いていた。
 その間サンタの腕前が急激に上昇したということはもちろんなく、スクイの態度もよく言えば優しいままで変わっていない。
 だがあれから五日ほどが経ったこの日の夜。
 サンタには、かねてより温めていたある秘策があった。

 【聖母】詩歌しいかマリアの短歌ちゃんねる【初配信】

 何かというと、たった今スマホの画面に表示されている配信だ。
 あの日こっそりと短歌の練習になりそうなものを探していたところ、偶然にもこの配信者が今日デビュー予定だということを知り、以来ずっと心待ちにしてきたのだ。SNSも当然フォロー済みで、もはや最古参の一人であると言っても過言ではない。
 今は配信画面の中央に『これからやりたいこと』という箇条書きのプレゼン資料が表示されていて、右端に配置された2Dアバターの配信者が、綺麗な声で一生懸命その説明をしている。
「へえ……」
 その話を聞く限り、どうやらそこは本当に短歌を主なテーマとしてやっていく予定のチャンネルらしい。
 配信者は金色のふわふわした髪型が特徴的な、綺麗で優しいお姉さんといった見た目。シスター風の衣装を活発にアレンジしたような独特のデザインで、はきはきした話し方ととてもマッチしている。
 だが残念ながら視聴者数の方は、印象の良さとはあまり一致していないみたいだった。
 そのおおよその人数は、リアルタイムで二十数名。サンタはそれほど配信のことに詳しいわけではないが、コメントの少なさなどから察するに、厳しい船出となっているのは間違いない。
 履歴を遡ってみても、チャット欄には『こんばんは』とか『はじめまして』みたいな通り一遍の挨拶があるくらいで、それ以外もほとんどただの相づちで埋め尽くされている。
 それでも画面の中の配信者はやる気に満ちた声で、明るく話し続けていた。
「さて。ということであたし――詩歌マリアはこれから、みんなと短歌を通じてコミュニケーションしていきたいなって思ってるの。もちろん合間合間で雑談したり、ゲームとか歌をやることもあるかもしれないけど」
『なんで短歌なんですか』
「それはもちろん、あたしが好きだからよ」
『なるほど』
『なるほど』
『一番大事なやつ』
 その明け透けな回答に好感を持ったのか、チャット欄に数名のリスナーが新たに顔を出す。するとマリアはそれを待っていたかのようなタイミングで「ちょっとだけ補足するとね」と前置きし、再び流暢に語りはじめた。
「短歌って言っても、あたしはこの配信で芸術的に素晴らしいものを突き詰めていきたい、みたいな気持ちは全然ないの。それよりもみんなが怖がらずに、自分の言葉で表現してくれることを期待してる。そうだ――突然だけどみんなは、SNSって何をやってる?」
『インスタとLINEと、一応Ⅹかな』
『めんどくせーって思いながら五個くらい使ってるかも』
『そもそもこの配信もSNSですし』
 リスナーが思い思いの回答をチャットに流す。
「そうね。今みんなが挙げてくれたとおり、世の中には本当にたくさんのコミュニケーションツールがあるわ。この配信も広い意味ではそう。動画やライブ配信を使ったSNS。だけどあたしは、そこで使われる手段のひとつに、いつか短歌っていうのを付け足してやりたいって思ってる。だって短歌って、誰かに気持ちを伝えることが本当にとっても得意なのよ。千年以上続いてきただけあって、ポテンシャルは折り紙付きなんだから」
『どういうこと?』
 ちょうど同じ疑問を抱いたサンタの気持ちを、どこかのリスナーがチャットで代弁してくれる。そしてマリアは本当に短歌のことが好きで、その可能性を信じているのだろう。2Dのアバター越しでもわかるくらい鼻息も荒く、そこに疑問なんて一欠片もないのだということを、間髪入れずに力説しはじめた。
「考えてもみて。今のSNSで一番注目を集めるのは画像よね? みんながよく使うインスタもⅩも、一番多くビューを稼ぐのは画像。面白かったり、息をのむほど美しかったり、もしくは本当に空想を描き起こしたイラストだったり」
『それはそう』
『だね』
「そして画像に続くのがTikTokとかYouTubeみたいな動画。決定的瞬間を映した動画とか、可愛い子たちが踊ってるショート動画とか」
『うんうん』
『でもそれがなんなの』
「そう。あたしが言いたいのは、つまりこういうことなの。人の注目を集めるには、今はとにかく視覚が命。イラストや写真は一目見れば一瞬で理解できるし、動画だって再生してからすぐに結論が流れ込んでくる。情報量が多くて、それなのにわかりやすくて、お手軽に楽しめる。タイパ最高だし、そうなるのも当たり前っていうのもわかってる。だけど、文字は違うわ」
『違うの?』
「ええ。だって文字は面倒くさいでしょう? 時間あたりの情報量は少ないし、それなりの作品だったら読むのにだって労力が掛かる。漫画は今でもたくさん売れるけど小説はあんまり売れない。映像化のサブスクが伸びたって、原作小説まで手を伸ばしてくれる人なんて微々たるもの。実際あたしはイラストも小説もかくけど、小説のPV数なんてイラストの十分の一以下よ。だからはっきり言うと、文字は時代に嫌われてる。苦手意識を持たれちゃってる。みんなも今まで漫画と小説のどっちをたくさん読んできたか考えたら、あたしの言ってることにも頷いてくれるんじゃないかしら」
 それはたしかに納得のいく話で、サンタは思わず自室の本棚に目をやった。悲しいことに、そこにはたしかに小説なんてほとんどなくて、ほぼ漫画専用の収納棚と化している。
 現代文は嫌いじゃない。というより、五教科で唯一得意かもしれないサンタでさえ、わざわざ文字の多い本を買って読むという習慣はほぼないのだ。
『たしかにね』
『圧倒的に漫画だわ』
『私は小説も好きだけど、でも量で言ったらたしかに漫画の方が多いかも』
 コメント欄でも賛同の声が流れていて、その点においてもマリアに異論がある視聴者は少ないようだった。
 だからこそサンタも他のリスナーも、マリアの話の続きが気になってくる。
「そうよね。だけどお待たせ、ここでようやく短歌が出てくるのよ。なんでかって言うと、短歌は簡潔に気持ちを伝えるのがとっても得意だから。日本語の音韻のリズムを突き詰めて、感情を表現することに特化しながら受け継がれてきたものだから。たとえば短歌は、本当は好きに紡いでいい言葉っていうのを、あえて五七五七七っていう三十一文字に押し込めてるわ。これは一定の形式の中に収めることで、読む側のコストを下げる効果があると思うの」
『でもそれだったら俳句の方が短いよ』
「あら、いいツッコミね。あたしの持論だと、たしかにいま話したことは俳句でもいいわ。あれももちろん素敵な文芸だし、やりがいもあると思ってる。だけどここだけの話ね――」
『なんだ……?』
『俳句ってなんかやべーの?』
「ええ……ここだけの話だけど、俳句は五七五。……十七文字って、自分でやってみたらめちゃくちゃ少ないのよ」
『いやそんな理由かーい』
『当たり前すぎて草』
『ええ……』
「あら。みんな笑うけど、これは本当のことだと思ってるわ。十七文字っていうのは素人がやるには短すぎて、伝えたいことを表現するのにちょっとだけ足りない。そのちょっとだけに立ち向かえるようになったら絶対に楽しいんだけど、初心者に勧めるには敷居が高いかなって思うの。その点、短歌なら三十一文字もあるんだから、もっと自由に言いたいことが言えるわ」
『はー、なるほどなあ』
『言いたいことはわかった』
 チャット欄に流れてくるコメントは、ここまでずっとサンタの感想とほぼ完全にシンクロしていた。それだけマリアの問題提起と解答が整然としていて、リスナーの思考が上手く誘導されているのかもしれなかった。現にサンタもマリアの話を聞いて、短歌とはそんなにすごいものだったのかと見直す気持ちになってきている。マリアの作った短歌なら、ぜひとも一度聞いてみたいというような気さえした。
「ごめんなさい、ちょっと水飲むわね――。さて、ということでみんな、短歌のポテンシャルについてはわかってもらえたかしら。何度でも言うけど、短歌はすごいわ。短歌を取り入れることで、ただの文字投稿でも文章版のインスタにみたいになれる。おしゃれで簡潔で、秒で内容がわかって、感情を揺さぶってくるものになれる。だって短歌なら、イラストみたいにほぼ一目でわかるのよ。少し見ればわかる。勝手に頭に入ってくる。しかも短歌自体がキャッチコピーみたいなとこもあるから、イラストやショート動画と合わせても相性が良い。これがどれだけ重要か、この配信にいる人たちならとっくに知ってるはずよね?」
 初配信にして堂々たるその演説は、マリアが短歌に向ける熱意の証明でもあり、いつの間にか視聴者は三十名を超えていた。配信中にどれほどの人が離れていったかは定かではないものの、ふらりと見にきたリスナーをそれ以上に獲得したのは明らかだった。
 拍手の絵文字がいくつか流れていくのを見て、サンタも同じことをしたいと素直に感じた。その人は前向きでキラキラしていて、画面越しでも溌剌とした輝きに溢れていた。拍手のひとつやふたつ贈りたいし、少なからず感動していることが伝わったらもっといい。
「いや……でも違うか。たぶん、そういうことじゃないんだよな……」
 だが目当ての絵文字を見つけてチャット欄に打ち込んだところで、サンタは手を止めて考え込んだ。
 絵文字を打ち込めば見たままの意味がマリアに伝わるし、配信のチャットという場でやるならそれが一番最適な伝達方法であるのは明らかだった。
 けれど違うのだ。マリアはリスナーに向けて、一生懸命言葉で大切なことを伝えようとしていた。直接そうは言っていないものの、絵だけじゃない、文字でのコミュニケーションの可能性をずっと訴えていた。
 だからサンタは、たとえこの瞬間は絵文字を使うのが正解なんだとわかっていても、なんとなくそれをしたくない気がした。一度全部消して、かわりに正直に文章で伝えたいと思った。
「……いや、でもこれ」
 あまりにも難しすぎる。
 まだ初対面の、しかもこちらが一方的に認知してるだけの相手に向かって、自分だけがポジティブな賞賛の言葉を投げるのは思いのほか敷居が高かった。それでなくとも、打ち込んだ言葉は全世界に向けて完全に公開され、変なことを言ったら場の空気まで凍るに違いないのだ。ネットの文化に詳しくないサンタにとってそれは純粋に恐怖だったし、いい具合に盛り上がってきた配信の邪魔をしてしまうのも恐ろしかった。
「みんなありがと。褒めてもらえてうれしいわ」
 結局サンタが悩んでいるうちにマリアがその話題をしめ、タイミングは完全に失われた。
 見逃し三振をしたときのような脱力感を感じながらも、どこかほっとしている自分もいた。もっと積極的にこの配信に参加したいという気持ちと、慣れないことはやめておいた方がいいと怖がる気持ちが同居していた。
 だがそんな煮え切らない一般高校生リスナーとは対照的に、マリアは迷いなんてどこかに忘れてきてしまったみたいに突っ走っていた。
「それじゃみんなに短歌の素晴らしさが伝わったところで、軽く募集してみようかしら」
『は?』
『募集って、今から短歌を?』
『初配信から視聴者参加型ってマジ?』
「もちろん大マジよ。みんなとコミュニケーションしたいって、はじめに言ったでしょ? はい。今チャット欄に投稿フォームを固定したから、ぜひ短歌を考えて送ってみてほしいわ」
『いやハードルたけー』
 真っ先に流れてきたコメントが示すように、マリアの初手リスナーからの短歌募集は明らかに暴走だった。
 サンタもそう思ったし、たぶん視聴者のほとんどが同じことを感じたに違いなかった。
 その証拠にそれなりに増えていたチャットがマリアの投稿依頼を境に一気に遅くなり、互いに腹を探り合うような重苦しい空気に包まれた。
 誰も彼も本当は全然別の場所にいて、ただ同じURLを開いているだけだというのに、学校の教室みたいな空気になるのは不思議だなとサンタは思った。
 だが実際にマリアの配信は今、誰に当ててくるかわからない数学の授業みたいになってしまっている。目立たないように。指名されないように。今日がたまたま自分の出席番号に関連する日じゃないように。この居心地の悪さとヒリついた雰囲気は、まさにあの瞬間のそれだ。
「えっと、よければ誰か投稿してくれたらうれしいんだけど……」
 そしてさらに困ったことに、マリアはこの即興での短歌制作を諦める気はないようだった。おそらくは代わりのコンテンツを用意していないのだろう。今までは完璧な時間配分と演説でリスナーの心を掴んでいたのに、ここにきて深刻な計算違いが生じてしまっているようだった。
「だ、誰か~……? いないかしら~……?」
 彼女は困り果てた声でそう呼びかけていたが、一度冷えてしまった空気はそう簡単に持ち直ったりはしない。
 それどころか、先ほどまで四十人に迫ろうとしていた視聴者数がぐんぐんと減っていき、十分もたたないうちに二十人を大きく割り込んでしまっていた。メインコンテンツだとマリア本人が言っていたところでピーク時の半分以下というのは、あまりにも気の毒に思えた。
「おいおい。こういうときってサクラとか仕込んどくもんじゃないのかよ……」
 まるで自分のことのように気が気じゃなくて、サンタの口から声が漏れる。
「えっと、どうしようかしら……」
 震える声をごまかしながら場をつなぐマリアの姿と、かつての自分の姿が重なって見えた。
 それはたとえば、大差の負け試合。
 次々に席を立って、球場を後にする観客の後ろ姿を見ていたあの気持ち。
 応援の声がどんどん小さくなっていく、言葉にできないくらいのあの恐ろしさ。
 残りの回が、希望ではなく絶望として伸し掛かってくる、やるせないほどのあの無力感。
 久しぶりに思い出したその苦みに突き動かされて、サンタは突然ベッドから身体を起こした。それから過去に作った自分の短歌を思い起こし、迷いながらも投稿フォームにそれを打ち込む。
 頭の中にあったのは、スクイにも伝えた甲子園のワンシーン。
 スクイズにヘッドスライディングしたランナーが、土煙の中で球審を見上げたあの瞬間だ。

 甲子園の土で汚れたランナーを 私服のままの俺が見ている

 下手でも文字数が余っていても、ほとんどスクイに導いてもらったものだとしても。それでも今すぐどこかの誰かに見せる歌を選べと言われたら、サンタの中ではこれしかなかった。
 それをもう一度自分に確認したあとで、思い切って投稿ボタンを押す。
「あ!」
 すぐにマリアが気づき、びっくりした声をあげる。
 チャット欄もその小さい悲鳴の意味をすぐに察したようだった。
『お?』
『まさか?』
『勇者いた!?』
 萎みかけていた配信の灯がわずかに勢いを取り戻していく。
 だがマリアはそんな空気にはまったく気づいていない様子で、訝しむ視聴者を他所にしばらく黙りこくっていた。
「あっ、ご、ごめんなさいね。今ちょっと、リスナーさんに短歌を送ってもらって、それをずっと読んでいたの」
『一分以上も?』
「ええ。ちょっとじっくり考えたいなって思ってしまって。……読むわね?」
「おいおい、変なこと言うなよ……」
 ただでさえ投稿第一号なのに、もったいつけるせいで変にハードルがあがってしまって、サンタは気が気じゃなかった。だが投稿ボタンを押した時点で、人前に晒す権利を委ねたのもまた事実で、今さら取り消しなんて利くはずもない。

 甲子園の土で汚れたランナーを 私服のままの俺が見ている

 もう一度腹をくくったサンタは、マリアがゆっくりと自作の短歌を読みあげるのを、刑の執行を待つ死刑囚のような面持ちでじっと聞いていた。やっぱりやめておけばよかったなんてことも思ったが、そんなのは後の祭りだった。チャット欄の反応もいまいちで、本当は今すぐにでも配信を消して走り出したいくらいの気分だった。
 それなのにマリアは本当に上機嫌で、幸せを噛みしめているというくらいの口調で言った。
「うん、そうね……あたしはこの歌、とっても好きよ」
「え?」
 驚きのあまり、サンタは届くわけもないのに思わず聞き返していた。
「一応言っておくと、初めて投稿してもらったからじゃないわよ。そうじゃなくて、純粋で、真っすぐで、気持ちが伝わってくる気がしたから。だから好きなの」
『あー、ちょっとわかるかも』
『そうか~? そんなに伝わる?』
「ええ、たしかにかなり想像力で補わせてはもらったけどね。あたしが最初に感じたのは、これの作者さんはすごく〝服装〟にこだわってるなってこと。選手たちが頑張ってる姿でもなく、球場で応援してる人たちでもなく、私服のままの自分にすっごく焦点が当たってる」
『たしかに』
『それはそうかも』
「だからそこからの想像だけど、きっとこの人も野球部だったんじゃないかしら。だけど負けちゃった。甲子園には出られなくて、それがすっごく悔しくて、たどり着けなかった場所にずっと未練を持ってる。だってクロスプレーってあれでしょ? あたしは野球に詳しくないけど、攻撃側がホームにずさーって走ってくるやつ」
『そうそう』
『交錯プレーとも言うね』
「そうよね、ありがと。でもそうすると、滑り込んでくる人のユニフォームは土で汚れちゃうはずなのよ。でもその真っ黒さは、ただの汚れなんかじゃない。選手にとっては勲章みたいに誇らしい、自分たちが成し遂げてきたものの証。だからこそその汚れたユニフォームが、この投稿者さんには眩しいんだわ。そこにたどり着けた球児たちと、たどり着けなかった自分を比べてしまうから。まっさらな私服のままの自分は、何も成し遂げられなかったんだと思い知らされてしまうから。だけど、だからこそあたしはこの人に伝えてあげたい」
 マリアはそこまでひと息で言い切ると、一度言葉を区切って、まっすぐに正面を向いた。
 見えている訳がないのに、まるでサンタの目を見て話そうとしているみたいだった。
「きっと本当に頑張ってきたのよね。偉いわ」
「……っ」
「何かを心から悔しいと思えるのは、それに心から打ち込んでいたからだって、あたしは思ってる。だからこんなにも悔しがってる投稿者さんは、きっと本当に真剣に野球をやってきた人なんだと思う」
「そうだよ……当たり前だろ」
 小学生の頃からずっと。
 遊ぶ時間すらほとんど捨てて、ただ野球だけに賭けてきたのに。
「だからね、たとえ負けてしまったんだとしても、過去の努力まで否定しないでほしいと願うわ。あなたが費やしてきた時間も努力も、あなたという人間の魅力にきっと繋がってる。だって、だからこそこうやってあたしのところにまで届いたのよ・何かに真剣になれる人というのは本当にかっこいいって思う。あたしも、いつかそうなりたい」
「は、ははっ……なんだよそれ。なんだよ……」
 マリアの考察がどれくらい正しく自分を捉えているかはわからなかったが、サンタの気持ちに寄り添うには十分すぎるくらいだった。
 一番大事な部分はしっかりと歌から読み取ってくれていて、そして一番言ってほしかった言葉をサンタに投げかけてくれていた。
 身近な人間には意地を張って認められなかったこと。サンタは野球が本当に好きで、未練があって、どうしようもなく悲しんでいるということ。それをあんな稚拙な三十文字強から読み取ってくれるだなんて、サンタは少しも想像していなかった。
『泣いた』
『泣いた』
『俺ちょっと今から野球はじめてくる』
 そんなマリアの人となりは、視聴者の大半にもしっかり伝わったようで、チャット欄は今日一番の速さで流れていた。
 そして当のサンタ自身も、またしても胸の内が誰かに伝わってしまったことに驚いていた。前回のときはただスクイがすごい奴なんだということで納得していたが、マリアやリスナーにもそうだというのなら、それはやはり短歌自体がそういうものなのだと思うしかない。
 まるで相手エースの決め球を、バットの芯で食ったときのような手応えがあった。
 たったの一回しか押せないことを口惜しく思いながら、サンタはチャンネル登録と高評価をタップした。詩歌マリアという配信者がこれからも元気に活動してくれるよう、出来る限り推していくつもりだった。

 九月十七日

「みんな久しぶり。三日ぶりね」
『こんばんは』
『こんマリア』
『こんマリ~』
 まだ足並みのそろわないリスナーの挨拶がゆっくりと流れていく、火曜日の二十二時。
 本人の言葉どおり三日ぶりとなる配信を流しながら、サンタは英語の課題に取り組んでいた。
 なにしろ部活をやめたことで、今学期からスポーツ特待を外れる。そうなれば下駄をはかせてもらっていた学業の方も、今までと同じという訳にはいかなくなる。最低でも赤点だけは回避していかないと、スクイと同学年になるという悪夢のような状況に陥りかねない。
 だがサンタのそんな真剣な決意は、不意に聞こえてきたマリアの台詞ひとつで綺麗さっぱり消え失せてしまった。
「――ということでそろそろ、みんなから募集した短歌を紹介していこうかしら。初めての人もいるかもしれないから、一応おさらいしておくわね。うちの配信の定期コーナーとして、みんなが作ってくれた短歌を紹介して、読み込んでいくってことをやっているの。お題は毎回配信の最後に発表するんだけど、今回の募集テーマは『学校生活』」
「……きたか」
 なぜそんな反応になったかというと、マリアのこの企画にサンタも投稿しているからだ。 といっても、もちろん自作の歌に自信があるわけではないし、それどころか自分は下手だという自覚もある。だがスクイに毎日短歌を見てもらっているという事実。それからもう既にネットを通じて自作の歌を全世界に晒したことがあるというのもあって、投稿するという行為に忌避感がないのはサンタの強みでもあった。
「みんなから送ってもらった短歌は、配信で紹介できなくても全部読んでるからね。読むっていうか、噛みしめてるから」
『それはうれしい』
『ほんとかよ』
『一万通の投稿が来たらどうする?』
「読み切れないくらい大量にきちゃったら、それはそのときに考えようかしら。でもそこまで言うなら、みんなの次回の投稿数に本気で期待しておくからね?」
『ごめんなさい』
『言いすぎました』
『がんばるけど一万は無理』
「ふふっ、よろしい」
 チャット欄と軽口をたたきあうマリアを見て、機転の利く人であることに改めて感服する。
 だが画面のこちら側でサンタがそんなことを考えているなんて少しも知らないまま、マリアは続けてとんでもないことを口にした。
「ということで今日紹介する短歌の一発目は、初配信のときにもいた人からの投稿ね」

 先輩のキャッチボールのパートナーは 半年前の俺の相棒

 まさかと思った瞬間にはもう、マリアはサンタの作品を読み上げていた。
 スクイとの最初の歌会に出した酷い出来のものを、事細かに教わりながら直した歌だった。
『おお~』
『何これ切ない』
『辞めちゃった人なのかな。それとも略奪?』
 しかしその甲斐あってというべきか、リスナーたちの反応は前よりも明らかにいい。特定の個人に褒められるのとはまた違う、ちょっとした自信になりそうな感覚に脳が痺れてくる。
 だが肝心のマリアの言葉は、前回よりはるかに辛辣だ。
「うん、そうね。でもあたしは、この短歌あんまり好きじゃないの」
『意外』
『前のよりいいと思う』
『俺は好き』
 一方でコメントは今回はサンタの味方で、マリアと真っ向から対立している。
「いや、だって……この短歌、パートナーが誰とか感性がけっこう女性的だし……。はっきり言うと、あたしじゃない他の女に教わってる匂いがする」
『は、こわwww』
『草』
『ヤンデレ助かる』
「ふふ。っていうのは冗談だけどね。でも前回はその場で即興で作ってもらったけど、今回は考える時間がたくさんあったから、そのあたりの違いなのかもしれないわね」
『それはある』
『即興はほんとに難しい』
『前回は送れなかったけど、今回は自分も作って送れましたよー』
 コメントとマリアの掛け合いは和気あいあいとした雰囲気で進み、マリアはサンタの投稿作の後も、順調に短歌の紹介と自分なりの解釈を解説していった。配信の空気はすっかりとできあがっていて、リスナーのほとんどはこのチャンネルの成功を感じ取っていた。
 ただ一人サンタだけが、あまりにも鋭いマリアの読解力に冷や汗を流していた。
「いや……女の勘、こっわ……」
 特に他の女の匂いという部分に背筋が凍るような思いをしたサンタは、思わず配信の画面から目を背けて呟いていた。ただマリアの読み自体はあまりにも正しくて、恐怖と同時に畏敬の念すら湧いていた。尊敬できる人というのは野球をやっているときにもいたが、マリアもまたそういう枠の中にいる人だという気がした。
 短歌のコーナーが終わり、それから雑談を経て配信が終わるまでの約二時間。
 サンタは何度もその気持ちを直接言葉にしようとチャット欄にコメントを打ち込み、とうとう最後まで送信のボタンを押せなかった。上手く言えないが、短歌を投稿するのとはまた違った心理的な壁があると感じた。だいたいチャット欄には流れがあるので、どんなコメントにも然るべきタイミングというのがある。
「次の課題だな……」
 次回こそはそのタイミングを逃さないようにすることを誓いながら、サンタはようやくそこで、英語の宿題が少しも進んでいないことに気がついた。
「最悪だ」
 スクイに送る短歌も出来ていないし、時間ももう日付を跨いでいる。
 それでもマリアなら、こんな状況でもきちんとやるべきことをやってから寝るに違いない。そう思うと、泣き言をいうような気分ではなくなっていた。

 九月十八日

 1

 憧れの人にリプライできなくていいねだけ押す なにもよくない

 午前一時すぎに布団の中で送った歌に返事がきたのは、例によって翌朝の通学時間帯。
『あの。スクイは先輩にいいねとかしてもらったことはないんですけれども』
『何言ってんのお前……?』
 夜に送って朝に読んでもらうというのは近頃の二人の定番の流れでもあり、通学時間中にスクイが感想をくれるのもよくある光景ではあった。しかし今日に限っては、スクイの言葉がいまいち要領を得ない。
 サンタは赤信号で止まる度にスマホの画面を確認し、遠く離れた場所でぷくーと頬を膨らませているであろうスクイの相手をしていた。
『だってこれ、憧れの人って。でもスクイいいねされてないですよ……?』
『じゃあ聞くけど、スクイって普段からSNSに投稿とかしてたっけ?』
『あんまりしてないです。してないですけど、先輩からそういう感情を向けられていないことを今ひしひしと感じています……!』
 そこまでわかっていて他に何がわからないのか、スクイは不満げにスタンプを連投していた。しかし事実として、サンタがスクイに向ける気持ちは憧れとは少し違う。
 それをどう当たり障りなく誤魔化すか考えてから、サンタはまた指を動かした。
 結果的に特に何も思い浮かばなかったので、すべてをスクイに委ねることにしたのだ。
『もしかしてなんだが、スクイは俺のことをちょっとバカだと思ってないか』
『……オモッテマセンヨ』
『おい。ていうかそうやって見くびってるから、裏の意味を取りこぼすんだぞ』
『えっ?』
『もっと俺の気持ちになって考えてみてくれ。そこでスクイが見つけた答えがきっと正解だ』
『それって……。はっ、まさか先輩って……すっごく照れ屋さんですか……?』
『まさかだな』
 サンタとしてはそんな場違いな単語がここで出てくることがまさかであって、「そのまさかだ」という意味で口にしたわけではなかったのだが、叙述の妙でぎりぎり嘘はついていない。
 しかしそんなことを知るよしもないスクイの方は、しっかり意図を取り違えたまま新たな解釈に突っ走っていた。
『そっか、そうだったんですね……。つまり先輩は、わたしがSNSをあんまり使わないせいでいいねを押すチャンスすらないから、それがつらくて……。もっとスクイの日常が見たいよ、いろんな面を知りたいよって、そういう想いから生まれたのがこの短歌ということ……!』
『すげえなお前』
 もちろんこの場合の〝すごい〟も、指摘が当たっていてすごいではなく、スクイの妄想力が豊かすぎるという意味に他ならない。が、もちろんここでも余計なことは口にしない。
『ふふっ……ふふふふ……わかりました、すべてを赦します……。だいじょぶですよ。スクイは照れ屋さんな先輩もちゃんと受け止めますから――!』
『それは良かった』
 案外ちょろいなこいつなどと思いながら、サンタはそこでやり取りを切り上げた。ちょうど赤信号が変わって歩行者も歩き出したところだったし、スクイに反応していたらいつまで経っても終わらないと確信していたからだ。
 というかスクイの妄想に触れていると、なぜか自分まで胸がざわざわしてくる。
「……つかなんだよ、裏の意味って」
 自分で言っておいてなんだが、どうしてそんな単語が思い浮かんだのか意味がわからない。
 首をひねりながら、サンタはようやくたどり着いた校舎脇の道で自転車を下りた。近くを歩く生徒たちは顔を寄せ合って、ショート動画を見ているようだった。サンタも目にしたことがある。可愛い服を着た同じ年くらいの女の子が、流行りのダンスを披露するあれだ。
 だがその音声を耳にしたサンタの脳裏に浮かんだのは、なぜかその踊り手がスクイにすり替わっている映像だった。
 サンタの勝手なイメージを反映しているのか、運動神経が残念な映像の中のスクイは、簡単なダンスですら危なっかしかった。ただ身長だけ見ればちんちくりんではあるが、顔は小さいしスタイルも良い。アリかナシかで言えば、アリ側にメーターを振り切っている。
「……って、何考えてんだ俺」
 危うくその脳内映像のループ再生がはじまりそうになったところで、思いきり両の頬を叩いて現実に帰ってくる。
 だがそれをするのであれば、もっと学校の手前でやっておくべきだった。
「おい。大谷止まれ。なんか変だぞお前」
 うっかり校門の直前まで来てしまっていたサンタは、当たり前のようにそこに立っていた教師に呼び止められた。面倒くさいことに、今朝の当番が担任の体育教師なのも最悪だった。そうじゃなかったら、あんな些細なことでいちいち呼び止められはしなかったはずなのに。
「おっ、おはざっす先生! なんでもないです!」
「バカたれ。朝からそんな赤い顔で変な動きしてたら、なんでもないわけがないだろうが。お前は教室入るなよ」
「横暴っすよ。ちょっと考え事してただけなんで、どこもおかしくないです」
「いいから下駄箱通らずに外から保健室行って、保健の先生に熱計ってもらってこい。変な病気じゃなければ、出席はちゃんとつけといてやるから」
「ええ~……」
「返事は?」
「……はい」
「よし行っていいぞ」
「っす。……屈辱だ」
 何がかといえば、自分がそんな赤い顔をしていることが屈辱だった。部活を辞めてスタミナが落ちたせいで、自転車通学に息が上がってしまったせいに違いなかった。もしサンタの顔が赤いのだとしたら断じてそれだけが理由であって、他の要因なんてひとつも思い当たらない。
「なんか負けた気がする」
 具体的に何にとは言えないが、いろいろなものに。
 言いようのない敗北感を抱えながら、サンタは保健室に向かった。
 遠くのグラウンドの方では、朝練を終える野球部員たちの姿がちらちらと見え隠れしていた。

 九月十九日

 掛け声と バットでボールを打つ音と 一人で帰る 俺のため息 

 この日サンタが歌会に短歌を投げたのは、珍しく平日の夕方のこと。
 ぼんやりと自転車を押して校内を歩いていたときに、ふと歌が思い浮かんだときだった。
『あの』
『なんだ?』
 さすがに下校時間ともなれば、スクイも常時スマホを触っているのだろうか。反応はびっくりするくらい早く返ってくる。
 なんとなく足を止めて花壇の脇に腰かけると、画面にはもう次のDMが表示されていた。
『元気出してください』
『なんの話だよ』
『いえ、もしかしたら落ち込んでいるのかなと思いまして』
『誤解だ。いつもどおりだぞ』
『ならよかったです。スクイはてっきり、大事な教え子が物陰でひとり泣いてるのかと思ってしまいました。先輩は短歌ではすぐ甘えるくせに、他人には全然甘えないんですから』
『お前の中の俺、どんなキャラになってんの』
 とんでもないことを言い出したスクイに、やや呆れながら言い返す。
 そもそもサンタの認識としては、現時点でもうスクイには甘えっぱなしなのだ。関係が始まってまだ一か月程度だが、あれだけ親身に教えてもらって頼りにしていないわけがない。
 とはいえそれを口にすると、スクイがまた調子に乗るのは火を見るより明らか。
 もっと敬ってくださいとか、もっと大切にしてくださいとか言いはじめる様が目に浮かぶようで、サンタはあえてそこには触れずに話を続けた。
『そんなことよりもさ。俺って短歌つくるときそんなに甘えてるか?』
『それは勿論です。甘えすぎて赤ちゃんみたいです』
『もう少し詳しく』
『そうですね。たとえばですが、先輩は根本的に字余りが多いです。甘えすぎです』
『不味いのか?』
『当たり前です。字余りや破調の全部を否定するわけじゃないですけど、先輩みたいな初心者さんの字余りはただの甘えだと思います。寝る間を惜しんで一字を削る努力をしてください。なんなら眠りながらでも、今よりふさわしい言葉を探してください。その血のにじむような試行錯誤の果てに、ようやく字余りが許される余地があるのです』
『なんだか今日のスクイは一回り大きく見えるよ』
『そうでしょうそうでしょう。なんといっても先輩専属の師匠ですからね』
『実物はあんなにちんまいのにな』
『は?』
 最後の台詞にへそを曲げたのか、スクイからの反応はそれきり返ってこなくなった。話しているあいだに思ったより時間が経っていたのか、周囲には誰もいなくなっていた。
「なんで余計なことばっか言うんだろうな、俺」
 普段はそんなことないはずなのにと、自分の言動に失望しながら立ち上がる。
 ところがサンタはそこで、いつの間にか周辺の空気がヒリついていることに気がついた。地震の前に小動物が逃げ出す現象にも近い、高校生特有の野生的勘が危機を訴えかけてきている。
 けれどそのときにはもう、破滅の足音は既に背後にまで迫っていたのだ。
「おっ、ちょうどよかった。大谷がまだ残ってたか!」
「げっ先生!?」
 振り返ったところに立っていたのは、例によって担任の体育教師だ。
「おう暇ならちょっと手伝ってくれんか。明日ブラスバンド部がミニコンサートをやるんだが、会場の設営が間に合ってなくてなあ」
「ええと……今日は、あの……」
 スクイの相手をしているときの百倍くらいの速さで思考して、なんとか逃げられそうな言い訳を探してみる。が、あいにくと今日はリハビリもないし、暇か暇じゃないかで言えば間違いなく暇だ。そして困ったことに、サンタはそこらの一般男子よりはずっと体力がある。ましてブラスバンド部の女子たちとなんて、比べるべくもないほどに。
 それを考えたら、さすがに逃げるという選択肢はない。
 そして教師の方からしても、逃がすという選択肢はないに違いなかった。
「はぁ……着替えてきていいっすか」
「もちろんだ。ジャージに着替え終わったら講堂まできてくれ。みんな待ってるからな!」
「うーい」
 スクイとのんびりチャットなんてしていたせいで、とんだ貧乏くじを引かされた。そんなさっきとは別の意味のため息を吐きながら、渋々また自転車置き場に戻っていく。
「というか、前もこんなことあった気がするな」
 もちろん偶然だとは思うものの、近頃どうにも不運が重なっている気がした。もしかしたらあのちびっ子は神様や妖怪の類で、粗末に扱うと天罰でも下してくるのかもしれない。
「なんかお供え物しとくか……」
 誰もいない教室でジャージに着替えてから、サンタはスマホにまた文字を打った。
 何度か書いては消しを繰り返しながら、最終的には画面ごと消して講堂に向かった。
『土曜 メシ 奢る』
 スクイの端末にその片言のメッセージが届いたのは、その日の深夜になってからだった。

 三句

 九月二十一日

 1

「お待たせいたしました~! モッツァレラチーズのサラダとカルボナーラ。それからシチリア風ドリア三皿でございますっ!」
「……あざす」
 街中で見かけるファミレスの中でも、高校生たちに一番馴染みの深いチェーン店。
 ちょうど学校ではブラスバンド部のコンサートが行われている頃に、サンタとスクイはそのファミレスにやってきていた。初めてスクイと出会った図書館から、徒歩で数分のお店だ。
「デザートは食後にお持ちしますね! ドリンクバーのお代わりはご自由にお持ちください! ご注文の品は以上でよろしかったでしょうかっ!」
「大丈夫です。ありがとうございます。あと声がでっかいです」
「お気になさらず! それではごゆっくりどうぞ!」
 注文の品を配膳し終えたホール担当が、無駄に元気よく一礼してから去っていく。体幹がよく鍛えられているのか、そのダンサー志望のアルバイト店員は、サンタから見てもとても綺麗な歩き方をしている。
 良くも悪くも、とても見慣れた後ろ姿だ。
「ほんとに間が悪い」
「何がですか?」
「なんでもない。こっちの話」
「はあ」
 なんの話かと言えば、今の白々しい態度のホール担当はサンタのクラスメイトの女子であり、サンタとスクイの関係を確実に誤解しているということだった。向こうもバイト中だから直接は言葉にしてこなかったものの、にやにやと笑うのを堪えきれてなかったし、口調も明らかにはしゃいでいた。このままではバイトが終わった瞬間に、クラスの喧しい女子たちに拡散されまくるのは間違いない。
「もっかいあの店員来てくれないかな」
「えっ!?」
 帰るまでに、なんとしてでも強めに口止めをしておかねばならない。
 そんな決意を思わず口に出すと、料理から立ちのぼる湯気の向こうで、スクイがジトっとした目でサンタを見つめていた。
「どうした」
「先輩の常識を疑っているところです。思い返してみれば、スクイにもすごく強引でした」
「何言ってるのかわかんないけど、とりあえず冷める前に食おうぜ」
「むぅ……」
 とはいえ口封じはここを出るまでに済ませればいいし、今は何より腹が減っている。
 スクイはなぜかふくれっ面をしていたが、焼けたチーズやトマトソースの豊潤な香りには抗いがたいみたいだった。サンタがさっさとスプーンでドリアを食べ始めたのを見て、自分も慌てて食器を手繰り寄せている。
「わかりましたよ。でもでも、本当にご馳走になっていいんですか?」
「それ聞かれるの今ので三回目な。あんま遠慮してると本当に気が変わるかもしれないぞ」
「だって気になるじゃないですか。あの先輩が、急にごはんに行こうだなんて……」
「図書館に本を返すついでだって言っただろ。俺が呼び出した側なんだから、あんまり細かいこと気にするなよ」
「気にするというか、また何かおかしなことを考えていないかって不安になるんです。スクイのせいというよりは、先輩の普段の行いのせいですからね」
 ぐうの音も出ない正論で突っ込まれて言葉に窮する。
「お……美味いなこれ」
「ほら、すぐそうやってはぐらかします。スクイそんなにお金持ってないですから、後から払えとか言われても困っちゃいますからね。代わりに別のもので、とかも無しですからね?」
「大丈夫だから。心配しないで存分に食って日ごろのストレスを発散してくれ」
「むぅ~……」
 なおも渋る様子を目にして、サンタはスクイのパスタを奪い取るような素振りをした。
 さっさと食べろという圧力のつもりだったが、スクイもようやくそれで折れたみたいだった。小さなため息をひとつ吐いたあと、
「いただきます」
 丁寧に手を合わせてからパスタを口に運ぶ。
「よし」
 具体的に何がよしなのかはよくわからなかったが、食事を奢るという当初の目的は確かに達成できた。それがうれしくて、サンタの口元は自然と緩んでいた。

 2

 単純。ガサツ。無鉄砲。男子高校生と書いてバカと読む。
 自分たちのことをそんなレッテルで捉えている人が多いことを、サンタは当事者としてよく知っている。だがそれを信じているかというと話は別で、繊細で几帳面な友人だってたくさんいるし、結局は人それぞれだとも思っている。
 けれどそんなサンタの当たり前の人間観は、スクイという少女を目の前にして大いに揺らぎはじめていた。少なくとも彼女は自分とはまるで別種の生き物であり、そこを基準にするのであれば、たしかに男子高校生は全員バカでガサツかもしれないと思ったからだ。
 たとえばスクイは、ひとつひとつの動作の丁寧さが違う。
 一度に口に運ぶ食事の量もびっくりするくらい少ないし、スプーンやグラスを置くときの動きも羽が生えているように静かだ。きっと何気ない所作のひとつにさえ、いちいち気遣いのようなものを込めているに違いない。
「ん~……っ!!」
 それなのに美味しさの感情表現だけはやたらと豊かなのが、いかにもスクイらしいと言えた。
 まるでスプーンを口に運ぶたびに、スクイという豆電球がぺかーっと点灯するかのようだ。
「……コスパ最強だな」
「そうですね。このお店お値段のわりにとっても美味しいです……!」
「うん、まあ……。俺ももう少し一口を小さくしていこうと真面目に思ってる」
「また先輩がよくわからないことを言ってます」
「褒めてるんだよ。こんな幸せそうにパスタ食う奴初めて見たって」
「人を食いしん坊みたいに言わないでほしいのですが」
「でもすごい楽しそうだったぞ」
「それはその……実はわたしの家って和食ばっかり出てくるので、洋食全般に憧れがありまして……。外食もあまりしてこなかったですし」
「へえ。だからか」
 変わったご家庭だなという言葉の代わりに、サンタはドリアを控えめに掬い上げて口に運んだ。よく言えばお上品。正直に言えば物足りないその量。今までも薄々は感じていたが、スクイの家はかなり独特であるみたいだった。カレーにラーメン、ハンバーグ。牛丼かつ丼親子丼。早くて安くて腹に溜まるものばかり食べたがるサンタからしたら、三日で音をあげそうな食生活をしていそうだ。
 だからこそと言うべきか。目の前で学生らしいランチを楽しむスクイを見ていると、サンタは少しうれしくなった。動機こそ不純だったが、誘った甲斐は十二分にあった。ぱっと花が咲いたような笑顔、とでもいうのだろうか。こんなにも長時間機嫌のいいスクイというのは、サンタは初めて見たかもしれない。
 もっともそんなのは、本当は自分が失言をしなければいつだって見られるのかもしれない。向かいの少女をぼんやりと眺めていると、そんなふうにサンタには思えてきた。
「飽きませんか?」
「飽きないぞ。スクイはおもろいからな」
「……ドリア三皿は飽きないかって聞きたかったのですが」
 しかしサンタとスクイが今一つ噛み合わないのは、もはや運命に近かった。
 反省したそばから発生したすれ違いのせいで、スクイは一転して無表情になっていた。視線は絶対零度にも近い冷ややかさを秘めていて、思わず身体の底から寒気がする。
 これは不味い。
 さっきまでにこにこしていたお師匠様が、静かにお怒り遊ばされている。
 背中から冷や汗が噴き出してくるのを感じながら、サンタは次に発する言葉を必死に探した。
 地味ながら、この会食の行く末を左右する重大な局面を迎えている。
 こうなれば、今日のために用意しておいた秘密兵器を出さざるをえない。
「コンビニを出たら出口に傘がない。持ってったやつざきにしてやる」
「え?」
「どう思う? この前のスクイのアドバイスを参考に、俺なりに字余りを避けることを考えてみた短歌なんだが」
「字余りじゃなくて別のものを避けようとしてませんか? たとえばわたしへの言い訳とか」
「違う。急に短歌の話をしたくてしたくてたまらなくなったんだ」
「はぁ……。まったく、短歌は先輩のデリカシーのなさを闇に葬り去るための道具じゃないんですからね」
「そんなんじゃないから。ただ純粋に、突然俺の向上心に火がついてしまっただけだ」
「はいはい。でも今日だけは、目の前のお料理に免じて不問にしてさしあげます。それでなんでしたっけ。またおかしな歌を持ってきたみたいですけれど」
 苦笑いしながらも、スクイがなんとか話題に乗ってくれる。
 根が真面目でいい奴だからと、予想していたとおりの展開だった。
「コンビニを出たら出口に傘がない。持ってったやつざきにしてやる、だ。この前のスクイに指摘されたあと、真剣に考えて作った歌だ」
「真剣に考えたらそうはならないと思うのですが……」
「待て待て、いいか? これは元々あれだ。俺の傘を持ってった奴、八つ裂きにしてやる! っていう怒りをふんだんに散りばめた歌なんだが、たしかにスクイに言われた通りこのままだと字余りになる」
「だから?」
 力強く断言したサンタに対して、スクイが小首をかしげながら合いの手を入れる。
「だから最初に言ったのになるんだよ。実際〝持ってったやつ〟まで読んだとき、俺たちは〝持ってった奴〟って認識するだろ?」
「それはまあそうですね」
「でも〝ざきにしてやる〟まで読むと、なるほど八つ裂きって言葉なんだなってのもわかる」
「斬新が過ぎる……」
「いやわかるぞ? 厳密に文字だけを追いかけたら、意味が通らないのはもちろんわかってる。だけど短歌ってほら、歌じゃん」
「まあ、短い歌と書くくらいですからね」
「だろ? つまり歌ってことは、短歌も本来は音で聞くものじゃん。でもそうすると人間の頭って賢いから、ちゃんと俺の〝持ってったやつ ざきにしてやる〟も〝持ってった奴、八つ裂きにしてやる〟に自動補正してくれるってわけだ。その証拠に、現にスクイはできてる」
「それはそうですけど……」
「結果的に文字数ぴったりに収まって、俺の怒りも表現できてる。完璧!」
「う~ん……」
 言うべき言葉が見つからないのか、スクイは眉間にしわを寄せて困っていた。呆れているというよりは、サンタの発想がスクイを上回ったからこその反応に見えた。考えようによっては、サンタが初めてスクイを追い越した瞬間だと言えるかもしれない。
「ふ、俺についてこれないなら置いていくぞ」
「明後日の方向に走りだしておいて格好つけないでください」
「俺、そんなに迷走してるのか……」
「とはいえスクイにない発想なのは認めます。自由すぎて。こんなの正気を失わない限り思いつく気がしないです」
「ってことは俺の勝ちだな」
「お願いですから短歌で勝負してください」
 スクイはそこでがっくりとうなだれてみせて、それでもすぐに気を取り直したように顔を上げた。もはやサンタの言動には慣れっこなのか、口ぶりほどショックは受けていないみたいだった。それよりも言いたいことがあるらしく、心なしお姉さんぶった口調で話を続けた。
「でもわかりましたよ。先輩の自由さはある意味では長所ですが、ひとつ言っておかないといけないアドバイスをスクイは見つけました」
「ぜひ聞かせてくれ」
「先輩、もっと短歌を読みましょう。とりあえず歌集を一冊。出来ればもっと。なるべくたくさんの歌人のを」

 3

 所定の位置にグラスをセットして、ウーロン茶のボタンを押す。
 ピッという音とともに、細いノズルから液体が飛び出してくる。
「もっと読め、か」
 泡を立てながらグラスに注がれていくお茶の飛沫を眺めながら、サンタは先ほどもらったスクイからのアドバイスについて考えていた。
 イメージとしては、転向したばかりで野手投げのままのピッチャーのようなものだろうか。
 型みたいなものが身体に染みこんでいなくて、フォームがぐちゃぐちゃで素人っぽい。
 いまだふわふわしたまま、どうにか三十一文字に言葉を押し込んでいるだけのサンタとしては、そういうニュアンスで言われたのなら納得はできる。
 だがドリンクを注ぎ終え、さあ真意を問いただそうかと席の方を振り返ったところで、先ほどのホール担当がテーブル横に立っているのが目に入った。
「まずい」
 思わず口に出しながら、余計なことを吹き込まれないようダッシュで戻る。
「ちっ」
 するとテーブルに戻るやいなや聞こえたのは、露骨な舌打ちの音だった。おそらくはサンタとの関係についてスクイに聞きにきたのだろうが、ぎりぎりのところで阻止できたらしい。
「ごゆっくりどうぞ~」
 そそくさと逃げていく級友の後ろ姿を見ながら、サンタは冷や汗をぬぐった。
 ところが向かいの席のスクイからしたら、そんなバタバタしたやりとりどころではなかったらしい。というのもちょうど一口分欠けたイタリアンプリンの前で、頬に手を当てたまま動きを停止していたからだ。
「スクイ……?」
「ふぁ。美味しい……しあ……わせ……」
「……一口もらっていいか?」
「もう一生、プリンだけで生きていたい……」
「やめとけ」
 ためしに上の空のスクイに何回か話しかけてみるが、どう考えても会話は成立していない。当然アドバイスの真意どころの話ではないし、これなら慌てて戻ってくる必要もなかったのかもしれない。
 軽くため息を吐いたあと、サンタも諦めてドリアの三皿目に取りかかった。スクイを見習って気持ちゆっくりめにスプーンを口に運んでいると、ガラス窓の向こうで、雨上がりでもないのに虹がかかっているのに気がついた。
 それを教えようとしたところで、ようやくスクイの意識が戻ってくる。
「あれ? 先輩いつの間に……?」
「ん? ああ、今さっきな」
「なんだか忍者みたいですね」
「どっちかというと、そっちがお姫様すぎるんだと思うぞ」
「へ?」
「いやなんでもない。それよりいつも思うんだけどさ」
「はい」
「食べ終わるのを見計らってデザートを持ってきてくれるなら、ドリアも食べ終わる頃に次の皿を持ってきてほしいよな。熱々のやつを」
「わんこそばじゃないんですから、贅沢言わないでください。というかさっきも聞こうとしたんですけど、いつも同じもの三皿とか頼んでるんですか?」
「え、そこ?」
「当たり前です。今だから言いますけど、スクイは注文を聞いて少し引いてましたからね」
「なんでだよ。運動部の男なんてみんなこんなもんなんだからな」
「それはスクイだって風の噂で聞いたことありますけど……」
「けど?」
「そういうのは、男友達と一緒に食べにいったときのお話でしょう?」
「いや、わからん。そうなのか?」
「もういいです。先輩がそういう人なのは、スクイだって知ってましたもん」
 何を言いたかったのかはわからないが、スクイは頬を膨らませたまま席を立った。両手でグラスを抱えていたから、ドリンクのお代わりに向かったみたいだった。
「コース料理とか食いたかったんかな」
 その背中を見送りながら呟いてみるが、それはサンタの小遣いでは到底無理だ。仮にそうじゃないと祟りが収まらないのだとしても、あと数年は待ってもらわないと難しいだろう。高校を出て、大学生になって、バイトなんかをはじめて余裕ができる頃。そう考えると五年くらいは必要だろうか。もちろん五年後もずっと、この関係が続いていることが前提になってくるが。
「何考えてんだ俺」
 サンタはそこで我に返って、思わず自分に対して言った。
 友人と長く続けばいいと考えるのは自然なこととはいえ、五年後の心配を今からするのはさすがにどうかしていた。
 スクイが絡むとサンタの調子が崩れるという点でいえば、昼食を奢るというこの厄除けの儀式には全然効果がないみたいだった。
 しかも面倒くさいことに、級友のバイト少女がまたしてもにやつきながらやってきて、「お皿をおさげしますね~!」と満面の笑みでからかってくる。
「一応言っておくけど、違うからな」
「あのさ大谷。あんな顔で女の子とご飯食べておいて、違うからなは無理ってもんだよ」
「だから違えから。今日は世話になってる人にお礼をしてるだけで、お前が思ってるような関係じゃない。つか年下に怖い顔して接する方が人としてやべえだろ」
「たしかにまあそれはそう。でもどう見てもそんな距離のある空気じゃなかったんだけど?」
「よしわかった。お互いのためにこの話はここまでにしておこう。ちなみに学校のやつらにバラしたら俺もここの店長に言うからな。うちの学校、バイトは校則で禁止なんですけどって」
「大谷……私は今日、何も見なかったよ。忙しすぎてずっと走り回ってたからね」
「理解が早くて助かる。俺も素晴らしい接客をしてもらいました。また来たいですとお客様アンケートには書かせてもらう」
「よし」
「よし」
 最後に理解しあえた者同士の目配せを交わしあって、クラスメイトは去っていった。
 スクイはまだドリンクのチョイスに悩んでいるのか、ずっとサンタに背中を向けていた。
「もっと高い店じゃないとお祓いにならないのかもな」
 口止めには一応成功したものの、わが身に火の粉が降りかかってくるのは変わっていない。
 サンタは残っているドリアをかきこみながら、スクイが戻ってくるのを待っていた。おずおずと振り返ったスクイの視線は、なんとなく真っ先にサンタの方を見たような気がした。

 九月二十二日

 ファミレスのドリンクバーに席を立つ背中に五年待てと呟く

 それをスランプと言うには、サンタはまだ歴が浅すぎるかもしれない。
 ただ事実として昨日からずっと難産で、なかなか思うように短歌を作れなかったサンタは、仕方なくファミレスで思ったことを三十一文字にまとめた。
 既読が付いたのはほぼノータイムで、けれど返事はなかなかかえってこない。
 待ちくたびれて先に風呂に入り、いい加減もう寝るかという頃に画面を見る。するとどういう訳か、スクイからの着信履歴が画面の真ん中に大きく表示されていた。
『なんで通話?』
 不思議に思ってメッセージを送る。
 それを待ち構えていたかのようなタイミングで、再び通話がかかってくる。
「どっ、どういうつもりですか……」
「むしろ俺が聞きたいんだけど」
「ごっ、五年待つと、スクイに何があるというのですか……!」
「ん、ああ、それか。でもなんなんだろうな」
「も~~! またそうやって……っ!」
 何がまたなのかはさっぱりわからないが、スクイが余裕をなくしているのはスピーカー越しでもはっきりとわかった。切羽詰まった声の遠くの方で、ぽすぽすと柔らかい打撃音が聞こえていたから、もしかしたら枕でも叩いているのかもしれない。
「いやちゃんと答えたい気持ちはあるんだけど、自分でもあんまり整理できてないんだよな。ていうかなんであんなこと考えたのかもよくわからんし」
「よくわからんでこんな歌をもらう方の気持ちにもなってください。……スクイ知ってるんですからね」
「何をだよ」
「……先輩が、お料理運んできてくれたお店のお姉さんと、すっごく仲良さそうに話してたことです。スクイには内緒で」
 その台詞をスクイが言い終えるやいなや、サンタの耳にぷつっという音が響いた。
 慌てて画面を見ると、通話終了という文字が無情に表示されている。
「なんだよそれ」
 捨て台詞のようにクラスメイトとのやりとりを突き付けられ、サンタもさすがに腹を立てた。
 なにしろそれに関しては正当な理由もあるし、説明を求められればいくらだってやれる。それなのに一方的に切られたのでは、話を聞く気がないと思えてしまうからだ。
 だがサンタがそう憤った瞬間、今度は先ほどの短歌にいいねのハートマークが付いた。
 スクイがそんなことをするのは、今までのやり取りの中で初めてのことだった。
「……からかわれてんのか?」
 意味がわからなくて、思わず口に出てしまう。
 果たしてスクイは短歌を評価してくれたのか、くれなかったのか。
 怒っているのか、実はそうじゃないのか。
 いいねをした意味。
 あるいは――ハートマークの意味。
 スクイが何をどこまで考えているのか、サンタにはさっぱりわからない。
「いや、ただのいいねだろ。こんなの別に」
 自分に言い聞かせるように呟いてみるが、気持ちはまったく鎮まらない。仕方なくサンタはしばらく部屋をうろうろしたあと、服を着替えて部屋を出た。
 深夜だろうと残暑が厳しかろうと関係ない。何も考えられなくなるまで思いきり外でも走ってこないと、とても眠れる気がしなかった。


 最後に……

いかがだったでしょうか!!
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