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揺らぐ、

足の裏が灼けるように熱い。真夏の太陽に照り付けられたプールサイドは凶器だ。なるべく地面との接触面積を減らすように、跳ねるようにして歩みを進める。

鉄板のような熱を持った緑のコンクリートの上で、『白雪姫』に出てくる魔女を思い出す。熱々に灼かれた鉄の靴を履かされ、死ぬまで踊り続けたという魔女。童話の世界では、勧善懲悪を盾にして無邪気で残酷な仕打ちが行われる。

そんな空想を頭に浮かべながらプールに近づき、眩しいまでに輝く水面と、そこに浮かぶ人の群れに目を凝らす。

「おー、今日も来たね」

聞き慣れた声が耳に入ってきて振り返ると、探していた人物がそこに立っていた。紺色の水着からすらりと伸びた白い手足と、涼しげな目元。
何度会っても、わたしは相変わらず彼女の姿を直視することができない。日射しをよけるふりをして、右手を目の前にかざした。

「佐伯さん、お疲れさま」

「梢でいいよ。わたしもミクって呼ぶし」

佐伯梢とは、この夏に知り合ったばかりだ。同学年に何百人と生徒がいるこのマンモス校では、毎日同じ場所に通って日々を過ごしていても、卒業までの3年間でいちども言葉を交わさない人間のほうが多いだろう。

夏休み前の試験が終わったあの日、わたしは今日と同じように、制服のままプールを訪れた。放課後、水泳部のテリトリーとなるこの場所に足を踏み入れるのは体育の授業のときとはわけが違って、すこし緊張していた。

広々としたプールの中を散り散りになって泳ぐ大勢の水泳部員の中で、梢はひときわ目立っていた。白く長い腕が真っすぐに伸び、しなやかな弧を描いて入水する。その動きに合わせて水面がリズミカルに揺れ、踊るように水しぶきが上がる。

その光景を見た瞬間、全身に稲妻が走り、わたしは直立したまま動けなくなってしまった。
この子だ、この子しかいない、と思った。

「すみません。5番レーンで背泳ぎしてるあの子、誰ですか」

気がついたら、反射的にそばのベンチに腰掛けていたマネージャーらしき女子生徒に声をかけていた。

「あぁ、梢ね。佐伯梢です。女子水泳部のエースですよ。あ、もしかして写真部の人ですか? 顧問から聞いてます」

「あ、はい……」

「もうすぐ休憩時間なんで、ちょっと待っててくださいね。よかったらここ座ってください」

熱に浮かされて生返事をしてしまったわたしに、彼女は朗らかな笑顔で対応してくれる。促されるままベンチに腰を落とし、スクールバッグからカメラを取り出す。本体にレンズを装着する手が震えた。
佐伯梢に焦点を当てて、ファインダー越しに食い入るように見つめる。わたしは夢中で、なんどもシャッターを切った。

10分ほど経ったころだろうか。横にいた女子生徒が立ち上がり、首にかけていたホイッスルを吹いた。

「休憩でーす! こずえー、ちょっとこっち来てー!」

泳ぎを止めて立ち止まった佐伯梢が、胸から上を水面に出し、こちらを振り返る。額にゴーグルを上げた彼女の、切れ長の鋭い目に真っ直ぐ捕らえられて、わたしはまた硬直してしまう。
プールから上がり、水を滴らせながら歩いてくる梢に、マネージャーが先立って説明してくれる。

「写真部の人。文化祭の発表に向けて、作品のモデル探してるんだって」

「2年C組の花田未来です。佐伯さん、はじめまして」

「C組? 隣のクラスだね」

「あの、もしよければ、佐伯さんを被写体に写真を撮りたくて」

「ふーん。べつに、練習の邪魔にならないならいいですけど。今、インターハイ前で結構大事な時期なんで」

「ちょっと梢、そんな言い方ないでしょ」

マネージャーが慌てたように梢をたしなめる。わたしは緊張でうまく声を出すことができない。

「ぜひ、お願いします。普段通り練習しているところを撮らせてもらえれば大丈夫なので……」

「ならご自由にどーぞ。いいの撮れたら見せてね」

そう言うと、梢はひらひらと手を振って水飲み場のほうへ歩いて行った。

「花田さん、ごめんね。あの子ちょっと変わってて。根はいい奴なんだけど」

困ったように眉尻を下げるマネージャーに、ぜんぜん大丈夫です、と返しながら、わたしは梢に釘づけになったままだった。

それから、水泳部の練習時間に合わせて足繁くプールへ通い、梢の写真を撮る日々がはじまった。

*

夏休みに突入し、インターハイを目前に控えた水泳部は連日のように練習に明け暮れていた。最初は梢と挨拶を交わすので精いっぱいだったけれど、顔を合わせるたびに少しずつ同級生らしい会話ができるようになっていた。
低い声で「未来」と名前を呼ばれると、足元がふわふわして、宙に浮くような感覚がした。

梢の白い四肢が、太陽の光を反射して輝く。わたしの生まれつき浅黒い肌は、どれだけSPF値の高い日焼け止めを塗ったって彼女のように透き通った色にはならない。
直視するにはあまりにも眩しく、ファインダー越しにしてようやく冷静に、その全容を見つめることができた。

練習時間終了のホイッスルが鳴り、カメラをスクールバッグにしまっていると、梢がわたしのもとへ歩み寄ってきた。

「お疲れ。いい写真撮れた?」

「前よりは感覚つかめてきたかも。現像するまで、うまく撮れてるかわからないけど」

「現像?」

「これ、フィルムカメラだから。デジカメみたいにその場で出来あがり見れないんだよ」

ふーん、と梢が目を丸くする。第一印象ではクールな子だと思っていたが、出会って1週間が経ち、意外と表情豊かで愛嬌もあると知った。

日よけの下のベンチに腰かけて、いつもより長めに雑談をした。
梢のタイムが少し伸びたらしいこと、インターハイで最初に当たる対戦校が強豪だということ、こんなに泳いでいてもお風呂上りにアイスを3本食べるから体重が変わらないということ。
ほとんどわたしが聞き役だったけれど、気がついたら周りには後片付けをしているマネージャーだけが残っていた。

「そろそろ行くかー。ね、このあとちょっと付き合ってよ」

梢はそう言うなりすっくと立ち上がり、真っすぐに出入り口のほうへ歩き出す。わたしは戸惑いながら、そのあとを追う。

「もう誰もいないや。入って大丈夫だよ」

女子更衣室のドアを開けながら、梢が手招きする。
入り口に立つと、途端にむわっとした湿気が全身を覆った。わずかなカルキの匂いと、制汗剤の甘い香り。残っている女の子たちの温度。
ここで待ってるから、と返す声が震えた。

梢はなんのためらいもなく、水着を脱ぎ始める。慌てて目を逸らしたけれど、一瞬視界に入ってしまった。いつも布に覆われている部分と、そうでない部分との、肌の色の違い。
毎日のように姿を見ているから、彼女が少しずつ日焼けしているのに気がつかなかった。いや、気がつかないようにしていたのかもしれない。

急いでドアを閉めて、早鐘を打つ左胸に手を当てた。大きく息を吐き、深く吸って、呼吸を整える。

「なにしてんのー? うわ、シーブリーズなくなった」

梢の無邪気な声が聞こえる。波打つ鼓動をどうにか落ち着かせようと努めていたら、ふいに扉が開き、わずかな隙間から梢が顔を出した。

「ね、制汗剤持ってない?」

濡れた黒い前髪が、額に貼りついている。蒸し暑い室内で上気したのか、頬が少し赤く火照っている。
なにかが胸にせり上がってくるのを感じた。

「――ごめん、このあと部会だったの忘れてた!」

咄嗟に早口でまくし立てて、逃げるようにその場を去った。振り返らずに走ったから、そのとき梢がどんな反応をしたのか、どんな顔をしていたのかは知る由もない。
無意識のうちに駆け込んだ先は、写真部の所有する暗室だった。

幸い、先客はひとりもいないようだ。スクールバッグから何日か前に撮ったネガを取り出し、引き延ばし機にセットする。集中してピントを合わせているうちに、乱れていた呼吸が整ってくる。この赤い部屋で作業をしているときが、いちばん落ち着く。

バットに広げた現像液に印画紙を浸すと、フィルムに収めた梢の姿がしだいに浮かび上がってくる。心の中で現像時間をカウントしながら、その様子をぼうっと眺める。

「誰か入ってる?」

遮光カーテンの向こうから聞こえた声に一瞬びくりとするが、その声の主が写真部の顧問だとすぐにわかって、安心して返事をする。
先生は静かに室内に入ってくると、バットに浸されたわたしの写真を覗き込んだ。

「へぇ、なかなかよく撮れてるじゃない。この子が花田さんのミューズね」

「ミューズ?」

「写真家のパートナーにして、創作のインスピレーションを与える女神。夏休みのうちに見つかってよかったね」

いい仕上がり期待してる、と笑顔で告げながら、先生はすぐに暗室を出て行った。

梢が、わたしに創作のインスピレーションを与える女神?

彼女の言葉を反芻しながら、胸につかえる違和感を取り除くことができない。

写真をクリップに挟んで吊るし、乾燥にかけながら、一枚一枚をじっと見つめる。
水しぶきを上げながら弧を描く、細くしなかやかな腕。飛び込むときに美しい角度で反った背中。

わたしは梢を、被写体として消費しているのだろうか。
違う、わたしはただ、彼女のありのままの美しさを作品に昇華したいだけ――。
そう言い聞かせても、罪悪感は大きくなっていくばかりだった。

その日を境に、わたしは思うように写真が撮れなくなっていった。

*

「あれ、今日はいつものカメラじゃないじゃん」

あの更衣室の一件から数日後。なんとなく気まずい思いを抱えたまま、わたしは練習が終わるぎりぎりの時間にプールへ足を運んだ。

カメラに全く興味がないと思っていた梢は、意外にも真っ先にわたしの手元の変化に気がついたようだった。
まぁ、それもそうか。普段構えている35mmのカメラと、今日持ってきた使い切りのカメラでは、サイズ感も見た目も違いすぎる。

「ちょっとスランプで。フィルムがもったいないから、今日はこれでリハビリ」

「ふーん。それなら、わたしも修学旅行とかで使ったことあるよ。なつかし」

あっけらかんとした梢の態度を前にして、わたしは拍子抜けしてしまった。と同時に、驚くほど自然に、心に浮かんだ言葉をそのまま口に出すことができたのだった。

「……梢。この前、ごめんね」

「あー、それ気にしてたわけ? だから昨日も来なかったのか」

べつにいいって、と言いながら、梢はいつも通りわたしの隣に腰かけた。決して深く詮索はせず、けれどなにかを察したように黙ってそばにいてくれる彼女を、さらに遠い存在のように感じてしまう。わたしはどう頑張っても、梢のようにはなれない。この期に及んで横に座る梢の姿を直視できず、ただ足元の地面を、緑のコンクリートを見つめていた。

そうしているうちに、どのくらいの時間が経ったのだろうか。あの日と同じように、だんだんと人気がまばらになっていく。こうやっていつまでもプールサイドに残っているわたしたちを、もはや周りも気に留めなくなったらしい。戸締りだけしてってね、とマネージャーが梢に鍵を預けて去っていく。
ふたりだけになって、わたしはようやく口を開いた。

「梢はさ。急に泳げなくなることってある?」

少しの間が空いて、梢はいつもと変わらない声のトーンでつぶやく。

「たまにね」

「そういうときってどうするの?」

顔を上げて、ちらりと横を見る。梢は眉間に皴を寄せて、うーんと唸ったあと、急に腰を上げた。かと思うと、つかつかとプールに向かって歩き始める。
わたしがぽかんとしていると、梢は誰もいない水中に勢いよく飛び込んだ。

「ぼーんやりする! こんなふうに!」

仰向けになってぷかぷか浮かびながら、梢はけらけらと笑う。わたしもカメラを片手に立ち上がり、飛び込み台の上にしゃがみ込む。見下ろすような形で、プラスチック製のチープな窓を覗き込み、ゆっくりとシャッターを押した。

「宇宙って、こんな感じなのかな」

梢はたまに突拍子もないことを言い出す。わたしからしたら、水面の下に潜ることと、遠い空の彼方へ飛び出して無限大の空間を漂うことは、まったく対極にある行為のように思える。
どこまでも飄々とした彼女を、わたしは今まで必死で追いかけてきた。息をつく暇もないくらいのスピードで、するするとファインダーをすり抜けていく姿を、瞬間瞬間の動きを逃さないようにと。
今、目の前で空を仰いでいる梢を、不思議とこれまでで一番近くに感じた。

「あ! わたしも未来のこと、撮ってあげるよ」

水面に寝転がってしばらく微動だにしなかった梢が、急に思いついたかのように叫んだ。
たったひと掻きでこちらに近づいてきて、その長い腕を伸ばす。梢の手のひらにカメラを預けようと体勢を直した瞬間、軽い目眩がした。

「あ」

おもちゃのように軽いそれは、ぽちゃん、という音と共に水中に沈んでいった。広がった波紋は瞬く間に消え、水面越しに見える黒い物体は底にたどり着いてゆらゆらと揺れている。いや、揺れているように見えるだけだ。

「うっわ、ごめん!」

梢が慌ててカメラを拾い上げるけれど、恐らくもう使いものにならないだろう。

「大丈夫、安物だし。今日はろくな写真撮れてないし」

珍しく狼狽えている梢がなんとなく可笑しくて、思わず吹き出してしまう。
梢はばつが悪そうにこちらを見上げたが、わたしにつられたのか、すぐに顔をくしゃりと歪ませた。

「やっと目、見てくれた」

その一言に、思わずどきりとする。西日に照らされて、梢の顔がよく見える。笑みをたずさえた目尻に数本のしわがより、頬には色の薄いそばかすが点々と浮かんでいる。

「ねぇ、帰りにマック行こうよ。おなか空いちゃった」

うん、と頷きながら、顔が熱くなるのを感じる。ファインダー越しではない梢を、日常を生きる彼女を、この目に灼き付けたいとつよく思った。
濡れたカメラの表面は、手の中であっという間に乾いていった。

(了)




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