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SEは社会で浪費されている。今こそ「エンジニアリング」の精神を解放しよう。

前回の投稿では、「SEに疲れたら地方の中小企業で経理をやろう」という主張を説明する上で、「SE」が持つ特殊能力について説明しました。

今回はその続きで、SEの性質と置かれた状況ついて説明していきます。

SEは謙虚

当コラムでいうSEの定義としてプログラム経験を挙げましたが、プログラマーは自ずと謙虚になるものです。

なぜならば、もしプログラムが意図通り動かなければ、使っているフレームワークにバグがあるか、もしくは自分が書いたコードにバグがあるかのどちらかしかないからです。

もし前者であったとしても、その仕組みを採用したのも自分であり、それも含めて自分のせいです。
使うつもりだったライブラリにバグがあったら自分で同じ仕組みを作るしかないし、だからといってプロジェクトを遅延させることは許されません。

デバッガーは自分の能力の不甲斐なさをありありと突きつけて来ます。
「ほら、あなたがおかしな値をセットしてるんでしょ」と上から目線です。

さらに言えば開発言語でさえも「使わせていただいている」ものです。
世の中の素晴らしいシステムに出くわすと、開発者への敬意、いや、畏敬の念さえ抱きます。

Googleによる、技術と美意識が両立された数々の優良サービスを見るにつけて、あまりの敗北感にキーボードを投げ捨てて一人で街を彷徨いたくなります。

プログラムをやるためには、そのように自分の実力を真摯に受け止めない限り先に進めないので、謙虚にならざるを得ないのです。

「エンジニアリング」とは”屍の山”

そんな純真さをもつSEたちの作業でイメージされる「プログラム作成」は、いかにもクリエイティブな作業に見えますが、実際は違います。

何か新しい技術体系を作り上げるというよりは、誰が賢い人が作った既存の仕組みを使わせてもらい、それによって利用者の利益を最大化するという作業なのです。

「ITドカタ」などという言葉がありますが、まさに重機を使って現場を地ならししていたり、ひたすら土砂を積み上げていたりするイメージの作業もあります。

しかし、その語源となっている建築・土木現場であれば、いずれは構造物が完成し、多くの人目にさらされ、長い間、日の目をみることでしょう。そこで働く人々は現場を通るたびに鼻高々です。

「ほら、あのビルの地面はパパがきれいに平らにしたんだよ」
「パパすごーい」

3歳の娘のハートも、ユンボのアタッチメントを巧みに操るが如くがっちり掴めます。

しかし、SE、というよりは製品やサービスの開発や導入に関わる人たち全般の話ですが、必死に5年10年やってきたことが、他社の技術や製品に瞬時に淘汰され5年後には世間から忘れ去られることも少なくありません。

「お父さんはな、お前も使っているiPhoneの前身ともいえる”ザウルス”という端末を開発したんだよ」
「・・・・へー・・・・(ほねほねザウルスしかシラネ)」

つくづく、仕事の成果を子供に説明しやすい職業にすりゃよかったなんて思うものです。

そもそも、企業というのはリスク分散をします。
何かの事業がもしコケても良いように、別の事業に予防線を張っておきます。
これは戦略としては当然なのですが、コケたほうの関係者たちの思い入れなど経営者は知ったこっちゃありません。

なにせ多くのSEは、「エンジニアリング」、つまり技術を人間の生活に役立てることにモチベーションを感じているはずです。
言い替えれば、人と技術を結びつけるキュービッドとなることを目指しています。

しかし上記のような状況が続くことで、キューピッドどころか心の折れたエンジェルが大量発生している現状があるのです。

そして巨大システムの歯車に

仮に自分が開発や提案に関わった製品なりサービスが売れて世間的に認知されたとしても、得られる満足感は以前より減っていると感じます。

なぜなら、商品が複雑化・巨大化してきているため、製品に関わる人たちの役割も縦割り化し、「自分が作った」「俺が導入してやった」といえるほどの成果が見えにくくなっているためです。

企業向けシステムの開発に携わるにしても、一部の機能を設計・製造するに留まります。
その機能が動作の根幹に関わる重要なものであればまだしも、ほとんど使われないような機能であることも少なくありません。

昔のガラケーにあったテレビ電話機能なぞは、通話料金がバカ高くてほとんど使う人がいないのにも関わらず、映像だ音声だとメモリやCPUをバカ喰いするためリソース設計がとても難しいものでした。
そこに通話着信だメールだなどの割り込みが発生した時の挙動を保証し・・・などと、明らかに労力に対するユーザーメリットが割りに合ってなかったと思います。
(だからガラケーといわれたのですが。)

悲しいかな、テレビ電話機能はSkypeを筆頭とするWEB会議アプリにあっというまに淘汰されました。昔といっても10年も経っていません

そんな案件を続けていくと、なんだか、

・大勢のおっさんが人生の貴重な時間をかけてまで、やらなきゃいけないことなのだろうか?
・人としてもっとやるべきことがあるのではないのか?
・自分にとって幸福とはなんだったのか?

などと、技術書しか手にしなかった人が突如哲学書に手を伸ばし家族に心配される事案が発生します。

つまり、好きなことをしているつもりが、いつのまにか巨大な社会の歯車となりすり減っている自分であることに気づくのです。

ここではSEというよりは商品開発の目線で例示しましたが、自社商品をインテグレーションする立場も同じことが言えます。他社より明らかに劣った製品を強引に提案・納品させられる苦痛というのもあります。

そこで思う「誰のための仕事か?」

戦後から高度経済成長期ならばエンジニア冥利につきる製品が数々生まれていたと思います。
三種の神器などと言われた家電が中間層にも普及し、多くの人の生活を格段に便利にした技術に携わることは技術者の誇りだったと思います。

今はどうでしょうか。

スマホ、ロボット技術、ドローン。仮想化技術、仮想通貨、4Gから5Gへ。

確かに、より便利になったとか、それの登場によってビジネススピードが増した、何か別の製品が淘汰されてビジネスチャンスが生まれた、など経済・産業に劇的な変化を生んだものはあるかもしれません。

しかしそれによって、人間の自由な時間が増えたとか、給料が2倍になって美味しいものが食べられるようになったとか、知識や道徳観が洗練されたとか、人生がより豊かになったとか、そういった種の幸福感を得るのに良い世の中になったとは正直感じません

なぜ技術が進歩しているのに幸福感がないか。

最近のAI関連記事では「こんな便利な未来が来る、いや、もう来ている。」ということばが呪文のように連呼されます。
Mr.マリックのキてますブームを想起させられますが、TVの前でスプーンを握っても何も起きなかったのと同様に、結局なにもキてない。
せいぜい自分で力づくでスプーンを曲げて、自分にもキているように自己暗示しているだけです。

なぜキテる実感が伴わないのか。

それは、技術は次々に生み出されても、それがごく一部のリッチな上位層にしか恩恵をもたらしていないためです。

つまり最新技術に携わっている人の多くは
「自分の身を費やして、これまでもリッチだった人をよりリッチにしてはいるが、自分はちっともリッチになっていない」
という状況なのです。

「パネルが残り5枚になりました」

技術そのものは、人の貧富や企業の大小を選ばないものだって多いはずです。
にもかかわらず、広く恩恵を受けられていない理由はいろいろあります。
資金繰りに精一杯で先行投資できず技術が導入できない中小企業の事情もあるでしょう。

しかし一番の原因は、新しい技術を取り入れるべきところに、それができる適切な人材が回っていないためということに気づいたのです。

別に技術は逃げも隠れもしていません。つまりチャンスはあるはずです。

しかしそのチャンスをチャンスだと気づくこと。
気づいたらチャンスを活かすために積極果敢に行動すること。
そのためには、そのチャンスに対して「勘」があり、リーダッシップを取れる人がいないと、チャンスはチャンスにさえならないのです。

いわば、しっかりアタックチャンスすること。
さすれば児玉清も天国で拳を握りしめてくれるでしょう。

つまり、言い換えれば、エンジニアリングの恩恵を受けるために何をすべきかわかる人が、「会社への影響力を持った形で」「各企業に最低一人」いれば、それを潤滑油として技術は末端まで浸透します。

長い前置きでしたが、それができる逸材こそが「SEの素養を備えた人間」だというのが筆者の主張です。

さぁ、エンジニアリングの本質を思い出し、「リッチな人をもっとリッチにする」ための仕事はそれが好きな人に任せて、もっと社会に対して自分の力を解放してみましょうよ。

今の多くのSEの状況を、しつこくも「アタック25」で例えるならば、コツコツと正解を積み重ねてきたのに急に角に飛び込まれて一気に自陣を奪われ、美味しいところは全部他人に持っていかれている状態です。
そういう優勝者はリスペクトできないと感じるのもSE脳ではないでしょうか。

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