見出し画像

ワクチンハラスメントを支える「免罪符」思想から脱却するために

(TOP画像引用元:いわきコロナアクション

新型コロナワクチンを打つ・打たないは自由。
自分がどちらなのか表明する必要もなければ、聞くこともしない。
それが自由ということ。

こういった風潮になりつつあると感じています。

これは「反ワクチン派」の敗北なのか。
はたまた、結論が見えない、というよりしばらく結論などありようもないが故の折衷案なのか。

いずれにせよ私は上の空気感で良いと思っていますが、次のようなびっくりアイテムが誕生してくると、いろいろと考えさせられてしまいます。

 吉野さんは「原発事故に対する反応に似ている。怖いものは怖いし、理屈じゃない。『接種する』『接種しない』の選択は尊重されなければならない」と強調する。
みんゆうNETより)

県外ナンバーの車に「○○県在住です」のステッカーを貼るのもそうだし、こういうのは分断アイテムにしか思えないのですが、みなさんはどうお感じでしょうか。

原発の風評被害で散々痛い目にあっている福島でこれが創られる。
農産物に「放射能未検出」と書くような、ブーメラン感を禁じ得ません。


それはさておき、上記風潮に逆行するように、会社からのワクチンゴリ押しについてはまだまだなくなりそうにありません。

家族型企業のワクチンハラスメント

誰かさんの会社では、上の立場の人が朝礼で「早めに接種を受けるようにお願いします」と言い、「あなたはいつ受けるの?」という会話も日常です。

予約が取れない人には職域接種の申込みを推奨し、あまつさえ、希望者に名前を書かせて社員全員に回覧する始末です。プライバシーもあったものでない。

早く接種したくてもできていない人に、企業の枠組みを使ってその機会を増やしてあげるのは、悪くありません。

しかし、それをする理由が、企業利益確保の考えに基づくのならば考えものです。

実際はほとんどそうなのではないでしょうか。
ワクチンで社員が感染・発症する確率が少しでも減ったのなら、一斉休業や事業所閉鎖、お客様の来社拒絶といった経営リスクも減り、事業収益確保にも有利だろうと考えているのです。

そこには、ワクチンの副反応リスクに対する社員の健康への危惧などありません。社員がもし病気になっても、周りに迷惑をかけなければよい。別の社員を雇えばよいのですから。
「家族型経営」に見える企業ほど、蓋を開けたらそんなものです。

ワクチンを打たなかったら、会社としてどうする気?

そんな企業は、仮に社員が感染者になったとしたら、ワクチンを打ったかどうか確認するとでもいうのでしょうか。

確認するのであれば、その答えによって会社としての対応が変わらないならば聞く意味がありません。

ということは、ワクチンを打たずに感染・発症したら、人事評価をマイナスする対応でもするというのでしょうか。

しかし、査定基準は透明でなければいけません。
「ワクチンを打たずPCR検査で陽性になった者は人事考課をマイナスすることがある」などと明文化なぞできやしないでしょう。

そんなことをすれば思考停止のブラック企業としてSNSに晒されるのは時間の問題な上に、支離滅裂な規則だと従業員に非難された場合に、反論できる客観的なデータもまだありません。

つまりは、企業としては、社員のワクチン接種有無を確認しなければいけない理由などないのです。

それでも聞かれるとしたら単なる興味本位と変わらないわけで、信仰宗教を聞かれたときと同じで、答える必要もありません。

ワクチンを打たなかった場合に考えられる「社会人としてのリスク」

一方で従業員目線からすると、自分がコロナで重症化するのを防ぎたいという本来あるべき目的の他に、

「もし自分が会社のクラスター発生源になったら、同僚に顔向けできない」

といった、社会人としてのマナーやメンツを問題に思うことでしょう。
(なお、現段階ではワクチンを打っても感染リスクが減るというデータはないのですが、そういう希望的観測を持ったとしたとします)

しかし、それはいわば「過剰な善意」に過ぎません。

紋切り型の言い方をすれば、会社の規則上問題なければ、会社が指定した席で想定した人を相手に、指定した業務をこなした上で感染を広めてしまうリスクがあるとすれば、それは、会社が対策すべきことです。
だから、多くの企業はクラウド環境を整えて、リモートワークさせるわけです。

そうはいっても、「和を重んじる日本人」としては、会社が法令や公序良俗に抵触する就業規則を定められないのと同様に、雇われている側も会社の秩序を見出してはいけない、という気持ちが前提としてあることは理解できます。(もっともその日本人のイメージも上に都合が良いように刷り込まれたもののような気もしますが)

つまり、まとめると、「常識的で善良な市民」がワクチンによって期待することといえば、次の2つに集約されるのではないでしょうか。

■ 発症・重症化・死亡リスクの低下を期待する

■ 「ワクチンを打った」という、免罪符が得られる



発症・重症化・死亡リスクの低下を期待できるか

これについては、政府発表の各資料を見たら、発症者数について確かに統計上有意に差があったものとして報告されています。
しかし、全体の比率で言ったら「どんぐりの背比べ」と私は言いたくなってしまいます。

有効性について(臨床試験の概要)
(略)その結果、過去に新型コロナウイルスの感染歴がない場合で95.0%のワクチン有効率が確認され、感染歴の有無を問わない場合でも94.6%のワクチン有効率が確認されました。

この「95%」という誤解を生みそうな言い方の問題については下記の記事が理解しやすいです。

その数字を正しく理解した上でも「どんぐりの背比べ」と言ったのは、そもそもの発症率・重症化率・死亡率が低いからです。

海外6カ国の臨床試験の結果では、ワクチン接種群で感染歴なしの被験者の発症率が0.043%、プラセボ(生理食塩水)摂取群は0.88%ですから、結局どちらにせよ99%以上は発症しないとも言えるわけです。
※1%もかかる病気は恐ろしい。そう考えることもできますが、これはあくまで軽微な症状含む「発症」数であって、重篤化や死亡となると更に低いばかりか、全年齢かつ欧米のデータです。日本人若年層が被験者だったらどうか。これは別議論になるので割愛します。

なお、この治験の接種群・非接種群の被験者はどのように選んでいるかわかりませんが、おそらく年齢・性別・生活習慣等に偏りがないようにランダムだと思います。

一方で、下の記事はどうでしょうか

引用されている米疾病対策センター(CDC)のデータは、あくまで実際に発生した症例数です。

「ワクチン接種完了者は未接種者と比較して入院リスクが10分の1、死亡リスクが11分の1」という結論は、統計的に有意であったことは示されていますが、なにせ同じ人で比べたわけでも、ランダムに選んだ人でもないので、個人差の要因が大きい気がしてしまいます。

つまり、ワクチンを打った人(調査ではデルタ株蔓延後の6/20以降で全体の18%)は、優先的にワクチンを接種できる身分、つまり社会的に恵まれている人である可能性があり、ホワイトカラーの比率が高いかもしれません。彼らはリモートワークをし、初期症状が出たらすぐに検知できて休みをとって医者にかかり、その結果重篤化が防げているのかもしれないのです。

一方でワクチンを打ってない人(82%)は、コロナを軽視していて初期症状時に対処しなかったのかもしれないし、低所得層の割合が多く忙しく働き、初期症状程度では仕事を休めなかったのかもしれない。

つまり、ワクチンを打ったか打たないかの要因ではなく、「初期治療したかどうか」の見えない要因(潜伏変数)による差かもしれないわけです。

なお、私の統計リテラシーを言えば、大学では一応、物理心理実験を計画して統計分析した経験があるものの、なるべくシンプルな「対応のある2標本t検定」くらいしか使っていません。その浅学の故に言っていることが誤っていたら申し訳ないですが、上のことを否定できる前提条件は読み取れませんでした。

なお、CDCの今回のデータであっても、50歳未満で言えば、ワクチンを打ってない人の入院者数は10万人あたり1週間でわずか4.3人、死亡者数はわずか0.2人です(死亡者をどの範囲まで含めたのかまでは調べていませんが、コロナきっかけで基礎疾患が悪化した場合も含む可能性があります)。
つまりこれでも、確かに差はあったとしても、どんぐりの背比べ感は否めません。

つまり、これらの治験や実際のモニタリング結果からだけでは、「打っても打たなくても別にそんなに変わらないんじゃ?」という考えを否定できる根拠に乏しいのです。

「ワクチンを打った」という、免罪符が得られるか

上で書いたとおり、会社が公式にワクチン接種有無によって待遇に差をつけるなどの処遇を取ることはできないと思うので、ならば何の免罪符かといえば、「自分の罪悪感」に対しての免罪符です。

この「免罪符感」が浸透しているから、それにつけこまれて、企業が「早く打とうね~」と勧めてくるのも正当化されてしまっている、と思うのです。

その状況をどう打破するか。

「打つ・打たないは自由」の空気感が広がれば、打っていないからと非難する人は減っていきます。
その境地を他人に強制することはできないので、「まずは自分がその空気感に加わる」必要があります。

それと同時に、打つ選択肢・打たない選択肢両者を肯定できれば、どちらを選択しても罪悪感を持つことはないでしょう。
肯定感を得るためには、自分の中で理屈として納得できることが必要になります。

つまり、「免罪符を得るために打つ」という不自由な束縛から開放されるためには、自分で情報を集めて、自分の頭で考えるしかありません

いわゆる反ワクチン派の記事を見ると、個人でしっかり資料を読み込んで自分の頭で考えて主張している方もいれば、論点が発散していたり、結論ありきでデータを都合良く解釈しているケースが見られます。
私も精読しているところなのでまだなんとも言えませんが、例えば「それまで元気だった基礎疾患のない20代が、ワクチン後に突然死ぬわけがない」といった感情論が一行でもあると、他の文章は正しいことを言っていても、全体の信憑性を下げることになってしまいます。

今回の私の記事も不勉強なところはありますが、企業でみられる問題については早めに文章化したかったこと、そして、ワクチンの効果についての分析結果ついては疑問を投げたかったことがあり、その2点を今回書く上で、最低限の一次資料を確認しました。

しかし、データの多さに読解が追いつかず、多くの曖昧な感想は削らざるを得ませんでした。

この、言わば「コスパの低い」活動に、何の意味があるのかとさえ思います。しかし、引き続き考えていきたいと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?