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【読書録】『なぜ私だけが苦しむのか』H.S.クシュナー

今日ご紹介する本は、『なぜ私だけが苦しむのか』。著者は、H.S.クシュナー。副題は『現代のヨブ記』。私が持っているのは、斎藤武訳による岩波現代文庫版(2008)。

私は、毎日、Voicy(音声プラットフォーム)というプラットフォームで、佐々木俊尚さんの音声発信を拝聴している。先日、「悲痛なできごとや心の傷から逃れるための時空間認識能力」というテーマでお話しされていて、そこでこの本が紹介されていた。即ポチった。

私は幸い、現時点では幸せな人生を送っている。しかし、過去には、何度か、私自身や私の家族が、突然の不幸に見舞われたことがある。その際、「なぜ私たちにこんなことが起きるのか?」「私たちは、何も、悪いことをしていないのに!」と、強い絶望感を抱き、不公平感に憤り、やるせない気持ちに苦しんだ。まさにこの本のタイトルのように、「なぜ私(たち)だけが苦しむのか?」という問いを発した。だから、この本が届くやいなや、むさぼるように読んだ。

この本の著者クシュナーは、アメリカのラビ(ユダヤ教の聖職者)。彼自身の息子が若くして重い病気にかかり、苦しみや死に直面した経験から、「神が善でありながら、なぜ悪や苦しみを許すのか?」という問いに直面した。この本は、宗教の指導者でありながら、説明のつかない不幸に見舞われた当事者である著者が、この難解な問いに正面から向き合って答えを出した本だ。

この本と出会えて良かった。それが読後の率直な感想だった。

この本を読んで、昔、自分や家族を襲った不幸について、その後も心の奥のどこかでくすぶっていた不公平感や憤りを、手放すことができた。また、この本は、この先また、自分や周りの誰かに不幸が訪れたときに、きっと私を支えてくれると確信した。

以下、例によって、私が特に印象を受けた箇所について引用してみる。

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まずは、「ヨブ記」についてのくだりから。本書は、旧約聖書の「ヨブ記」についてかなりのページを割いている。「ヨブ記」が「正しいひとがなぜ不幸にみまわれるのか」を主題としているからだ。主人公ヨブは、突然、家族や財産を失い、身体的な苦痛に見舞われるが、信仰を失わずに苦難に立ち向かう。ヨブの友人たちは彼のしたことの報いだと言うが、ヨブは自分の無実を主張し続ける。最終的に、神がヨブに語りかけ、ヨブは神の智慧と力に対する信頼を示し、再び祝福を受ける。そういったストーリーだ。その意味するところを、著者は、次のように読み解いてゆく。

 この書物を理解し、それが示している答えを知るために、ヨブ記のすべての登場人物と読者のほとんどが信じたいと思っている、三つの命題を書き出してみましょう。

(A)神は全能であり、世界で生じるすべての出来事は神の意志による。神の意志に反しては、なにごとも起こりえない。
(B)神は正義であり公平であって、人間それぞれいふさわしいものを与える。したがって、善き人は栄え、悪しき者は処罰される。
(C)ヨブは正しい人である。

 ヨブが健康で経済的にも豊かであるかぎり、これら三つの命題は同時に無理なく信じることができます。しかし、ヨブに不幸がおとずれ、財産や家族を失い、健康まで害してしまうとなると、ことはやっかいになります。どれか一つを否定して、はじめて、残り二つを正しいと主張できるという状態になるのです。(中略)
 ヨブ記での議論は、この三つの命題のうち、二つを信じ続けるためにどれを切り捨てるか、をめぐる議論と見ることができるのです。

p54-55

 ヨブの友人たちは、ヨブは善人だという(C)を信じまいとしています。彼らは、これまで教わってきたような存在として神を信じたいのです。神は善であり、すべてをコントロールしていると信じたいのです。そうするための唯一の方法は、ヨブは当然の報いを受けたのだ、と思い込むことです。
 (中略)
 犠牲者をこのように悪く言うのは、世界は見かけよりも住みやすいのだ、人が苦しむのはそれなりの理由があるのだ、と言って自分自身を安心させるためのひとつの方法なのです。それは、幸運な人たちが、自分たちの成功はたんなるまぐれ当たりではなく、それにふさわしいだけのことをしてきたのだ、と信じる役にも立っています。この考えは、すべての人の気分を良くしてくれるのです ー 犠牲者を除いて。被害者のほうは、それでなくても不幸な出来事の極みにあるというのに、さらに人から非難を受けるという、二重の苦しみを味わうことになるのです。これが、ヨブの友人たちのしたことであって、自分たちの問題解決にはなるでしょうが、ヨブの問題解決にも、私たちの問題解決にもならないのです。

p55-58

 ヨブの解決法は、神は善であるという(B)の命題を拒絶することでした。事実、ヨブは善人なのです。しかし、神は公平だとか正義だとかいう思考の枠におさまらないほど絶大な力を持っているというわけです。(中略)彼は言います。私たちは、公平など期待できない、理不尽な世界に住んでいるのだと。神は確かに存在する、しかし、正義や善という限界にしばられない存在なのだと。

p59-61

 ヨブ記の作者は、ヨブともヨブの友人とも違う立場に立っている、ということを私は指摘したいと思います。作者は、神が善であることを信じ、ヨブが善であることも信じています。そして、これまで信じてきた命題(A)、すなわち、神は全能であるという信念を放棄しようとしているのです。
 この世界にあっては、正しい人に不幸が確かにふりかかる、しかしそれは神の意志によるのではないというのです。神は、人それぞれにふさわしい人生が与えられるよう望んでいるが、いつでもそのようにことを運ぶことができないというのです。完全に全能ではないが善である神と、完全に善ではないが全能の神と、どちらを選択するかとせまられて、ヨブの作者は神の善を信じるほうを選んだのです。

p63-64

次に、「神が存在し、全能ではないというなら、どのような役割があるのか」という問いに回答しようとするくだり。

 神は私たちに不幸をもたらしません。不幸は不運な巡りあわせによって、悪人によって、また、自然の法則のなかで生きている死すべき人間として避けることのできない自然の成り行きによってもたらされるのです。私たちにふりかかる痛みの体験は、私たちの誤った行いに対する処罰ではありませんし、神の壮大な計画の一部分などでもありません。
 人生の悲劇は神の意志によるのではないのですから、悲惨な出来事にみまわれたとしても、私たちは神に傷つけられたとか裏切られたとか感じる必要はありません。その苦しみを乗り越えるために、神に目を向け、助けを求めればよいのです。神も私たちと同じように憤りに震えているのですから。

p216

 自分のしていることに意味を見いだせるなら、たいていの重荷には耐えていけるものです。(中略)
 私たちにふりかかってくる不幸な出来事は、その発生時においてはなんの意味も持っていないのだと考えたらどうでしょう。それらはべつに、納得できるような道理などなしにやってくるのです。しかし、私たちのほうで意味を与えることはできます。私たちのほうで、それら無意味な悲劇に意味を持たせればよいのです。
 私たちが問うべきなのは、「どうして、この私にこんなことが起こるのだ? 私がいったい、どんなことをしたというのか?」という質問ではないのです。それは実際のところ、答えることのできない問いだし、無意味な問いなのです。より良い問いは「すでに、こうなってしまった今、私はどうすればいいのだろうか?」というものでしょう。

p218

 私たちもまた、過去や苦しみに焦点を合わせる問い ー 「なぜ、この私にこんなことが起こったのか?」 ー から脱却し、目を未来に向ける問いを発すべきです。「現状はこうなのだ。私は、これからなにをすべきなのだろうか」と。

p219-220

次は、佐々木俊尚さんがVoicyで引用されていた箇所を含むくだり。

(中略)しかし、それなら神の役割はいったいなんなのでしょうか? 善良な人たちにふりかかる災いは神からのものではないし、神にはそれらの災いを阻止することもできないのなら、神はいったいどんな役に立つというのでしょうか?
 第一に、神は、災いよりも素晴らしいことのほうがずっと多い世界を創造した、ということがあげられます。人生における思いがけない不幸で私たちが取り乱してしまうのは、それが苦痛だからというだけでなく、それが例外的なことだからなのです。ほとんどの人がほとんどの朝、気持ちよく目覚めています。ほとんどの病気は治癒します。たいていの飛行機は無事に離陸し、着陸しているのです。ほとんどの場合、子供たちは外で遊び、無事に帰宅します。事故、強盗、そして手術不可能な腫瘍などは人生をめちゃくちゃにする例外的な出来事ですが、きわめて例外的な出来事なのです。
 とはいえ、そのような例外的状態に置かれて傷ついた当人には、そんなふうに考えるのはむずかしいことだと思います。大きな物体のすぐそばに立ってそれを見ると、それしか見ることができません。少し後ろにさがってみて初めて、その物体の置かれている状況なども見ることができるのです。不幸にうちひしがれて呆然としている場合には、その不幸な出来事しか見ることができませんし、感じることもできません。時間と距離を置いて悲劇を見るとき初めて、私たちは長い人生や広い世界との関係のなかで、自分をおそった悲劇について考えることができるのです。

p222-223

そして、神は、人に、他人を助けさせるのだと説く。

 神は、人びとの心を奮い立たせて、人生に傷ついている人を助けさせます。それによって、傷ついた人びとは孤独感や、見捨てられたという思いや、そして裁かれているという思いから守られるのです。神は、人びとの心に石や看護師になりたいという願いを抱かせ、生命を支え苦痛を軽減するあめに、お金には換算できない犠牲的な関心と昼夜を分かたない努力へと向かわせるのです。神は人びとの心にはたらきかけ、知能と情熱を傾けて、病気の原因やその治療法を探究する医学者になりたいという願いを起こさせます。

p224

 悲惨な出来事を起こすことも防ぐこともない神は、人にはたらきかけ、人を助けようとする心を奮い立たせることで、私たちを助けているのです。(中略)苦しむ人の重荷を軽くし、虚しくなった心を満たすべく、友人や隣人の心を奮い立たせるという方法をとるのです。

p225

そして、神は、私たちが不幸を克服する力を与えてくれるという。

 最後に、「神はなんの役に立つのか? 正しい人も悪い人も同じように苦しむのだとしたら、だれが宗教なんか必要とするだろうか」と問う人に、答えましょう。神は悲惨な出来事を防ぎはしないでしょうが、不幸を乗り越えるための勇気と忍耐力を与えてくれるのだ、と。

p227

 とりたてて強い人ではなかったのに逆境に直面して強くなったり、自分たちのことばかり考えていた人が緊急事態に遭遇して利己的でなくなり、英雄的な行為をとることがあります。その人たち自身も認めていることなのですが、以前にはなかったそのような能力をどこから得るのだろうと、私は不思議でなりません。私の答えは、それは、私たちが能力の限界を超えて苦しんでいる時、神がわたしたちを助けてくださる方法のひとつなのだということです。
 人生は公平なものではありません。(中略)人生の不公平に対して私たちが抱く同情や義憤は、神の愛や神の怒りが私たちを通して現れたものであって、神の存在を示すもっとも確かな証明なのではないでしょうか。

p228-229

 なぜ正しい人々に不幸がおとずれるのか、という問いに、答えはあるのでしょうか。それは「答え」ということばのもつ意味にかかっています。もし、「そこには納得のいく説明があるのだろうか?」(中略)という意味であれば、満足のいく答えはたぶん見つからないでしょう。月並みな説明はできるかもしれませんが、最後の最後で、すべて説明できたと自分の賢明さを誇りに感じるその時に、痛みや苦痛、それにぬぐいきれない不公平感が自分の内に確かに存在していることに気づくのです。
 しかし、「答え」ということばには、「説明」ということと同時に、「応答」という意味もあります。その意味でならば、人生の悲劇に対して、たぶん納得のいく答えが見つかることでしょう。それは、(中略)完全でない世界を赦し、そんな世界を創った神を赦し、人びとに手をさしのべ、そしてなにがどうあろうと生き続けていくことなのです。

p236-237

神は、全能ではない。説明のつかない不条理な不幸は、神にも避けようがない。突然の不幸には、何かの理由があるわけではなく、単なる巡り合わせでしかない。誰のせいでもない。何かの罪の報いではないし、苦労が私たちのためになるから、でもない。「なぜ私だけが苦しむのか」と問い続けても、その答えは得られない。

本書がそのように説いてくれたおかげで、「なぜあのとき、私たちが、あんな不幸に見舞われたのか?」というやるせない気持ちを、すうっと、手放すことができたように思う。イメージとしては、成仏させることができた、という感じだ(宗教が違うが・・・)。

悲惨な目に遭って既に苦しんでいる人は、その理由や意味を追求して更に苦しみがちだが、理由や意味なんてないのだから、自分を追い込む必要はない。むしろ、その状況を受け止めて、この先どうするかを考えることが重要なのだ。神は、不幸を乗り越える力を与えてくれているし、周りの人も助けてくれるはずだ。不幸のどん底からの気持ちの切り替えは困難だが、この本を読むと、素直に前を向けそうだ。

本書は、世界中でベストセラーになった。ということは、世界中に、不幸に見舞われて苦しんでいる人や、不条理な不幸の理由を探したい人が、とても多くいる、ということに他ならない。また、この本の中では、悲惨な事故や事件、病気など、悲惨な事例が所々に引用されている。

この世界では、本当に多くの人が、何の罪もないのに、日々不幸に遭遇し、苦しんでいる。本書を読むうちに、不幸に襲われたのは自分だけではない、世の中の多くの不幸のほんの一部の出来事にすぎないのだ、と俯瞰的な視点も得られる。それにより、苦しみを和らげる効果もあるように思う。

本書を読んでもうひとつ気づかされたことは、苦難と戦っている人への向き合い方の難しさだ。周囲に不幸と戦っている人がいる場合、良かれと思っていろいろな言葉をかけると思う。「乗り越えられない試練は与えられない」とか「すべてのことには意味がある」とか言っても、救いにはならない。何かの報い、などというのはもってのほかだ。苦しんでいる人を更に苦しめることのないよう、寄り添って支えられるように気を付けたい。

なお、この本を読むのに、深い宗教の知識は不要なので、ご心配には及ばない。私自身、キリスト教、ユダヤ教について、それほど知識を持たないが、それでも十分に本書を理解できた。わかりやすい翻訳のおかげもあるだろう。

「なぜ私だけが・・・?!」という疑問を持つ方や、不幸に見舞われている周囲の人の力になりたいと思っている人には、自信を持って本書をおすすめしたい。この本の存在自体が、不幸に苦しむ人に寄り添うものだ。

ご参考になれば幸いです!

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