見出し画像

【読書録】『センセイの鞄』川上弘美

今日ご紹介する本は、川上弘美氏の小説『センセイの鞄』。

平凡社の『太陽』に連載されたもので、2001年6月に同社より単行本が刊行され、後に文春文庫版、新潮文庫版も刊行された。私の持っているのは、冒頭の写真の文春文庫版。

川上氏は、芥川賞作家だ。1996年に『蛇を踏む』で同賞を受賞した。この『センセイの鞄』は、2001年には谷崎潤一郎賞を受賞しており、英訳され、海外でも高く評価されているらしい。

あらすじは、極めてシンプル。登場人物は、37歳のOLである大町月子(「ツキコ」)と、彼女より30歳年上の、彼女の高校時代の国語教師、松本春綱先生(「センセイ」)。この二人の、美しく、切なく、温かく、哀しい、愛の物語だ。

一言で言って、素晴らしかった。こんなに胸を打つ作品に出会ったのは久しぶりだ。私が半世紀の人生で読んだ小説のなかでも、上位に入る。またひとつ、宝物が増えた。

珠玉の表現がいっぱいで、全て書き留めるとキリがないのだが、そのなかでもとりわけ強く心に響いたくだりを、いくつか引用してみたい。その後に、私の感想も書いておく。

※以下、ネタバレにご注意!

印象に残ったくだり

 正式には松本春綱先生であるが、センセイ、とわたしは呼ぶ。
「先生」でもなく、「せんせい」でもなく、カタカナで「センセイ」だ。

本作品のはじまり p9

(・・・)センセイと一緒に居るときも、以前一人でことごとを行っていたときと、心もちに変わりはない。それならばわざわざセンセイと一緒でなくてもいいようなものだが、一緒であることのほうがまっとうな感じだった。まっとう、というのも妙か。買った本の帯を取るよりも取らずに置いておきたいのと同じ、とでもいえばいいだろうか。帯にたとえられたと知ったらなら、センセイは怒るかもしれない。
 居酒屋でセンセイに会って知らんぷりをしあうのは、帯と本がばらばらに置かれているようで、おさまりが悪い。しかし、おさまり悪いものをかんたんにおさまり良く直すのも、しゃくなのだ。癪に思うのは、センセイも同様に違いない。それで、いつまでたっても知らんぷりが続くことになる。

p45-46

 何もかもが遠かった。センセイも、小島孝も、月も、遠い場所にあった。タクシーの窓越しに流れる風景を、わたしはじっと眺めていた。タクシーは、夜の街を、びゅんびゅん飛ばしていく。センセイ、とわたしは声に出して言った。声はタクシーのエンジンの音にすぐにかき消された。通り過ぎる風景の中に、いくつもの桜が見えた。若い、あるいは年を経た、何本もの桜が、夜の中で咲き満ちていた。センセイ、とわたしはもう一度言ったが、むろんその声はどこにも届かない。タクシーは私を乗せて、夜の町を走っていく。

p143

 なぜわたしはここにいるんですか。そう聞くと、センセイは目をまるくした。
 覚えてないんですか。自分で行きたい行きたいと騒いだじゃありませんか。
 そうでしたか、とわたしは言い、ふたたび畳に横たわった。頬に畳の目がついている。髪が畳の上にもつれて広がっている。流れていく夜の雲を、わたしは横たわったまま眺めた。小島孝とは旅行に行きたくない。わたしははっきりと思った。畳の目を頬にくっきりとつけたまま、小島孝と会っているときのかすかな違和感、しかし消しようのない違和感を、思った。

p168-169

 かもめが海の上で鳴いている声が、眠りに入ろうとする耳に、かすかに聞こえてくる。センセイ、眠っちゃだめです。そう言おうとするが、もう言えない。センセイの腕の中で、深い眠りにひきずりこまれてゆく。わたしは絶望する。絶望しながら、センセイの眠りから遠く離れた自分の眠りの中にひきずりこまれてゆく。かもめが何羽も、朝の光の中で、鳴いている。

p206

「育てるから、育つんだよ」と、そういえば、亡くなった大叔母が生前にしばしば言っていた。(中略)
 大事な恋愛ならば、植木と同様、追肥やら雪吊りやらをして、手をつくすことが肝腎。そうでない恋愛ならば、適当に手を抜いて立ち枯れさせることが安心。
 大叔母は、語呂合わせのように、そんなことを言い言いしていた。

p224

 センセイは、なかなかみつからない。
 そうだ、センセイはもう箱にしまうことにしたんだった。わたしは思い出す。
 わたしが、センセイを、袋縫いにした絹の布にきれいに包んで、おしいれの奥におかれた、あの大きな桐箱に、しまったんだった。
 もうセンセイをとり出すことはできない。おしいれは深いから。絹の布は涼しくて、センセイはいつまでもくるまれたがっているから。箱の中はおぐらくて、センセイはいつまでもうとうとしたがっているから。

p227

 川からは秋の夜の空気がたちのぼってくる。センセイおやすみなさい。I♡NYのTシャツ、けっこう似合ってましたよ。風邪がすっかりなおったら、飲みましょう。サトルさんの店で、もう秋だからあたたかいものをつまみに、飲みましょうね。
 何百メートルかへだてた場所に今いるセンセイに向かって、わたしはいつまでも話しかけた。川沿いの道をゆっくりと歩きながら、月に向かって話しかけるような気分で、いつまででも、話しかけつづけた。

p238

 からすが近くの枝で、かあ、と大きな声をたてた。わたしは驚いて、一瞬ベンチから飛びあがった。かあ、とからすはもうひと鳴きした。センセイが、ほほえんだ。ほほえみながら、わたしのてのひらをふたたびセンセイのてのひらで包む。
 わたしは、センセイにかじりついた。わたしの方から、センセイの腰にあいた方の手をまわし、体を押しつけ、センセイの上着の胸のあたりの匂いをすいこんだ。かすかなナフタリンの匂いがする。

p251

「ツキコさん、体のふれあいは大切なことです。それは年齢に関係なく、非常に重要なことなのです」昔教壇で平家物語を読み上げたときのような、毅然とした口調だ。
「でも、できるかどうか、ワタクシには自信がない。自信がないときにおこなってみて、もしできなければ、ワタクシはますます自信を失うことでしょう。それが恐ろしくて、こころみることもできない」平家物語は続いた。
「まことにあいすまないことです」平家物語をしめくくりながら、ふかぶかとセンセイは頭を下げた。わたしも正座したまま頭を下げた。

p262

 何も言えなかったので、センセイのコップにビールをついだ。センセイは喉を見せて飲みほし、私は鍋の鱈をすくった。春菊が鱈にくっついてきて、緑と白の対象がきれいだった。センセイこれきれい、と言うと、センセイはほほえんだ。それから私の頭のてっぺんを、いつものように何回か撫ぜた。

p263

「センセイ」
「はい」
「センセイ」
「はい」
「センセイ、どこにも行かないでくださいね」
「どこにも行きませんよ」
 パレードの音楽がひときわ大きく響いて、小人たちが跳ねた。やがて行列は遠ざかっていった。わたしとセンセイは闇の中に残された。行列の最後尾のミッキーが、腰を振りながら、ゆっくりと歩いていった。わたしとセンセイは、闇の中で手をつないだ。それから、少しだけ身震いした。

p265-266

 その夜はセンセイの家に泊まって、センセイの隣で眠った。朝になって雨戸をあけると、青木の実が朝日を受けてつやつやと光っていた。ヒヨドリが実をついばみにきていた。ギョー、ギョー、という声がセンセイの庭に響きわたった。センセイとわたしは肩を並べてヒヨドリを眺めた。ツキコさんはいい子ですね。センセイが言った。センセイ、好き。わたしは答えた。ヒヨドリが、ギョー、ギョー、と鳴いた。

p268

 センセイ、と呼びかけると、天井のあたりからときおり、ツキコさん、という声が聞こえてくることがある。湯豆腐には、センセイの影響を受けて、鱈と春菊を入れるようになりました。センセイ、またいつか会いましょう。わたしが言うと、天井のセンセイも、いつかきっと会いましょう、と答える。
 そんな夜には、センセイの鞄を開けて、中を覗いてみる。鞄の中には、からっぽの、何もない空間が、広がっている。ただ儚々ぼうぼうとした空間ばかりが、広がっているのである。

ラストシーン p270

感想

なんという完成度の高さだろう。

描写が丁寧。難しい用語を使っておらず、ひらがなも多い。流れるようで、易しくやわらかい文体でありながら、時々、凝った表現にハッとさせられる。花や植物、動物、季節や天気など、登場人物をとりまく情景の描写がとても丁寧で、独特の空気感を醸し出しており、幻想的だ。登場人物に、自然に感情移入してしまう。

そして、なんという美しい作品なのだろう。

切なく、温かい、愛の物語。ストーリーは、極めてシンプルだ。月子とセンセイの交流を、ただ、淡々と綴っている。場面は、行きつけの小料理屋、きのこ狩り、花見、パチンコ、島への小旅行などだ。行動範囲も特に広いわけでもなく、特に派手なイベントがあるわけでもない。物語の進行は、きわめてゆっくりだ。主な登場人物は、月子とセンセイと、その二人に近しい数人のみと、少ない。

なじみの「サトルさん」の飲み屋で、時々、一緒になる。ひとりしきり飲んだ後、お店を変えたり、センセイの家に行ったりして、飲み直す。お互いに魅かれていき、お互いのことを大事に思いながら、なかなかうまく気持ちを伝えられない。思うように気持ちを言葉にできず、関係が進まず、もどかしい。

筋としては単調なのに、全然飽きない。むしろ、甘酸っぱい気持ちがどんどん高まり、陶酔し、作品の世界に引き込まれていく。二人の交流は、ゆっくりと、しかし、しっかりと、恋愛に発展していく。そういう純真な恋愛のプロセスが、とても豊かで、愛おしい。性的な描写は、殆どない。にもかかわらず、何ともいえない色気もある。

二人の恋愛スタイルは、古風だ。会って、一緒に食事やお酒を共にしながら、ゆっくりと静かな時間を共有する。この作品を読んでいると、マッチングアプリやラインを使い、スマホでバーチャルにせかせかと駆け引きをするイマドキの恋愛スタイルが、とても味気なく思えてくる。

ちなみに、私自身の恋愛感情について振り返ると、年下の男性よりも、年上の男性に魅かれることが多かった。だから、とりわけ、この作品が、私のハートをわしづかみにしたのかもしれない。センセイのような、オトナで、知的で、穏やかで、優しい男性にリードしてもらえるなんで、夢のようだ。「センセイ」という呼び方が似合う初老の男性は、セクシーに違いない。私も月子のように、「センセイ」に優しく頭を撫でてもらいたい・・・。そんな妄想も、ちょっぴり楽しんだ。

なお、この作品は、過去に映像化もされていて、月子を小泉今日子が、センセイを柄本明が、それぞれ演じている。本作品を読んだ後にそのことを知り、Amazonプライムビデオで映像作品を観た。小泉今日子は私の月子のイメージとはかなり違っていたが、柄本明のセンセイは、まあまあ、イメージに近かった。原作と比べるとかなり端折られてはいるが、映像の世界観もなかなか良かった。

少しでも多くの方に、この作品の素晴らしさを味わっていただけると嬉しい。

ご参考になれば幸いです!

ドラマ作品はこちら。以下のリンクから、DVDのほか、Amazonプライムビデオも選択できます。

私の他の読書録の記事へは、以下のリンク集からどうぞ!

この記事が参加している募集

読書感想文

サポートをいただきましたら、他のnoterさんへのサポートの原資にしたいと思います。