【読書録】『下流志向』内田樹
今日ご紹介する本は、内田樹氏の『下流志向』(2007年、講談社)。私が持っているのは、冒頭の写真の講談社文庫版。
著者の内田氏は、思想家で、神戸女学院大学名誉教授。今までにたくさんの著作を世に出していらっしゃる。この本はもう16年も前に刊行されたものだが、最近、ネット上で本書の書評に出会って興味をそそられ、手に取った。
「学びからの逃走」「労働からの逃走」と、下流社会への階層降下を志向する社会の傾向についてが、本書のテーマである。
以下、私にとって特に印象に残ったくだりを要約し、感想をまとめておく。
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まずは、要約から。
●日本の子供は、世界で最も勉強をしない子供たちになってしまった。
●わからない情報を「わからない情報」として維持し、時間をかけて噛み砕く「先送り」の能力が人間知性の際立った特徴だが、今の若い人たちは「わからないもの」があっても気にならず、意味がわからないことにストレスを感じなくなっている。「自分の知らないこと」は「存在しない」ことにしている。無知のままでいることに生きる不安を感じずにいられる。
●子どもたちは就学以前に消費主体としてすでに自己を確立している。(昔は、家事労働の担い手として労働主体として自己を立ち上げた。)消費することから社会的活動をスタートさせた子どもたちは、学校での「教育サービスの買い手」というポジションを先取りして、授業を黙って耐えて聞くという「不快」を教育サービスと等価交換しようとする。現代日本の家庭が貨幣の代わりに流通させ、子供たちが生涯の最初に「貨幣」として認知するのは、他人が存在するという不快に耐えること。不快を記号的に表示することで交換を有利に導こうとするタクティクスが学校教育の組織的な破綻をもたらした。
●子供たちは教育の意味や有用性をまだわかっていない。学びは市場原理によっては基礎づけることができず、等価交換の空間モデルによって表象できない、時間的な現象。学びとは、学ぶ前には知られていなかった度量衡によって、学びの意味や意義が事後的に考量されるダイナミックなプロセス。学び始めたときと、学んでいる途中と、学び終わったときでは学びの主体そのものが別の人間であるというのが、学びのプロセスに身を投じた主体の運命。
●これに対して、消費とは、本質的に無時間的行為。等価交換を行っている過程で、消費主体は変化してはならず、価値観や交換レート、度量衡を変えてはならない。学びの場で消費主体として登場してしまった子どもたちはそのような禁則に縛られる。
●子どもがまず学ぶべきことは「変化する仕方」「外界の変化に即応して自らを変えられる能力」。
●自己評価が外部評価よりも高い場合、外部評価の好転に努めるというのがふつうの人間的成長の工程。しかし、自己に外在的な目標を目指して行動するよりも、自分の興味・関心にしたがった行為を望ましいとみる価値づけが、教育崩壊の根本にある。
●「勉強が何の役に立つのか?」という問いを立てる人は、ことの有用無用についてのその人自身の価値観の正しさをすでに自明の前提にしている。この問いを下支えしているのは「自己決定・自己責任論」。「私」に自己決定権があるのは、自己決定した結果どのような不利なことが我が身にふりかかっても、その責任は自己責任として「未来の私」が引き受けるから。これが捨て値で未来を売り払う子供たちを大量に生み出している。
●政府が集団主義から個人主義へのシフトを宣言し、自己決定・自己責任論への流れができた。そこから学校システムの「リスク化」と「二極化」が生じた。「リスク化」とは、社会の不確実性が増し、個人にとって将来の予測可能性が低くなること。「二極化」とは、「努力が報われたもの」と「報われなかったもの」の間に歴然たる階層格差が生じること。リスク社会では必ず二極化が進行する。努力におけるごくわずかな入力差が成果において巨大な出力差として結果することがある。
●リスク社会におけるリスクはすべての社会成員に均等に分配されているわけではなく、階層ごとにリスクの濃淡がある。リスク社会における生存競争において有利な位置を占めているのは、努力が必ずしも報われないリスク社会であるという基礎的事実に逆らって依然として努力している人々。
●リスクの個人化が進行した結果、個人は、リスクをヘッジすること、生じたリスクに対処することを個人で行わなくてはならない時代になった。リスクヘッジの要諦は利益を上げることではなく、損失を出さないこと。
●リスクヘッジには、誰も利益を得ないソリューションを選ぶやり方もある。しかし、「つねに正しいソリューションを採択する」のがベストだと考える日本人が増え続けている。それは「間違っても大丈夫」という無根拠な安心に全国民がのどもとまで浸かっていて無防備だから。
●リスクヘッジを心がける人は、「プランA」が必ずうまくゆくと声高に宣言することよりもむしろ「プランA」がうまくゆかないのはどういう場合かをできるだけ網羅的にリストアップしておき、その場合に使える代替プランをそろえておくこと。しかしこういう方向に頭を使う人は今の日本には殆どいなくなった。
●リスクヘッジというのは、一人ではできない。リスク社会を生き延びることができるのは「生き残ることを集団的目標に掲げる、相互扶助的な集団に属する人びと」だけ。「リスク社会をどう生きるか」は、「決定の成否にかかわらずその結果責任をシェアできる相互扶助的集団をどのように構築することができるか」である。「自己決定し、その結果については一人で責任を取る」というのはリスク社会が弱者に共用する生き方(というよりは死に方)。
●相互扶助・相互支援というのは、「迷惑をかけ、かけられる」ということ。現代日本人は「迷惑をかけられる」ことを恐怖する点において、少し異常なくらいに敏感ではないか。「迷惑をかけ、かけられる」ような双務的な関係でなければ、相互扶助・相互支援ネットワークとしては機能しない。自己決定について他人に冠よされるのがわずらわしいので、「あなたの生き方にも関与しない」と宣言し、それによって人々は戻り道のない社会的降下のプロセスを歩み始める。
●自己決定・自己責任という生き方を貫けるのは強者だけ。リスク社会における「強者」とは、相互扶助・相互支援のネットワークに属しており、そのおかげでリスクをヘッジできているものに限定される。したがって、リスク社会には自己決定・自己責任論を貫けるような強者は存在しない。いるのは、自己決定・自己責任論に忠実な弱者だけ。日本の教育行政もメディアも、「迷惑をかける相手もかけられる相手も持つことができない」膨大な数の構造的弱者をつくり出しつつある。
●自己決定・自己責任というのは孤立無援で社会に立ち向かうこと。百パーセントのリスクを引き受ける代わりに、獲得された利益も誰とも共有せず、百パーセント独占する。これは自立とは異なる。自立というのは、集団的な経験を通じて事後的に獲得される外部評価。多くの他者に取り囲まれているネットワークのなかで絶えずおのれ自身を造形し、解体し、再改訂し、ヴァージョン・アップする。
●階層下降することから達成感を引き出す子供たちが出現した。生徒たちは、「学校でよい成績を取ることは人間の価値と関係ない」という学校神話への否定にとどまらず「学校で悪い成績を取ることは人間の価値を高める」という反ー学校神話に同意し始めている。
●子どもたちが「自信を持つ」のは、彼が属する社会集団において支配的な価値観に合致する場合だけ。階層が閉鎖的になると、子どもは階層内部的な評価を通じてしか「自信」を高める道がないため、所属階層のイデオロギー性をいっそう「濃縮」した仕方で体現するようになる。そうして、わずかな世代交代の間に、階層は急速に閉鎖的になる。
●自己決定することが国策として推奨されイデオロギーとして子どもたちに他律的に注入されている。選択を強制されていながら、選択したことの責任は自分でかぶることを強いられている。これはどう考えても不条理。しかし「そういう不条理な目に遭っている仲間」がたくさんいるから、それは不条理のようには見えない。
●ヨーロッパのニートは階層化の一つの症状。本人に社会的上昇の意思があっても機会が与えられない。日本のニート問題はそれとは異なり、社会的上昇の機会が提供されているにもかかわらず、子どもたちが自主的にその機会を放棄している。社会的弱者が進んで差別的な社会構造の強化に加担するという仕方で階層化が進んでいる。弱者が自分自身の社会的立場をより脆弱なものとするために積極的に活動している。
●「自己利益の最大化」を求める生き方よいのだという言説はメディアにあふれているが、「周りの人の不利益を事前に排除しておくような」目立たない仕事も人間が集団として生きてゆく上では不可欠の重要性を持っている。
●失敗の責任を他人に押しつけて、自分には何の過誤もなく、自分のやったことはすべて正しかったということにすると、その「正しいふるまい」を繰り返さなければならなくなる。人間はそうやって失敗に取り憑かれる。
●労働主体と消費主体の違いは、労働主体が他者からの承認を得るまでみずからの主体性を確証できないが、消費主体は、他者からの承認に先立って貨幣を手にした時点ですでに主体性を確保し終えている。労働という入力から、他者からの承認(ネットワークの再編)という出力の間までには一定の時間が必要。消費主体の安倍は、貨幣の提出と商品の交付は同時的に遂行される。消費行動は本質的に無時間的な行為。
●労働に対して賃金が安いのは原理的に当たり前。賃金は労働者が作り出した労働価値に対してつねに少ない。そうでなければ企業は利潤を上げることができない。経済活動の原資はすべて労働者から「奪取」した労働価値によってまかなっている。労働というのは本質的にオーバーアチーブ。「他者と交換する」というのが、動物とは異なり、人間の根源的な欲望。労働に対して支払われる賃金は、労働者が作り出した価値から「交換のための原資」を控除した残り。
●労働から逃走する若者たちの基本にあるのは消費主体としてのアイデンティティのゆるぎなさ。ニートたちが子どものころから一貫して経済合理性に基づいて価値判断を下してきて、その結果、無業者であることを選んだという首尾一貫性は経済合理性を論拠にしては突き崩すことができない。これがニート問題の最大の難関。
●学びというのは、自分が学んだことの意味や価値が理解できるような主体を構築してゆく生成的な行程。学び終えた時点ではじめて自分が何を学んだのかを理解するレベルに達するダイナミックなプロセス。学ぶ前と学び終えた後では別人になっているというのでなければ意味がない。自分にとってその意味が未知のものである言葉を「なんだかよくわからない」ままに受け止め、いずれその言葉の意味が理解できるような成熟の段階に自分が到達することを待望する、そのような生成的プロセスに身を投じることができる者だけが「学ぶ」ことができる。一度学ぶとは何かを知った人間は、それから後はいくらでも、どんな領域のことでも学ぶことができる。学ぶことの本質は知識や技術にあるのではなく、学び方のうちにある。
●知性とは、自分自身を時間の流れの中に置いて、自分自身の変化を勘定に入れること。逆に、無知とは、時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れることができない思考のこと。学びからの逃走、労働からの乙そうとはおのれの無知に固執する欲望。
●教育のアウトカムは数値的に評価できない。「学ぶ能力」は、「能力を向上させる能力」というメタ能力。いうなれば、「ものさしを作り出す能力」。「ものさしを作り出す力」をできあいの「ものさし」で計測できるはずがない。
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以下は、感想。
いやはや、ヘビーな本だった。
そして、16年前の指摘とは思えないほど、リアルだ。
知性が失われ、日本人の下層化が進んでいる。著者の説くところが、現代においても見事に妥当している。それどころか、問題は急速に深刻化している。強い危機感を抱いた。
子どもが消費主体として、経済合理性に基づき、「教育サービス」を、他人の存在を我慢する「不快」と等価交換することを覚えた。等価交換は無時間が前提であり、時間とともに物事は変化すべきだと観念することができない。いま分からないことがあっても、それ自体を問題だと認識せず、学ぶ必要性を感じない。現時点での内在的な興味関心を重視し、勉強しないことが正しい、という判断に自信を持つ。その結果、将来の自分が、勉強しないことによる不利益を被る。
日本社会は、自己決定・自己責任論の下、個人の孤立化を促している。外部評価も気にしないので、外部評価との差を埋める努力もしない。他者との相互扶助・相互支援もしにくくなり、リスクヘッジができない。階層降下する子どもたちが増え、階層化が定着し、ますます格差が広がっていく。とはいえ、ヨーロッパほど階層化が固定されている訳でもなく、社会的上昇の機会も与えられないわけではないのに、階層下降することに達成感を感じ、自ら進んで階層降下を選択する。
「経済的合理性」「消費の無時間性」というのが鍵になっているようだ。この点から連想したのが、今流行っている、「タイパ」(タイムパフォーマンス)という言葉だ。インターネット社会において、特に最近はAIの目覚ましい発展によって、入力と出力のタイムラグは、どんどん短くなっていゆく。この本が書かれた16年前には、タイパという言葉はなかった。今ほど皆が時間に追われ、イライラとしている時代はかつてなかっただろう。
「学びは生成的プロセス」「知性は自分自身の変化を勘定に入れること」というのも腹落ちした。分からないことがあれば、グーグル先生やチャットGPTに尋ねれば、即座に疑問点を解決してくれる世の中だ。疑問に思ったことをじっくりと自分の頭で考える機会は、激減している。世の中にはあまりにも膨大な情報があふれていることが、小さい子どもにも明らかに分かる。そんな状況では、自分が無知であるという状態に違和感を覚えず、物事を本質的に理解しようとすることを早々に諦めてしまうのも仕方ないだろう。そして、そんな状況では、自分自身が時間をかけて変化して成長するという体験も、なかなか簡単にはできないだろう。
また、「孤立化」というキーワードも象徴的だ。ネット社会が進み、子どもでもひとり1台スマホを持つようになり、他者と関わらなくても十分楽しく生きていける。さらにコロナがコミュニケーションの低下に一層の拍車をかけ、他者とのネットワーク構築の動機も技術も失われてゆき、相互補助によるリスクヘッジの感覚も、どんどん薄らいでいく。自己決定・自己責任論のもと、博打的な判断を行って、そのツケを将来の自分に負わせることになる。
消費主体として経済合理性で全てを判断し、教育や労働から逃れ、個人が社会から孤立化する風潮が急速に強まっていくと、一体、これから日本はどうなっていくのだろうか。経済合理性で、現時点での価値でしか物事を判断できない人に対して、時間をかけた学びや労働の必要性や有用性を説くには、どうすればよいのだろうか。「どうして勉強しなければいけないのですか」「どうして働かなければいけないのですか」という問いには、絶句する以外に、一体どう対応すればよいのだろうか。
また、自分自身についても、最近、経済合理性に従って即座にリターンを求めたり、他者との関係構築がおろそかになっている傾向に気づかされた。知らず知らずに、知性の低下、下流化の罠に陥っているのかもしれない。危ない、危ない。
とは言え、社会のスピードがものすごい勢いで加速化するなか、ゆっくりと学ぶマインドを持ち続けるのは容易ではない。子どもが家で家事労働をするような社会に戻せばよいというものでもなく、そうすることも不可能だろう。もっと他者とのネットワークを構築することが必要だとしても、集団主義的で、同調圧力が強すぎて、他人の目を気にしすぎる日本の伝統的ムラ社会への逆戻りは嫌だ。
あまりにも問題が大きすぎて、読んでいて、もやもやとした、暗澹たる気分になった。一体どうすればいいのか、分からない。
学びや、労働について、時々、立ち止まって考える。身近な人と対話して、考えてもらうよう促す。そんなことしか、できないかもしれない。でも、そうしないよりは、マシだろう。
大変ハードな読書体験となったが、とても重要な視座を得ることができた。この本と出会えたことに感謝している。
ご参考になれば幸いです!
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