他者への無意識な信頼について


生まれも育ちも違うのに言葉が通じて、
運が良ければ趣味もあって
さらに友達になれるのってよく考えたらすごくない?

と、ふと思った。

全然知らない人なのに日本語が通じて、
相手も日本語が通じるはずだから日本語で話しかけたら返してくれる!
っていう他人への無言の信頼があるから話しかけることができて、そこから会話に発展できる。

そこから共同で作業をしたり、何かを教える立場と教えられる立場になったりもする。


あと、信号も無意識の信頼で成り立ってるんじゃない?と思った。

みんな"赤は止まって青は進む"っていう共通認識が誰しもにあると無意識のうちに思ってるから、外を歩ける。

大体の人は、信号を渡るとき、
「あの人本当に止まってくれるかな?」
と毎回は確認はしないだろう。

言わないだけで知らない他人とその社会を信用して毎日生きてるんだなぁと。


だから共通認識(=社会規範や法律)を破ってる人がいたら、普通に他者を信頼して生きてる人は裏切られて傷ついたり怪我をしたりするし、破ってる人は法で裁かれるシステムがあるんだなぁ。

ただ、その共通認識はほぼ基盤は同じだとしても、人によって認識が違う部分もあって、
それが過度な期待に取って代わる時もあって、「若いならこれくらいすぐ覚えられる」
「あの人はこれくらいできる」
と、一定の枠のようなものからはみ出てしまうと、今度は無意識の信頼によって自分が重荷を感じて苦しむ場面があるような気がする。


今日、散歩しててそんなことを思った。


おわり。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?