見出し画像

フィルター

昨日は、夜に友人と会食に行く予定があった。
その行きすがらに、品川のキャノンギャラリーへ
浅田政志さんのCanonでの展示会に行ってきた

Canonで働く方々のバックボーン、写真との関わり

各々の仕事との向き合い方をみて

一筋縄に行くかなんて誰にもわからないが、どこかに分岐点はあって
その時々にした選択があり、その先で振り返ってみた時にはじめて
あの時人生が変わった、とか あの時踏み出せて良かった

と自分の人生を肯定していけるのだろう

考え方は日を追うごとに変容(変革)されていくが
いつだってその時はベストと思った選択のはず過去の自分も肯定できてこそ
自分を肯定するということだと思いたい


ということで、今回のテーマは 「フィルター」

私自身の写真に関する記憶を振り返ってみたいと思う

私の父は昔からフィルムカメラ
ビデオカメラを使用して私たち子供の記録を行っていた
アルバムの写真に父の写った写真は少ない
ビデオも同様だが、手持ちのため
声だけは五月蝿いほどに記録されている

そんな父がある日、市の写真展に写真を応募しようと言い出した

当時小学生だった私は
その時初めて自身でファインダーを覗き、シャッターを切った

どんな賞をもらったかなどは覚えていないが

当時買っていた亀を撮った写真は市内に一時掲示されていたようだ
(父の撮影した、その亀を頭に乗せる私の写真と共に)

時は流れ、中学生になった
それ以来写真を撮ることは特別なかった

夏休みの課題が「写真」で作品を作ることだった
そこで久しぶりにカメラに触れることとなる
「写ルンです」だ

夏休みは、当時所属していた柔道部とボーイスカウトでの
思い出くらいしかない

写真もそれに準じたものだった

出来たのは大きな白い画用紙に
9枚の写真を配置するというシンプルなものだった

絵筆で背景をつけることもokだったが

あいにく、絵心のないわたしは白背景での製作をした

友人N君の寝顔を中心に構え、夏らしい写真で周囲を囲んだ

タイトルは「N君の夏休み」

なんとも安直で適当なものであったが、

当時の美術の先生はそれを評価してくださった

先生の後押しもあってか、県の美術展で推薦をいただいた
そして、今まで5段階評定で3だった美術の評定は
2学期のみ5に上がった
(夏の課題を反映されて)

いままで表彰をされた経験などなかった私は

自分の中で写真に対する意欲が内に湧いてきたことを覚えている

その後、たまたま地域の催しのじゃんけん大会で

CANON製のカメラを手にする(PowerShot A470)
(当時の写真は古いHDDにありそうなので見つけ次第掲載します)

中学生の頃は携帯電話も持っていなかったので
いつもこのカメラを持って遊びに行ったりして、記録をしていた気がします

雫が垂れる写真を撮りたくて、庭の葉っぱに液体のりを垂らして

のりが落ちる瞬間を写真に撮ったりしていました

のりが勿体無いと ちゃんと親に怒られました

中学時代部活が一緒でよく遊んでいたY君と
ちょっとしたムービー製作をしたりもしました

Y君はSonyのかっこいいデジカメを使っていて、羨ましかったなぁ


高校に上がると同時に携帯電話とiPod touch(カメラ機能付き)を手にして

写真がより身近なものになっていった

ちょっとアーティスティックに撮りたかった自分はいつも
変な角度から撮っていた気がします

iPodを買った年(2011年?)に兄がinstagramを教えてくれました

それっぽい写真を撮ろうと部屋で格闘していました

当時はsnsという感じよりかは、ただ写真をちょっとおしゃれに加工する
アプリというような頭で使用していました

周りの友人で使用している人もおらず、本当に孤独に使用していました

翌年末にiPhoneデビューし、写真の画質の向上とともに
アプリでの写真加工を学んでいきました

当時はそんなに細かい編集というか、設定もわからなかったので
いつも写真は彩度の強すぎる写真ばかりだった気がします…


大学に上がってから、バイトでお金を貯めて初めて自分でカメラを購入します

PENTAXのQ7という機種です。

フォルムがとてもかわいいですね

父が昔からPENTAXを使用していたことや

当時ミラーレス機でとにかくコンパクトなのを探していた自分には

とてもピッタリでした

型落ちとはいえ本体➕ズームレンズ2本セットで3万円ほどと

当時の自分には破格のものでした

それからはなけなしのバイト代を握りしめ
青春18きっぷや格安の夜行バスで旅の記録をそのカメラで収めていきました

奥入瀬の新緑、しまなみ海道の多島美・美しき海 

当時の自分はがむしゃらに1人で旅に出てはシャッターを切りまくっていました

当時の写真は高校の時同様、胃もたれするほど彩度の強い写真ばかりですが

自転車で辛い思いをして登った坂道での自身の息遣い

八朔をくれた見知らぬおじさんのバイクの軋むエンジン

奥入瀬の清流 翡翠

ぼたぼたと砂丘に打ち付ける雨風

様々な記憶が蘇ります

今の自分には撮れない、あの時の自分だったからこそ選択できた

状況、画角、設定があったのだと思います

実際、同じ景色を数度撮影しに行きましたが
自分の中で1番良いと思えた写真は
初めてその景色を収めた時のものでした

鮮やかすぎるように見えるけれど
当時の自分には肉眼でもこれほど鮮やかに映ったのだろう


働き出してから、一眼レフ(またしてもPENTAX)や

コンデジ(GRⅢ)を購入して、様々な写真が撮れるようになりました

編集も前より色々なことができるようになりました

ですが初期衝動というか自分の過去の写真を

超える会心の写真はなかなか撮れていません

SNSなどインターネットで多くのフォトグラファーが撮影する景色を

目にする機会が増えて、

どうしても、既視感のある事例な構図でカメラを構えてしまってる自分がおり

いざ家に帰って見返すと、味気なく感じます

自発的にカメラを構え、ファインダーを切ってはいますが

その現像された写真には幾重にもなるフィルターが介在しています

他人の写真、そして画像変種による後からの味付け

自分のものといいつつも、なんとも作為的な感じがするのです

そう感じてからは、撮って出しとまではいかないものの

色の編集を抑えたものが徐々に増えてきた気がします

モノクロや、少し彩度を落として落ち着きのある写真が

昨今そういった写真が好まれる傾向があるのも認識しているため

無意識に自分の趣向もそちらに向いているのかもしれません

自分では変に大衆に惹かれたくないと思いつつも

結局のところ、独創的になれない、ミーハーさが根底にあるのだろうなと

改めて感じてしまいました

なので、自分軸での写真のあり方を今も、模索しています

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?