白ひげはなぜ死んだのか——日本型経営と白ひげ海賊団
ワンピースで最高潮に盛り上がったエピソードと言えば、やはりマリンフォード頂上戦争編ではないだろうか。
「兄※¹」のエースを奪還するルフィ一行と「息子※¹」のエースを奪還する白ひげ一行と海軍という三つ巴の戦争である。そこに、黒ひげが参戦してグラグラの能力を奪ったり、「この戦争を終わらせにきた」赤髪のシャンクスが参戦したりと混沌を極める。
この戦争では、主要キャラクターの2名が命を落とす。エースと白ひげである。
エースは赤犬の挑発に乗ってしまい命を落とすことになるのだが、ぼくにとっては、マリンフォードにおける象徴的なのは、白ひげ”エドワード・ニューゲート”の死である。
そう、この記事のテーマは、白ひげである。
白ひげは、『ワンピース』という物語の中でなぜ死ななければならなかったのか。
また、これはワンピース内の考察を目的としている書物ではないため、そういうのに関心がある人は、もっちー先生やドロピザちゃんねるのYouTubeチャンネルを見ていただきたい。
あくまでぼくが題材にしたいのは、『ワンピース』という作品を現代社会はどう受け取っているのかである。
すなわち、出口は常に市井に生きるわれわれであり、白ひげの死には現代社会にどのような意味があるのかである。
これは、ぼくの持論なのだが優れた物語はいつだって、現実とのリンクがある。
そこに浮かび上がる抽象論は、市井に生きる具体的なぼくたちのイズムであり、等身大のぼくたちの人生があるのだ。
義理の家族
ルフィにとってのエースは「兄」であり、白ひげにとってのエースは「息子」である。
しかし、この3者には血縁関係はなく、義理の関係だ。したがって、エースは「兄」でありエースは「息子」なのである。
ここにエースという人物の生き方が表れている。
エースは、口約束の関係を守るために死んでいったのだ。
現代において、多くの親子関係はかなり歪な様相だ。
「毒親」「親ガチャ」のような言葉で象徴するように、自分の環境を憎むことがあまりにも多い。
また、一見すると上手くいっているように思われても実は複雑で、学校の成績や学校名でしか承認を与えてくれない条件つきの親子関係も多く存在するようだ。実際に、Twitter上ではそのような条件付きの親子関係が多く散見されるだろう。そのような証拠はぼくが必死になって探さなくても見つかる。
このことからわかることは、
現代社会における血縁の父親という存在は、「上手な生き方」を教えてくれる存在であるかもしれないが、白ひげのような「正しい生き方」を教えてくれる存在ではなくなっているということだ。
「正しい生き方」とは、その時代のルールを犯してでも息子を守ってくれるような父親ということだ。
大麻を所有していた弟を切り捨てるような言葉で、自分とは無関係を貫く有名俳優のような生き方は、「上手い生き方」かもしれないが、「正しい生き方」かと問われれば疑問である。
むしろ、利害関係による結びつきの方が一般的な人間同士の関わり方である。
その人の言葉よりも契約書面を信用するような皮相的な関係性で満ちているのである。
「正しい生き方」を教えてくれる父親は「父親」であり、それは架空の存在なのである。現実の父親とは違う。
逆説的に言えば、白ひげとエースの関係が本当の親子だったら、あれほど美しい物語が生まれていたのだろうか、ということである。
では、なぜそんな理想的な「父親」である白ひげは死ななければならなかったのか。
白ひげなぜ死ななければならなかったのか
ぼくは、このワンピースの物語において白ひげは絶対に死なければならなかったのだと考える。
それは日本型経営※¹の死を象徴している。
失われた30年という時代の流れの中で、わが国の企業では、かつて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた日本型経営を手放さなければならない局面になっている。
日本型経営の根幹にあったのは、保証である。
会社は家族なので、家族ぐるみのかかわりの機会は増える。
多少アルコールが苦手でも、参加する。
息子の運動会よりも会社のゴルフを優先するのも、ぜんぶ会社には保証があったからである。
ちょっと嫌なことがあっても、会社は最終的に家族を守ってくれる存在であったのだ。
だから、昭和〜平成の「お父さん」は、終身雇用を貫き、定年退職まで身を粉にして働いた。
そんな保証を裏付けていたのは、日本のバブル経済に由来する経済的豊かさである。
また、この経済的豊かさは、「日本的経営」との相性がよかった側面がある。
同一言語話者で画一的な平均以上の人たちによる組織によって、生み出されるプロダクトが売れる時代だったのだ。
日本の主力産業である車や電化製品など。メイドインジャパンを代表する製品の多くは、こうしたコミュニケーションから生まれて世界を席巻してきたという背景がある。
しかし、プラザ合意を契機に、バブル経済は弾け飛んだ。
そして、代わりに入り込んだのは、社会保障的なケアの精神ではなく新自由主義的な合理性である。
もともと日本が栄華を極めたのは80年代である。
あらゆる制度的取り組みはこの時代になされている。
しかし、経済的な豊かさを根拠に展開された制度は経済的な貧しさが顕在化することで、機能しなくなる。
だから、わたしたちは、飲み会を断るようになったわけだし、上司を敬う必要がなくなったのだ。
すなわち、保証と忠義はセットであるため、保証なき忠義に不毛さを感じてしまっているのだ。
結果として、日本のベンチャー企業がいう「家族」という言葉がわたしたちには白けて映ってしまうのだ。
このような推移を経て、日本から白ひげは死んだのだ。
実際に、松下幸之助は亡くなったし、中内㓛も亡くなった。
そして、稲盛和夫も亡くなった。
このように次々と日本を代表する”白ひげ”はなくなっているのだ。
ある意味で彼らは、強烈なカリスマだ。
優秀なトップダウンのリーダーによる包摂だ。
※ちなみに、柳井社長や孫社長は、強烈な新自由主義者である。
近代的組織のあり方に代わって登場したのが、新自由主義の中のチームだ。
それは麦わらの一味に象徴される。
これはティール組織と呼ばれる組織で、一部のメガベンチャーや極小のベンチャー企業では採用されている考え方だ。足りない部分を補い合う、得意分野を活かして支え合う。そんな麦わらの一味のような組織のあり方である。
白ひげはたしかに魅力的だけど、時代は変わった。そうである以上は、白ひげは次の世代に託すしかないのだ。
だからこそ、白ひげは死んだのだ。
そして、代わりに登場したのがこういう組織であり、これからの時代に符合するのはこういう組織なのである。
弱点を補いあうようなチームだ。
実際に、時代はこういう風に推移している。
もちろんまだまだ白ひげ不在の日本型経営の亡霊のような企業は、日本にはまだまだあるけどね。
ただ、ぼくはこのようなティール組織も時代的に対応期限を迎えつつあるのではないかと考えている。
この次の時代に来るのは、『鬼滅の刃』的組織なのだが、それはまたいつか。
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