三 通船川

 父の転勤で、春生が転校したのは小学二年になるときだった。新しい住居は当時の新潟市の東方郊外で、広く言えば山の下地区にある長屋形式の社宅だった。ここに住んだのは四年二ヶ月で、春生が新潟県内に住んでいた間では一番長く住んでいたことになる。
 社宅は、表通りから裏通りに突き抜ける路地に沿って建っていた。たぶん、かつて一本の廊下で繋がっていた建物を間仕切りして六軒の長屋とした、文字通り長い建物だった。また、それとは別に、その長屋の南側に戸建て一軒が並んでいて、社宅は全部で七軒が並んでいた。春生の家はその長屋の方の南端の家で、春生の家の真ん前に社宅七軒の共同風呂と共同物置とがくっついて建っていた。
 春生の家は、前面のガラス戸と六畳間の間にかなり幅広の廊下、あるいは縁側があった。それは、直前に住んでいた昭和橋の社宅を縦にしたような間取りで、最前面に廊下、その奥に六畳とさらに奥の八畳の二部屋が基本的な構造だった。家に向かって前面にある廊下の右側に台所、左側に少し広めの玄関があり、玄関の奥にトイレがあった。玄関の外側の脇に少し空間があり、その裏手で南側の一戸建ての家との間に砂地の一画が空いていて、春生の父はそこに趣味のサボテンの小さな温室を作った。彼はもともと植物が好きで、水やりできない日があっても特に問題がないとするサボテンを以前から集めていた。その鉢数がいよいよ増えてきて、家の外に、幅二メートル奥行き一メートルぐらい、高さも一メートル弱ぐらいの木枠に、南側に傾斜するビニールのふたが付いた温室を作ったのだ。
 ところで、社宅のある地域の南側を東西に流れている通船川は、阿賀野川が信濃川の河口近くに合流していた頃の旧流路だったらしい。阿賀野川が決壊して、日本海に直接流れ込むようになってからも旧流路はそのまま残り、阿賀野川と信濃川をつなぐ運河として利用され、「通船川」と呼称された。
 もともと新潟市全体が信濃川と阿賀野川とが運んできた砂が堆積してできた砂地や砂山がもとになっていて、市内各所に新潟島、万代島、下所島、上所島、焼島など、「島」が付く地名が多かった。沢木一家が転居したこの社宅のあるところも松島町、松島通りと「松島」の名称が付き、ほとんどが砂地で、近くには大山や病院山と呼ばれる砂山がある。通学路にも砂地や窪地、砂丘などが見かけられ、小学校の近くには物見山という地名もあり、当時はそこの陸上競技場跡地に小学校から椅子を運んで運動会をやっていた。一帯の「山の下」という総称的地名も、これらの砂山や砂丘を意識して使われていたようだった。
 病院山で冬に積雪があったときに、秋生と春生は近在の子供たちに混じってスキーやソリ遊びをしていた。斜面のところどころに砂が露出していて、スキーでもソリでも勢いで砂地に滑り込むと砂で急ブレーキがかかり、転倒してしまう。酷く転んで、特に背中を強く斜面に打ち付けると、横隔膜が一時的に利かなくなるのか呼吸困難になり、息は吐けるが吸えなくなって苦しかった。あるときはすぐ脇で兄も転がっていて、二人でしばらく呼吸困難で苦しんでいたことがあった。

 さて、春生がここに転校して、新二年生のクラスの担任になった先生は、やはり女性の音楽の先生だったが、若くて溌剌としていた。学校行事ではほとんどのピアノ演奏を担当していた。しかも、苗字は春生一家と同じ、名前は春生の母と一音違いだった。春生はそのことが分かったときは嬉しくて、さっそく、先生のところにそれを告げに行った。先生は振り向いて、
 「あら、そうなの!」と驚いてにっこりしてくれた。
 転校先の新しいクラスの最初の頃の授業では、誕生月ごとに分けて掲示するための各自の自画像を描かされた。春生はかなり丁寧に自分の顔を描いたが、鼻に黒い輪郭線をつけるのには抵抗があり、考えた末にオレンジ色で鼻を描いた。できあがった後、教室の後ろ掲示板の上に十二両の電車が作られ、各車両に誕生月ごとに全員の自画像が乗った。春生の自画像は確かに、オレンジ色の鼻をつけて電車に乗っていた。その時、輪郭線をつけずクレヨンのタッチと色合いで立体感を出したのは、レオナルドに通じる発明だったと、今でも春生は自負している。

 ところで、春生はこの学校に転校した初日、休み時間に兄と廊下で待ち合わせていたら、兄と会うか会わないかのうちに、突然にパラパラと現れたチンピラたち=上級生たちから取り囲まれ、
 「子分になれ」と、ずいぶん時代がかった言葉で脅された。弱虫の春生は自分のクラスに逃げ帰ったが、教室の中まで追いかけてきたチンピラたちは、春生が兄から教えてもらったボクシングのポーズを取って構えたのを見て、
 「おー、強そうだな」とからかった。そして、春生がそのまますぐに泣き出したので、
 「よし、あっちへ行こう」と言って教室を出て行った。
 次の授業の後、どういうわけか母が教室に現れ、遠くから春生の所在を確かめた後、担任の先生と真剣な顔で話をしていた。その後、春生は担任から前の休み時間に起きた事件のことを確認され、先生は全員に向かって、
 「みんな、先生に教えてくれなきゃ駄目よ」と言った。
 帰宅後に母に聞いたところ、春生と同じく上級生たちに追いかけられた兄の秋生は、春生と違って教室には戻らず、そのまま家まで走り帰った。しかし、それは敗走ではなく、子供の転校手続きを終えて帰宅していた母とともに、再び学校に攻め上がってきたのだった。母は兄の担任に出来事を告げて、彼ら不良グループの行動が教員室で大きな問題になった。母が春生の教室に顔を出したのはその後で、春生の様子を確認し、この担任の先生にも出来事を告げて帰っていったのだった。
 一方、その時間に兄は自分の担任と一緒に上級生の各クラスを回り、廊下の窓から覗いて、
 「アレとアレと……」と兄弟を襲撃した該当者を指差して歩いた。そうして、不良グループは一網打尽にされ、後日処分されたということである。その後、兄弟がこの小学校に在学した四年あまりの間は、不良グループの気配は全く感じることがなかった。
 兄は、確かこれで三校目の転校だったはずである。
 春生たち兄弟が小学校、中学校を通して何回か転居や転校をせざるを得なかったのは、確かに父の職業のせいだった。そして、兄の小学校のスタートは、かなりまずかったようだ。これは後日母から聞いたことだが、あるとき、兄の転校先で新しく担任になった教師から、
 「以前の学校からずっと、お子さんについての注意書きが付されて回っていたようですが、これは私のところで止めて、先へは回さないことにします」
と言われたとのこと。母の話では、兄は小学校入学直後に何か問題を起こしたらしかった。しかし、その時に担任の教師が取った対応に両親ともに不満を持ったのだろう。
 もともと父は、考え方がかなり杓子定規で言葉遣いも単純だった。だから、その当時の口癖で、自分が思ったままに、
 「『それは憲法違反だ』と、その教師に言ってやれ」とでも母に言い、まだ若かった母もそんなものかと思い、小学校に行ってその通りに伝えたらしい。母の言葉はその教師にとって、たぶん脅しであるかのように受け止められたのではないか。それ以後、親子共々その教師に酷く憎まれるようになった。そしておそらくそれが原因で、兄は、注意書きのようなものを付されて、転校する学校に順送りされていたようだった。
 兄が何をしたことがそのきっかけだったのかは、母から聞いたと思うが、はっきりと覚えていない。しかし、後々の兄の言動を考えると、やはり相当乱暴なことをしたのではなかったか。
 実際、兄は、入学か転校かしたその日に同級生を殴ったとか、教師とうまく行かなかったとかの「武勇伝」を、かなり後になっても自分の子供たちに自慢していた。おそらく、そうした学校生活の最初期の暴力か暴力的な言動かが、この「注意書き添付」のきっかけだったのではないか。つまり、兄は、学校ではいわば「凶状持ち」みたいに扱われていたのだ。両親も確かに若かったが、母は、自らの対応の拙さに忸怩たる思いがあったようだ。
 しかし、それにしても、子供が初登校の日に同級生を殴るというのは、あまりに異常である。春生も、この時のように転校直後に追いかけられたり、別の転校では仲間はずれにされたりということはあったが、自分から暴力を振るうこととは全く無縁だった。小学校入学前に母の実家に遊びに行ったときに、秋生がバスに石をぶつけたことも思い合わせると、もしかすると兄は、今で言う「多動児」だったか、あるいは「衝動性」か「攻撃性」のような何らかの障(しよう)碍(がい)に当たる症状を持っていたのかもしれない。現在なら専門家のカウンセリングや投薬療法などを受けるべきだったのかもしれない。
 確か、この時の転校が兄にとっては最後の転校で、そこから中学に進級したことになる。そうだとすると、この時の担任が、「凶状」を押さえてくれた教師だったのではないか。「私のところで止めます」と言ってくれた教師は、ありがたい存在ではあった。兄について回った「凶状」をもっと早く止められれば、兄の人生が少しは好転したのかもしれない。
 ただし、この教師は、秋生が卒業した二年後に春生の体育の担当になり、体育館での授業で、春生が一瞬気を逸らして隣の生徒と笑顔で言葉を交わしたその瞬間を見咎めて二人にビンタを食らわした、典型的な体育会系教師でもあった。
 兄自身も、言葉が乱暴ですぐに人に手を上げるような粗暴さや攻撃性があったとしても、根本的に兄は不良ではなくグループもほとんど作らず、けれどそれなりの危険性はあった。そして、兄の場合は、幸いにというか、春生には不運でしかなかったが、やがて彼の攻撃性が内攻して、明らかに春生にのみ向けられるようになっていくのだ。

 好きな絵の方は、もう外に写生に出るということは全くなくなったが、家の中で秋生と春生の兄弟二人で、家にある果物や花、それを入れた皿や花瓶、それに本の口絵の模写などをたくさん描いた。特に春生は、家にある花瓶の中でも、四角柱の中程が膨らんだような形で、その下側の濃紺から上側の薄緑まで色が変わっていくきれいな花瓶が好きで、グラジオラスやキキョウなどの花が生けられているところばかりではなく、花瓶だけでも、クレヨンや水彩で何度も描いた。後から思い出すと、花よりもむしろ花瓶そのものの青系のグラデーション風の色彩が、春生には描く対象として面白かったのだと思う。他に、架空の車やロケットの漫画風の絵や、設計図を描いたりしたが、いつも兄の絵は精密で格好良く思えた。
 この頃、特に粘土細工も兄と二人で相当に凝って、毎日、時間をかけてさまざまなものを作り込んでいた。兄は手先が器用で技術的な工夫が巧みだった。特に人間の目の部分は、顔の目の部分にナイフの先で横に切れ目を入れ、そこに小さく丸めた粘土を嵌めてリアルな感じを出していた。春生もその真似をして、人間をたくさん作ったが、器用さと工夫ではかなわなかった。
 また、特殊な遊びだが、筆跡の模倣ごっこも面白かった。お互いの筆跡や、父や母の筆跡をまねて偽文書を捏(ねつ)造(ぞう)するのである。と言っても大人の文章は書けないので、たわいもない文書などで、父や母の筆跡を模写してだますのが主だった。これは、春生もかなり器用に捏造することができた。母が主要なターゲットだったが、母も良く騙されるふりをしてくれた。

 この頃の兄は、少なくとも弟の目には整頓好き、きれい好きのように見えた。いろいろな時間はほとんどが向かい合わせの勉強机の上で過ごすのだが、兄は引き出しの中もきれいに整頓していた。絵でも工作でも、虫捕りでも遊びでも運動でも、春生は兄が何でもできると思っていた。
しかし、たとえばこういうことがあった。春生の家では、母が北海道の出身だったせいか、温かいご飯の上にバターを乗せて溶かして食べることが時々あった。特にその上に醤油を数滴垂らして食べると美味だった。父方の親戚がその食べ方を見て、
 「気持ちが悪くてとても食べられない」と言っていた。伝統的和食の感覚ではそう感じるのも当然だったかも知れない。ある時、朝食で、当時の一般的なチーズが食卓に出たときに、そのチーズが温かいご飯の上でバターのように溶けるかどうかの話になった。兄が、
 「溶ける」、春生が確信を持って、
 「溶けない」と言い、一緒に朝食を取っていた父が、
 「じゃあ、今、このご飯で試してみればいい」と言ったので、実際に目の前の食卓で試してみた。やはり溶けなかったので、春生が、
 「ほら」と言うと、兄が全く意外にも、語気を荒げて、
 「『溶ける』と言ったのは春生じゃないか」と言い出し、春生は混乱して何も言えなくなってしまった。
 「そう言ったのはお前だ」という論法は、この頃から兄が議論で多用し始めて、春生を混乱させた。日常の会話では瞬時のやりとりで話が進むから、その流れが突然、一方的に強く否定されれば、記憶だけが頼りの水掛け論になる。それを気にする側が黙るしかない。
 話を攪乱する兄のこの方法は、きっと子供時代の早い段階にどこかで、たぶんチーズを巡るこの時の春生とのやりとりで、彼が学習した方法なのだろう。そして、実はその時、同じ食卓にいて、「試してみればいい」と言い、成り行きも見ていたはずの父が、
 「それは、春生ではなく、秋生が言ったことだ」と最初に正しくジャッジしてくれていれば、兄のハグラカシ論法の学習はなかったはずだ。この点が改善されていれば、その後の兄の人生は絶対に変わっていたし、一家の言論空間も自由度が増して、弟の人生ももう少し質の良いものに変わっていたに違いない。
 母も、いつか、
「秋生は自分で信じてあんな言い方になるのかねえ」とこぼしていたことがあったから、秋生との議論で同様の体験があったのだろう。兄のハグラカシ論法はごく原始的な嘘を意識的に相手に向けているので、春生ばかりでなく父も母も逆に混乱し、〈秋生には何らかの意識障碍があるのかもしれない〉などと思ってしまい、そこに触れないようにしたまま家族の長い時間が経過しただけなのだ。単純なテクニックだけに、それが悪質な欺瞞、詐術だとは見破れなかったのだ。
 その頃、こういうこともあった。
 「二人とももう大きくなってきたのだから、それなりに家の仕事を分担することにしよう」という親の意図が事前に説明されて、兄弟で家の仕事を割り当てられるようになった。秋生は玄関と家の外の清掃を担当し、春生は茶箪笥のカラ拭きを担当した。しかしある時、春生がやっていたカラ拭きを、兄が、
 「見えるところだけ拭いて、インチキしている」と根拠なく決めつけることがあった。兄弟の間の仕事の分担に不満があったのかもしれないが、あまりにも不当な言いがかりで、春生は腹の底から怒りを感じた。これも、兄がどこかで学習した、人に意地悪をする方法なのだろう。
 根拠のないことを言われる経験は春生の人生で何回かあった。幼稚園で歯を表彰された後のできごとは笑って済む程度のことだった。後年には、とうてい揺るがせにはできない社会生活上の大きな誤認問題も起きる。しかし、この兄の存在は、すでにこの頃から、春生にとって人生上の困難な問題となりつつあった。兄が、春生に対しては何でも言いがかりをつけ、意地悪く攻撃するようになってきたのだ。
 これもその頃のことだが、夜、春生は、急に下腹の中心の奥深いところに激痛が走った。刃物でえぐられるようなキリキリとする鋭い痛みだった。春生が痛みを訴え、父と母が心配して春生のズボンのベルトを緩め、痛むお腹を直接手で押さえてくれたが、痛みは強く続き、春生はその痛さに泣きながら腹をよじった。涙がぽろぽろ流れた。しばらくそのまま両親が抱きかかえてお腹を温かい手で押さえてくれていて、やがて痛みは収まった。翌日、春生は母に連れられて近所の内科医院に行ったが、医者から腹のあちこちを何度も押され、その都度、感想を答えた。医師の診断は、
「盲腸の気(け)があるかもしれない」ということで、しばらく様子を見ることになった。幸い、一過性の痛みだったのか、春生がその後同じような痛みに襲われることはなく、盲腸にもなっていない。腎臓や膀胱に結石がある、と人間ドックで指摘されるようになったのは五十歳近くなってからだが、それが原因で引き起こされるという「七転八倒の激痛」に襲われたことはない。だから、当時の低年齢での下腹部激痛の原因は不明のままである。
 しかし、春生が腹痛で苦しんだ当夜、痛みが治まって、奥の部屋で並んで寝るときに、兄の秋生から、
 「さっきは痛いふりをして嘘で泣いたんだろう」と言われた時の驚きと憤りも、春生はずっと忘れずにいる。子供の発想で、何のために、なぜそのようなことを秋生が考えるのか、今に至るも春生には全く分からない。秋生自身が体を壊して何度か入院していたことがあり、内臓が弱いという定評が家族内にあった。しかし、そのような時、秋生自身がお腹が痛いふりをしていたということが少しでもあったのだろうか。
 兄は春生に対しては酷く意地が悪かった。これは春生がこの住宅に住んでいた小学校時代の四年と二ヶ月の期間を中心にしてずっとそうだった。それ以降も、秋生は生涯を通じてずっと意地が悪かったのだ。バドミントンは、家族でもやれるし、子供同士でもやれるのでこの頃頻繁に遊んでいたが、春生がバドミントンの羽根をうまく打てず誤った方向に打ち返してしまうと、兄は、報復として、必ずわざと打ちにくいようにさらに遠くに外して打って寄こした。この頃、家の内でも外でも、近所の子供がいてもいなくても、バドミントンに限らず、ビー玉でもパッチでも、遊ぶごとに同様の意地悪さは無数に起きるようになっていた。

 春生が小学校の低学年、秋生が高学年の時だった。家で、食卓の前に二人を並べて、母が、
 「時計を見て今の時刻を紙に書いてごらん」と課題を出したことがあった。三人で横向きに見上げたのは家にあった振り子式の柱時計で、その時夕方の六時四十分ぐらいだった。春生はすぐに紙に書いて母に渡したのだが、秋生が時間をかけて七時近くに書いた答えは、三歳下の春生から見ても明らかに〈兄は時計が分からないのか〉と思うものだった。母も、秋生の成績や普段の様子を見て、疑問に思うようになってこのような試みをしたのだろう。おそらく、母は戦時中に教師をしていたことがあるのも関係したのだろうが、しかし、これはおそらく兄としてのプライドを著しく傷つけるやり方ではあった。そして、たぶんそのような屈辱感のはけ口のような形で、春生に対し悪循環的にさらに意地悪く暴力的にもなってきたのだろう。
 同じ頃、夏の夜で、玄関や廊下は開け放していたが、玄関先で飼っていたコロという犬が外に向かって吠え止まなかったときがあった。ちょうど春生と兄が将棋を指していて、盤面をにらんで長考している春生を、天井を見上げながら待っていた兄が、犬が吠える玄関に向かって「殺(コロ)すぞ!」と大声で叫んだ。春生はこの言葉を聞いた瞬間に、将棋で余裕のある兄が洒落たつもりで言ったことは分かったが、その言葉にどうしようもない粗野、粗暴を感じた。そしてやはり、「そんなことを言うものではない」と、秋生は親から叱責される結果になった。

 兄には小学校の高学年以降に成績上のピンチがあったのかもしれない。この小学校へは、春生が小学校二年生、兄が五年生になる時に転校したのだが、兄はそこでクラスになじめず、成績も急降下した、ということはあり得るだろう。そして、春生に対する意地悪さは、思い合わせれば、確かにこの社宅に四年と二か月住んでいた頃がピークで最悪だったが、その後半の二年と二ヶ月も、兄が高校受験を前にした中学校の三年間に重なっていく。兄の意地悪さは生涯ほとんど変わらなかったが、おそらくこの頃の、兄の学業上の最悪の時期が、春生への意地悪さのピークでもあったように思う。

 その頃だった。兄は夏か冬か春か、その年の長期休みに入るときに学校からもらってきた通知表を隠して親に出さず、自分でこっそり親の印鑑を押して休み明けに学校に返したらしい。それが後でバレてひどく叱られていたことがあった。その時、春生は本を読んでいたかして、最初の方は親と兄の話の内容を聞いていず、途中から深刻な話が展開していることに気がついた。兄は涙ぐんだまま、黙りこくっていた。兄の成績に無関心だった父母も悪かったのだろう。ちょうど父方の祖母が泊まりに来ていたときだった。父母にきつく叱られていた兄に、祖母が庇うようにして頻りに、
 「謝(あやま)んなせえ、謝んなせえ」と言っていた。

 兄の言動のほとんど一つ一つが思慮の浅いもので、父も母も注意することが多かったが、特に日常的に母がその役割を担っていた。そのため、兄は特に母に対し、次第に反感を強めるようになっていったのだ。父はそれほど子供に愛情を注ぐ人間ではなかったが、兄は母への反感の反動として、父には親近感や依存心があったらしい。もちろん、ここには、〈母の愛を一身に受けていた第一子が、その母の愛を第二子に奪われて母と第二子を恨み、その心の空隙を埋めてくれた父を慕う傾向があり、一方で第二子は母の愛を受けたまま成長するが父との関係は希薄であり、第一子からは迫害され続ける〉という、春生が後に知った、一般的な二人っ子パターンが存在しているのは、確実だろう。上の子をサポートすべき父親が、特に我が家では子供と接することが少なかったのと、もともと子供扱いも不器用なところがあったので、たぶん、兄は一層の落差と悲哀を感じたのではないか。そのため兄は、弟の春生に最初から敵意のようなものを抱いたのかもしれない。
 しかし、兄の根本的な性格を考えるとき、春生は父母から良く聞いた話を思い出す。幼時期の兄は、食事になるとちゃぶ台に上がって食器をひっくり返したりするので、結局、食器類はちゃぶ台の下に並べ、兄はちゃぶ台の上に腹這いになって下をのぞき見る、という形で父母は食事をしていたそうだ。兄は春生より三歳上(正確には二年七ヶ月差)で、春生が生まれる前の、一人っ子時代の話だ。三歳に満たない幼児として、あり得ない話ではないが、兄のその後の言動を考えると、このシーンが、やはり兄の生得的な性格とその後の家庭内の位置の象徴のように感じられる。
 春生は、兄への敬意が足りないかもしれない。兄弟だから、幼い頃はお互いに依存し合ったり助け合ったりしたこともなかったわけではないが、しかし、春生には、子供の頃から兄にはひどくいじめられた記憶が多い。ほとんど常に、兄は春生に意地悪く乱暴に当たった。時に暴力的だった。春生のすることで自分の気に食わぬことがあると、必ず報復してきた。だから最初から兄の報復感情を刺激しないように気を遣うことが、春生が子供時代を通して身につけた最大の処世術だった。春生は、兄に対して警戒心を抱くことが、何よりも優先したのだ。

 春生がこの小学校の二年、三年と持ち上がりで持たれた女の先生は、三年生の途中で盲腸の手術で休職し、臨時の女性教師が来て、たぶん二週間ほど担当した。春生はどこかで見たことのある先生だと思ったが、すぐに、前の小学校でも臨時でどこかのクラスに入っていた先生であることを思い出した。しかし、最悪だったのは、その先生が完全な事なかれ主義で何も動かない人だったことだ。ちょうどその臨時の先生に持たれた期間に三年生の遠足があり、新潟空港に行ったのだが、他のクラスが滑走路脇のフェンス際まで行って飛行機の発着を見学してその後も自由に行動しているのに、春生のクラスは空港の建物前の草むらだけに動きを限定されてしまった。皆から言われて春生が先生に交渉したが、「危ないところには行かないの」と言ったきり、空港の建物前から動かない。結局、空港に行ったのに飛行機は一度も見ずに、昼食もほぼ同じ草むらで食べて帰ってきた。つまらなかったせいか、その空港前の草むらで撮った遠足記念写真では、春生は、他の生徒の隙間から左顔の片目を出しただけで写っている。
 名前が母と一音違いの担任の先生は、学年末に新潟市の中心部の小学校に転勤になった。春生が「学究肌」だと言われ始めたのは、この先生からだった。春生は通知票に書かれたこの言葉がよく分からなかったので、母がその意味を説明してくれた。それでもあまりぴんとこなかったが、後に買ってもらった国語辞典で、自分でその語を調べるようになってから、何となく分かるようになってきた。
 以後、春生は担任が女性の先生になることはなかった。

 当時は子どもたちの間で野球人気があって、秋生と春生も、兄弟共用のバット一本と、それぞれにグローブ一つずつを買ってもらい、社宅の子どもたちや近所の親しい子どもたちと一緒に、皆で道具を持ち寄ってキャッチボールをしたり、二手に分かれて試合をしたりしていた。キャッチボールは社宅の前の路地や近くの路上などでやるのだが、ゲームになると、すぐ近く、ガスタンクの隣に広がっている砂っ原でそれなりの場所を確保してやることになる。あるとき、休日だった父も作業服に運動靴を履いて参加してくれた時があった。父も、子どもたちに野球道具を買ってやった直後なので、野球に興味を持ったときがあったのだ。
 その日は、春生たちがゲームを始めて少し経ってから、年代が上の、近所の中学生や高校生たちのグループも道具を持って砂っ原に出てきて、春生たちの試合を見ながら、三塁側の空いた場所でキャッチボールなどをやり始めた。
 父がバッターで長打を打ち、余裕を持って三塁に駆け込んだ。そして、塁上に立ってピッチャーの方に返されたボールを見返った時だった。急に別の方角からボールが飛んできて、体の向きを変えた父に当たった。当たったのは、上着を脱いでシャツ姿になっていた父の、ほとんどみぞおちの辺りで、反射的に前屈みになった父の前にボールが落ちた。一塁側にいた春生には、当たったときの鈍い音と父の「ウッ」という声が聞こえたような気がしたが、たぶん、実際には聞こえなかった。
 三塁側の離れたところで仲間とキャッチボールをしていた高校生が、頭をぺこぺこと下げながら顔の前で片手拝みをした。その謝罪に父は頷きながら腹を抑えていたが、笑顔はなかった。三塁の子どもが父に当たったボールを拾って彼に投げ返した。春生が見ていると、その高校生は、小柄だったから中学生だったのかもしれない。返されたボールをキャッチして向きを変えたその横顔に嫌な感じの薄笑いが浮かんでいた。父の顔は強張ったままだった。
 あそこの位置でキャッチボールをしていて、投げ損なってあの角度で父の方向に飛ぶわけがない。まして、体のど真ん中に当たるわけはない。わざとぶつけたという気配が濃厚だった。春生の周囲の子どもたちからもそのような意味のつぶやきが聞こえた。おそらく、自分たちが遊ぶスペースを取れないことを逆恨みして、特に邪魔だった大人の父を敢えて狙ったのではないか。
 結局、そのゲームがどうなったか、春生は良く覚えていないが、小学生のゲームはそれほど長くはかからず終了し、引き上げたのだろう。幸い、ボールが当たった父にもたいした問題はなく、その後も家族の間で話題にはならなかった。

 同じ頃、夏休みだったが、父が社宅の子どもたちを連れて、自転車で虫捕りに行くことになった。場所は飛行場の周辺の草原で、その辺りの地理について土地勘が一番あるのが父で、自転車で行くにも安全な道を間違えないでたどり着けるということもあったらしい。参加する条件は必然的に、自転車があってそれに乗れる子どもに限られた。そして、兄弟が複数いても、だいたいは年上の子のみが自転車に乗れるか、年上の子が大人用の自転車を使うかするので問題はなかった。春生たちの家は父が大人用を使い、一台しかない共用の子ども自転車を秋生が使うことになった。春生は珍しく、自分もなんとかして一緒に行きたいと主張したが、結局、諦めて留守番で残ることになった。
 参加する子どもたちは各自で虫かごと虫取り網、それに昼食と水筒を持った。父が、彼ら、秋生を含む十数台の子ども自転車隊を率いて出発し、それぞれの家族が見送った。午前の社宅の路地がしんとしてほとんど無人のようになった。
 午後、日が傾く頃、自転車隊の一団は日焼けした顔で帰ってきた。お互いに言葉を交わして、虫かごを大事そうに抱えて、自転車でそれぞれの家に散っていった。汗の匂いが路地に広がった。兄の秋生も、満足感と疲労感を漂わせて、父と一緒に帰ってきた。兄の虫かごにもキリギリスやクツワムシなどと覚しき昆虫が何匹も入っていた。

 兄弟は、父からサボテンの鉢植えに使う砂の水洗いを頼まれたことが何回もあった。あるとき、二人で分担して庭で洗っていると、いつの間にか兄は砂を入れたバケツに水を流しっ放しのままいなくなってしまった。しかし、水を流し続けて省力化を図るのは、いかに合理的に見えても、上濁りが流れるだけで、底に沈んでいる砂は汚れたまま残っている。砂はそれこそ米をとぐように全体をかき回して洗わなければきれいになるものではない。二人ともこの作業が初めてのことではないのに、それが兄には分かっていなかった。
 兄について次第に分かってきたことは、ほとんどの場合、兄弟で同じ体験をしていても、兄はそこから得る情報が極めて少ないことだった。そして、春生が兄と違う意見を言っても、兄に無断で水を止めても、兄が怒り出す危険性は常にあった。水は無意味に流れ続けるだけだった。
 この頃、たぶん、兄が社宅の小学生の中で最年長になったので、ガキ大将というほどのことでもなかったが、皆を率いていたことがあった。雪の日だったが、兄の提案で、皆で一緒に登校するときに、各家にみんなで揃って順々に迎えに回るそれまでの方法をやめて、家の陰になる場所で待ち合わせることにしようということになった。しかし、子どもたちが迎えに来ないことに気がついた母が、まだ冬の寒風の中を外でただ待ち合わせるのを懸念して、元どおり各家を順繰りに回る形に戻させた。確かに時間を決めて一カ所に集まれば効率はいいが、寒さ対応の他にも、遅れる子供が出た時のようなイレギュラーな場合など、子供だけでは対応できない可能性がある。兄は一見もっともそうに思えるさまざまな意見や提案、行動をすることがあったが、たいていの場合は形式的で考えが浅く、総合的な配慮に欠けていた。

 春生も、決して聖人君子の縮小版のような品行方正な子供ではなかった。引っ込み思案や消極性、自信のなさなどから失敗して、親や教師に叱られたことはいろいろたくさんあった。
 これは春生の軽率さから失敗した話だが、兄が中学生になって子供集団から抜けた後だった。春生が同年代の子供同士で一人の家に集まって遊んでいたときだった。その家の窓から裏の家の庭が見えていて、そこにあった丈の低いブドウの木に小さな青い実がなっていた。まだ小さくて堅そうだった。春生が、
 「あれはパチンコ(ゴム紐で弾を飛ばすY字型の遊具)の弾(たま)にちょうどいいな」と言ったら、急に「取ってこよう」という話になって、皆でその気になってしまった。
 玄関に出て裏に回り、青くて堅い小さなブドウの実を手に持って戻ってきたところでその家の子供の母親と出会い、問題になった。結局、裏の家で大事に育てていたブドウの実を皆で盗んだということになった。
 裏の家は春生の同級生の家で、ブドウの木を育てていたのは同級生の祖父だった。母親たちが謝りに行った時は、
 「子供だし、特に大きな問題ではない」という意味のことを言ってくれたらしいが、その後、母親たちが集まって、最初に「取ろう」と言い出したのは誰だと言う追及がなされた。
 その子供たちの間でパチンコが遊び道具として使われたことはなかったし、この時もその道具が誰かの手元にあったわけではなかった。わずかに、春生自身が幼い頃にそれで遊んだことがあるぐらいで、その道具を自分で所有していたことすらないのに、なぜか「パチンコ弾にちょうどいい」と言ったのが春生であるのは確かで、それは充分以上に自覚があった。しかし、「取ってこよう」と言ったのは果たして誰か。春生には自分か誰かが言ったかどうか、はっきりした記憶はなかった。
 たとえば、学校の帰りに、皆で通りがかりの住宅の生垣で折り取った玉椿の茎を、外皮から引き抜いてチャンバラの真似をしたり、葉っぱ一枚をちぎり取って丸め、端を潰して葉笛にして吹き鳴らしたりしながら帰ることがよくあった。それは子どもたちの下校時に一般的に見られたほとんど無意識の習慣的な行動だった。しかし、その子供たちの様子を生垣の家の中から見ていて苦々しく感じている大人もいたかもしれない。そして、たぶん、その時の大人の感覚で、皆で連鎖反応的に一斉に動く子供たちの行動の責任を問うことになれば、きっかけを作った者に一番責任がある、ということになるのだろう。
 結局、ブドウの実の場合も、言い出しっぺであり、その時の年長者の一人で学校のクラスでは学級委員長でもあった春生が一番責任ある者として母に責められた。春生は長い間へこんでいた。

 四年生になる時にクラス替えがあり、新たに担任になったのは転勤してきたばかりの理科の男の先生だった。
 そのクラスでは、四月からほぼ欠席し続けの男子生徒が一人いた。四年生になって新たに編成されたクラスなので、三年生の時は他のクラスにいたのか、それとも他の学校から新しく転入してきたのかも分からなかった。接点が全くなかったので何の先入観も持っていなかったが、春生と友達が担任から呼び出され、家が近くだからと頼まれて、プリントを託された。すぐ近くに住んでいるということもその時初めて聞いた。帰宅後に、教えてもらったその家に、渡されたプリントを届けに行った。以前は空き地だったところに、いつの間にか真新しい建材の家が何軒もくっついて建っていた。小さな子供たちが遊んでいたので、用件を言うと、すぐにどこかから大人の女性が出てきて書類を受け取った。そして、
 「あんたたち、学校の先生に言っておいてよ。この子は本当に悪い子で、いつも学校をサボって遊んでいるんだから。学校に行きもしないし、勉強もしない。すごい悪い子なんだ」と投げやりの割れた声で乱暴に言うので、母親ではなかったらしい。春生たちは思ってもいない意外なことを言われたので一緒に行った友達と驚いて帰ってきた。
 翌日、登校するとすぐにその友達と一緒に職員室に行き、担任の先生に昨日あったこと、言われたことを告げた。春生より友達の方が激していた。聞いていた先生は両腕を頭の後ろに組んで、「ふーん、そうか」という反応だった。しかし、その後、教室に来た先生は別人みたいだった。みんなに向かって、
 「何々君は事情があって、あまり学校には来れない。それで休んでいることをみんなは分かってやらなければ駄目です。それをどうだこうだと悪口みたいなことを言うのは良くないし、何か噂をきいて広めたりするのも良くない。何々君には優しくしてやってください」というようなことを話した。
 春生は前日一緒に行った友達と顔を見合わせて、「分かった」と言うように頷き合った。
 しかし、たぶん彼は何回か登校しただけなので、先生の言う、彼の「事情」がよく分からないし、それは家が貧しいことなのかもしれないが、彼の家は春生が住んでいる六軒長屋とたいした違いはないようにも思えた。春生たちが脳天気で知らなかっただけかもしれないが、彼は四年生になって初めて見る生徒で、そもそもその本人がほとんど学校に出ていないので、おそらく誰も彼のことを知らず、どこに住んでいるかも知らず、去年在校していたのかどうなのか、友達もいないようで、話題にもなりようがなかったのだ。春生たちも先生から頼まれて初めて訪ねて行ったので、先入観を全く持っていなかった。それに、春生たちが悪口を言ったわけでも噂を広めたわけでもなかった。ただ「学校をサボっている」「先生に言っておいて」と大人に言われたことに非常に驚いて、翌朝登校してすぐに先生に届け出たのだが、担任の先生はそれが良くなかったと言っているようだった。
 しかし、大人の言葉の善し悪しを判断するには、春生たちは経験と情報が不足だったし、誰かに話したり噂をしたりする暇もないまま、朝一番に大急ぎで先生のところに報告しに行ったのだから、先生の話の意図そのものが良く理解できなかった。春生たちが唯一「分かった」のは、この話にはもう触れない方がいいということだけだった。たぶん、誰も彼に関心を持っていなかったことの方が問題だったのだろうが、その同級生は、結局、その後も登校することはなかった。その先生も在職したのはこの一年だけで、翌年にはまた異動していなくなってしまった。

 春生は、その頃、小学校では、体育の授業でも何かのイベントでも、やはり野球をする機会は多かった。ルールは大まかには飲み込めていたが、チームワークのようなものはほとんど分からない。それに、春生は打撃はそこそこ打てても走るのが速くなかった。あるとき、メンバー不足だったのか、子供会か何かで声を掛けられて、少し遠くの校区外の赤土のグラウンドで、これまで見たこともない顔ぶれのチームとの試合に参加した。しかし、打順が来て打席に入ると、一人だけユニホームらしきものを着ていたチームのリーダーの上級生が、しきりに、
 「かぶれ、かぶれ」と叫んでくる。どうしていいか分からないまま普通にバットを構えていると、駆け寄ってきて、お手本を見せてくれた。要するに、ホームベースの上に前屈みに深く構えることらしい。その通りにすると、
 「もっと、もっと低く」と言って、前屈みの春生の背をさらに強く押さえてきた。
 結局、ホームベースの上に被さるように上体を極端に深く折って曲げ、ピッチャーがストライクを投げるのを妨げて、フォアボールかデッドボールを誘って塁に出る、という戦法なのが分かった。春生は打つつもりでいたのだが、これでは体が腰から折れていて、バットが振れない。その時は結局、フォアボールで出塁したが、試合の経過はよく覚えていない。ただ、全くつまらない試合だったことは覚えている。

 春生の小学校の担任の先生は転校先三ヵ所の小学校で五人の先生がいるが、そのうち二人が理科の先生、三人が音楽の先生だった。
 五年生の一年間と六年生の四月五月の、合計一年二ヶ月間のみ担任だった先生も、男性だったが音楽の先生だった。その関係で、春生は先生が顧問だった器楽部に入っていた。音楽は好きだったから、何の迷いもなくそのクラブを選んだのだが、楽器の演奏は上手くできなかった。それを見抜いた先生は、春生に大太鼓を打たせた。一緒に入った友達は小太鼓だった。
 当時は北朝鮮への帰還事業が行われていて、新潟港はその出港地だった。器楽部の演奏発表会が終わったあと、たぶん、それまでの練習成果がそのまま生かせるという先生の見込みだったのだろう、数日後の夜、全部員が先生に引率されて楽器と一緒にバスで、新潟港にあった帰還者滞在用の宿舎に行って、慰問の演奏をしたことがあった。講堂か食堂のようなところで小さな舞台の上に整列し、先生が少し挨拶をして、すぐに先生の指揮で演奏を始めた。集まった人たちは静かに聞いていて、静かに拍手をされて終わった。
 その翌日、今度は日中、再び全員で、今度は楽器は持たずにバスで港に出かけて行って、帰還する人たちの出発を見送った。たくさんのテープが頭上で投げ交わされ、別れの言葉が大声で飛び交う中を、船が出て行った。春生は、一家で佐渡から本土に戻るときに見た出港の光景を思い出した。
 その日の夜、両親に慰問の演奏と見送りの話をしていたら、その話を初めて聞いた父が、
 「そんなこと、生徒にさせなくてもよかったのにな」と呟き、母が、
 「子供にそんなことを言っても無理だわ」と言った。

 通船川には当初、丸太の筏が大量に係留されていて、魚捕りにその筏の上を渡って歩いていると、その隙間にはさまざまな魚が見られた。ライギョは信濃川よりも多かったかも知れない。鬼ヤンマも、川縁の葦の上や水たまりの上を飛んでいた。丸太の筏の上を歩くのは危険なことだったが、間もなく筏そのものが次第に見かけられなくなって行き、通船川自体もみるみる油で汚れた運河に変貌して行った。
 通船川沿いにはいくつも工場があり、煙突を連ねて並んでいた。社宅のある通船川の北側にも、社宅との間にガス会社の大きなガスタンクがあり、その西隣には電力会社の変電所、東隣には砂漠のような砂地が広がっていた。この砂地と道路の間にかけて何かの工場跡地があり、そこからコンクリート片や盛り土だらけの土地が、通船川沿いに東側の野原に近い空き地まで鍵型に広がっていた。通船川の堤防には、かつてあった工場へのたぶん取水口だったと覚しき水門があり、その堤防の内側には、放置されたままの深い用水池があった。この池にも、魚の他にさまざまな生き物が住んでいた。オタマジャクシもトンボの幼虫も、この池の周辺で捕ったり見たりしたことが多かった。この砂地や工場跡地、野原などがつながる大きな鍵型の空き地、それに用水池などでは、いろいろな昆虫採取や魚捕りができた。この頃買ってもらった昆虫採集セットは、珍しく秋生より春生の方が多く使った。薬と注射器が二種類ずつあって、それは正式な呼び名と説明は忘れてしまったが、麻酔用と殺害用だった。虫ピンやピンセットなども付いていて、それらを使って昆虫採集としてまとめ、夏休み明けに提出したこともあった。
 その時の作品展示では、他のクラスでは木箱にガラス蓋が付いた本格的な標本箱のように仕上げられた昆虫採集もあった。春生が出したものは、紙製の菓子箱に手作りした素朴なものだったし、もともと家の周辺だけでは緑地が少なかったせいか、採集できたのは普通のトンボやチョウチョやバッタがほとんどだった。ちなみに、ここでは、チキチキバッタよりもトノサマバッタが多かった。トノサマバッタは子どもでも殿様のような顔をしていた。砂地にはどこでもアリジゴクがたくさんいて、春生がアリを落としこむと飛び出てきて、アリを捕まえては後ずさりで地獄に引きずり込んでいった。樹木の根元や塀の下端などにはジグモの巣もあり、太めの房状の巣をそっと引き抜くと中に肉厚の足をした大きな蜘蛛がいて、慌てて逃げ出した。それらの詳細な観察記か研究にすればそれなりに面白かったかもしれないが、当時の春生には分かりきった生態で、子供心に親しみも華もない昆虫だったので、それ以上の関心は持てなかった。
 子供たちで虫捕りをしていた工場跡地では、コンクリートの土台跡やコンクリート片などの周辺でトカゲやカナヘビを多く見かけた。春生たちはトカゲもカナヘビも区別を付けず、青い色素がある方を電気トカゲと呼び、青くないのはただトカゲ、あるいはカナヘビと言っていた。気持ち悪がる子供が多く、春生自身も気持ち悪かったが、手づかみそのものは平気だったので、見つけると尻尾をつかんでコンクリートにたたきつけて殺していた。春生は一時期、その残虐さを得意にしていて、かなりの数を殺した。それまでのトンボや小魚も大殺戮だったが、これは大虐殺と言うべきだった。
工場の跡地ではコンクリートの土台跡などに混じって、中庭の池の跡のような一画もあり、水が溜まっている中から葦などが生い茂っていた。兄弟で探検していて、そこの群生の中に蒲(がま)の穂が混じって生えているのを見つけた。最近、母が知人からもらったと言って、水盤に剣山を入れて、蒲の穂と葉が付いた茎とを何本か、一応バランス良い形にアレンジして飾っていたことがあった。「因幡の白兎」で名前だけは知っていてその時初めて見た蒲の穂が奇妙な形だったので、工場跡地で見かけた時にすぐそれだと分かった。母が飾っていた観賞用の園芸品種と比べると、これは大型で無骨な野生種で、穂や葉の色や形はそれほどきれいでも上品でもなかった。それでも、秋生と二人で、穂の付いた茎を根元から何本かと、細長い葉っぱが付いている茎も折り取って持ち帰った。爬虫類には残虐な春生はもちろん、弟に意地悪で母に反抗的な秋生もこの頃はまだ母には優しかった。母は驚きながら、一応喜んでくれて、しまってあった水盤と剣山を出して同じように飾ってくれた。あとで、兄弟でまた出かけて行って、今度は根付きの部分も大きく取ってきて、前庭の出窓の下に小さな場所を囲って水を張り、そこに植えて水も補給した。父がサボテンの他にも盆栽風の鉢植えや草花なども少数ながら持っていて、それを参考にしたのだが、結局根付かないで終わった。
 春生は以前、ポプラの苗を草むらで見つけてきて、父からもらった木鉢に植えて石と苔も盆栽の真似をして並べておいたら父が面白がっていた。ポプラはいったん根付いて葉を出していたのだが、これも間もなく枯れてしまった。枇杷の実生も何度かチャレンジしたのだが、根付きはしても、地面に下ろすと結局どこかで枯らしてしまった。春生が育成に成功したのは、庭に植えた赤い薔薇の挿し木だけだったが、それは逆に、転居の時はそのまま残してくるしかなかった。

 母は数年に一度ぐらい、半日から長くて数日間、胸を痛がっていることがあった。この頃も、母が胸が痛いと言って呻いていたことがあった。奥の部屋の隅、桐タンスの前で、引っ張り出した寝具にくるまり横になったりタンスに寄りかかったりしながら苦しんでいた。春生はどうしていいか分からず、背中をさすってやったり布団をかけ直してやったりしたが、母は、
 「痛い、痛い」
と呻くだけだった。そうしていて、やがて治まるのが常だったが、母は、
 「胸の古傷の痛みだ」と言っていた。「若い頃に肋膜炎をやったことがあるんだ」と。
 母の胸や背に、目に見える傷跡はなかった。春生が次第に理解してきたことは、母にはたぶん胸の内部の肋膜に炎症の傷痕か癒着があり、それが時々痛むらしいことだった。
 春生が母と一緒に暮らしていた十八年間、というよりあくまでも記憶にある範囲でだが、数年に一度、このように苦しむことがあった。父が何か対応していた記憶がないのは、そういうことは春生が生まれる前か幼い頃からあって、経験上、父はあまり心配しないようになっていたか、痛がるのがたいてい日中の時間帯が中心で、苦しむのもあまり長引かなかったせいだろう。母が胸を痛がっている間、布団を出したりかけ直したりするぐらいで、周りではほとんど何もしてやることはできなかった。そして、結局、何もしてやらないうちに母が元気になったし、母自身がそのことで病院に行くこともなかったようなので、家族も慣れてしまい、あまり重大視しないようになったのだろう。

 春生が小学校高学年の秋だった。台風が来ることは予報されていたが、いつものように父親が不在のまま、家族三人で夕食をすませた。その後、次第に風が強くなった。そして、やがて停電し家の中は真っ暗になり、明かりは蝋燭と懐中電灯になった。雨は降っていないようだが、風だけがどんどん強くなり、窓ガラスどころか家もひどく揺れる感じがあった。真っ暗闇の外で、風の音の他に、何かが転がったりぶつかったりするような音も聞こえた。それらの不安に耐えているうちに、突然、縁側のガラスが割れた。厚めのカーテンが下がっていたので、幸いにもガラスの破片が室内には飛び散らなかった。しかし、風はその後も収まらず、さらに吹き募って、カーテンも揺れた。そのカーテンが強風でいつ内側にあおられるか、別の窓もいつ割れて家の中を強風が吹き抜けるかも分からない状態だった。こういう場合は、何をどうすればいいのか。春生たちは何もできず、おびえていた。
 そこに父が帰ってきた。
 「今まで何をしていたの?」と母がきつく問い詰めた。
 「仕事だ」
 「停電しているのに、良く仕事なんかできたね」
 父は黙ったまま、急いで縁側にあった木箱の蓋を取って、ガラスの割れた窓枠に釘で打ち付け、急場をしのいだ。その木箱は、数日前に、父の小学校時代の同級生で餅屋をやっている人が、父が子供の頃から好物だった大福餅を持ってきてくれた、空(から)の通い箱だっだ。
 「そんなことをしていいの? その箱、返すんじゃない?」
 「他にどうしようもないだろう」
 母はそれ以上父を詰問はしなかった。春生たちも、遅く帰ってきた父への不満と、返却するはずの木箱の蓋を使ってしまって大丈夫だろうかという懸念は感じたが、父が手早く対策してくれたのでほっとした方が大きかった。
 やがて風がやみ、玄関を開けて外を見ると、星空が見えた。隣の唯一の戸建ての社宅の子供も出てきて、
 「家の中で天井を見上げると星が見える」と言った。その家は屋根のトタン板が剥がれて飛んだらしい。結局、そのトタンの一部が春生の家のガラス戸に当たって、割れたのだろう。屋根から剥がれたとおぼしきひしゃげたトタン板が路上に散らばっていた。
 「台風の目に入ったんじゃないか」と言っていたが、一時的に静まった後、吹き戻しの風が吹きだした。しかし、その風はピークの時ほど強くなく、春生は暗闇の中で疲れて寝てしまった。

 春生が小学校の高学年の頃だった。学年の初めに学校に出す春生の書類の中に、家の周辺の地図を書く箇所があった。母に頼まれて父がその地図を熱心に書いていたのだが、鉛筆でかなりのところまで書き込んでいたところで、母が突然、
 「こういうときの地図って、それを見ながら先生が訪ねて来るんだから、手前に学校を置いてそこからの道順を分かりやすく書かなきゃだめでしょ」と、かなり強い口調で言った。
 父は言われた瞬間に自分の敗北が分かってしまったようだが、母の言い方が気に障ったらしく、
 「地図は北を上にして書くのが万国共通なんだ。ねえ春生!」と春生の同意を求めてきた。春生は、脇で話を聞いていて、父の描いた図は我が家を手前にして書き出したためにたまたま上側が大まかには北になっているけれど、正確な真北とはほど遠く、偶然そうなっただけなのを「万国共通」の原則だと言い繕うのが無理なのは明らかだった。それに、この地図の目的からすると母の言うことが正当だと思うしかなかった。
 「うーん、やっぱり道案内だから……」と春生が生返事をしかけたのを、
 「それなら自分で書けばいい」と父が途中で遮って、母に書きかけの書類を乱暴に放り投げたのは、春生から見ても大人げなかった。母は仕方なく、自分でその地図を書き直した。母は頭の回転が早く考え方も感情も精密で手先も器用だったが、言葉がきついのが欠点だった。父も頭は悪くなかったが、母に比べると考えも物言いも大まかで正確さに欠けるところがあり、何よりも感情が細やかではなかった。両親のそのような能力の差異が、次第に春生にも見えてきていた。

 その頃、北海道から母方の祖母がやってきた。たぶん、春生たちが母に連れられて北海道に行った時以来で、結局、皆、六、七年ぶりぐらいの再会だったのではないか。ただ、春生たちにとっては、物心ついて以来初めての対面と言っても良かった。春生にとって、父方の祖母が最初から腰の曲がったお婆ちゃんだったのに、母方の祖母はその時、
 「自転車を貸してね」と言って、兄弟共有とされている、しかしほぼ秋生専用の子供自転車に乗って六軒長屋の前の小路を一往復してきたので驚いた。兄弟でバドミントンをしていると、「一緒に遊ぼう」と言って中に加わってバドミントンもした。祖母が若くて元気だったのに秋生と春生も驚いたが、同じ社宅の奥さん方も、春生たちとバトミントンをする祖母の姿を眺めていて、
 「若いわねえ」と言っているのが聞こえた。当時、祖母はまだ五十歳代半ばだった。顔は母に似ていて、一回り小柄な背格好だったが、動きがきびきびしていた。
 食卓で、祖母が食べかけた自分のおかずが多かったのか、春生の皿に箸で分けて入れてくれた。その時、春生の躊躇を見た母が、
 「この子は口嫌いするんだ」と、すぐに祖母に説明した。春生を見守っていた祖母は、
 「ああ、そうなのかい」と言ってそれをまた自分の皿に引き取った。
 春生は、母が祖母に伝えた「口嫌い」という言葉を聞いて、こんなに簡潔な言葉があるんだと感心した。しかし、春生がその言葉を聞いたのは、生涯でその時一回限りだった。
 この時の祖母は、たぶん、数日から一週間ぐらい滞在して帰ったのだと思う。元気溌剌としていたことと、話が充分通じて楽しかったことはよく覚えている。

 両親の結婚について、この頃、母が語っていたことがあった。
 「お父さんはお婿さんとして沢木の家に入ったのよ。だから、普通の家の結婚と違って、沢木というのは私の家の苗字で、お父さんは元の苗字が土岐と言うの。戦争中は、近くに駐屯していた無線隊の隊長さんで、休みの日に土岐隊の人を引き連れて私の家に遊びに来ていたらしいんだ。おじいちゃんが炭鉱をやっていて、家に少し余裕があったから、大勢で来るのにちょうど良かったんだろうね。何回か来ているうちに、声が大きくて、笑い声も大きかったから、お祖母ちゃんがお父さんのことを気に入ったんだって。お祖母ちゃんは自分が小柄だったから、お父さんの背が高いところも特に気に入ったみたい」
 「私は当時、女学校に行っていて家を離れていたんだけれど、沢木のお祖父ちゃんお祖母ちゃんにとって、うちが娘二人で、長女の私が沢木家を継ぐのに、農家の三男のお父さんがお婿さんとしてちょうどいいと思ったんだね。私がまだ一度も会ったこともないのに話が進んでいて、終戦直後、お父さんが新潟に戻って就職した後も連絡を取って、お祖母ちゃんが私を連れて汽車で、当時のことだから何日も掛けて新潟まで会いに来たんだ。私はその時に初めてお父さんと会ったんだけれど、それで結婚が正式に決まって、次に、二回目にあったときが結婚式だったんだわ」
 「それで、お父さんはもともと沢木家に婿養子で入ったんだけれど、お父さんが新潟で就職したばかりだから、結婚後は私の方が新潟に来て生活するという形になったんだ。終戦の前後は私も北海道で教員をやって働いていたんだけれど、その時もらっていた給与よりも、結婚したときのお父さんの給与の方が低かったんで、びっくりした。最初はやりくりが大変だったわ」
 ……と母は笑っていたが、そのような経緯で、取りあえず母が新潟に来て、結婚生活が始まった。いずれ、父の仕事の区切りがいいときに沢木家を継ぐために北海道に転職か転居するという見通しと了解があったらしい。しかし、父の昇進が続き、仕事上の区切りがなかなか付けられず、そのままずるずると新潟にいる状態が続いて、一家が北海道に戻るという話は宙に浮いていた。
 父は沢木力三というが、春生は、旧姓の「土岐力三」と書かれた父の会社の古い辞令が手製のアルバムに貼ってあったのを見たことがある。名前は、「土」と「力」がある元の姓名の方が農家出身らしく、字面的にも力強く逞しい感じがあった。しかし、結婚で姓が変わって、心なしか名前にアンバランス感が出たのではないか。確かに父には、挿し木をされたか植え替えられたかして成長した植物のような脆弱さや、ある種の人工性を感じることがあった。それは、別の家の婿に入ったという先入観がもたらすものなのかもしれないが。
 秋生がトイレに行くのに、夜のトイレが怖い春生も付いていった。二人並んで朝顔に放尿しながら、
 「土岐っていうの、かっこいいな。僕も土岐春生だったら良かったな」
 「僕は土岐秋生だと、ちょっと言いにくいな」と答えたが、秋生もその苗字が新鮮で満更でもなかったようだ。
 「土岐という苗字で有名な人もいるみたい」と、母が、戻ってきた二人に続けた。開けっ放しのトイレのドアから話が聞こえていたらしい。「名古屋の辺りに多い苗字らしいよ。お父さんの実家は名古屋とは関係ないようだけど」
 父は自分が三男ということで名前に「三」が付いているけれど、偶然にも、母の名前の「美」にも「三」が入っている。そんなこともあり、父は子供の名前にも隠し字で「三」を入れるのに工夫を凝らした。それで、秋に生まれたから「秋生」、春に生まれたから「春生」と子供の名前をつけた。「春生」は「春」にも「三」が入っていたが、それは気にしなかったらしい。
 春生は、ずっと子供だったときにも沢木が母の姓だと聞いていて、その時は普通の親子よりも母とのつながりが濃いんだと考えて、嬉しかったのを覚えている。
 春生は、他にも父や母からいろいろ聞いていた。父は農家の三男だったので、尋常小学校で学業がストップするはずのところ、成績が良かったのを惜しんだ担任の教師が実家に来て親を説得してくれて、高等小学校に進学できたという。野口英世の立志伝を思わせるが、次のステップの高等小学校卒業時には、残念ながらそのような助力はなかったらしく、父は旧制中学には進めなかった。父の長兄が確か旧制中学卒業だったので、父の場合は高等小学校で上がりとされたのかもしれない。その時の悔しさが、後の人生上で父なりの頑張りにつながったとも考えられる。
 父は、その後、軍隊に入ったが、もともと弱視だったので前線には回されず、本人も勉強の方に自信があって、希望して無線技術を学び、無線要員として北海道に配属されていた。今の札幌の時計台の中でも一時寝起きしていたらしく、そこから帯広や稚内、確か樺太にも行っていたようだ。最後は、無線隊の隊長だったという。
 父の机辺には、電気スタンド、本立て、地球儀、それにインクを入れたことがない、青赤二種の蓋がついたインク壺と一体のガラス製ペン立て、などが置いてあった。そして、それらに混じって、戦争中の軍隊勤務の記念として、常に無線の送信端末が置いてあった。緑のフェルトの上にマホガニー色の木製の台座が据え付けられ、そこに黒い電鍵が乗っている。父は、秋生と春生が希望すると、時々モールス信号らしいものを打ってくれた。そういうときに、父は必ず少し姿勢を正してから、手首を柔らかく使い、黒いキーの部分を二本指で打つ。そうすると、カチカチ、カチカチという重厚な響きが聞こえた。いつかクラスで機械類が好きな友達が遊びに来ていて、電鍵を見てほしがっていたが、秋生と春生の宝物を欲しがるなど、とんでもない話だった。
 父の人工性の印象は、言葉のせいもあったかもしれない。母の言葉は、祖母が女学校時代を東京で過ごしたことの影響と、母の生まれ育ったのが北海道でも訛りがそれほど強くない地域だったこととで、標準語に近い発音とボキャブラリーだった。一方で、父は、基本的には方言話者だった。言葉に、新潟の農村地帯の訛りを色濃く残していた。そして、訛り以外にも言語的にあまり器用ではなく、特に感情表現が豊かではなかった。母との結婚で、努力して、標準語をかなり意識した話し方をしていたが、父はもともと方言でもボキャブラリーが少なかったのか、本で覚えたようなこなれない言葉や表現になった。緊張した時には特に回りくどい人工的で抽象的な文章語になった。
 母はこの社宅にいた間に、子供に手がかからなくなったこともあって、数年間、近くの洋裁教室に通った。それまでも、母は和服を自分でほどいて洗ったりしていて、そのための裁ち板や張り板があった。洋裁を始めたとき、洋裁用の裁ち台も新規に購入し、それらは普段は家の廊下に横置きして片付けていたのだが、母が忙しいときは、六畳間に出した和裁の裁ち板の上をさらにまたぐように洋裁の裁ち台を置いているときもあった。裁ち板や裁ち台で部屋が一杯になって、状況次第で家族で片側を食卓代わりにしたり、春生たちが板や台の上に寝そべって本を読んでいることもあった。夏には、実際にその上で昼寝もした。洋裁用の人型ボディは、母が通い始めた洋裁教室で、生徒が自分の体型を元にして一斉に手作りしたもので、確かにそのボディの背中のカーブなどは母の背そのものだった。
 しかし、洋裁教室の修了が近くなった頃、先生が、弟子たちが近所で洋裁の仕事を個人で引き受けるのをそもそも好まないという愚痴を母から聞いたことがあった。そのような事情で、母は内々で知人を介して外部の仕事をいくつか引き受けたりしていたようだが、なかなか実費以外の料金を請求しづらいという情況に陥ったらしい。結局、母は洋裁を学ぶのに投資した分すら全く回収できなかった。わずかに、自分の服と、秋生と春生に数枚の服を作ってくれただけで終わった。
 父は、自分の洋服だんすも洋机も、それに大型の本棚二種なども、
 「全部が沢木のお祖母ちゃんが買ってくれたんだ」と言っていた。
 母のものとしては、和裁の大きな裁ち板と張り板と、洋裁の裁ち台の他に、足踏みミシンも桐だんすも鏡台もあった。その他の冬の屏風、夏のすだれ屏風など、小さい頃に家にあった大きな家具のほとんども、沢木のお祖母ちゃんが買ってくれたのだろう。おそらくは、父の若い頃からの持ち物としては、古い書棚と本箱が一つずつ、それに座り机、それに、最初の勤務地から異動するときに俳句仲間が記念に贈ってくれた手あぶり火鉢ぐらいだったようだ。他に唯一、この頃家にあった両手付きの真鍮製の大きな火鉢が、「何々村 村制施行何十年記念」というような由来が刻印されていて、父が新潟市内に転勤してきたときに実家から借りたものだったらしい。「後で返してほしい」と言われていると父から聞いた。数年先に灯油ストーブが一家に導入されるまで、その大小の火鉢が、炬燵と並んで重要な暖房器具ではあった。
 ちなみに、この住居に一家が生活していた期間のちょうど中頃、春生が小学四年生の時に、家では、左右に二個ずつスピーカーが付いた三洋のテレビを買った。ステレオではなかったが、左右均整の取れたフォースピーカーというのが春生の自慢ポイントだった。以前は、テレビを先行して導入していたのは近所の友達の家だけだった。春生はその家に、夜だけではなく日曜も朝早くから、そのうちの人達がまだ寝ている時刻から、春生は「七色仮面」や「まぼろし探偵」、「名犬リンチンチン」などを見せてもらいに行っていたのだ。テレビの自家への導入によって、それまで娯楽番組をラジオで聞いていただけの一家の生活が一変した。

 この頃に春生は、親の計らいで、近所の同級生数人と一緒に、グループで家庭教師を受けることになった。それぞれの家を一定期間の持ち回りで勉強場所として、週一回ぐらい、どこかの小学校で実際に教えている比較的若い女性の先生にきてもらって勉強を教えてもらうことになった。皆で集まって勉強するのが楽しかった。この形式は春生が六年生になった直後に転校するまで続き、転校してからはその転居先で、春生が一人で小学校を卒業するまで教えてもらうようになり、合計二年ぐらい続いた、春生にとっては唯一の家庭教師の経験だった。兄の秋生も、中学に進学後間もなくから、学習塾に通っていたはずだった。

 やはり、たぶんこの頃、春生は小学校の授業で辞書について学ぶので、家に辞書類があれば学校に持って行くことになった。親に話したら、中学に進んでいた兄がすでに辞書を買ってもらっていたので、それを借りて持っていけばいいという話になったのだが、当の兄が、自分の辞書を春生に貸すのは絶対にいやだ、と言い張ったので、大(おお)事(ごと)になったことがあった。母だけでなく父も、
 「弟に何で貸してやらない、ただ一日貸すだけなのに」とか、
 「後で新しい辞書を買ってやるから」とか、なんとか説得しようとしたが、兄は絶対に貸してくれようとしなかった。結局、春生は当日、辞書らしきものは持たずに登校し、数日後に父が新しい辞書を買って来てくれた。
 兄が、何でそれほど春生に貸すのをいやがったのか、本当の感情は分からない。兄は翌日の授業で辞書が必要だったのかもしれないが、そのような理由は何も言わなかった。自分の辞書に強い愛着や独占欲があった可能性もあるだろうが、春生に対する敵対心と意地悪さがこのような形で出ただけなのかもしれない。
 お互いに好きな色で持ち物を区別していたのはすでに遙か昔の、幼い頃のことだった。二人とも小学生になり高学年と低学年になる頃にはすでに、春生は着るものは大体兄のお下がり、持ち物は大体兄との共有という形で買い与えられていた。特に兄弟で共有とされた物は、実態は兄の完全な所有物であり、毀損はおろか、場所の移動や置き方まで咎められるという状況で、ほとんど兄のものをおそるおそる借りて使わせてもらうようなものだった。だが、この時は、兄が春生に貸すのを渋ったおかげで、教材の一種ではあったが、春生にとっては初めての辞書、おそらく初めての春生単独の本を買ってもらうことになった。
 兄がどんな辞書を持っていたかは知らなかったが、春生が買ってもらったのは完全な大人用の小型辞書で、三省堂の金田一京助・春彦編集の「明解国語辞典」と、やはり三省堂の長沢規矩也編集の「明解漢和辞典」だった。これらは、最初は使いにくくても慣れてしまうと情報量が多く、中学や高校、大学でも持ち歩いて、充分以上に使った。裏表紙の見返しには、買ってくれた当日に目の前で父が万年筆で書いてくれた春生の名前が入っていた。中学の入学時には、やはり三省堂の「コンサイス英和辞典」を買ってもらった。見返しには、父の真似をして春生が自分で名前を書き込んだ。国語辞典は一番早く傷んでしまったが、特に漢和辞典と英和辞典は退職後の転居の時、ぼろぼろになっていたのを廃棄するまで、ほぼ五十年、手元にあった。

 秋生には、自分の言った言葉を春生の言葉にしたり、根拠のないことで春生に文句をつけるなど、拗(ねじ)れた理屈、歪んだ思考が目立つようになり、春生が主張をしても、口論をしてもまったく議論にならない状態だった。家の中では言い合いの後はたいてい取っ組み合いという暴力で報復された。そうなると三歳の体力差は大きく、春生は小学校時代はずっと暴力で押さえ込まれていた。
 そういう時に父が何も対応せず沈黙を続けていたのは、兄が子供の頃から言動の粗暴さ粗雑さを親から注意され続けていて、とかく僻みやすい傾向がすでに出てきていることを考慮して、あえて沈黙していたのかもしれない。あるいは、単純に、父自身が兄との厄介なトラブルになるのを避けて、何も言わないようにしていたのかもしれない。または、子供を諫める標準語的な言い回しを、父はまだ学習していなかったせいなのか。春生は、父が兄に対し意図的に何も言わないのではなく、何も言えないのだとだんだん考えるようになっていった。春生が兄と衝突して明らかに暴力的な言葉や行動で攻撃されたときに、父はすぐ目の前にいる秋生には何も言わず、ほとんどが喧嘩の後で春生を慰めるだけになっていたからだ。
 何の話の時か、やはり秋生が語気を荒げて主張し、春生が物を言ってもしょうがないと黙ってしまったことがあった。この時そばにいた父が、急に春生に、「気にしないんだよ」というような言葉をかけてきたことがあった。春生は、父親の役割として、介入すべき方向が違うだろうと言いたかった。慰めはいらないから、正しい方を支持してそれを双方に納得させるようにしてくれ、と春生が思うことが次第に多くなっていった。

 あるとき、春生は兄の暴力に立ち向かうには先制攻撃が唯一のチャンスだと思い定めて、最初に春生の方から飛びかかって、一瞬だけ兄の両頬を両手で思い切り強くつねったが、すぐに畳にたたきつけられて終わった。
 またあるときは、兄に先に組み付いて、その目の前で、兄が春生を威嚇してくる時の動作をまねて、春生の方から逆に顎を左右にカクカクと動かして睨みつけた。ひどい報復をされる覚悟で嘲笑したのだが、この時は兄が噴き出したので報復は受けないですんだ。
 春生は、兄と喧嘩して兄を蹴る夢を見て、隣に寝ていた兄を実際に思い切り強く蹴ったこともあった。しかし、強く蹴った瞬間に気がついて、「しまった」と思ったのだが、兄は春生が強く蹴ったほとんどその瞬間に、思い切り強く春生を蹴り返してきた。眠っていたはずの兄の、まさに凄まじい反射神経だった。兄は、常に春生に対して敵意と攻撃性と報復意識を抱いていた。そして、兄は俊敏だった。春生はそんな兄を強く憎むようになっていた。
 そうした最悪の時期、小学校のたぶん四年か五年の頃、春生は一度だけ兄が死ぬ夢を見たことがあった。夢の中では、その頃住んでいた家の近く、大山町のバス停のある大きな四つ角から家に向かう砂利道の道路に入ってくる。その途中、一緒に歩いていた兄が苦しみだして、突然アゴ先が割れ、そこから白い玉が出てきて、兄は死ぬ。それ以外のことはほとんど覚えていないが、ただそのシーンで目覚めたときの寝覚めの悪さと強い不快感は、今でもはっきり覚えている。当時はもちろんフロイトの夢分析など知る由もなかったが、春生は自分が心の底深いところで兄を嫌悪し憎んでいたからそんな夢を見たのだと直感的に理解した。同時に、強い罪深さも感じたのだった。

 ところで、沢木家では、お祭りで子どもが買い物をするのは禁じられていた。父は、
 「お祭りの屋台はヤクザが絡んでいて、売り上げのほとんどは彼らの稼ぎになるのだから、買い物は一切してはいけない」と言っていた。
 だから、秋生と春生は、お祭りではいかに面白そうな玩具やお面でも、おいしそうなお菓子や可愛いひよこでも、買ってはもらえなかったから、欲しがることもなかった。この辺で、祭りと言えば、山の下神社だったが、家族で無理して神社にお参りに行くのか、子どもに祭りをただ見せるだけに連れていくのか、分からないところがあった。兄弟二人は、ただ親の後をついて、夜宮で賑わっている屋台の間を早足で通り抜けていくだけだった。沢木家は、基本的には商業主義的なものには乗らない家庭だった。
 ついでに言えば、沢木家では、また、サクランボは食べていけないことになっていた。それは、父の親戚の子がサクランボを食べて疫痢になり死んだ、という話があったからだった。実際、春生は結婚して、サクランボが好きな妻が買ってくるまで、サクランボを食べたことがなかった。サクランボは、沢木家では、商業主義の果物、というような扱いを受けていたと言えるのかもしれない。
 
 しかし、文具や書籍の購入に関しては、沢木家はかなり積極的だった。
 地球儀や図鑑類はこの社宅に住んでいた時に買ってもらった。
 小型の地球儀は、具体的な活用の余地があまりなかったが、地球が丸いという抽象的理解と、そこから派生する諸々の相対感覚を身につけるのに役立ったのだろう。実感に基づく素朴な天動説的世界観から抜けきれない人が多いので、地球儀の役割はきわめて重要である。春生が時々使い始めた父の机の上に地球儀はいつも置いてあったけれど、普段はほとんどそれに触ることもなかったので、あるとき担任から、
 「家に地球儀がある人」と確認されたとき、春生は気後れがして手を上げなかった。その聞き方からして手を挙げる生徒は多くないと感じられ、確かに誰も手を挙げなかったから、他にも気後れがした生徒がいたのかもしれない。このようにして、わが家の地球儀が小さいながらもその存在を家庭外の世界にアピールできたはずの唯一の機会を、春生は潰したのだった。
 学研版の図鑑類は、だいたい揃えてもらったが、春生がよく見ていたのは昆虫図鑑や動物図鑑、それに植物図鑑だった。
 そして、特に兄弟にとって画期的だったのは、両親が、講談社の『少年少女世界文学全集』をこの時期に家で買い揃えてくれたことである。この全集は、最初に四、五冊まとめて届いて、父が若いときに使っていた扉付きの書棚に、図鑑などとともに並べられた。その後は逐次配本され、木製の専用書棚も途中で届いて、全五十巻を揃えていった。それらを、兄弟で毎日読みふけって、膨大な時間を読書に費やした。
 春生が面白かったのは『ロビンソン漂流記』や『スイスのロビンソン』『十五少年漂流記』のような自然冒険生活のハウツーものや、『白いきば』や『シートンの動物記』、『黒馬物語』などの動物もの、それに『ホームズ』や『ルパン』の探偵小説だった。『ピノッキオ』『アルプスの少女』『飛ぶ教室』や『点子ちゃんとアントン』、などの児童文学、それに『西遊記』や『八犬伝』などの伝奇文学も面白かった。数え上げていくとキリがないが、しかし、春生が取り組めない作品もいくつかあり、たとえば『若草物語』や『赤毛のアン』などは何度も挑戦して、ようやく読み通した。
 一方で、『水の子』は、あるページの、岩に座っている少女の挿絵に魅せられて、春生はそのページを密かに開いては眺め入った。作品の中身はほとんど覚えていないが、その時の蠱惑感は今も鮮明に思い出す。
 それらの読書と平行して、小学校の図書館が、前年まで高学年だけだった貸し出しがその年から三年生も利用できるようになったので、好きな本を借り出して読んだ。夏休み冬休みは貸出日に近所の子供たちと一緒に兄弟で出かけていってそれぞれ複数冊を借り出して、読み終えたら皆でお互いに交換してさらに読みふけった。春生は特に、主として冒険ものについている梁川剛一の口絵が好きだった。『荒野の呼び声』や、もう一つの『黒馬物語』、それに『はなききマーチン』などを発見したのも図書館でだった。
 春生は本を耽読する生活が多くなった。親が、春生の気配がないので、どこにいるかと思って探したら、春生はすぐ脇で、後ろで、足元で、炬燵で、頬杖ついて、寝そべって、ひっくり返って、本を読んでいた、と驚かれることがたびたびだった。気に入った本は何度も読み返すことも多かった。ずいぶん後になって春生が書いていた小説らしきものも、結局、この頃読んだジャック・ロンドンの代表作二つを中心とする動物文学と教養小説のまぜこぜのようなものになった。
 もともと家には親の本がたくさんあった。小さな社宅でも当時はだいたい床の間があって、そこは父母が書棚を置くのに格好の場所だったから、床の間の奥と両脇の三方の壁沿いが、大中小の三本の書棚の定位置になっていた。父の蔵書は仕事関係の本が中心だったが、堅い本ばかりではなく、父母の文学書も相当数あった。母が文学書を読むので、父もそれに影響されて文学書を読むようになったのだと母は言っていた。そのため、当時の話題書などはだいたい揃っていた。これらの蔵書は、春生にとっても児童文学以外の本に親しむきっかけではあった。父の書棚には仙花紙版だったが『夏目漱石全集』が全冊揃っていた。読書欲に燃えていた春生に、父は『吾輩は猫である』を指して、「これが読めたら偉い」と言うので、上下二巻の作品をともかく通読した。『坊つちゃん』も読んだ。「徹頭徹尾」や「ターナー」など、意味がよく分からないところもあったが、歴史的仮名遣いや正漢字にはすぐに慣れて、ある程度読めるようになった。父の書棚の中に「大人の本」があるのにも気がついた。
 兄も、『少年少女世界文学全集』は全部読んだと言っていたし、図書館からも一緒に借りて読んでいたが、春生のように耽読するということはなかったのではないか。年齢もあって、繰り返し読むということもなかったと思う。たぶん、兄は、中学の後半ぐらいにはもう本を読むことはなかったのだろう。春生も、その後、都心部の小学校に転校してから、学校の図書館で『ドリトル先生』シリーズを読んだり、百科事典で「心臓」の項目などを調べたりしていたが、読書量は激減した。
 しかし、中学二年生の時に目の前で同級生が太宰治の『人間失格』を貸し借りしていて、一瞬見かけたその題名に引かれて、家の書棚にはなかったので、書店で『太宰治集』を買って読み始めた。太宰治にはそれ以上に引かれることはなかったが、本を自分で買って読み始めたのは、そこからだった。
 ともかく、兄弟で国語の成績だけは良いというのが共通点だった。春生は小学校四年の頃、担任教師から、学力テストで読解力が中学二年生レベルと判定されたとクラスの皆の前で言われたことがあった。兄も当時あった知能テストではIQが高く出て、驚いた担任の教師がわざわざ教室に来て兄に告げたらしい。その数値は春生より少し上で、春生も兄の話を聞いて、自分の数値の意味が理解できた。後に、兄は高校で、国語の成績のみが上位得点者として掲示された。国語系は常識の問題だから勉強しなくてもできると、兄弟で豪語していた時期もあった。だから、兄が他の科目の成績が悪かったのは、そこに何らかの学習障碍があったとしても、ディスレクシアのような識字障碍ではなかったと思う。もちろん、漢字の読み書きや文法などの知識的な部分も意識して勉強しないと国語は総合力にはならないのだが。
 兄の成績不振は何が原因だったのだろう。IQが高くてもそれが成績に必ずしも直結する訳ではないだろうし、環境や条件が悪かったり、そもそも本人の努力や意志が伴わなかったり勉強しなかったりすればIQそのものが下がってしまうこともあるという。兄の性格が学校に適さなかったことははっきりしていた。当時の学校でたぶん最も必要とされていただろう努力や根気、我慢などという徳目が兄に足りなかったのは確かで、それらは春生の方が明らかに長じていた。皮肉なことに、春生の我慢強さや慎重さ、用心深さなどは、兄のせいで早くから身についたのだ。
 秋生の気に入らないことを春生が言ったり逆らったりすると秋生がすぐに報復してくるので、春生は次第にその危険を避けるようになった。体力差があり、喧嘩では常に圧倒され、恐怖感も確かにあったから、もしかするとそれは卑屈さに近い態度だったかもしれない。秋生の報復感情を刺激しないよう、春生は言動に細心の注意を払う習性を早い段階で身につけるようになった。その習性のマイナス面を言えば、春生の気弱さや臆病、責任回避のような傾向を含み、それは、特に単独行動における消極性、傍観者性として現れた。特にその傍観者性は、あるいは一面では秋生の不正や理不尽さを憎む春生のささやかな正義感であり、さらに言えば、兄への隠れた復讐心でもあったかもしれない。この復讐心こそが、秋生が春生の性格に与えた最大の歪みだったのだろう。
 春生にしても、兄の意地悪に苦しんで、牧歌的な成長期は、ずいぶん早くに終わってしまった。本来の自分が失われた、というはっきりした感覚が春生にはあった。
 やがて、春生が六年生になって間もなく転校する頃には、春生の心の中に、もう秋生に対して何を言われてもあまり相手にならず、ほとんど接点を持たず、できるだけ離れているしかないという結論のようなものが出ていたのだった。
 しかし、自分が置かれていた兄弟環境がひどいものだったことに春生が本当に気がつくのは、ずいぶん後のことなのだ。

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