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あの日のわたしたち~浦和レッズ30年 11月編

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浦和レッズ30年の歴史を、自分の人生に重ね合わせて振り返ろうというプロジェクトの11月編です。 数年前のその日に何があったか、清尾淳が一番印象深い試合をコラムふうに毎日投稿し… もっと読む
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11月30日(2013年) 優勝の可能性が消えた日

 2013年11月30日(土)、浦和レッズはベストアメニティスタジアムに乗り込んで、サガン鳥栖とJ1リーグ第33節を行い、1-4で敗れた。この結果、前節まであった優勝の可能性が消えた。  ミハイロ・ペトロヴィッチ監督の2年目。前年は最終節で3位に滑り込みACL出場権を得るなど、新監督就任のシーズンとしては、まずまず以上の終わり方をした。  那須大亮、関口訓充、森脇良太、興梠慎三らの即戦力を獲得したこの2013年、5年ぶりのACLではグループステージで敗退したものの、リーグ戦

11月30日(2013年)憎いスタジアム

 レッズのCK。那須選手にぴったりとマークに付くのは、FWの豊田陽平選手です。ハードな守備からカウンターという戦術が、憎いくらい徹底されていた鳥栖。まんまと2得点した後は、自陣に引き籠って出て来ません。  後ろで回して誘っても、中々攻略の糸口が見つからないレッズ。Pエリアの外から何度放り込んでも、悉く跳ね返されてしまう。  このシーズンはこういうチームに、何度も煮え湯を飲まされて来ました。  2点のビハインドを、何としても取り返そうと、左から・右から・中央から・斜めから・後

11月30日(2013年):関口訓充

この日は、テレビの前で茫然自失でした。なぜか勝てないアウェイの鳥栖戦だけど、今日こそはという思いと、何よりも勝って最終戦に優勝の可能性を残したかったのにボロ負け。豊田にハットトリックなんか決められて、思い切り悔しかった。ミシャ監督は好きな監督なんだけど、失礼ながらラスト5試合で必ず失速してしまう。当時は分かってなかったけど。 この日、63分に梅崎と交代出場したのが関口選手。この年に仙台から移籍してきました。リーグ戦20試合で1ゴールは、背番号11への期待の大きさに釣り合ってな

11月30日(2013年) 社長に肩を叩かれた夜

羽田空港から浜松町駅へ戻るモノレールに乗っていた。車両の端の1人掛けのシートに腰を下ろしたが、顔が上がらない。鳥栖に完敗し、優勝の望みが完全に絶たれたショックが抜けていなかった。先制点を許し、前がかりになった裏のスペースを突かれて攻め込まれる、鳥栖のおあつらえ向きになった試合の記憶が次々と蘇ってくる。その場面を断ち切ろうと一瞬顔を上げると、扉の脇に橋本社長が立っているのが見えた。 この日の鳥栖戦には、いい思い出もある。羽田空港の搭乗ゲート前は、浦和応援ツアーの集合場所の様相

11月30日(2013年)鳥栖は強い

サガン鳥栖はJ1に上がってきてから一度もJ2に降格していません。 毎年シーズンオフには主力選手が引き抜かれるのも関わらず、ずっと戦い方はキープしています。財政が苦しくなっても、コロナでクラスターが起きようと、その都度乗り越えてきていると思われ、大したものだと感心してしまいます。 そういう鳥栖との試合、鳥栖駅のすぐ近くのスタジアムで、博多から近いので、結構行っています。何しろ、私が育った福岡県の二日市からは20分程で、学生時代には合宿で何回か行ったことがあるので、ほとんど地元

11月29日(2003年) モチベーションとは何だろう

 迷った。  悩んだ末に、この日にした。  2003年11月29日(土)、浦和レッズは埼玉スタジアムに鹿島アントラーズを迎えて、J1リーグ2ndステージ第15節(最終節)を行い、2-2で引き分けた。アディショナルタイムにレッズが同点ゴールを決め、鹿島が目前で優勝するのを阻止した。  レッズがヤマザキナビスコカップで待望の初タイトルを獲ったシーズン。ナビスコ杯優勝の5日に行われたJ1リーグ2ndステージ第12節で勝利し、ステージ首位に躍り出た。残り3試合に勝てばステージ優勝

11月29日(2014)鬼門鳥栖

勝てば優勝だった埼スタでのガンバ戦に敗れ、勝ち点2差に迫られ残り2節。 レッズはアウェイで優勝の可能性を残すサガンと対戦。 試合当日早朝に息子と家を出て、新幹線で博多まで行き、鹿児島本線に乗り換え初めての鳥栖へ。改札を出ると目の前にスタジアムが見える。傾斜のあるゴール裏は多くのレッズサポーターで埋め尽くされていた。1年前も優勝の望みを絶たれた鬼門の場所である。 試合開始から両チーム攻めあうが決めきれず0-0で前半終了。ハーフタイムにコンコースで九州在住サポーターTさんと遭遇

11月29日(2003年):優勝阻止

この日は、よく覚えてます。クルマでスタジアムに向かったのですが、子供達が支度に手間取った上に大渋滞で、クルマが全然進みません。ラジオの実況中継を聞きながら向かってたんですが、鹿島の2点目が入ったところで、頭にきてUターンして帰宅しようかと思いました。鹿島の優勝なんか見たくもなかった。 席に着いたのは、後半開始早々でした。ほどなく永井が決めて1点差。一進一退の攻防でしたが、終了間際のエメの見事なダイビングヘッドでついに追いつきました。 試合終了後、曽ヶ端が苦笑いしつつ、なんてこ

11月29日(2003年) 意地

片山主審の試合終了の笛が鳴った。その瞬間、鹿島の選手が次々にピッチに崩れ落ちた。やはり鹿島が優勝を目前にしていたのだ。それを阻止する型となった浦和の選手も、何人もが精魂尽き果てたように膝をついていた。ポンチョを着ていても膝から下はズブ濡れ。靴の中には水が溜まっていた。そんな降りしきる雨の中の熱戦は、今でも記憶の中に新しい。 この第2ステージは、最終戦を前に3チームに優勝の可能性が残る激戦だった。浦和は、前節のアウェー名古屋戦に敗れた時点で脱落していた。少し前まで「初のステー

11月28日(2004年) 最先端の意識示す「GO TO Asia」

 2004年11月28日(日)、浦和レッズは埼玉スタジアムにサンフレッチェ広島を迎えて、J1リーグ2ndステージ第15節(最終節)を行い、1-0で勝利した。すでに第13節で2ndステージ優勝を決めていたレッズは、その後2連勝。横浜F・マリノスとのチャンピオンシップに向けて、良いはずみになった。  一瞬、なに? と思った。  3年ぶりに最終節がホームで勝利に終わり、気分良くチームが場内一周に歩き始めたとき、北のゴール裏スタンドに文字が浮かび始めた。 「GO TO Asia」

11月28日(2004年):レッズの理念

この日は、GO TO ASIAを正面から見た記憶があるから、南で参戦してたんですね。 開始早々にネネが退場になって10人だったけど、負ける気がはしなかった。闘莉王が決勝ゴールを決めた時は、この勢いでリーグ優勝だと思いました。 ギド監督がGO TO ASIAを見て、サポーターが我々の進むべき道を示してくれたと、嬉しそうにコメントしてたのを覚えています。ワタクシもこれを見た時に、強く感じるものがありました。 このビジュアルは、誰が発案したんでしょうね。当時、クラブの誰もASIAを

11月28日(2004年) ACLの先駆者

用意されたシートを掲げた。 「GO TO ASIA」 シートの脇から見たオーロラビジョンに映し出されたコレオに、シートを掲げながら見入ってしまった。 チャンピオンシップを控えていたこの日。サポは一歩先を見据えていた。 まだ「ACL出場は罰ゲーム」と言われていた時代。他サポ、他チーム関係者は、この映像を見て「何をバカな」と思っていたかもしれない。 それでも構わない。「俺たちはアジアを、世界を目指すんだ」。 この日のコレオは、そう高らかに宣言したものに違いない。 実際

11月27日(1999年) 未来を見つめた11.27

 1999年11月27日(土)、浦和レッズは駒場スタジアムにサンフレッチェ広島を迎えてJ1リーグ2ndステージ第15節を行い、1-0で延長Vゴール勝ちした。勝利はしたが、延長勝ちでは勝ち点2しか得られず、順位を15位に落とし降格が決定した。  勝ち点26の14位で迎えたこの最終節。残留を争う相手は、勝ち点25で15位のジェフユナイテッド市原、勝ち点28で13位のアビスパ福岡だが、レッズは90分以内で勝ちさえすれば市原、福岡の結果に関わりなく残留できる位置にいた。  チームの

11月27日(1999年):声援に包まれた場内一周

この日は、テレビ参戦でした。どうしてもチケットが入手できなくて、チケット譲ってくださいと書いた段ボールを持って駒場の待機列を回りました。初めての経験で恥ずかしくて声が出せず、そのせいかチケット譲ってくれる人は現れず、トボトボ帰宅しました。 試合は、みなさんご存知の通り。「このままだとJ2だぞ、なんとかしろよ」試合中、何度こう呟いたか。 試合後の場内一周で、選手は一年でJ1に戻るぞというサポーターの気持ちのこもった声援に包まれました。その日の報道で、浦和が降格したけど、サポータ