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推しが好きなものの話をしてくれたから今日もハッピー:『愛のわざ』第2部9章感想メモ

こんにちは! 書籍化の現実が受け止めきれなくて現実逃避の読書がはかどる、かばねです。

プロフィールにも書いている通り、私の専門はキルケゴール。研究者として面白いなと思っていろいろ論じたりしているわけですけども、一方でオタクとしてもめっちゃくちゃ大好きなんですよね~~~~!!!! ま、限界オタクの反復布教の記事見てもらえれば分かると思いますけど。

そんなオタク的「推し」でもあるキルケゴールが、私のすごい好きなものの話をドンピシャでしてくれていたことを最近知ってですね……………本当にヤバいんですよ………………。


あ、私の好きなものっていうのは「死者を憶うこと」なんですけど………。


聞け!!!!私は!!復讐者の死者に対する関係についてゴニャゴニャ考えていたらいつのまにか哲学科に居たオタク!!!!愛すものと死によって分かたれた時、生き残った方がどのようにふるまうのが愛の表現として正しいかをコネコネコネコネ考え続けるのが大好き!!!!!!好きな関係性を一言でいうと「死んだ女と呪われた男」!!!!!詳しくは同人誌を見て!!!

…って感じなので、人生最大の推し・キルケゴールが死者を憶うことについて語っているのはマジでヤバい。いや、そもそもこういう話をしてくれるからオタク的に最高に推しなんだけど、推しが推しである事実をこうあからさまにお出しされるとオタクはすぐに「無理」になっちゃうの。勘弁して。

そんなこんなで半泣きになりながら『愛のわざ』第2部9章「わたしたちは愛においていかに死者を憶うか」を読みました。あんまりにもストライクで限界を迎えてしまったので、ここに感想をまとめます。みんな……見てくれこれが私の推し…………………………。

※引用は白水社の『キルケゴール著作集16巻 愛のわざ第2部』(武藤 一雄,芦津 丈夫 共訳)より行います。


はじめに:『愛のわざ』ってどんな本?

キルケゴールが「死者を憶うこと」について語ってくれているのは『愛のわざ』という本です。仮名(ペンネーム)を使って著作活動をしているキルケゴールが(あえて)本名で出版している本の一つで、キリスト教的な愛とはいかなるものかについて講話がたくさん収録されています。

仮名の著作ではキリスト教と倫理を対立させたり、キリスト教の怖い部分を強調したりしているキルケゴールですが、『愛のわざ』ではキリスト教の平和的な側面を比較的ポジティブに語っているので、キルケゴールが考える共同体の在り方や他者関係について考えるヒントとして読まれることが多い印象です。建徳的講話なので哲学的な話は少なめですけど、その分お話として読みやすいのが魅力。『死に至る病』の第2部が好きな人は楽しめるんじゃないかと思います。

と、まじめな紹介を終わらせたところで、聞いてくれ!!!!!!!!オタク的ヤバポイント!!!!!!!!


① 墓地のシーンがエモい!!!

キルケゴールといえばやはり注目すべきはその表現力。『反復』を読んだ方ならお分かりかと思いますが、人間の情緒や自然の美の描き方がめちゃくちゃエモいんですよね。世界の名だたる著作家と比べてどれくらい上手いかはわかりませんが、哲学者の中なら上から三番目くらいには入るんじゃないですか?(私の中では哲学史エモチャンピオンはルソー)

そんなキルケゴールの表現力がこの章の冒頭でも炸裂しているのです…!『愛の業』第2部はどの章も、本題に入る前に導入としてエモめな語りが入るのですが、問題の9章はテーマが「死者を憶うこと」なので墓地の描写から始まります。以下の引用をご覧ください。

死者たちの訪問には夕暮れ時を選ぶな!(…)いな、朝まだきころに出で行け! 朝日が木の間にもれ輝き、ここかしこに光と影を投げかけ、庭の美しさとやさしさが、あるいは小鳥のさえずりと野外の目もあやな生命が、君をして死者たちのもとに留まっていることをほとんど忘れさせるような時に! (…)それぞれの家族は、自らのためにほぼ同じ大きさの小さな土地を持っている。見晴らしはどの家からもほぼ変わりがなく、太陽はすべての家に同じように差し込む。どの建物もそれほど高くないので、陽があたり、清涼のあめがふりかかり、さわやかな風が吹き抜け、小鳥の歌がこだまするのを隣や向かいの家からふさいでしまうようなことはない。いな、ここではすべてが平等に配分されている。(p.215-216)

クーーーーーーッ…………………!!!!!良すぎ…………………!!!!

まず、死者を憶う状況として不安をかき立てる夕暮れ時ではなく早朝を勧めているところ、めちゃくちゃ良いですね。優しい光が差し込み、小鳥のさえずりが聞こえるという生命のきらめきに満ち溢れた情景を、「死」という陰鬱な印象を与えるテーマを語るための導入として描いているんですよ!? この後の内容を読んでいくと、このシーンが 「心穏やかに死者を愛しなさい」というこの章のメインテーマを象徴するものだということが分かるのでなお味わい深い。キルケゴールにとって「死者を憶うこと」とはどういうものなのかが直感的に分かるイメージ映像としてめちゃくちゃ良いですね…。

さらに、家族ごとに分配された土地=墓について語っているところ。墓地にそれぞれの家族の墓がいくつもならんでいる情景の中に「平等」を見出すところがキルケゴールらしいですね。この世においてどれほどの不平等があろうとも、墓地ではみなほとんど変わらない大きさの墓の中で眠っているわけです。「「塵の縁者のあいだには」いかなる不平等も存在せず、彼らはひとつつの縁で結ばれる」(p.214)……、この世において何者であろうと精神が問題になる場所では関係ないというキルケゴール的な平等思想が垣間見えますね。この辺は私のマジな研究テーマなのでグッとくる……!!

ていうか、そもそも推しが墓地の描写しているだけでオタク的にはめちゃくちゃありがたいんだよな……。こんなこと…あっていいのか……? つーかこれ、コペンハーゲンのアシステンス教会墓地を念頭において書いていたりするのかな? 今やキルケゴールが眠っているところの、あの墓地を……………。

……………………………………。

ニコッ……………………!


② 死者の描写がカッコイイ!!!

現在ご紹介している9章では「死者を憶うこと」における愛とはなんぞやが語られているわけですが、その中には何度も強調されるのが死者の「不変性」です。死者は文字通り死んでいるので、生者のように時の変化に晒されておらず変わることがありません。そうした死者の不変性が永遠を目指すキリスト教的愛にとってはちょうどよい反面、自然的な愛にとっていかに冷淡であるかがさまざまな角度から語られるのですが、その描写がまた……良いんだわ………………。とりあえず一旦、以下の引用を読んでもらってもいいですか?

ああ、死者を憶うということは(…)、当てにならぬ、仕甲斐の無い、意気消沈させる仕事である!(…)死者はただ確かな死滅の餌食にますますなるばかりである。死者は、わたしたちが彼を憶う時も、子供が母を喜ばせるようにわたしたちを喜ばせてはくれない。だれをいちばん愛しているかという問いに対して、子供は「お母さん」と答える。しかし死者は、だれをいちばん愛するということもない。それのみか彼は、まったく誰も愛していないようにすら見える。ああ、死者に対する憧憬がいや増すばかりであるのに、彼は墓の下でいとも静かに安らっているとは、実に面白くないことである! (p.222)

いや、全てが最高だな………………。上から順番にコメントするか…………。

まず冒頭の感嘆詞+!マークのコンボ。もはやキルケゴールの十八番ですね。こういうのが続くから「キルケゴールってなんか、テンション高いよね…」と言われるんです。ま、私はそこが好きですが。述部に似たような言葉を2-3個並べるところもルケゴあるある。明快さだけを目指した文章だったら即カットになる部分ですけど、こういうのって格好いいよね? カッコイイ系のラノベ通った人ならきっとわかってくれるはず。

次の文。死者が死んでもなお「ただ確かな死滅の餌食に」なるばかりって、エモいですよね。だって、死によって現実存在が失われただけでなく、現在進行形でさらに「無」に向かって進んでいるわけですよ。いったいこれ以上何を失うっていうんですか……? A. 死者に関する記憶と愛♡

その次で、急に子供の話が出てくるのは、引用した個所の前で死者と子供を対比しているからです。キルケゴールによれば、生まれてくる前の子供を愛すことと死者を愛すことは、現実に存在しないものを愛しているという点で似てるけど、子供は生まれた後やがて成長して親に愛の報いを与えるかもしれないのに対して、死者はその可能性が一切無いところが決定的に違うんだとか。その流れでここでも子供の愛と死者の愛が比較されているのですが、コントラストが強すぎてヤバくないですか? だって、一方では子供が親を純粋に慕うというめちゃくちゃ心温まる情景がある中で、死者は誰も何も愛さないという極度の冷淡さをみせているわけですよ。子供の愛がホッコリするだけに、死者の「無」が強調されて最高ですね。

最後、そうして死者の冷淡さに生き残った側が心かき乱されているのに、死者はなんのリアクションもないというこの……この……圧倒的「無」……「不変」……!!! 虚しさ~~~~!!!! これだから死者との関係を描くのはやめられねえな!!!

とまあこんな感じで、死者の不変性や冷淡さの描写がいちいち最高というか、私にやさしいわけです。他にもあるのでちょっと見て。手短に済ますから。

死者はかれがよい死者であればあるほどますます眠れぬ夜を引き起こすものである。(…)たとえ君が夜も眠れずに彼を慕うにせよ、あるいは彼をすっかり忘れるにせよ、そういうことは彼にとって全くどうでもよいことに見えるのである。(p.222)

死者を思って夜も眠れないほど苦しんでるのに無反応とか悲しいね~~~~~~~!!!わかる!!!最高!!!!

彼[死者]の強さは、彼が変わらないという強さである。(…)[死者は、] 彼のことをも、別離の言葉をも忘れてしまうような生者に対する軽蔑の情を顔に出すことすらない! (…)死者は君のところにやってきて、君に警告することがない。彼は通りすがりに君の方を見やらない。君は決して彼に出会うことがない。(p.233)

そんなに「ない」「ない」言うことないじゃん!!!!!!ひどい!!!!!でもそれが死者の変わらなさなんだよな~~~!!!しんどいね~~~~!!!救い、無しなのか?

しかし、そこは「死者は曙」と歌うキルケゴール、死者との関係から生者が得られるものもあります。生者が死者から学ぶもの、それはまさしく生者を苦しめていたところの「不変性」なのです。キルケゴールによれば、キリスト教的愛は永遠の事柄であり、時の流れとたえざる変転の波に左右されることのない「不変」なものでなければなりません。生者は死者と向き合うことで、この何があっても変わらずにいるという強固な態度を学ぶことが出来るのです。

それゆえ死者を恐れよ、彼の狡猾さを恐れよ、彼の確固たる態度を恐れよ、彼の強さを恐れよ、彼の誇りを恐れよ! しかし、もし君が彼を愛するならば、愛の追憶の内に彼を手放さないようにしろ! そうすれば(…)死者から、そしてまさに死者としての彼から、君は思想の狡猾さ、表現における明確さ、変わることなくいつも同じことであり続ける強固さ、人生における誇りというものを(…)学び取ることが出来るのである。(p.233)

死者からいまだ学ぶものがあるというのは何という希望でしょうか……! しかも、まさに自分の愛したところの人から学ぶことが出来るとは……! 私も死別モノをハッピーエンドで終わらせるときはこういうオチにしたいな~~!!!


③ 死者を憶うことにおける無私の愛を語ってくれてるのがヤバい!!!

ここまで私がやたら盛り上がっているのを見て「何、こいつ……?」と思った人いるかもしれませんけど、私が死別モノを好んで摂取するのにはれっきとした理由があるんですよ!! それは恋人が死ぬことで、残されたほうの愛がマジで純粋なものだったかが試されるからです!!!

恋人が生きていれば、愛を持続するための外的な原因がたくさんありますよね。でも死んだら何にもないんですよ、1人で愛を持続しなければなくちゃいけないんです。互いに愛を確かめ合って心を強くすることも出来ないし、彼あるいは彼女の中に愛すべき人格の表出を見て愛着が強くなることもない。あるのは常に薄れゆく記憶だけ。そのなかで愛を保持するのって相当難しいですよね。なので、私なそんな状況に陥った時に人間がどういう態度をとるかに興味があって頭の中で試行錯誤を…………、

とかゴチャゴチャ考えていたことを、キルケゴールが端的にまとめてくれました。 

わたしたちが愛において死者を憶うということは、最も無私なる愛の行為である。もしひとが、愛が全く無私であるということを確信しようと思うならば、報いについてのあらゆる可能性を遠ざけなければならない。しかしながらこの可能性は、死者とのかかわりにおいて完全に脱落する。にもかかわらず愛が持続するならば、その愛は真実に無私なのである。(p.220)

SK(そういう・こと)!!!

そう、私が本当に好きなのは無私の愛……自己を省みずただ相手に尽くすような崇高な愛の実現を見たい……せめて物語の中だけでも……そんな切なる願いが死別モノを求めるんです。分かってくれますか? 

しかし、悲しいかな。やはり一人で愛を持続するのは困難なもの。死者への愛を呼び起こす大切な記憶もどんどん薄れていくんですよ。ね、キルケゴール?

死者が身をゆだねた腐朽とともに、追憶もまた刻一刻と指の間をすり抜けて消えて行く。ひとはその追憶がどうなり行くかを知らない。ひとはこの重苦しい想念から次第に解放されるのである。 (p.227)

だよねえ~~~!!

指の間をすり抜けていく追憶………!! 無常すぎ……!! たしかに最初は愛すべき記憶も喪失の悲しみも鮮明で、日ごとに死者を憶い暮らすかもしれないよ。でも、いつまで続くかな……人生は長いぜ……………? 死によって恋人と分かたれるだけでなく、恋人への愛も時の流れの内に失ってしまうとしたら……そんなの……悲しすぎるよ…………!!

しかも、それによって死者を憶うという「重苦しい想念から次第に解放される」んですから皮肉ですよね。この世的に見れば、死者を憶うことが少ないほど幸福になれるともいえるわけです。ここにおいて、死者を憶うという無私の愛の実践と、この世的な充足を求める自己愛が拮抗するんだよね……!

という話ももちろんキルケゴールはしてくれています。

死者は残念なことに、まったく何ものによって君を助けるのでもなく、反対に、(…)ありとあらゆる方法で、いかに彼が君の追憶などにまったくかかわるところでないかということを君に示すのである! その間にも生のいろんな要請がさし招く。生者たちは目くばせして、「わたしたちのところにいらっしゃい。わたしたちはあなたを大切にしてあげることができますよ」と言う。これに反して死者は、(…)まったく何ひとつなすことが出来ない。一指だにふれることが出来ない。彼は塵芥に帰するのみである。(p.228)

死者の不変性とその冷淡さは、生者への愛を示さないというだけでなく、未だ生きる者の中に残る愛をも引き留めません。それに比べて、この世のきらびやかさといったらなんと魅力的なことでしょう! 善意が生者を取り囲んでいる時ほど、死者の元にあえて留まることほど難しいことはありませんよ。だって、死者を愛するなんて甲斐の無い仕事に従事するより、新たな幸せを見出したほうがずっと彼のためになると思うじゃないですか。私はオタクとして、恋人に先立たれた男が新しい恋人をゲットして次の人生へと踏みだすさまを何度も目撃してきたのでわかります。わかりますよ? わかるけど…………違うだろ…………!!! キルケゴールもそう思うよね……!!!

死者と対峙する時、すべては明らかになる。ここではおよそ一切の強制が欠如するのである。しかり、死者に対する愛の追憶は、それどころか現実に対して抵抗し、現実が不断に新たな影響によってあまりにも強力になり、追憶を消し去るということが無いように努めねばならない。(p.227)

ほらァ!!!!!!!!!!!!!!!

だから、課題なんだよ!!!!死によって分かたれても愛を持続させるっていうのはよ!!!!!心の傾きじゃないの!!!!!!!嫌でもやる!!!!努力する!!!!そういうものなの!!!!ねえ!!!おい!!!!どうなんだ!!!!!!!(?)

私はこういうことを言いたくて漫画を描き、その漫画を読んで「あーあ、全部分かる」と言いながらかりそめの満足を得ているオタクなので、こう推しが「せやで」と言ってくれそうな箇所を発見するとニッコリしちゃいますよね。まーあんまり心に適うもんばっか読んでても研究としてはアレですけども、オタクの解像度を高めるために本を読んでも、いいよね……? いいよ!!!!!!


まとめ:死者を憶うことと、死んだ誰かを愛すること

そんなかんじで『愛のわざ』第2部第9章、めちゃくちゃ楽しみました。これを読んだことで、何故私が死別モノにこだわるかがより明確になった気がします。勉強になったな。ていうか本当に、私はキルケゴールの文章が好き、なんというか、メロディーがいいよね…………!(オタクの感想)

とはいえ、ちょっと気になることもありました。それは、死者の「不変性」が強調されるあまり、「死んでいるのは誰であるか」という部分が見えなくなっていないかってことです。

死者を憶う時、私たちは「死者」という普遍的なナニカを思い浮かべるわけではなく、ある特定の人物を思い浮かべるはずです。でも、キルケゴールにとって、死者が「誰」であるかは愛においてはあまり重要ではありません。むしろ、死者は「無」であり、それによって生者がどのような愛を持っているかを明らかにする契機にすぎないのです。

死者はいかなる現実の対象でもない。死者は、自分と関係を保っている生者のうちに何が宿っているかをたえず明らかにする機会であり、あるいは生者が彼にとってはもはや現存しない死者に対していかに在るのかを明らかにするための助けとなる機会であるにすぎない。(p.218)

これについては「たしかにねー」と思う一方で、ふつう思い浮かべる「死者を愛を持って追憶すること」とはズレがありそうだなとも思います。たしかに死者は自己を外的に刺激して愛へと動かすことはないにせよ、かつて生きていた頃の記憶が自己の中に再び愛着をもたらすことはあるでしょう。大抵の場合、そうやって追憶が愛を呼び戻すことを「愛の追憶」というのではないでしょうか(少なくとも、私のイメージではそう)。

しかし、キルケゴールの口ぶりからするに、たとえ記憶であっても愛を呼び覚ます「原因」にはならないところに無私の愛の実現を見ている気がしますね。実際、キルケゴールは別の章で「愛において大切なのは何を愛するかではなくいかに愛するかだ」みたいなことをたびたび語っていますし、そうして「何」ではなく「いかに」を重視するのはキルケゴール思想の核心でもあるので、記憶によって誘発される愛着は無私の愛ではないと言いそう~。

私としては、そうしたキルケゴールの対象に依存しない愛の実現には魅力があるなと思うんですけど、一方で「ほんとキルケゴールは現実に存在する他者を全然見てねえな!!」と批判されているのも事実で(アドルノとかレヴィナスとかにね)。死者を「無」であるとしたうえで、「死者を憶うこと」の中に無私の愛を見て取るところには、良くも悪くもキルケゴールらしい側面が出ているのかもしれませんね。

いやしかし、死者ってそこまで「無」でしょうかね。オタク文化に浸かっている人間からすると、現実存在がないというだけではそれほど愛を呼び起こす力を失わないと思いますけどね! 喪失の悲しみを詩的な想起が慰める可能性だって十分にあると思いますよ!? そこんところどうなんですか! 人を詩的に愛することに対して人一倍敏感だったキルケゴールなら何か言ってくれそうですけど、どうなんでしょうねえ。


と、無理やりキルケゴールから距離をとって自我を回復したところで、感想メモを終わりにしたいと思います。最後にちょっと突っかかってみたことで、私が漫画描きながらどういうシチュエーションを問題にしようとしているかも少しずつ分かってきた気もしますね。死者を憶うというテーマ、オタク的にまだまだ楽しめそうだな……!!!ハッピー!!!!!!!




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