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#8 「はじまり」のプロデュース

リングにあがった人類学者、樫永真佐夫さんの連載です。「はじまり」と「つながり」をキーワードに、ベトナム〜ラオス回想紀行!(隔週の火曜日19時更新予定)

©Masao Kashinaga 

11月25日(月) 20:50〜 ムーカンチャイ
 朝六時半にS氏とホテルを出て市場に行き、朝食はフォーとおこわを食べた。八時にカンナー村まで車でビエンさんを迎えに行き、ドン・クアイ・ハーとカム・ハイン廟を案内してもらった。かれの尽力でドン・クアイ・ハーには祠が建ち、史跡案内板まで立っていてびっくり。
 十一時すぎにはギアロを発ちザーホイ、トゥーレの盆地と棚田の美しい景観を堪能した。二〇〇〇年にはじめて福田さんとバイク二台で通ったときのすさまじい悪路が、十年以上前だがウソみたいに整備され、夕方五時にはムーカンチャイ到着。いつのまにかムーカンチャイ名物だというカモ鍋が、野菜たっぷりでおいしかった。

ギアロを肥沃な米所にしてきた紅河支流のシア川は暴れ川で、2018年にも洪水による甚大な被害をもたらし、この写真を撮った橋も流された(2015年、ギアロ)

水牛岩

 むかしむかし、スイギュウがイエンバイから西へ山道を歩いていた。
 ムオン・タックのくにへと道が分かれる辻を通りすぎ、ムオン・ロのくにへの最後の坂を下りはじめて、スイギュウはふと思った。
「ムオン・ロは米がうまい。ムオン・タックは塩がうまい」
 スイギュウは立ち止まって、後ろをふりかえった。
 迷った。その姿のまま迷い続けた。
 「水牛岩」は、そんなスイギュウの姿を映している。

200207水牛岩(イラスト)
水牛岩のお話 ©Masao Kashinaga 

 夕べはそんな伝承地の横をわたしたちはかすめ、ムオン・ロと黒タイがよぶギアロに着いた。
 だが水牛岩があったのもむかしの話。1959年に付近に入植したキン族が、まもなく壊して撤去し畑地にしたという。そんな岩のことを覚えている人などもうほとんどいない。
 ベトナム語でフーイエンとよばれるムオン・タックのくには、かつてダー河の水運で栄え、海から運ばれた塩が積み卸しされた。かつてギアロの塩もそこから多く運ばれていた。交通交易上、水運より陸路が重要になったのはフランスが道路を整備した1930年代よりあとのことだ。
 それにしても、塩なら紅河の水運でイエンバイにもたくさん届いたのに、スイギュウはなぜイエンバイの地を捨てたのだろうか。

ギアロの市場に向かう黒タイの家族(2015年、ギアロ)

 水牛岩があった地をビエンさんと二人で訪ね、近隣のキン族の住人たちから付近の開拓の話をきいたのは2000年12月だ。
 そのころわたしはギアロに滞在していた。その2週間ずっとビエンさんといっしょだった。彼をバイクの後部座席にのせて歴史ゆかりの地を訪ねてまわり、古老たちと会い、儀礼や行事に参加した。
 その調査は本当にきつかった。
 調査研究が高尚な思弁的営みだと、エラそうなことをいいたいのではない。社交好きで酒好きなビエンさんとの酒浸りの毎日が、酒をあまりうけつけないわたしには拷問に近かったのだ。
 その後何度もビエンさんを訪ねているが、かならず吐くまで飲まされるからわたしにとってギアロは鬼門だ。だが今回の旅行では、自他ともに酒豪と認めるS氏が、さすがに御年 86歳の衰えをみせるビエンさんを飲み比べで退散させた。おかげでわたしはホテルに戻っても吐かずにすんだ。ちなみにあとでS氏にきくと、旅行中に飲んだ酒のなかでギアロの酒がもっとも芳醇でおいしかったそうだ。
  1933年生まれのビエンさんは、ベトナムがフランス植民地から解放された1954年からベトナム戦争中の 1972年まで、同じく黒タイが占めるソンラーにいた。そんな若かりし19年間の最初、彼に黒タイ文字の読み書きを授けたのはわたしの恩師カム・チョン先生(1934-2007)だった。先生が兄弟子としてビエンさんをわたしに紹介してくれたのだ。
 ビエンさんは故郷ギアロに戻ってから、黒タイ文字で書かれた古文書を自力で集めて解読し、のみならずベトナム語で紹介し郷土誌家としての地位を築いた。カム・チョン先生をはじめ同世代以上の物知りがほぼ物故した現在、彼こそが黒タイの風俗習慣に関するベトナム一の知識人だ。
 たまたまそのことを、なんと日本からベトナムへのベトナム航空の機内で目の当たりにした。
 機内テレビのプログラムに、ギアロの新春を祝う儀礼を紹介するドキュメンタリー番組があった。番組中で、村人たちを大きな木造の高床家屋へと導き、祭壇の供物を前にして長い黒装束姿で、かしこみ、かしこみ祈祷している老尊師はビエン氏ではないか! まぎれもなく番組の主役だった。
 すっかり郷土の文化人になったビエンさんに、お宅で夕飯をごちそうになった翌朝は、ギアロの黒タイの史跡を二カ所、ドン・クアイ・ハーとカム・ハイン廟を案内してもらった。

ギアロの黒タイの家の屋根は、途端で葺かれるようになる前、
松の木の板で葺かれていた(1995年、ギアロ)

魂の帰り道

 朝食後、わたしたちは車で村までビエンさんを迎えに行った。
 ドン・クアイ・ハーは、かつて水牛岩があったあたりまで坂を上ってから右に折れ、盆地の東縁に沿って農道を奥へ進んだ先にある。車を降りてから、疎林と草地のゆるい斜面をのぼると、小さな祠と史跡案内の看板が立っている。
 仰げば左右に長い山なみ。二つの険しい峰のあいだにV字の切れ込みがある。20世紀後半の森林伐採で涸れてしまったが、かつて双峰から集められた水は切れ込みの下でナム・トック・タットの滝となった。濃緑のキャンバスに白い線が一条映えていたはずだ。ドン・クアイ・ハーについては、この滝とセットでないと説明できない。
 黒タイはベトナム西北部から北ラオスの広い範囲にくらしているのだが、イエンチャウの人たちを例外として、故地はギアロ(ムオン・ロ)だという。というのは、神代のおわりに天から降臨した首領の祖が、紅河を下りここで最初にムオン・ロのくにを開いたという伝承をつたえているからだ。のみならず、地域を問わず亡くなった黒タイの人の魂は山川をいくつも越えはるばるムオン・ロに戻り、最後はナム・トック・タットの滝をたどって峰のいただきから昇天してご先祖さまになると信じられているからだ。つまりドン・クアイ・ハーは、この魂の帰り道を遙拝する地なのだ。
 「ドン」は森、「クアイ」はスイギュウ、「ハー」は精霊に捧げることだから、ドン・クアイ・ハーとはスイギュウをお供えする森を意味している。とくに「ドン」は、一般的な森を意味する名詞「パー」と異なり、神域としての森を示し、禁足地のことが多い。
 かつてドン・クアイ・ハーにはガジュマルの大木が3本あった。その木のもとに、故人の魂の平安を祈って、遠方からでもスイギュウの肉を捧げに来る人の姿が1980年頃までみられたそうだ。
 いっぽうで1960年代には付近にキン族の入植村ができて、黒タイがお供えや祈祷のため以外には立ち入らなかったこの森の木が伐採された。1987年にはついに3本の大木も伐られた。木に登って遊ぶ子たちが洞の中に落ちたら危ないと理由づけされたそうだ。

1990年代よりも山に木はふえたが、依然としてナム・トック・タットに滝はない(2019年)

ギアロのキン族

 以下は、ギアロを出発して次の目的地に向かう車中でのS氏との会話なのだが、この話のつづきなのでここに記しておこう。
 かつてギアロにキン族はわずかだった。公務員と商人にほぼかぎられていた。農業を営むキン族の村ができたのなど1950年代後半以降のことだ。
 なぜこんな山のなかに突然キン族がたくさん来たのか。その理由は海岸部に人が多くなりすぎたせいだ。
 S氏は少し驚いたようすだった。
「ベトナム戦争の戦死者と行方不明者の数をあわせて200万人とかいうじゃないですか。なのに人口は増えていたんですね」
 紀元前にはじまった紅河デルタの開拓は二千年かけて海の方をめざして進み続けた。その結果、20世紀半ばには米くらいしか産品がないタイビン省やナムディン省などの臨海部が、人の数だけやたらに多くなっていた。そこで、北ベトナム政府は沿岸部の過剰な人口を、人口の少ない山間部へと移住させるプロジェクトを1960年頃から開始した。
 そんなわたしの説明に、S氏はすぐさま疑問を口にする。
「ホントに山間部に、移住者をたくさん受け入れる余裕なんてあったんですか」と。
 車窓からながめるイエンバイからギアロの風景がまさにそうだが、どの丘も山もてっぺんまで人の手が入っていて、ベトナム戦争の映画に出てきそうなジャングルなどどこにも見当たらない。さすが鋭い。
「問題はまさにそれなんです」と、わたしは少し長い説明を加えた。
「表向きの理由は、インフラの整備も産業の育成も遅れ、でも山間部に土地だけは余っている。だから経済開発を海岸平野部から送り込まれた人たちと、みんないっしょに仲良くやれば、みんなが儲かり豊かになる。そんな発想です。
 しかし、ご覧の通りこの広い盆地でも、灌漑できる土地は、黒タイ、白タイなどのタイ系民族やムオンなどがとっくの昔に田んぼにしています。
 じゃあ山地斜面は、といいますと、麓に近いところはやはりタイ系民族やムオンが焼畑などにしています。じゃあ、てっぺん近くまで行けばといっても、そこも中国から渡ってきたモンやザオが村をすでにつくっていて、広範囲に焼畑を行い、家畜を放していました。
 もちろんそういった傾斜地にかつてはもっと森がありました。それはこんなわけです。
 焼畑の場合、水田と異なり、一つの土地で作物ができるのは数年に限られます。地味が落ちて生産力が下がると、放棄して他の土地に移るのです。でないと急斜面の表土が雨で全部流れ不毛な荒れ地になってしまいます。一度土地を森林に戻して土壌に栄養を蓄えさせることで、いずれまた畑にできるのです。
 だから山には手つかずの原生林でなくとも、休閑中で緑が茂っている土地があちこちにたくさんありました。とくに麓近くにあるそういった土地を政府が「無主の地」として取り上げ、そこに海岸部からの移住者たちを入植させ開墾させました。水牛岩を取り除いたのも、ドン・クアイ・ハーの森を開墾したのも、新しいキン族の入植者たちだったわけです。
 現実には土地の生産力と人口のバランスからして、山間部の土地にいったいどれだけの人口を支える力があったんでしょうね」
 このわたしの回答に対して、S氏はさらに質問した。
「生態環境へのストレスの大きさも科学的に計らずに、山地への大量移住をやっちゃったんでしょうか」
「その辺のことはよくわからないのですが、このプロジェクトは民族政策の一環でもあったと思っています。はっきりいえば、タイ族対策ではないかと」と、ちょっと刺激的な表現をした。つづけて少数民族びいきのウガった見解をS氏に吹き込んだ。
 以下がわたしの見解を述べた独白だ。ちょっと長いが記しておこう。

2000年代までは、ギアロ盆地を取り囲む山地斜面をパッチワーク状に焼畑が切り取っていた(2000年)

ベトナムのタイ族

「ハノイの民族学博物館のテーマのとおり、ベトナムは多民族国家で、今でも諸民族の平等と団結を謳っています。この政治的な標語は、植民地主義との戦いとしてフランスと戦争していた時代にまでさかのぼります。逆に言えば、民族同士は平等でもなければ団結などしていななかったってことですよね。バラバラな民族同士を、どうやって情報戦略で団結させるか、それが戦争に勝つための鍵でした。そのなかでとりわけ大事だったのが、黒タイ、白タイ、タイー、ヌンなどタイ系民族でした。
 数字でいうと、ベトナムは人口の85%がキン族です。少数民族は53もいて、しかしすべてあわせてわずか15%です。というと少数民族が少なくきこえますが、これが数字のワナです。
 ベトナムは一億人国家なんです。ということは1500万人もの少数民族がこの狭い国土にいるのです。たとえばラオスの人口が約700万人として、ベトナムに住む少数民族の人口の方がはるかに多い。しかもタイ系民族だけで500万近くいます。
 伝統的にキン族は、デルタ平野と狭い海岸部にうじゃうじゃひしめき合ってくらしてきました。国土の7割以上を占める山間部に20世紀までキン族はほとんどいなかったのです。
 ですから、20世紀の前半、主にキン族の独立運動家たちは、キン族以外の人たちも取り込み、フランスによって植民地化される前の阮朝の領土よりもっと大きなベトナムをつくろうとした。しかし、キン族以外の人々のあいだには、自分たちはベトナム語なんか知らないし、なぜキン族のつくる国に参加しないといけないのか、という人もたくさんいました。これに対して運動家たちは、悪の権化フランスを追い出せばみんな自由でハッピーになると宣伝し、フランスを共通の敵とするのに成功しました。そのおかげで1954年にディエンビエンフーの戦いでフランスを破り、国際社会で独立が承認されました。
 しかし、ディエンビエンフーは黒タイにとって第二の故地といってもいい民族の伝承の地で、典型的なタイ族の盆地世界でした。そんなところで勝てたのは、一つには現地の黒タイが味方したからです。ですから、彼らをハッピーにすると約束した手前、戦勝一周年記念に西北地方の広い地域を民族自治区にし、そこでは黒タイ、白タイ、モンなどの少数民族による一定の自治を認めました。ギアロも含まれていました。
 共産主義政権が、とくにタイ族に気を使う必要があったのは、次のような理由もあります。
 タイ系民族は東南アジアから西南中国の実に広い地域にくらしています。タイ国とラオスはタイ系民族の国ですし、そのほかミャンマー北部のシャン州、中国側にもタイ系民族があわせて一千万人規模でいます。いっぽう、ベトナムはどうかといえば、西北地方には白タイ、黒タイ、東北地方にはこれまたタイ系のタイー、ヌンが多く、つまり北部の3分の2くらいがタイ系民族の居住域だったのです。
 ここからは西北地方の話に絞りましょう。20世紀前半まで黒タイや白タイにベトナム語が話せる人はあまりいませんでした。むしろラオ語(現ラオスの公用語)など同じタイ系の言語との方が楽にコミュニケーションできて、衣食住の習慣もずっと近かった。そんな人たちがベトナムから離反し、周辺諸国のタイ系民族との連帯を強めて叛旗を翻したら、たちまちベトナムはバラバラになってしまいます。
 たとえば19世紀後半に遡りますが、白タイはフランスに対して最初激しく抵抗を示していたのに1890年頃親仏に転じたのですし、20世紀の黒タイにしても親仏グループと反仏グループに分かれたのですから、政府にとってタイ系民族は要注意です。国外のタイ系民族や他の勢力と連携すれば、いつ離反するかわからない。だから、かれらの団結力を弱め、外部との連帯を阻止するために監視しておく必要があったのです。
 そんなわけで、まずは民族自治区を設置して懐柔し、次に大勢のキン族を海岸部からそこに送り込み、山間部のタイ族人口を相対的に減らして弱体化させ、少しずつ同化しようとしたのでしょう」

1952年にフランスが撤退するまで、ギアロにフランス軍基地があり空港もあった。
その場所に残るレンガ作りの建物の残骸(2000年)

水牛石が示す「はじまり」

 ドン・クアイ・ハーの話に戻ろう。
 2000年に来たとき、ビエンさんもドン・クアイ・ハーの祭祀場所がどの辺かすぐにわからないようすだった。草むらの中を二人で探して歩き、黒い岩がいくつも露出している場所に来て、「ここだ!」とやっと発見を告げたのだった。
 今はそこにお供え用の小さな祠と屋根付きの案内板が立っている。そのタイトルは「歴史文化遺跡 名勝ナム・トック・タット」。
 あれ!ドン・クアイ・ハーではない。

ナム・トック・タットの滝を遙拝するドン・クアイ・ハーにたつ案内板(2019年)
ナム・トック・タットを遙拝し、お供えするための祠も、
ビエンさんの尽力によりドン・クアイ・ハーにたっている(2019年) 

 案内板には、亡くなった人のが魂がこの滝で清められて昇天し祖先になること、先の水牛岩と紛らわしい「水牛石」とよばれる磐群いわむらがあり、そのうち二つが天から降臨したタオ・スオン、タオ・ガンの2祖だと書かれている。ドン・クアイ・ハーの名称はそこにない。「むかしここに黒タイにとって神域の森があり禁足地でしたが、近所のキン族が全部木を伐って畑にしちゃいました」とはまさか書けないからだろうか。いっぽうで、ナム・トック・タットが清めの滝だとは初耳だった。
 史跡認定の功労者がビエンさん本人なので、その場で石についてきいてみた。
 そこにある大きな4つの列石が、下からタオ・スオン、タオ・ガン・タオ・ロ、ラン・チュオンという神話上の父祖の石だといった。これまた初耳だ! それぞれの石がお供えを置く供物台で、かつ依り代らしい。
 この4人の父祖は、それぞれ黒タイの伝承上の「はじまり」と深い関わりがある。タオ・スオン、タオ・ガンは最初に天から降臨し最初にこの地を開拓した。タオ・スオンの息子タオ・ロはここに最初にムオン・ロのくにをたて首領となった。ラン・チュオンはその7番目の末子で、相続できる土地がなかったためこの地を去り、ムオン・タイン(ディエンビエン)までの広い地域を黒タイ支配下に置いた英雄であり始祖だ。彼はカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)かヤマトタケルさながらの征服王として、黒タイのあいだで崇められている。

ドン・クアイ・ハーにあるこの黒い磐群が、黒タイ始祖たちの依り代(2019年)

 ちょっと不思議なことがある。伝承に基づくと、ラン・チュオン系の首領がムオン・ロを支配するようになったのはずっと後々だ。もともとタオ・ロの長男、つまりラン・チュオンにとって長兄タオ・ドゥック系の首領が長くここを支配していたはずだ。なのにタオ・ドゥックの依り代となる水牛石はない。
 いや、もっと不思議なのは、2000年にはじめてビエンさんとここに来たとき、水牛石についても、それが依り代だということも語らなかったことだ。だが、ビエンさんに敬意を表し、このツッコミはやめた。
 祠と案内版の少し下に、かつて伐採されたガジュマルの大木の代わりに、ガジュマルの若木が3本植えられていた。まだ色も厚みも薄い華奢な葉を茂らせているこの3本が、いずれ成長して深く根を下ろした大木へと成長していくのだろうか。まだ日陰もほとんどつくらないその梢越しにナム・トック・タットを仰いでその場を後にした。

磐群に宿る黒タイ祖先の系図            ドン・クアイ・ハーの空間配置
                                   ©Masao Kashinaga 

カム・ハイン廟

 農道にでると、近所に住むキン族の村人が通りすがりに話しかけてきた。生活のことをきいてみると、
「今は茶畑だけだよ」とはじめた。
「茶は年に5回収穫できて、一回の収量が150キロ。キロ20円だから売り上げは3万円。でも農業局に1万円納めないといけないから手元に残るのは2万円。年間で10万円。他に経費もかかるけど、まあ、やっていけるよ」と、尋ねていないカネの話までうれしそうに語ってくれた。入植50年の開拓者の労苦を思いやった。

かつての焼畑地が茶畑に変わったところがギアロには多い(2015年)

 わたしたちは車に乗り込み、ギアロの町の中心部にあるカム・ハイン廟を訪ねた。1870年代に中国からの武装匪賊集団「黄旗軍」が流入して、一帯が蹂躙され占領された。賊の駐屯地はまさにビエンさんのカンナー村にあった。土地は荒廃し、飢饉が3年続いたという。
 匪賊たちに対して長男カム・ハインを頭とする黒タイ首領一族の4兄弟が決起して戦いを挑み、ギアロを奪還した。その一連の話は、現地黒タイのあいだで物語『タップ・サック・コー・ルオン』(黄旗の討伐)として伝えられている。
 ビエンさんによると、黒タイによる新しいギアロの「はじまり」を築いたカム・ハインを祀る英雄廟がかつてあった。だが、都市整備のため1965年に除去された。そこで彼の提言により、同じ場所に小さな廟が復活した。横に公民館やゲストハウスまで建てる整備が進行中だ。
 廟を見た後、わたしたちはビエンさんとも別れを告げ、モンが多く暮らす雲の上の高地ムーカンチャイに向かって出発した。

ビエンさんの尽力でできたカム・ハインを祀る廟(2019年)
ギアロの盆地のあちこちに漢族の墳墓と伝えられる墳丘がある(2005年)

愛息子の死

 車中でS氏とビエンさんの話になった。
 S氏がビエンさんを「郷土誌家の域を越えた文化プロデューサーですね」と評したのは卓見だ。だがそれをきいて、わたしは白状した。
「その発端が2000年に私が滞在した、あの2週間だったんじゃないかと思うと、ちょっと心が痛むんです」
 とくにナム・トック・タットでは新しく「はじまり」がプロデュースされているような気さえしたからだ。
 その間、彼は史跡の発掘以外にも、古い儀礼や祭礼を再現して開催したり、行政の補助も受けて若者たちに黒タイ文字、歌、踊りなどを教える教室を毎週開いたりと、文化の保存と育成に貪欲に取り組んできた。前の晩に彼の若い生徒さんたちが披露してくれた踊りも、そんな活動の成果だ。
 とはいえ、思いもよらない事態に悲しみに暮れていた時期もあった。
 2000年代のある年のテト(旧正月)明けだった。
 ハノイの集合住宅にあるカム・チョン先生の家にいると、たまたま珍しくビエンさんから先生宅に電話がかかってきた。短い会話で電話を切ったあと、神妙な面持ちで先生から伝えられたのは、ビエンさんの息子さんがケンカに巻き込まれて刺されて急逝したことだった。かれの家族をよく知っているのでショックを受けた。
 ビエンさんには子どもが4人いた。
 長男は人格、学業ともにすぐれ、地元で役所の幹部になった。いっぽう、次男はいろいろやらかした。ビエンさんが大切にしている黒タイの古文書を古物商にこっそり売っぱらって金にしようとしたり、木材の違法伐採に手を出したり、いわゆる「バカ息子」だったのだ。でも、ちょっとやんちゃで冗談が好きで、わたしとは気が合った。
 長男と次男のこの二人は2000年にはすでに結婚して独立し子どももいた。
 その下に、ぽっちゃり丸顔の気立てのいい娘がいた。彼女は二十歳そこそこでよその村に嫁いだのだが、夫の DVに耐えかねてよく実家に戻って家事を手伝っていた。
 末っ子の三男は、勉強ができ、サッカーも得意で、善良な笑みをいつもたやさない、気配りのよくできる真面目な子だった。
 ビエンさんの息子さんの訃報を聞いて、「あの次男がそんな死に方をしてしまうなんて」とわたしも心を痛め、彼の死を悼んだ。
 翌年だったか、わたしはビエンさんのお宅を訪ねた。
 ご夫妻が家の外にまで出迎えにきてくれた。二人とも覇気がない。奥さんなどわたしの顔を見るなり、腕にしがみついて顔を埋めて涙した。わたしはその小さな背中をさすった。そんな挨拶のさなか、家の中からやおら階段を下りてきたのは、あら不思議、次男ではないか!
 なんと亡くなったのは、善良そのものの自慢の息子、三男だった。
 テトに若者たち同士でイエンバイまでバイクであそびに出かけ、そこで別の若者たちグループと些細なことで衝突した。ナイフを取り出してのケンカになったので、三男がとめようとあいだに入った。しかし不運にも脚のつけ根の動脈を切りつけられ命を落としたのだそうだ。
 その夜、ビエンさん宅で次男とも酒を酌み交わし、やはり泥酔した。そして何度も吐いた。

ギアロ市場の正面入り口には、ビエンさんによる「ムオンロ市場」の黒タイ文字も(2019年)

■参考文献
岡田雅志 2012 「タイ族ムオン構造再考:18-19世紀前半のベトナム、ムオン・ロー盆地社会の視点から」『東南アジア研究』50(1): 3-38
樫永真佐夫 2002 「黒タイの伝統的政治体系−ベトナム・ギアロ調査より」『民博通信』95:59-75

樫永真佐夫(かしなが・まさお)/文化人類学者                1971年生まれ、兵庫県出身。1995年よりベトナムで現地調査を始め、黒タイという少数民族の村落生活に密着した視点から、『黒タイ歌謡<ソン・チュー・ソン・サオ>−村のくらしと恋』(雄山閣)、『黒タイ年代記<タイ・プー・サック>』(雄山閣)、『ベトナム黒タイの祖先祭祀−家霊簿と系譜認識をめぐる民族誌』(風響社)、『東南アジア年代記の世界−黒タイの「クアム・トー・ムオン」』(風響社)などの著した。また近年、自らのボクサーとしての経験を下敷きに、拳で殴る暴力をめぐる人類史的視点から殴り合うことについて論じた『殴り合いの文化史』(左右社、2019年)も話題になった。

▼著書『殴り合いの文化史』も是非。リングにあがった人類学者が描き出す暴力が孕むすべてのもの。


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