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男の貫禄・女の始末

【第52話】「海道一の親分」として明治初期に名をはせた侠客、清水次郎長。その養子であった禅僧・天田愚庵による名作『東海遊侠伝』が、町田版痛快コメディ(ときどきBL)として、現代に蘇る!! 月一回更新。
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 江尻の大熊の妹・蝶を嫁に貰ったことが次郞長に何を齎したのか。そりゃあ、いろんな事を齎したが、やくざとしての次郞長の評価には間違いなく良い影響があったと言える。
 それは人間の出世ということの本質に関わる問題であった。
 会社員、役人、運動選手、芸人、商人、職人、カネ貸し、芸人、学者、医者、代言人、魔法使い、チンドン屋など、此の世には書き切れないほど色んな職種がある。そしてその中で出世をする人としない人がある。その違いはなになのだろうか。能力の違いなのだろうか。それもある。それもあるが、中には能力があるのにもかかわらず出世できない人もある。それから、それほど能力がないのに出世をする人もある。まったく無能な人は出世をすることがない。
 なんでこんなことになるのか、ということだが、そうなるのは、出世と業績には関係はあるにはあるが、それほどでもないから、であろう。
 なんでそうなるかというと、人がなにかをして、それが結果に結びつくまでに時間がかかり、そのうちに因果関係が不明確になってしまい、誰がなにをしたからこの結果が得られたかが判らなくなってしまうからである。
 じゃあなにが出世の決め手となるかというと、それははっきり言って、周囲・世間の評判、である。
 或る時、誰かがポツリと、「甲っていいよなあ」と言う。その時、同じように感じていた人がそこに居たらどう思うか、というと間違いなく嬉しく思う。なぜなら自分と同じ考えを持つ人間と偶然に出会うことは人間にとってきわめて喜ばしいことであるからである。バイト先で、世の中にはあまり知られていないが自分はとてもいいと思っているミュージシャンの名を、よく知らない同僚が口にするのを聞いて、とても嬉しくなるのと同じである。
 そして嬉しくなるだけでなく言う。
「マジか。実は俺も前からそう思ってたんだよ」
 と。意気投合した二人はそれ以降、さらに熱心に甲を支持するようになる。こうした支持者の小グループがあちこちで同時に生まれると、その人は出世をする。つまり評判によって出世をするのである。
 それは本来、自然発生的に生まれるもので、その場合、評判は業績と密接に関係している。
 しかし、ひたすら出世を願う者も世の中にはいる。そういう人は以下のように考える。
「俺は出世がしたい。その為には評判を取らなければならない。その為には業績を上げなければならない。だがそれには時間がかかるし、業績などと云うものは上がったり上がらなかったりするもので、努力して業績が上がらなかったら時間の無駄。ならば最初から出世に直結する評判を上げることに全力を傾注すべきではないか」
 そうして、各方面に配慮を怠らず、人間関係に最大限配慮をして、身なりや言動にも気を配ってイケてる感を演出、時には他人の業績を自分の業績に見えるような工作もして評判を上げる。
 それが功を奏して評判が上がれば、目論見通り出世をしていくし、それがしらこいと思われて逆に評判がだだ下がりに下がって、まったく出世できず、夜な夜なSNSで世の中を呪詛しては酔い泣きして無意味な一生を終える場合も間々見受けられる。
 しかしマア出世をしようと思ったら評判が大事になってくるのだけれども、では次郞長の場合はどうだったかというと、なにがあってもビクともしない鋼のような肝っ玉、金銭に執着しない気前の良さ、剣術修行で鍛えた鋤のない身のこなし、他人に対する細やかな気配り、博奕の強さ・喧嘩の強さなど、利口でなれず莫迦でなれないやくざが備えているべき美点を概ね備える次郞長の評判は、海道のやくざの間に知れ渡っていた。
「次郞長ってのはいい男だってナー」
 と旅人は行く先々で喋りたくっていたのである。しかし。
 それは飽くまでも旅人・清水の次郎長としての評価であって、一家を構えた、親分親方としての評価はまた別である。
「〇〇ってのはいい男だ」
 と言ってそいつと博奕場に行って遊ぶ、と云うのと、
「〇〇って親分はてぇした貫禄だってナー。行って世話になるか」
 と言ってその親分のところに宿泊する、と云うのでは評価の基準が違ってくる。
 どう違うかと言うと、マア、こんなことは言いたくないが、言わないと判らないので言うと、それはマアはっきり言ってカネである。

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