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【試し読み】対談:國分功一郎×大澤真幸「哲学者からの警鐘」|『コロナ時代の哲学』(大澤真幸THINKING「O」016号)

コロナ第三波が猛威をふるう今、私たちは「自由をとるか、安全をとるか」という問いを日々突きつけられています。
2020年7月刊行、大澤真幸THINKING「O」016号『コロナ時代の哲学』より、哲学者・國分功一郎さんと社会学者・大澤真幸さんの対談「哲学者からの警鐘--例外状態、国家権力、死者の権利」の一部を試し読みとして公開します。

冒頭には大澤真幸さんより、コロナ第三波についての短い提言を本note用に書き下ろしていただきました。第一波の時期に刊行した『コロナ時代の哲学』には、現在の状況にも通じる、社会への根底的な問いがなされています。


 新型コロナウイルス感染の第三波の中にあって、私たち日本人は、できるだけ、ことを小さく見ようとしている。出来事の意味を小さく見積もろうとしている。この態度は、精神分析でいうところの「否認」に近い。
「否認」は、「そんなことは知っている、けれども……」という態度を指す精神分析の術語である。知っているのに、ほんとうには信じていないという意味だ。たとえば私たちはみな、自分が必ず死ぬことを、今すぐにでも死ぬかもしれないということを知っている。それなのに、ほとんどの人は普段、自分がいつまでも生きているかのようにふるまっている。死の必然を知っているのに、それをたいていの人は心底からは信じていない。
 新型コロナウイルス感染の第三波に対して、日本人が今とろうとしている見方は、否認そのものではないが、否認の方に向かっている。つまりできるだけ否認しようとしている。
 第三波の中での感染者の数は、緊急事態の中にあった第一波のときよりずっと多い。重症者の数も第一波のときよりも多い。それなのに、緊急事態宣言を発出すべきだ、という声はさして強くはない。第一波のときは、その兆候が現れ始めた段階で、各所から緊急事態宣言の発出を求める強い声があがり、首相による宣言の発出が遅すぎたとの批判がたくさんあったにもかかわらず、第三波では緊急事態を求める声は小さい。「勝負の三週間」などといって気合を入れるだけで、法的な有効性をもついかなる措置もとられていない。どうしてなのか。
 感染拡大の原因になっていることが確実なGo Toキャンペーンの縮小・撤回に対しても、政府は消極的で、動きはたいへん緩慢だった。「勝負の三週間」に入っているときでさえも、このキャンペーンをそのまま続けていたくらいだ。どうしてなのか。
 私たちは、ほんとうは、すでに情況が緊急事態に匹敵することを知っている。しかし、それを否認しようとしている。できるだけ、何でもないことであるかのように、ちょっと注意し我慢していれば数週間程度でおおむね解決する問題であるかのように、見ようとしている。ほぼ日常の延長のことであるかのように見ようとしているのだ。
 「否認」は一般に、大き過ぎる問題に対して生ずる防衛反応である。あまりにも問題が大きく、とうていそれを処理したり、解決したりできそうもないとき、人は、問題の重要性を、ときには問題の存在そのものさえも否認し、そこから逃避するのだ。このことがかえって、問題の解決、問題の克服をよりいっそう困難にすることは、いうまでもない。
 どうして、現在、日本人の間で、集合的な否認が現れているのか。おそらく、第一波の緊急事態宣言下で、一瞬、地獄を見た気分になったからだ。そこはまだ地獄そのものではなかったかもしれないが、確実に地獄に通ずる道だった、と。今は、緊急事態を宣言してもおかしくない情況だ。しかし、あの地獄への道にまた戻るわけにはいかない。そう感じていることの結果が「否認」である。
 こういうとき、どうすればよいのか。なすべきことはひとつである。根本的な前提にたちもどって考え直すしかない。私たちが今守ろうとしていること、最小限それだけは失いたくないと思っていること、そのこと自体に、限界があるのだ。「それ」を守ろうとする態度が、否認の態度を呼び寄せ、逆にかえって、「それ」を失うことになるだろう。
 たとえば、戦前の日本は、「満洲」を「日本の生命線」だとかいってこれに固執したがために、国際連盟やアメリカと対立することの由々しき意味を否認し、結局、その「生命線」を失うことになった(しかし、満洲は生命線でも何でもなかったことが失ったあとに判明した)。現在の私たちも今、何かに執着している。その、私たちにとって生命線に見えるその「何か」を放棄し、変更する勇気と自信をもてなければ、パンデミックの危機はほんとうには克服されない。
 國分功一郎さんと私は、その「何か」を探るために対談した。

2020年12月16日 大澤真幸

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『コロナ時代の哲学』より「哲学者からの警鐘」試し読み

コロナ禍は「世界共和国」への第一歩?

大澤  今、僕らは、どこに出口があるかわからないトンネルを走っているという感覚だと思うのです。ところで、僕はよいか悪いかは別として、現在起きていることによって世界が変わってしまうような予感をもっています。世間では、「いつトンネルを抜けるのか」という話が繰り返し出ているじゃありませんか。そのとき、たいてい、「いつもとの生活に戻れるの?」という問いがセットになっている。つまり、トンネルを抜けた後、概ねもとの生活がある、という前提があります。しかし、僕は、トンネルを抜けたときに僕らが見る世界は、もとの世界ではない気がします。どう違うかは難しいですが、ものすごくポジティヴになるかネガティヴになるというのが、僕の感覚です。
 もう少し付け加えておくと、今、確かに、もととは違う生活になる、という話も出ています。「新しい日常」とか「新しい生活様式」とか、とも言われているわけです。しかし、そういうときに念頭にあるのは、僕らの外形的な行動のことです。テレワークが増えるとか、マスクをつけるとか、隣の人との物理的距離を広くとるとか、居酒屋で大騒ぎする回数が減るとか、といった。しかし、僕が予感している変化というのは、そういう表面に直接に現れる行動の様式のことではなく、そうした行動の前提になっている僕らの感覚や価値観の変容です。少し慎重に言い換えると、二種類の極端な可能性が考えられそうです。一方では、コロナ前からあった現在までのトレンドがそのまま続くかもしれない。しかし、その場合は、そのトレンドがすごく加速され極端化するので、それはそれで、大きな変化というレベルになるような気がします。他方では、現在までのトレンドの正反対の歩みが始まる、という可能性です。その両極であって、中間はないような気がします。ただ、どちらにせよ、トンネルを抜けた瞬間には、一見、前と似たような世界にいるかのような錯覚をもつのではないか、と思うのです。
 比喩的に言うと、村上春樹の『1Q84』のようなイメージです。冒頭のシーンで、主人公のひとり青豆が首都高の非常階段を降りると、1984年から1Q84の世界に入ってしまう。一見、もとの世界と全然変わらないように見えるけど、実は別の世界で、もとの世界とは別の原理が支配しているという話。同じように私たちの世界も、コロナ後は、これまでと似ているけれど根本的にモードの違う世界になっている可能性が高い。そのあたりの感覚はいかがですか?

國分  まず、僕がショックを受けたのは、「疫学的」なものの見方が当たり前であるかのような雰囲気で世の中が進んでいることです。これは、今後の世界観とも関わってくると思いました。疫学的なものの見方は、非常に非人間的な見方です。一人ひとりの人間を単なる駒と見なして、駒同士が会わないようにする、症状が悪化したら隔離することを原則とする。ウイルスの生存戦略としては劇症化せず、いろいろな人に伝播していく方がいいわけですが、だからこそ、劇症化した場合は隔離してウイルスの伝播をストップしなければいけないという話があります。この考え方も、重症になってしまった人を駒としか見ていないんですよね。
 みんな平然とそういう話をしているけど、僕はこの見方にショックを受けています。疫学的なものの見方が全般化して、コロナ禍が終わっても続くことに危機感を覚えています。

大澤  それはフーコーからアガンベンへと継承されている「生政治(bio-politics)」(*注1)の話ともつながってきますね。後半の討論の中で生きてくることかと思います。
 ところで、最初に僕の心構えといいますか、発言のパフォーマティヴな意味のようなことについて話しておきます。僕らは、いわば「学知」の立場から客観的に社会を観察したり、記述したり、説明したりするわけですが、同時に、その対象となる社会に内在してもいる。内在しているわけだから、観察や記述の対象となっている社会に変化をも与えているので、純粋な客観性のようなものはそもそも成り立たない。僕は、とりわけ未来について語るときには、客観的に見てどちらが成り立ちそうか、ということよりも、たとえ僅かであっても、対象である社会の内部からの言明は、その社会に変化や歪みを与えている、ということの方を重視して言うことにしています。
 現在のコロナ危機との関係で言えば、悲観的でネガティヴな予想の方が多いし、当たるか外れるかというようなことで言えば、その方が当たる確率が高いことは僕だってわかっています。あるいは、こういうことがあっても、基本的なトレンドは変わらないだろうというような予想はかんたんで、ある意味で当たるに決まっているわけですが、そんな予想をしても仕方がない気がします。それよりも、僕は、結果的には大きな流れの中で消えてしまうかもしれない、ポジティヴな萌芽のようなものをあえて誇張して言うことに意味を感じます。後で「お前の希望的な観測は外れた」とシニカルな人に言われるに決まっているけれども、あえて、消えてしまうかもしれないポジティヴな萌芽について今、言ったり、書いたりしておくことに意味がある。というのも、それを記録しておけば、仮にいったんは裏切られるかもしれませんが、それでもずっと先の将来世代の人に拾われ、救われ、受け継がれるかもしれないからです。そのときになって初めて、希望的な観測がほんのわずか当たり、救われることになるのです。しかし、僕らが今、それを言って記録しておかなくては、その希望を実現する将来世代も現れません。将来世代は、僕らの見果てぬ夢を救出するという形式でのみ、その希望を実現できるからです。
 これまでも、僕は、大きな出来事との関係で、けっこう、いろいろなことを発言したり、書いたりしてきました。オウム事件のときも、9・11のときも、3・11のときも、です。そのすべてに関して、今述べたような態度でやってきたつもりです。
 さて、今回の危機の特徴は、圧倒的なグローバリティです。今、いくつか列挙したような今までの災害や紛争は、常にローカルでした。それがもつ意味は、人類全体に関係するとも言えるわけですが、しかし、出来事の震源がはっきりとあり、問題のさしあたっての解決もその場所でなされる。たとえば、9・11も、ニューヨークとアフガニスタンが震源です。3・11もそう。一番酷い状態が、局所的に現れ、そして時間的にも瞬間的に終わるわけです。しかし今回の危機はそうはならない。たとえば運よく東京の感染者数が減ったとしても、ニューヨークで感染拡大が続いていたら問題の解決にはならない。東京にとってさえも、解決とは言えない。自分のところだけが解決しても解決にはならない、という構造があります。この事実から、僕だけじゃなく誰しも当たり前のように思うことがあります。ある意味で、これ以上はっきりと、人間が地球的レベルで連帯しないとやっていけない状況はないのだ、と。どんなに考えの足りない人でも、自分の国だけでは解決できない、自分の国だけの解決はナンセンスだということを教訓として得たことは大きい。
 そういう意味で、僕はこの危機こそは、「世界共和国への最初の一歩」になりうる、とあえて言っています。2020年のパンデミック、そしてポストパンデミックは、世界共和国へ向かう最初の一歩となる。そうならなければ、人類は、この種の危機――とりあえずは新しい感染症の脅威――に対して、極めてヴァルネラブル(脆弱)な状況を決して乗り越えられないでしょう。後から――たとえば21世紀の終わりから――振り返ったとき、2020年は、世界共和国への最初の一歩を踏み出した年だった、と思われるような状況にならなければ、人類の未来は破滅的です。
 ここで重要なことは、あえて「世界共和国」とまで言ってしまうことです。今回のパンデミックに関して、国際的な連帯とか協調が必要だ、ということは、誰でも言っています。僕のポイントは、国民国家の主権を超えるような連帯でなくてはならない、ということです。さもなければ、連帯や協調が無力化してしまう。現在の国連やWHOのような国際機関を見ていればわかります。これらは協調のための機関なのに、国民国家が主権をもつような世界では、つまり現在のような世界では、こうした機関そのものが、国民国家の闘争の場になってしまう。だから、国民国家が主権を放棄した上で形成される連帯という意味で、あえて世界共和国と言っているわけです。

國分  よくわかります。大澤さんはそれを予見としてではなく、提案として書かれたんですよね。
 ユヴァル・ノア・ハラリもそうですよね(*注2)。ジャン=リュック・ナンシーもある記事で言っています(*注3)。分離されているからこそ、人々がもっている共同性(コミュニティ)を強く感じられると。災難はこれまではローカルで起こっていたけれど、今回は世界レベルだからまったく立ち行かないというのも理解できます。ただ、僕は今のところポジティヴな提案をする気にはなかなかなれないんです。
 新型コロナウイルスに対する紋切り型の批判のひとつに、「ウイルスは差別しない(Virus does not discriminate.)」という言い方があります。ジュディス・バトラーもそう書いていました(*注4)。一方で、僕の先生のエティエンヌ・バリバールは「リスクを前にしても、それを払いのけるやり方にしても、人々はまったく平等ではない(*注5)」と言っています。 去年の年末に南アフリカに行ったんですが、その貧困地域は想像を絶するような状態でした。掘っ建て小屋が地平線まで並んでいた。隔離する方法もないから、あそこでコロナウイルスが流行ったら一発でやられます。フランスでは、ホームレスの人は手を洗うことができないというニュースもありました。だから新型コロナウイルスによって、今ある格差が強烈な仕方で露出される強い可能性があります。
 自国ファーストでは乗り越えられないことは間違いない。それは大澤さんのおっしゃる「世界共和国への一歩」かもしれない。けれども、それを人が体感するためにはまだものすごく時間がかかるだろうというのが僕の実感しているところなんです。
 ただ、もしかすると経済的な打撃は人々にそれを否応なく体感させるかもしれません。つい最近、原油の先物取引価格がマイナスになるという衝撃的なニュースもありました。これは強烈な打撃です。とはいえ、僕自身は「世界共和国」まではイメージできずにいるんです。

無意識化の革命

大澤  おっしゃることはよくわかります。それに先ほども暗示しましたが、僕も、今回のことで皆が「世界共和国」の理想に目覚めて、その実現のために努力する、と思うほど楽天的にはなれません。ただ、そのたびに、「これしかない」というような手を打っていくと、気がついたら、私たちの社会の最も基本的な原則――たとえば地球は主権をもつ国民国家の集合だという原則――が否定されてしまう、というようなことが起こるのではないか。いや起こるべきではないか、ということです。
【つづきは本書をご覧ください。】



*注1:ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』などで提起した概念。フーコーは、近代以降、政治権力が「生」そのものを管理するようになり、出生や死亡率の管理、公衆衛生などによって、市民を統制するようになったと考えた。
*注2:〈インタビュー〉ユヴァル・ノア・ハラリ「ここが政治の分かれ道 新型コロナ」(朝日新聞デジタル、2020年4月15日)https://www.asahi.com/articles/DA3S14441734.html/ETV特集「緊急対談パンデミックが変える世界 ユヴァル・ノア・ハラリとの60分」(NHK・Eテレ、2020年4月25日放送)を参照
*注3:ジャン=リュック・ナンシー「共同ウイルス」(Liberation、2020年3月24日)
*注4:ジュディス・バトラー「資本主義の限界」(Verso、2020年3月30日)
*注5:エティエンヌ・バリバール「私たちは危機に直面したときも、それから身を守るときも平等ではない」(Le Monde、2020年4月22日)


※書籍では漢数字ですが、本記事では算用数字で表記しています。

『コロナ時代の哲学』THINKING「O」016号
著者:大澤真幸  
ゲスト:國分功一郎
定価:本体1300円+税
サイズ・ページ:四六判並製/136ページ
2020年7月30日 第一刷発行、2020年9月7日 第二刷発行
ISBN:978-4-86528-286-3
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❖ 目次
まえがき 〈不可能な世界〉の中から

論文
大澤真幸「ポストコロナの神的暴力」

一 イエスの墓の前で
二 新しい生活様式? それはディストピアだ
三 監視を超えて
四 神的暴力の現代的活用

対談
國分功一郎×大澤真幸「哲学者からの警鐘例外状態、国家権力、死者の権利」

コロナ禍は「世界共和国」への第一歩
無意識化の革命
副産物としての真実
アガンベンの問題提起と炎上
例外状態への警鐘
「生の形式」とアガンベンの行き詰まり
「生の形式」の乗り越えと、身体性への回帰
国家理性と近代国家の誕生
法の内側と外側の境界線

特別付録対談をより深く理解するための文献・ブックリスト 〈キーワード別〉

追悼
大澤真幸「中村哲さんを悼んで 井戸は地下水脈につながっている」


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