見出し画像

#4 千年の都ハノイ

リングにあがった人類学者、樫永真佐夫さんの連載です。「はじまり」と「つながり」をキーワードに、ベトナム〜ラオス回想紀行!(隔週の火曜日19時更新予定)

2章:地図&日記②ハノイ
 ©Masao Kashinaga 

11月23日(土)22:45〜 ハノイ
 ハノイ独特の湿気と暑さにまだ適応できず、脳に霧がかかっているようなぼんやり感。しかもだるい。昨夜からのどが痛み、咳もひどい。
 ホテルで朝食を食べたあと、9時に福田さんが来てくれた。車に乗り込み、ホアロー収容所にまず寄ってからハノイ皇城址へ。昼食は「ブンチャー・オバマ」のブンチャーを食べた。
 午後はベトナム民族学博物館まで足を伸ばし、5時にオペラハウスに戻ってきた。チャンティエン通りの本屋と中央郵便局に立ち寄って、ホアンキエム湖畔を歩いて玉山祠ぎょくさんし経由で水上人形劇場に。6時からの公演を見終わったら、夕飯はベトナム料理を食べて9時頃ホテルに戻った。ラウンジで小一時間ほど、福田さんのベトナム古代史に関する解説込みで話をした。

 ハノイは漢字で「河内」。紅河本流とその支流トーリック河のあいだを、広範囲に堤防で囲い込んだ輪中に発達したからだ。大阪の河内と同じく、古代から水田開発の先進地域だったが、ベトナムの河内のアニキたちにやんちゃなイメージはない。
 10世紀に中国から独立した李朝が成立して以来、阮朝(1802-1945)が中部フエに都をうつすまで都はハノイにあった。その約800年間にわたり帝都の中心だったのがタンロン城だ。
 ハノイ観光の日の朝、わたしたちはタンロン城跡を訪ねた。その行きしな、まずホアロー収容所跡に寄った。そこは植民地支配下で独立を煽る共産主義者らたちの「つながり」に寄与した重要な史跡だ。またタンロン城跡でも、ベトナム戦争中の参謀本部しかわたしたちは観覧していないから、城跡で帝都ハノイの「はじまり」というより、現在のベトナム社会主義共和国の「はじまり」を確認したのだった。

ベトナムの達人

 福田康男さんがガイドのためにホテルにご自宅からバイクで駆けつけてくれて、9時にいっしょに車で出発した。
 福田さんの紹介からしておこう。彼は大学卒業後1994年に語学留学生で来て以来住んでいるから、小松さんに匹敵するハノイの長老だ。
 ハノイに留学した学生や研究者があまたいるなかで、彼ほどベトナム語の勉強にこだわり続けた人は他にいない。日本の商社や工場などで現地採用の社員として働いていた時期もあったが、そのかたわらハノイ国家大学に入学し、さらには大学院にも進学してベトナム語文法の研究で修士号まで取得した。その後は現地のIT関連会社で働きながら大学で講師もしている。
 彼がすぐれているのはベトナム語能力だけではない。人との信頼関係を築く人間力もすぐれ、人に貸したお金がちゃんと返ってくるだけの徳を備えている。しかも、好奇心旺盛で情報通だし、持ち前の行動力でベトナム中を旅しているからすさまじく経験値が高い。
 そんな「ベトナムの達人」はわたしと同い年で気も合ったから、同じ借家内に下宿したこともあるし、何度もいっしょに旅もした。そもそもバイクの運転を教習してくれたのも彼だし、ベトナムで彼からどれほどたくさん学んだかわからない。

ハノイ・ヒルトン

 ホアロー収容所といってもS氏はピンと来ないようだ。
「ハノイ・ヒルトンってご存じですか」
と尋ねると、俄然食いついた。
「あ、それって、ベトナム戦争のときの」
 そのとおり!
 もちろんアメリカ資本のあの高級ホテルではない。ベトナム戦争中にあった米軍捕虜の収容所だ。その待遇と環境の劣悪さから恐れと揶揄をこめてアメリカ人がそうあだ名したのだ。
 ホアロー収容所跡のチケットにも、英語とベトナム語で「ベトナム北部で捕まった米軍パイロットにとってハノイ・ヒルトン」(1964-1973)とちゃんと記されているのだから、感心!感心! ベトナムにとって不名誉なあだ名でも、観光客がそれでお金を落としてくれるならかまわないのだろう。そういうところ、ベトナムは名より実だ。
 ハノイ・ヒルトンと名づけられる前がなんだったかというと、「ハノイ中心部にあるこの世の地獄!」であり「学校」(1896-1954)だった。というのは、フランス植民地政府がつくったこの政治犯収容所に放り込まれた反仏運動家たちが、ここでの「つながり」によって筋金入りのベトナム愛国革命戦士になったからだ。
 ホアロー収容所跡の展示内容は、主に植民地支配が生んだ過酷な地獄ぶりと不撓不屈の精神で耐えた収容者たちの「学校」生活だ。つまりこれは、今の学校教科書にも繰り返し記されてベトナム人の心のなかに深くすり込まれている「ベトナム人のがまん強さ」を証明する愛国のモニュメントなのだ。いっぽう、ハノイ・ヒルトンとしての最後の十年間については詳しく語られていない。
 わたしが S氏に見せたかったのは、おぞましい負のオーラを放つ雑居房や独房ばかりではない。フランス本国ではとっくに過去の遺物だったのに植民地では現役だったギロチンだ。前回わたしが来たとき、というのはすでに15年前だが、首でも胴でもちょん切る鋭利で重たい刃がいちばん高いところでスタンバっていて、そんな取扱注意の危険物が、展示品というより、主が留守中の道具みたいに無雑作に放置されていることに軽いショックを受けたからだ。
 ギロチンはあった。たぶん場所は変わった。そのせいか、あるいは展示場がかなり整備されたせいかわからないが、もはや道具ではなかった。まるで供養も済んだかのように、血なまぐさい物語を払拭したオブジェとしてそこにあった。

ホーチミン市の戦争証跡博物館に展示されているギロチン(2011年、ホーチミン市)

 ホアロー収容所は、収容所としてはベトナム戦争が終わると役割を終えた。
 1995年8月の夜、わたしがタクシーの窓から見た廃墟のハノイ・ヒルトンは、まるでそこだけ時間が止まってしまっているかのように黒々と深い時空の裂け目を都会の真ん中にポッカリ開けていた。だが、まもなく史跡保存の対象になった一画だけを残して取り壊され、その広い跡地は再開発によりハノイタワーが建った。
 完成当初ハノイの最高層ビルだったハノイタワーは、低層階が商業施設、上層階が外国人向け高級タワーマンションだ。JICAなど政府関係者や大企業の駐在員などがそこに住んだ。ベトナム人の知人が少し口の悪い冗談をいって笑った。
「さすがヒルトン! 金持ちの外国人ばかりが住める。ベトナム人には住めない。ほんとにこわいからね」
 早い話がハノイの心霊スポットだったのだ。

レーニン像の写真を撮る観光客と、彼を客引きするタイミングをうかがっているシクロ運転手(2013年、ハノイ)

 ホアロー収容所跡から、タンロン城跡へは少しだけ遠回りした。
 まずディエンビエンフー通りで車窓から、公園のこぢんまりした木立のあいだに佇むレーニン像を確認した。ベトナムは東西冷戦が終わった後も、レーニン像が撤去されずに残っている世界でまれな国だからだ。
 次に、地方から初めて上京するベトナム人がかならず訪れるというホー・チ・ミン廟を、1945年にホー・チ・ミンが独立宣言をしたバーディン広場の前を徐行しながら拝んだ。廟には冷凍保存されたホー主席の遺体が安置されている。彼くらいエラくても、いや、エラかったゆえにか「死人に口なし」で「死んだら遺灰を北部、中部、南部に分けてほしい」という遺言はあっさり無視されたのだった。
 レーニン像は世界中の共産主義国家の「はじまり」のシンボルだ。いっぽう、ホー・チ・ミン廟はベトナム共産党と、植民地支配からの独立という「はじまり」のシンボルだ。これらの「はじまり」は、共産党政権にとって今なお重要な意味をもちつづけている。

バーディン広場とホーチミン廟(2013年、ハノイ)

タンロン城の人民軍司令部跡

 タンロンとはハノイの古名で、漢字で書くと「昇竜」だ。
 1010年、黄竜がこの地から天へと翔け昇るのを、李朝を開いた太祖(在位1009-1028)が見て帝都を置いた。もちろん昇竜タンロン はその奇瑞に由来する。中国にならいベトナムでも竜は皇帝のシンボルだ。
 タンロン城には少なくとも千年の歴史が蓄蔵されている。だが、城塞内にベトナム人民軍の基地があるので発掘調査が難しかった。ようやく基地の部分的移設に伴い少しずつ調査が進んだ。唐代にまで遡る遺跡も確認された。だがそれと、阿倍仲麻呂もそこにいたという唐代の安南都護府との関わりはまだわからないそうだ。
 古い時代のものからまともに見学すると半日はかかるので、ベトナム戦争時の人民軍司令部「D67」だけをじっくり見た。
 「D67」はさほど目立たない平屋建ての建物だ。だが、驚くべきことに、地下へとのびる長い階段が中に隠されている。しかも司令部があるのは地下の奥深くにある重い鉄扉の内側だ。地下トンネルそのものは、底知れずさらに奥へと続いている。わたしはクチトンネルを思い出した。
 ホーチミン市郊外のクチトンネルも観光地化されている。もともとはベトナム戦争中に、共産党勢力の南ベトナム解放戦線がつくった地下基地だ。アリの巣のようなネットワークが地下にはりめぐらされ、無数の小部屋がつながりあっている。総全長200キロだとか!?とてつもない規模だ。
 地上の出入り口は小さく狭い。だから敵に発見されにくいし、体格が大きく重装備の米兵相手に神出鬼没のゲリラ戦をするのに有利だ。腹がつっかえて入り口を塞いでしまったらそのうち地下にいる人が窒息するかもしれないので、体格に自信ありすぎの観光客は入場自粛したほうがいいかもしれない。
 でもタンロン城の地下司令部なら大丈夫。人民軍幹部の人たちの体格がよかったからではない。そもそもゲリラ戦のための施設ではなかったからだろう。

ホーチミン市郊外にあるクチトンネルの出入り口(2001年)

チャンティエン通り 

 ハノイ市はこの20年のあいだに西へ、南へと拡大し、急激な都市化と機能分化も進んでいる。だがハノイの中心はというと、今も変わらず、ホアンキエム湖やその東にあるオペラハウスへとのびるチャンティエン通り界隈、というイメージだろう。祝賀行事でもあればイルミネーションで飾りたてられ、浮かれた人とバイクが押し寄せてくる。
 オペラハウスは1911年に建てられた植民地建築だ。パリのオペラ座に似ているが、パリでハノイ人はビックリ仰天する。大きさからしてホンモノはちがうのだ。
 オペラハウスのみならず、その付近には植民地時代の気品漂う文化的建造物がいくつも現存していて、今も活用されている。たとえば1901年創業のメトロポールホテルは現在も五つ星ホテルのソフィテルレジェンドメトロポールハノイに、フランス極東学院が国立歴史博物館に、インドシナ大学の学舎はハノイ国家大学の施設になっている。
 昼からわたしたちはカウザイ地区のベトナム民族学博物館に足を運び、ベトナムの多民族状況について学び、夕暮れにオペラハウスにやってきた。そこから散歩がてらチャンティエン通りを通り、ホアンキエム湖の東北端にあるタンロン水上人形劇場まで歩くのだ。
 チャンティエン通りは300メートルほどの長さで、ホアンキエム湖の南東角から湖の南縁はハンカイ通り、その先はチャンティ通りと名前を変える。この通りが植民地時代の目抜き通りだった。日本統治時代には商社やデパートがあった。今は画廊、カフェ、書店などが並んでいる。

フランス植民地期の1911年に完成したハノイのオペラハウス(2016年)
フランス国立の人文学系研究所、フランス極東学院の建物だった国立歴史博物館(2016年)

タインホアの人

 チャンティエン通りにある国営書店をでたとき、「事件」は起きた。
 商売道具一式をいれた四角い木箱を手にさげた靴磨きの若者が、すれ違いざまに福田さんの革靴の先が割れているのを目ざとく見つけた。それを指摘するのとほぼ同時に、福田さんの足元にしゃがみこんで前進を封じておいて、白いチューブ液のボンドを素早く塗りたくって靴先の割れをふさいでしまったのだ。電光石火のごとき早業!しかも、若者はすぐさま立ち上がり修理代を請求した。おまけにこんなことまでいった。
「反対の足も直そうか?」
 福田さんが頼んだわけではないので断固支払いを拒否し、執拗に食い下がる若者を追い払ったが、「ハノイに20年上いて、あんなのはじめてですよ。めちゃくちゃ速い」と驚嘆し、腹を抱えて笑っていた。
 次に立ち寄ったのは、本屋からほんの数十メートル先の湖畔にあるハノイ中央郵便局だった。S氏が旅先から日本に送る絵葉書を買うためだ。
 湖に向かって開けっ放しの正面玄関を入ると、すぐ横に切手や絵葉書のガラスケース付きカウンターがある。そこに女性スタッフが退屈そうに足を組んで腰かけている。見たいものを告げると、スタッフがガラスケースの中からとりだして見せてくれるのだ。
 そんなやりとりがはじまるころには、流しの絵葉書売りの少年が、すでにわたしたちのあいだに入りこんでいた。脇に抱えている折った大きな段ボールのあいだから、絵葉書のセットを次々と取り出して見せる。
 昔から郵便局付近には外国人をカモにする靴磨き、絵葉書売り、換金屋、乞食などがたむろっている。ぼったくりやイカサマが横行し、しかもしつこい。また、彼らの一人でも相手にすると次々と仲間が集まってきて面倒くさいことになり不愉快な思いもするので、できるだけ無視して相手にしないのがいい。
 だがこの日、絵葉書売りの少年は彼一人だった。近くに仲間もいない。
 彼の言い値はカウンターで売られている「正規品」の表示価格より安い。そこで彼の商品を正規品と比べて吟味してみた。だが正規品と中身はそっくり同じ。写真の質も紙質も枚数も同じだし、汚れているわけでもない。なら安い方がいい。
 S氏は少年から絵葉書を2セット買った。その間、カウンターの女性はわれわれのやりとりをけだるそうに眺めていた。
 郵便局を出て、ホアンキエム湖畔を北に歩きながら、どうして少年たちが同じ商品を郵便局より安く売れるのか、頭をひねりあった。結論はこうだ。
 たぶん少年たちは、郵便局の職員が横流しする絵葉書を仕入れて売っているのだ。たとえば職員がガラスケースのなかからいくつ売り上げたところで、自分の収入は増えない。少年たちに商品を横流しして自分たちの小遣いを得ているのだ。そのかわり少年たちの商売の邪魔はしない。だからそれが郵便局の建物内であっても、目に余るほどでないかぎり放置しているのだろう。もちろんことの真相は、少年たちとでも仲良くなって裏をとらないことにはわからないのだが…。
 靴磨きや絵葉書売りの少年や若者には、ハノイから約100キロ南のタインホア省出身者、なかでも海水浴場で有名なサムソンビーチ付近の人が多い。タインホア省は東は海、西はラオスと国境を接する山岳部という、静岡県のように地勢が多様で地域性に富んでいるのだが、植民地期以前から貧しい地域とされ全国に出稼ぎ者を送り出してきた。竹細工のかごを自転車やバイクで行商に出かけるのは特定の地域の男性たちだし、農閑期に笠をかぶって杖をつき、農夫(婦)の茶色い身なりで物乞いをして回るのはまた別の地域の高齢者たちだ。
 ちょっとした力仕事などの人手が必要なとき、「タインホアの人いないかぁ」なんて声を張りあげ、家から表に出て助っ人を探したりする。臨時雇いの職を探してのこぎりなどの大工道具を片手に都会をさまよう男性にタインホア出身者が多いのも事実だろうが、こういう場合の「タインホアの人」はやや差別的だ。

ザルやカゴのを売る自転車やバイクでの行商人もタインホア省の人が多い
(2007年、ハノイソンラー省)

湖のカメ

 さて、ホアンキエム湖畔の遊歩道を郵便局前から北上していくと赤い橋がある。玉山島にある玉山祠という神社への参道の橋だ。神社には13世紀に元軍の侵攻を撃退した英雄で国家守護の軍神チャン・フン・ダオらが祀られている。
 玉山島はハノイで有名な観光名所だ。そこに200キロもある巨大なカメの剥製がガラスケースに展示されている。
 いや、正確にはカメではない。シャンハイハナスッポンという絶滅寸前のスッポンだ。だがスッポンではなんとなく神威に欠けるからカメにしておこう。
 湖畔の人だかりが一様に湖面を見つめているのは、きっとカメが水面から頭をだしているときだ。2011年には200キロもあった最後の一匹を機動隊まで出動して保護しケガの治療をしたこと、またそのカメが2016年についに推定80〜100歳で死んだことがニュースで話題になった。
 この湖はカメと深い「つながり」がある。しかもその「つながり」は往時のベトナムの王権と深く関わっている。
 よくあるハノイの写真イメージの一つに、湖水の青と湖畔の緑を背景に小さな島にたつ四角い石祠いしぼこらの白さが映えている風景がある。その石祠がホアンキエム湖に浮かぶ「カメの塔」だ。カメの塔、およびホアンキエムという湖の名は有名な伝説に由来している。それがレ・ロイ(黎利)の還剣伝説だ。
 レ・ロイは紅河デルタを占領し支配を及ぼしていた中国明朝に対し叛旗を翻し、武力蜂起を成功させて独立を回復したベトナムの英雄だ。黎朝を開き、初代皇帝レ・タイトー(黎太祖、在位1428-1433)として君臨した。
 ベトナムの王朝国家の形は、だいたい彼から第五代レ・タイントン(黎聖宗、1442-1497)までの時代にできあがったといっていい。対内的には、均田制によって土地と人を徹底管理して税収を安定させ経済的基盤を固めた。また科挙の制度を完成させ官僚制度を整えて儒学中心の知的教養の基礎を築いた。のみならず、中国法を下敷きにして、現地の伝統法を盛りこんでつくりあげたベトナムの法典『黎朝刑律』を公布した。
 いっぽう、対外的には、西へは現ラオス北部を中心に勢力を拡大していたランサーン王国に対抗してタイ系民族の小国群を従属させ、南へはチャンパ王国の支配地域を奪って後退させ、その版図を現在のベトナム北部と中部にまで拡大した。
 10世紀には中国からの独立を一度は果たしていた。だが紅河デルタの外にまで広く領土を拡大させ、皇帝を頂点とする中国モデルの官僚制度による一元的支配を確立できたのはレ・ロイ以降だ。つまり、レ・ロイの治世あたりがベトナム的な集団性、価値観、行動様式といった文化伝統の「はじまり」なのだ。
 ちなみにレ・ロイもタインホア出身だ。だが同じタインホアといっても、靴磨きや絵葉書売りの若者たちの出身地とは対称的に、ビーチがある海岸部ではなく丘陵が連なる内陸のラムソンの出身で、しかも豪族の息子だった。土地柄からして、現代の民族分類だとキン族ではなくムオンだろう。

ホアンキエム湖の玉山島にあるシャンハイハナスッポンの標本(2019年)

還剣伝説の成立 

 レ・ロイは1418年にタインホアで挙兵し、十年がかりで明朝を撃退したのだが、それについて有名な伝説がある。
 ある日レ・ロイは、湖の魚をとりに網を打って剣を手に入れた。その話だけ聞くとまるでタインホアの出稼ぎ少年みたいだが、とにかくその神剣を揮ってみたら強さ百倍! 明の賊どもを易々となぎ倒し、すべて中国へ退却させた。
 こうして中国からの独立を回復すると、皇帝に即位する典礼を湖の小島で催し、神剣を神の使いのカメにかえした。湖の名、還剣(ホアンキエム)はその伝説に由来し、小島にカメの塔がたてられた。剣は神から授与された王権のシンボルなのだ。
 レ・ロイが湖でカメに剣をかえすシーンは、タンロン水上人形劇場でも古くから演じられている演目の一つだが、劇の人形もスッポンではなくカメだ。もしスッポンだったら良質のコラーゲンの塊にしか見えず、神剣を受け取りに来た使いが大きくて肉厚でうまそうだったからとっつかまえて食べちゃった、なんて別の話になっていたかも…。
 さて、日本の記紀神話にも天から賜った神剣でまつろわぬものどもを平らげたという話はいくつもある。だが、用がすんだら天に返したなんて話があるだろうか。神宝あってこその権威! たとえば葵の御紋の印籠を宿に置きわすれてきた黄門さまなんて、悪代官から見ればちょっと威勢がいいイカサマじじいにすぎないのではないか、と首をかしげた。
 なんと、こんな疑問を30年も前に検討してくれた学者が日本にいた。神話学の泰斗、大林太良に師事し、フランスではその大林が絶賛したベトナム中部高原の民族誌『森を食べる人々』で有名な民族学者コンドミナスに師事した宇野公一郎氏だ。
 要約すると、こうだ。もともとレ・ロイが神剣を得た「得剣」伝説と、神剣を返還する「失剣」伝説は別の話だった。
 古くは得剣伝説は、レ・ロイの故郷ラムソンにおける話で、ホアンキエム湖とは関係がなかった。失剣伝説の方は、黎朝全盛を導いたレ・タイントン没後の急衰を予言する話だった。だが黎朝の創始を予言する得剣伝説と黎朝の衰退を予言する失剣伝説の二つは、後世だんだん縮められた。
 いっぽう19世紀終わりになると、フランス植民地支配下で、レ・ロイは明朝による支配からベトナムを解放した英雄としてベトナム人にあがめたてまつられた。そうしたことが背景にあって、王権の喪失を意味していたはずの失剣伝説が、民族解放の役目を終えた神剣をカメに返す話へと変わり、しかもレ・ロイ一代の話のなかに完全に組み込まれた。これが国民的に有名なレ・ロイの還剣伝説の「はじまり」だった。
 侘しい町外れだったホアンキエム湖周辺が、ハノイの繁華街の中心として誕生したのは植民地時代のことだ。新しい都心のシンボルとなったホアンキエム湖に、新しく編集された王権の「はじまり」の伝説がくっつけられた、なんていかにもありそうなことだ。
 わたしたちはタンロン水上人形劇場で、レ・ロイがカメに神剣を返すのを鑑賞した。終わるやいなや、空きっ腹をかかえ明かりがともる宵の町へと食事に繰り出した。

農村生活のようすを描いた水上人形劇の一場面(2011年、ハノイ)
タンロン劇場では公演開始時に歌手と演奏家が紹介されるようになった(2011年、ハノイ)

■参考文献                               石井米雄、桜井由躬雄編 1999 『新版世界各国史5 東南アジア史I大陸部』東京:山川出版社
宇野公一郎 1990 「ベトナムの還剣湖伝説の形成」伊藤亜人他『民族文化の世界(下) 社会の統合と動態』360-379ページ、東京:小学館
桜井由躬雄、桃木至朗編 1999 『東南アジアを知るシリーズ ベトナムの事典』東京:角川書店

関連リンク▼                                 ・ベトナム民族学博物館
「ハノイで人気の博物館」『月刊みんぱく』2007年10月号、10-11頁

・ベトナム語ローマ字表記
「日越交流史研究の新局面−ベトナム語ローマ字表記をめぐって」『民博通信』158号(2017年)、28頁

・水上人形劇
「主役は人形なのか、 人なのか?―ベトナムの水上人形劇」『月刊みんぱく』2014年5月号、14-15頁

「鳳凰」『月刊みんぱく』2008年12月号、11頁
・ハノイの交通
「(異文化を学ぶ)いきいき五感力(7) 初級・ハノイの道路の渡り方」 毎日新聞夕刊(2006年5月24日)に掲載

樫永真佐夫(かしなが・まさお)/文化人類学者
1971年生まれ、兵庫県出身。1995年よりベトナムで現地調査を始め、黒タイという少数民族の村落生活に密着した視点から、『黒タイ歌謡<ソン・チュー・ソン・サオ>−村のくらしと恋』(雄山閣)、『黒タイ年代記<タイ・プー・サック>』(雄山閣)、『ベトナム黒タイの祖先祭祀−家霊簿と系譜認識をめぐる民族誌』(風響社)、『東南アジア年代記の世界−黒タイの「クアム・トー・ムオン」』(風響社)などの著した。また近年、自らのボクサーとしての経験を下敷きに、拳で殴る暴力をめぐる人類史的視点からボクシングについて論じた『殴り合いの文化史』(左右社、2019年)も話題になった。

▼著書『殴り合いの文化史』も是非。リングにあがった人類学者が描き出す暴力が孕むすべてのもの。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?