見出し画像

大政の来歴・尾張からの手紙

【第57話】「海道一の親分」として明治初期に名をはせた侠客、清水次郎長。その養子であった禅僧・天田愚庵による名作『東海遊侠伝』が、町田版痛快コメディ(ときどきBL)として、現代に蘇る!! 月一回更新。
★既刊『男の愛 たびだちの詩』(第1話〜24話収録)、大好評発売中★

 宗七が上州館林江戸屋虎五郎のところへ発って数日、次郞長は気が脱けたようにボンヤリして過ごしていた。これを見た乾分達は心配でしょうがない。
「親分、どうしちまったのかねぇ、まるでふぬけじゃねぇか」
「どうもこうもねぇやな、尾張の相撲取りが居なくなって寂しいのよ」
「ちょっと、おまえ、行って慰めてやんねぇ」
「じゃあ、そうすっか」
 と言うので、乾分の中でも剽軽な野郎が、座敷でぼんやり莨を吸っている次郞長ンとこへ来て、
「親分」
「なんだよ」
「はちみつ、って知ってますか」
「なんだ、藪から棒に、知ってるよ」
「じゃあ、アレなんで、はちみつ、って言うか知ってますか」
「蜂の蜜だからじゃねぇのか」
「ちがいます」
「じゃあ、なんだってんだ」
「八と三で、ハチミツ、ってんでさあ」
「八と三ならインケツじゃねぇか」
「博奕打ならそうなりますが、違いやす。八と三でハッサン、つまり、これを十一日連続で舐めると病気が発散して病気が治る。それがためにハチミツ、とこういう訳なんで」
「ふーん、そうかい、オメーは変なことを知ってるな」
「へい、マア、嘘なんでやんすがね」
「殴るぞ、こら。用がネーんならあっちいってろ」
「すいやせん」
 と下らない話をして逃げていく。それを見送って次郞長、煙管を口に持って行って独り言を言った。
「なにを言いに来やがったのかと思ったら、くっだらネー御託並べていっちまいやがった。ふざけた野郎だ。しかしそれというのも、俺がこうやって塞ぎ込んでいるから、戯談を言って笑わせてやろう、と思ってのことだ。なっさけねぇ、親分の俺が乾分に胸のうちを見透かされて心配されてるんだ。こんなこっちゃ、どうにもならねぇ」
 そう言って莨の火が消えているのに気がついた次郞長、火鉢の縁に雁首のところをガンガン叩きつけ、もう一服しようとしてよすと、木剣を持って庭に出た。
 座敷に面した広くもない庭である。
 そこで肌脱ぎになった次郞長、竹刀を手に取ると、
「えい、やっ」
 と素振りを始めた。
「なんだ、ありゃ、裸足だぜ」
「ついにおかしくなっちまったんじゃねぇか」
 乾分がそんな風にいっているところへ、用足しに出掛けていた大政が戻ってきた。
 大政は次郞長一家の番頭格、乾分の筆頭である。
「あ、大政の兄哥、お帰ンなさい」
「おお、親分はどうしていなさる」
「へえ、庭で暴れてます」
「庭で、暴れてる? 穏やかじゃネー」
 そう言って大政は庭に回る。そこでは次郞長が肌脱ぎになって竹刀を振り回している。大政は次郞長に声を掛けた。
「親分、只今、戻りました」
「おお、大政か。恰度いい。ちょいとやろう」
「へい」
 次郞長に命じられた大政、返事をすると転がっていた竹刀をとってこれを青眼に構える。これに次郞長が、「えいっ」と打ち込む。これを大政が受ける。暫時、立ち合って、流石に次郞長は息を切らしたが、大政の呼吸はまったく乱れていない。

 というのはそれもそのはず、いまでこそ次郞長の乾分になっている大政、元は歴とした侍で、本名を伊藤政五郎といって尾張家に仕え、二百石を取っていた。二百石取の侍と言えば、それはもう大したもので今で言えば、上場企業の部長級と言ってよい。と言って最初から侍の家に生まれたのではなく、元は百姓の倅だった。それが尾張家で足軽奉公をするうち、その卓越した武技、とりわけ槍の腕が認められ、伊藤家の婿養子となって侍に取り立てられ、いざ出仕してみると数字にも明るく、行政手腕にも長けていたため、トントン拍子に出世をし、ついには二百石を取るようになったのだった。
 そんな男がなぜやくざの乾分になったのか。というのは例の、侍が禄を離れる切っ掛けとしてよく耳にする、酔って同輩と口論の揚げ句の刃傷沙汰、ってやつである。
 マア、もちろん百姓町人だって、酒を飲めば脳が麻痺して些細なことで喧嘩口論になり、揚げ句、つかみ合いの喧嘩になるということはよくある。だが、百姓町人は刀を持っていないので、せいぜいポカポカ殴るくらいで死にはしない。
 だが侍の場合、間の悪いことに、どんな時でも二本差している。勿論、普段なら滅多と抜くものではないが、酔っているから抑制というものが効かない。言い合いの揚げ句、
「抜けっ。抜いてみろ。抜けぬのか、はは、腰抜けが」
 なんぞ言われたら、
「なにをっ」
 と抜いてしまう。抜いてしまったらもう後へは引けない。斬り合いとなって運が悪い方が死ぬか片輪になる。もちろんそんなことをしたらお役御免になるのはわかっている。わかってはいるが、目先の感情を制御できず、これを「武士の意地だ」とかなんとか言いながら、刀を振り回す→相手が死ぬ→お役御免→浪人して惨めな生活、という仕儀と相成り候。みたいな阿呆なことになるのである。
 大政もまさにそんな風で、酔った揚げ句、激情に駆られて同僚を殺害してしまった。ただし大政の場合は殺伐とした口論ではなく、もう少し色気のある話、すなわちひとりの同僚をめぐっての恋の鞘当てであった。
 そんなことで恋愛にも破れ、伊藤家からも離縁された大政であったが、生来があっさりして物にこだわらない性格だったので、未練を抱かず武家の生活を諦め、賭場に出入りするなどして日を暮らしていた。そんな或る日、次郞長の評判を聞き、「すんなら一度、会ってみよう」と清水にやってきて、会うなりその人柄に惚れて次郞長の乾分になったのであった。
 身の丈六尺二寸目方三十二貫、腕が立って頭が良く、性は温順。短気で粗暴で、先のことが考えられないバカ揃いのヤクザ社会にそんな奴が入ってきたら、頭ひとつどころではない、四つも五つも抜きんでるのは当たり前で、大政はいまや次郞長の参謀格、相談役、話し相手として清水一家になくてはならぬ人となっていたのであった。

 そんな大政と無心で撃ち合う。それが次郞長の心に蟠っていた悲しみを溶かしていった。腕に差があるので三本のうち二本は大政が取ったが、次郞長は口惜しがることもなく、
「何うにもおまえにはかなわネー」
 と言って笑った。そして大政は大政で、
「いや、これが真剣の立ち会いだったら親分にゃ勝てません。気迫が違います」
 と言った。それを聞いて次郞長は満更でもない顔をして、ますます機嫌が良くなっていた。
「親分が笑う顔を久しぶりに見ましたよ」
「そうかなー」
 次郞長はそう言ってまた笑い、次第に宗七を失った痛手から恢復していった。秋の凜とした空気が二人を包んでいた。

 そして時が過ぎ、安政二年となった。その間、宗七は名を久六と改めていた。いったい何度目の改名であろうか。斎藤道三という人は生涯十数回も名前を変えたという。それには及ばないが、この男も大概で、境涯が変わる度にそもそも福太郎という名前を変えてきた。
 しかしそれは斎藤道三のように名を改める度に出世をしたというのではなく、追い詰まって変えざるを得なくて変えたのだった(相撲時代の醜名を除く)。まるで詐欺師がコロコロ名前を変えるが如くに。
 だが此度の改名は少々ちがった。
 八尾ヶ嶽宗七は江戸屋虎五郎方で過ごすうち、なんと、超大物、伊豆の大場の久八つっあんの盃をもらい、久八の久の字をもらって、その名を、久六、と改めたのだ。
 つまりこれはどういうことかというと、宗七改め久六と喧嘩をするということは、大親分、大場の久八、及び、久八と同盟を結んでいるすべての親分を敵に回すということで、これはでかかった。
 これにより宗七、じゃなかった久六は尾張に帰って勢力を築くことができるようになったのである。そんなことには安政二年頃には久六はかつて手痛い敗北を喫した一の宮久左衛門を相当押し返すことに成功し、かつての新興弱小勢力ではなく、誰もが無視できない存在にまで成長していたのである。
 次郞長はこれを自分のことのように喜び、いつか尾張に遊びたいものだと考えていた。しかし日々の懸案に追われ、それもなかなか叶わない十一月の或る日、次郞長の許に一通の手紙が届いた。裏を返して差出人を見るなれば、

 在保下田 久六、

 とある。次郞長、急ぎ、封を切った。その手紙の内容とは果たして。続き来月。

町田康(まちだ・こう)
1962年生まれ。81年から歌手として活動、96年以降は小説家としても活動。主な著書に「告白」「ギケイキ」などがある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?