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#06 はるかな薔薇色の国へ

セルビア、ベオグラード在住の詩人・翻訳家、山崎佳代子さんの連載。歴史や詩、そして山崎さんの出会う人々とともに、ドナウの支流をたどる小さな旅。今回の舞台は山崎さんの住むサバ川の岸辺のノビベオグラード区の第45団地です。山崎さんの胸に大切な言葉を刻んだお隣さんのはなしです。

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 コロナ禍が地球を包む。昨春から旅もせず、ノビベオグラード区の第45団地、サバ川の岸辺の我が家で時を過ごしている。朝の岸辺が好きだ。夕暮れもよい。ゆく川は、一度たりとも同じ表情を見せない。

 思いがけず暖かな冬の日。猫の暮らす「猫通り」を抜けて川岸を西に、ガロビツァ村へ歩く。右手に向日葵畑と麦畑が一面に拡がっていたが、今は荒れている。何かが建つのだろうか。岸辺の土手は全長18km、鬱蒼たる原生林が広がっていた岸辺は、樹木が倒され安易な別荘が並ぶ。わずかな沼地に陽光が反射し、白鷺が舞いおりた。土手をくだり水際に出て、川の流れを見つめる。岸辺の泥に空き瓶が流れついている。かつて水は澄んで、泳ぐと水底の石が見えたと聞いたが、水は灰緑に濁っている。

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第45団地 サバ川の遊歩道(山崎萌撮影)

 サバ川は、旧ユーゴスラビアを東から西へ流れるドナウ河の支流。スロベニアの山から流れ出し、クロアチア、ボスニアとセルビアを結び、歴史を溶かして流れていく。第二次大戦中、サバ川の上流には、親政ナチス・ドイツのクロアチア独立国が建てたヤセノバッツ強制収容所、シーサック子供絶滅収容所があり、ベオグラードの岸辺にも、水死体が流れ着いたと聞く。白鳥が三羽、鋭い羽音をさせて、水面から飛び立った……。「猫通り」にもどると、草地から嬌声が聞こえ、鋭い体臭がする。黒猫と虎猫が見つめあう。恋の季節だ。

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「猫通り」の猫たち(山崎萌撮影)

 サバ川はノビグラードとベオグラードの境界である。ベオグラードの旧市街からブランコ橋を渡ると、ノビベオグラードに入る。橋の下をサバ川は流れ、五百メートル先のあたりでドナウ河に合流する。橋は、セルビア近代詩を代表する薄幸の詩人、ブランコ・ラディチェビッチを記念して命名された。鈍い冬の光を貨物船がすべっていく……。
 ユーゴスラビア王国時代、1934年に国王の名を冠したアレクサンダル橋が架けられていたが、1941 年、第二次世界大戦が勃発、ナチス・ドイツ軍の侵攻を防ぐべく、4月12日に王国軍が自らの手で橋を爆破した。今日のブランコ橋は1956年に完成、サバ川は重要な水路で大型船が通るから、アーチは一つで261メートル、高さ12メートル、全長474メートル、幅10,5メートル。近代的な橋である。
 橋を渡ると、右手に青緑のガラスの高層ビルが見える。旧共産党本部の建物だが、今はビジネスセンターだ。1999年春、二度のNATO空爆にも耐えた堅固な建物だ。その先はドナウ河の岸辺のゼムン区、かつてオーストリア・ハンガリーの領土、第一次大戦後、ユーゴスラビア王国に入るが、第二次大戦中はナチス・ドイツの傀儡、クロアチア独立国の版図にあり、国境の町だった。
 橋の左手には、古びた建物の群があり、灰色の搭が立つ。「旧見本市会場」だ。今もモダンな建物は放置され、静かに朽ちていく。画家のアトリエもあるというが、人の気配のある部屋のガラス窓は、破れて侘しい。庭の洗濯ロープに、古びたシーツが干されていた……。第一次大戦の戦勝国となったセルビアは、多民族国家ユーゴスラビア王国を形成、セルビアは歴史ではじめてサバ川の向こう岸へ進出し、1937年に国際見本市の会場を建設、ハンガリー、イタリア、トルコなどが参加して賑わった。だが第二次大戦時、ナチス・ドイツがセルビアを占領、見本市は強制収容所となり、ユダヤ人、セルビア人、ロマ人、抵抗運動の参加者らが、三万人以上も殺戮された。アウシュビッツなどに移送され、異郷で亡くなった者たちも数多い。この情景は、私の心をとらえる。

 哀しい記憶を消去するように、ノビベオグラード区は、サバ川とドナウ河に縁どられた土地に建設された。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が、栄えた時代だ。蛙と蛇の棲む沼地に、連邦政府の建物やホテルが造られ、未来の町が誕生した。都市の建設を支えたのは、共産党が組織した「青年労働活動」だ。旧ユーゴスラビア全域で展開され、高速道路、水力発電所、工場、鉄道、街の建設、文化・芸術・スポーツ施設などが築かれた。今は、夢物語である。早朝に起床、リーダーの指揮のもとに建設工事は進められ、夕刻からは、スポーツ、文学の夕べやコンサート、ダンスなど若者のプログラムが始まる。社会主義の勉強会のほか、技術取得コースもあり、写真、映画撮影、トラクターや自動車の運転の訓練もあって、修了証書や免許書も発行された。友情が生まれ、恋が芽生えた。ノビベオグラード建設の第一期は1948年から1951年、第二期は1968年から69年、総勢14万人もの若者が参加したと聞く。

 私たちが第45団地に住みはじめたのは1983年のこと。三人の息子の故郷だ。住所はユーリー・ガガーリン通り、ソ連の宇宙飛行士の名である。ガガーリン通りは全長4600m、左右には巨大な団地群が広がる。第45団地は旧市街から約8km、ニコラ・テスラ空港までは約9km、飛行機の爆音に空を見上げると機体が分かるし、高度を落とした飛行機の窓からは、建物が見える。
 団地は若い。1965年に都市計画の公募があり、翌年、第45団地の建設計画が採用となり、1969年に建設が開始される。沼沢地を干拓し、ドナウ河から採取した砂で埋め立て作業が行なわれた。この地が埃っぽいのは、ドナウの砂のせいで、貝殻も見つかる。1972年に建物は完成し、1974年にサバ川の護岸工事も終了、1975年にはブランコ・ラディチェビッチ小学校が開校された。息子たちの母校である。
 ユーゴスラビア時代の団地は、生活環境を視野に入れて設計された。緑地とリクレーションの空間をとること。教育や医療、文化など、地域の住民の生活に必要な施設を作ること。舗道と駐車場を確保すること。この方針に従って、第45団地には大きな保健所、つまり総合病院と青物市場が隣接し、団地の中心に郵便局、図書館、警察署、スーパーマーケットと商店、小学校、4つの保育所がある。保育所は二階建ての瀟洒な建物で、広い庭があり、息子たちもここに通った。サッカー場もある。団地の中央から、楡の並木道がサバ川の岸辺まで伸びていく。建物と建物の間隔は充分にとられ、20もの小さな公園に住人たちが楽しそうに集い、ブランコやジャングルジムで子供が遊び、ゆったりとした生活空間だ。
 建物は、15階建て、12階建て、8階建て、4階建ての4種で、ブランコ・チャナックをはじめ精鋭の建築家による設計の高層住宅が23棟、低い建物が23棟、1 km四方にリズミカルに並ぶ。4階建ての建物はサバ川の岸辺に沿って造られて庭もあり、別荘を思わせる。第45団地は「太陽の町」とも呼ばれた。建物は煉瓦、コンクリートと鉄骨、室内の壁は石膏で、自然の素材が中心で、新建材が少なくて棲み心地はよい。
 だが社会主義体制が崩れるにつれ、にわか仕立ての建物が増えた。1991年内戦が始まると、クロアチアやボスニアから難民となって来た人々が屋台を出して、ささやかな商店街が生まれた。闇市みたいな風情があり、夜はトタン屋根の下に裸電球が灯る。石鹸やハミガキなどを売る雑貨屋のミーラ、衣料品屋のスネジャナ、八百屋のモムチロ……。私の大切な仲間たちだ。冗談が好きで心優しい彼らと言葉を交わすと、元気になる。

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第45団地の露天市場(山崎萌撮影)

 ユーリー・ガガーリン通りの向いの団地は、第61団地と第63団地。階段状のユニークな建物の群は、建築家マルシッチ夫妻の設計による。いずれもベジャニア村、ドナウ河の流域のスレム平原に位置する。団地の建設のために、多くの農家が取り壊された。
 ベジャニア村は、ノビベオグラード区で唯一、長い歴史のある村で、聖ギオルギエ正教会の尖塔がそびえ、鐘の音はサバ川の岸辺までとどく。村の名は「逃げる」というセルビア語の動詞に由来する。1512年、オスマン・トルコ帝国の支配を逃れてコソボからサバ川を渡ったセルビア人の難民家族が32世帯、ここに集落を作った。当時はハンガリー王国領、後にオーストリア帝国に入り、オスマン・トルコ帝国の攻撃を防ぐ軍政国境地帯となった。第二次世界大戦では、ゼムン区と同じくクロアチア独立国の版図に入り、1944年10月20日にベオグラードが解放されると、スレム前線とよばれる激戦で村人の多くが犠牲となった。

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聖ギオルギエ教会(山崎萌撮影)


 我が家から教会まで歩いて20分ほど。秋には、草地でハリネズミを見かけた。教会のある通りには、オーストリア・ハンガリー時代の中庭のある旧い田舎屋が残り、どこか懐かしい。セルビア正教会の降誕祭は旧暦で祝う。1月6日がクリスマス・イブだ。今年も聖堂の前で焚火が天まで炎を上げ、人々は樫の小枝をくべてキリストの降誕を待ちわびた。冬空に踊る火の粉を見つめながら、誰もがコロナ禍がおさまることを祈っていた……。

 我家は15階建ての11階にある。建物は赤い煉瓦とコンクリートの灰色が組み合わされ、素朴でどこか温かい。100世帯が暮らす。社会主義時代は、各企業に住宅委員会があり、職員の住宅の必要度を測り、必要と認められた者には住宅の使用権が割り当てられた。社会主義の終焉とともに、今は住人に私有権が与えられたが。政府関係の職員、繊維工場の女工、国立銀行の幹部、建設会社の経理課勤務、警察官……。様々な職種の人がここに住む。内戦以来、コーヒーを飲むような近所付き合いは減った。ここ数年は住人の入れ替わりも激しく、知らない人が増えたし、コロナ禍のマスクの下で、挨拶の声も小さくなった。だが、私の胸に大切な言葉を刻んだお隣さんがいる。3階のラドミラはクロアチア生まれのセルビア人で、少女時代、父と姉とともにヤセノバッツ強制収容所の一部であったシーサック子供絶滅収容所に入れられ、そこからドイツのダッハウ強制収容所に移送されて、奇跡的に生還した人……。

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第45団地 高層住宅群(山崎萌撮影)

 1月10日は冬晴れで、午后はサバ川の岸辺へ出た。野鴨の群が賑やかだ。子鴨は嘴が黄色で身体は黒い。餌を探し、長いこと水に潜る。波音をたてて、雄鳥が雌鳥を誘う。筏を組んだ水上カフェ「アンドレア・ミア」で、ホットワインを頼み、サバ川を見つめた。傍らを黒い流木がいくつも流れていく。数日前にクロアチアで起こった大きな地震のせいだろうか。震源地はシーサックだ。ラドミラの言葉を思い出した。「シーサック子供絶滅収容所はサバ川の岸辺の沼地にあった。水の無い生活。川の泥水を飲んだ。地面に赤ちゃんの死体がごろごろしている。そこを歩いた……」そういえば、最近、彼女の姿を見ない。一羽のカラスが空を渡り、岸辺の楡の木の梢へ消えた。

 最後に会ったのは2019年の秋だった。市場からの帰り道で彼女に会った。レンジが故障して、お茶も沸かせない、と嘆く。すぐに電気屋のサーシャに電話を入れ、翌日、彼女を訪ねた。お金の心配をさせないため、サーシャは私の親戚ということにしてベルを押す。用心深く、彼女がドアを開く。1DKの部屋は、簡素だった。サーシャは早速、レンジを調べる。もう生きていても仕方ないわ、と彼女が嘆いている。話題を変えようと、青春時代について尋ねると、彼女は語りはじめた。「ドイツのダッハウ強制収容所ではね、仕事はきつくて食べ物は酷い。終戦を迎えて解放され、ユーゴスラビアに戻ると、私はすっかり衰弱していた。でも、新しい人生が始まった。私ね、お付き合いしていた人がいたの。愛し合っていた。彼は結婚しようと言ったけど、彼のお母さんに申し訳なくって。だって、こんな体では赤ちゃん産めないもの。誰も孫が楽しみでしょ。それで、彼につれなくした。わざとよ。私の態度が変わったので、彼はどうしてか、と何度も訊いたわ。私は答えなかった。そして別れた。それからずいぶん後に、彼に謝ろうと思って、仲良しの友達と二人で彼の村を訪ねた。彼はね、他の女の人と結婚していた……」。彼の名前は、と訊くと、彼女の顔が薔薇色に輝いた。「ニコラ、ニコラよ……」
 直ったよ、とサーシャが言う。スイッチを入れると、パチンと大きな音がしてヒューズがとぶ。ちぇっ、やり直しだ。彼は粘り強かった。もう一度、もう一度……。三度目の正直で、やっと直る。長い年月に付着した油脂でショートする、と彼は言った。ラドミラは喜び、なんとお礼をしたらいいか、と何度も繰り返す。当たり前のことをしただけだから、と私たちは答える。彼女の笑顔が何よりのご褒美だ。
 その後、一度、彼女を訪ねた。おあがりなさいよ、と言う。居間のソファで、おしゃべりが始まった。彼女は言った。「なぜ私が生き延びられたかというとね、それはハリストス(キリスト)のおかげなの。強制収容所で、毎晩祈っていた。主よ、私をお救いください、と。戦後になって、私が神に祈っていると知った共産党の仲間が、神を信じるなんてと批判した。私ははっきり言った。昼間の私は共産党員で一生懸命に働く。でも夜、神様にお祈りするのは私の自由よ、あなたたちに関係ない、と……」
 無神論が建前の社会だった当時、党員としては勇気のある発言だ。旧ユーゴスラビアは信仰の自由はあったが、社会主義の国家で信仰は好ましくないとされていた。だが神と反ファシズム運動は相いれないものなのだろうか。長いこと疑問に思っていた。反ナチス運動、国家解放運動に加わった人たちは、無神論者だけではなかった。信仰を持つ者も多く、聖職者もいた。彼女の言葉は、私の疑問を解いてくれた。

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ガロビィツァ村へ向かう道、幻想的な原生林(山崎萌撮影)

 それから数日後、我が家のベルが鳴った。冬が近かった。扉を開くと、ラドミラだ。「あなたの部屋番号を聞いていなかったから、探すのに苦労した。これ、私の編んだ毛糸の靴下。これをはいたら、暖かくて風邪なんかひかないわ。それから、カリンの実。あなたとご主人とひとつずつね。お部屋に置いたら、いい香りがする」なんという思いがけない贈り物だろう。お茶でもいかが、とお誘いしたらよかったのに、愚かにも思いつかなかった。冬の我が家の食堂に、果実は甘酸っぱい香りを放った。象牙色の靴下は、編み目が美しかった。
 一か月ほどして、家の前の公園で偶然、彼女に会った。再会を喜ぶ私に、青空を指で示して、じきに神様が私を御呼びになるから、と微笑む。神様はまだ来てはいけないと言っているわ、と私が言葉を返すと、来年は94歳になるの、と笑った。
 あれ以来、姿を見ない。9階のゴルダナに尋ねた。彼女も旧い住人だ。ラドミラを見かけないけど、どうしているかな、と。思いがけず、彼女は言った。その人、知らないわ、と。ラドミラはひっそり生きていた。私は、彼女が少女時代を語った数少ない聴き手だったのだ。

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サバ川の冬の情景(山崎萌撮影)

 水上カフェには、私のほか誰もいない。空気は冷えていき、ホットワインを飲みほす。穏やかな波に夕映えがにじみ、西の楡の木立のシルエットは黒々と濃くなった。夕陽が、飛びかうカモメの白い胸を薔薇色に染めていく。私は家に向う。「猫通り」の猫も影をひそめた。

 ラドミラは、遠くへ旅立ったのだろうか。靴も履かずに、軽やかな足取りで、薔薇色の国へ向かったのだろうか。そして思った。人はみな旅人だ、と。棲家とは仮の宿だ、と。冬の碧い闇が、第45団地に降りてきて、窓の明かりが灯されていった。

山崎佳代子(詩人・翻訳家)
一九五六年生まれ、静岡市出身。一九七九年、サラエボ大学に留学。一九八一年よりベオグラードに住む。詩集に『みをはやみ』(書肆山田)など、翻訳書にダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』(東京創元社)など、エッセイ集に『ベオグラード日誌』(書肆山田)、『パンと野いちご』(勁草書房)などがある。セルビア語による詩集のほか、谷川俊太郎、白石かずこの日本語からの翻訳詩集を編む。セルビア語の研究書には、Japanska avangardna poezija(『日本アヴァンギャルド詩』)ほか、『日本語現代文法』を著わした。

▼ 植物学者だった父の存在を胸に、娘はしずかに海を見つめるーー。山崎佳代子さん10年ぶり、待望新詩集です。こちらも是非御覧ください。


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