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わたしのおとうさんのりゅう 〔第1回〕

詩人の伊藤比呂美さんの連載。幼い頃に、誰もが一度は目にしたことのある名作『エルマーのぼうけん』(ルース・スタイルス・ガネット作・わたなべしげお訳・ルース・クリスマン・ガネット絵、福音館書店)。そこから始まる、児童文学、ことば、そして「私」の記憶をたどる道行き。

エルマーのぼうけん1

『エルマーのぼうけん』という本を読んだことがありますか。
 1948年にアメリカで出版された児童文学、世界中で翻訳されて読まれている本なのです。日本では63年に初版発行、翻訳は渡辺茂男。すでに170刷を超え、児童文学に興味のある人なら知らない人がないくらい、『エルマーのぼうけん』は、児童書の基本中の基本の本です。
 著者はルース・スタイルス・ガネット、さしえはルース・クリスマン・ガネット。冗談みたいに似た名前ですが、2人は別人で、ミドルネームが違います。ルース・スタイルスの継母、英語で言ったらステップマザーが、ルース・クリスマンということです。
 私は、この本を日本で初めて読んだ子どもです。
 どうしてそんなことがわかるのかと思うでしょう。
 こういうことなのです。
 その頃、私の父は、T印刷の下請けの、小さな印刷屋で働いていました。
 小さな印刷屋で働いているのは、集団就職で東京に出てきたような若い人たちで、私の父は、かれらを何人も束ねる工場長でした。
 ダイヤグラビヤという名前の会社でした。門を入ると社長の家があり、事務所があり、その奥が工場で、中では輪転機がまわっていました。私の父は、奥の2階の、薄暗い一室で働いていました。
 どんな仕事をしていたのか、よく知りません。現像液のニオイがたちこめた一室でした。レタッチという言葉を聞くことがありました。写真の修正とか何か、細かい技術を要する仕事、今ならフォトショップでできるような仕事をしていたんじゃないかと思うのです。「俺は腕がいいから、業界最大手のT印刷から何度も引き抜きの誘いがあった」と私の父は言っていました。「でも行かなかった、これがあるから」と。
 その印刷屋は、東京の北のはずれの板橋区の、裏町の裏通りのどぶ板を、こう2、3歩、渡ったようなところにありました、一帯はそんなふうな印刷屋ばかりでした。私の父の働いていた印刷屋よりもっとずっと小さい、家の一角に機械を置いておじさんとおばさんが立ち働いているだけという感じの零細の印刷屋や製本屋がそこかしこにあり、当時は空調なんかなく、夏になればがらがら引き戸を開け放して、人々が半裸で作業していました。
 私の父の働いていた印刷屋の雰囲気に近いのが『男はつらいよ』の第1作。実は私、若い頃は、ああいう大衆的な、感傷的なものから、目を背けて生きてきたのでした。見たことなら何回かあります。親が日曜洋画劇場で、いやそんなわけはない、そもそも洋画ではないのだから、ともかくテレビで見ていたのをのぞき見たこともあったし、それから昔、ワルシャワに住んでいたとき、日本人会の映画上映会に誘われて、行ってみたら「寅さん」のどれかだったということもありました。画の中の家も路地も町も人も、記憶の中の風物と同じように、狭くてごちゃごちゃしてくすんでいました。
 あれは葛飾柴又で、江戸川を渡れば千葉県で、こっちは荒川を渡れば埼玉県で、町外れ感は似たようなものです。初めて第1作目をちゃんと見たのは、ほんの数年前のことで、そしたら思いがけずそこには、放浪するもの、放浪せずにいられないもの、家庭から出ていくもの、出ていかざるをえないものの気持ちがこめられていて、全身を揺さぶられました。
 あの頃の板橋は、家も、路地も、町も、人も、あの映画の中の葛飾と同じように、狭くてごちゃごちゃしてくすんでいました。そして「とらや」の裏にある「共栄印刷」で働く青年ヒロシ(前田吟)が、作業着姿で画面に出てきたときには、息を呑みました。「ダイヤグラビヤ」で働く私の父が出てきたのかと思ったのでした。

 あるとき、私の父が、ダイヤグラビヤから、ゲラをひと束持って帰ってきました。
「おもしろそうだったから持って帰ってきた、ちーちゃんにちょうどいいかなと思ってさ」
 それが『エルマーのぼうけん』初版の校正刷りでありました。
 それで思い出すのです、あの頃住んでいた借家。二間で、私には十分だったのに、母はいつも狭い狭いと言っていた家。家も、路地も、町も、人も、あの映画の中と同じように、狭くてごちゃごちゃしてくすんでいました。
 借家にはひろびろとした庭があり、大きな木が生えていました。母はそれをとても嫌っていました。葉が落ちるし、日当たりが悪くなるしと言って。何の木だったか覚えてません。常緑のカシの木と思い込んでいましたが、根拠はないのです。どんぐりが落ちていたような気もするし、落ちてなかったような気もするのです。
 木にはタマムシがやってきました。たまに誰かが捕まえると、やはり珍しい虫だったから、人々がその死骸をもてはやしました。
 そんな話をつい先日、植物に詳しい人に話したら、タマムシがいたならエノキじゃないかと言われました。エノキを調べてみると、なるほど、たしかにこんな樹形で、こんな色の葉だった。もしかしたら秋に生るという小さい実も庭にびっしりと落ちていたかもしれず、それを私たちが足足に踏みつぶし汁を出し、そしてそれを掃除するのがたいへんだと母が文句を言っていたような気もするのでした。
 エノキは落葉高木でした。それにも驚きました。
 私の記憶では常緑樹だったのです。でも母の不満はたしかに「葉が落ちる」だったのです。葉は落ちたのです。とすると、私の記憶の中の光の加減も変えなければなりません。

 高度成長期に入りかけた頃の東京の、板橋区の、裏町の裏通りをさらに入ったところでした。路地を入っていくとさらに細い、湿った、なんにも生えない道がつづいていました。便所のくみ取りが来るときには、外の通りに停めたバキュームカーからホースが伸びてきて、うねうねうねうね動きました。犬を飼っていたときは、つながれた犬のつながそこまで伸びて、ぴんと張ったその先で、父の足音を聞きつけた犬がしきりに腰を振っていました。
 二間しかない家には、不釣り合いの大きな縁側があり、その縁側は母の絶え間ない雑巾がけで隅から隅まで磨き立てられてあり、そこに据えられた籐椅子に寝そべって、私の父は私に本を読んでくれました。私は足元にすわって聞いていました。
 不思議なことに、私の父はそういうことをときどきしてくれたのでした。私は読んでもらわなければならないような小さな子ではなかったし、読み書きを覚えるのは早いほうだった。そして父は、別に、読み聞かせをしてもらったような環境に育ったわけではなく、そうするべきだと親が考える文化に暮らしてはいなかったのです。
 私の父が暮らしていたのは、小さい印刷屋や精密機械屋のひしめく路地裏の職工の世界だったのに、ああやってときどき、私のために、声に出して本を読んだ。絵本ではなく、字の多い本を。それも何度も。私の夫たちのように毎晩やっていたことじゃなかったのはたしかです。
 読んでもらうときの、こそばゆさは格別でした。
 私の父と、私の、時間でした。
 そしてそのとき私の父は、本ではなく、校正刷りの閉じたのを手に持って読み始め、読み終えました。
「どうだい、おもしろかったかい」
 私は熱烈に答えました。
 なんて答えたか、今となっては覚えていません。「めっちゃおもしろかった」「ちょーおもしろかった」なんて言ったわけはなく、「すごく」だって使ったかどうかわかりません。「すごく」ということばは、たぶんそんな昔から使われていたことばじゃないと思います。
 そんなら「とても」か。「ほんとに」か。
 当時の語彙で、好感の程度のいちばん高い副詞といったら、「はなはだ」「すこぶる」「たいへん」「きわめて」「ひじょうに」。どれも子どもの語彙ではない。同じ日本語を、同じ声で、何十年も使いつづけてきたというのに、こんな大切なことばが変化してしまって、昔の声を思い出せなくなっています。
 すこぶるほんとうにたいへんおもしろかったという意味を、私は、当時の私の語彙で答えました。それで私の父は『エルマーのぼうけん』を町の本屋に注文し、やがて本が家に届けられました。当時は裏町の職工でもそういう暮らしをしていたのでした。この本屋にはその後もさんざんお世話になりました。数年後、父は私のために少年少女世界名作文学全集を注文し、世界原色百科事典を注文し、さらに数年後、高校生の私は、そこで、角川文庫版の中原中也詩集に出会ったのでありました。
 本が来た時点で、私は他のたくさんの日本の子どもたちと同じラインに並びました。どこの誰ちゃんがいちばん先に読んだのか、私にもわかりません。でも、渡辺茂男さんにお子さんがいて、その子が幸運にもお父さんの書斎でゲラを読む機会を与えられたのならともかくも、ゲラを読んだ子どもは、後にも先にも私ひとりに違いないということだったのです。


※次回更新は5月6日(金)の予定です。お楽しみに!

伊藤比呂美(いとう・ひろみ)
詩人。1955年東京都生まれ。78年に『草木の空』でデビュー、80年代の女性詩ブームを牽引。結婚、出産を経て97年に渡米。詩作のほか小説、エッセイ、人生相談など幅広い創作活動を行っている。『河原荒草』で高見順賞、『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』(講談社文庫)で萩原朔太郎賞・紫式部賞を受賞したほか、『道行きや』(新潮社)、最新刊『いつか死ぬ、それでも生きる わたしのお経』(朝日新聞出版)、『人生おろおろ 比呂美の万事OK』(光文社文庫)など著書多数。
Twitter @itoseisakusho

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