結婚/町田康
林の中で次郞長は八尾ヶ嶽に言った。
「俺と結婚してくんねぇか」
八尾ヶ嶽は戸惑った。なぜならその申し出が余りにも唐突かつ突飛であったからである。八尾ヶ嶽は珍しく狼狽して言った。
「そ、それは、おめぇ。無理だ。第一、俺たちは男同士じゃねぇか。男同士で所帯は持てねぇ」
慌てて早口になった八尾ヶ嶽を次郞長は無言で見つめた。
柔らかい午後の日が射す林の中に沈黙が訪れた。次郞長はなにかに耐えるような、苦しげな表情を浮かべていた。そのうち次郞長の顔面がみるみる紅潮し、と同時にその頬が膨らんでいき、それが極に達して、次郞長は、ぷっ、と吹き出すと、そのまま横倒しに倒れ、ヒイヒイ、言い乍ら腹を押さえて地面をのたうちまわった。
肩が小刻みにヒクヒク揺れていた。次郞長は頻りに、
「腹が痛ぇ、腹が痛ぇ」
と言った。のっそり立ってその様を見下ろしていた八尾ヶ嶽は言った。
「おめえ、もしかして……」
そして次郞長が爆笑していることに気がついた八尾ヶ嶽は低い声で言った。
「殺す」
八尾ヶ嶽は転がり回る次郞長の襟首を左手で、ひょい、と掴んで立ち上がらせると、右手で喉輪をした状態で一旦、持ち上げ、地面に叩き落とした。俗に言うchokeslam《喉輪落とし》である。
盆の窪と背中を強か打ち付け、次郞長は、一瞬、息が止まるほどの激痛を覚え、
「痛ぇ」
と叫び声を上げたが、それでも、おもろ味は去らず、
「背中も痛ぇが腹も痛ぇ」
など言いながら顔を顰めて笑っていた。
ようやっと笑いの波が過ぎて、「おいらが本当に言いたかったのは」と語り出した、その内容は一体全体なにだったのか。それは、「清水に帰ろう」という事だった。
次郞長は言った。
「そもそも俺が国を売ったのは小富って野郎と佐平って野郎を殺しちまったからなんだが、どっこい、佐平の野郎は生きていやがった。あの分なら小富も生きてやがるにちげぇねぇ。そうとわかったらすぐに国に帰りゃよかったんだが、尾張界隈で兄哥だなんだとおだてられて、旅の空も早三年。ここらで一遍清水へ帰ってみようと思うんだが、おめぇどう思う」
問われて八尾ヶ嶽は故郷の光景を思い浮かべ、そして複雑な笑みを浮かべて言った。
「いいじゃねぇか。いい考えだと俺は思うぜ」
「そうけぇ、おめぇ、そう思うけぇ、ではそうしよう」
と八尾ヶ嶽が一緒に来ると決めてかかっている次郞長は言い、
「そうと決まったら、さ、行こう」
というので、四日市から一旦尾張の寺津のところに戻り、数日滞在してから、役人の目を警戒しつつ海道を東に向かった。
海道を東に向かった次郞長、清水を出たときは仁義の切りようもろくに知らない半端なやくざだったが、尾張、三河、遠州あたりでは名前が売れて兄弟分も多い。いい感じで旅をして、だけど駿河に入るとそれほどでもないので、コソコソ通過し、文永三年の十一月の二十日、清水港に帰着した。
「いやさ、懐かしいなあ」
と次郞長、頻りに周辺を見回している。
八尾ヶ嶽は変顔をしている。
「なんデー、その顔は」
「いやさ、俺はそもそもこんな顔よ。普段、変顔をしてるのさ」
「疲れねぇか」
「疲れるよ。だから休みてぇ、今日はどうするんデー。どっか泊まんのか」
「泊まるほどの銭もねぇ。俺の兄弟分で江尻の大熊って奴が居る。そいつンとこへ行こうじゃねぇか」
と大熊のところへ行く。
「おお、次郎、帰ってきたか」
と大熊よろこんで次郞長だちを泊め、あちこちの賭場へ出掛けていってはおもしろいことをして遊んだり、人の頼まれごとを聞いたりするうち、旅人が、「次郞長兄哥のお宅はどちらで」と訪ねてくるようになった。そうなったら大熊ン家では手狭ってことになり、日頃から次郞長の男ッぷりに目を掛け、時折は資金も出してくれていた地元の松万という旦那が、「おめぇも、そろそろ一家の看板を上げたらどうだい。僕が少し金を出すよ」と言ってくれたのを幸いに、手頃な家を一軒借り、次郞長一家の看板を掲げた。川縁の家であった。
家には常時、若い者が四、五人、ゴロゴロしており、且つ又、ひっきりなしに旅人がやってくる。旅人が多く訪ねてくると言うことは、それだけその親分の評判がいい、ということでなによりも名を上げることが大切な任侠の世界ではこれはもう、非常に喜ばしいことなのだけれども、さあ、そうなると女手がないとどうしようもない。
そんな時、松万の旦那が、ぶらっ、と次郞長方を訪ねてきた。
「これはこれは、松万の旦那、言ってくださりゃあ、こっちから伺ったものを」
「いやいや、いいんだ次郎、そんなことより、どうだ、こないだの話は」
と言った。こないだの話と云うは、次郞長一家の窮状を見かねた松万が先般より次郎に持ちかけていた縁談で、大熊の妹・蝶なるものを嫁に貰わないか、という話であった。
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