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#24 エピローグ

左右社

リングにあがった人類学者、樫永真佐夫さんの連載です。「はじまり」と「つながり」をキーワードに、ベトナム〜ラオス回想紀行!連載は今回が最終回です。

 ハノイから西へ、ホアンリエンソン山脈を越えタイチャン国境からラオスに入りルアンナムターまで800キロ、10日間の旅だった。道すがら、くにや民族の「はじまり」と「つながり」ゆかりの地を次々と訪ねた。ふりかえってみよう。
 革命運動家たちの「つながり」の「学校」ホアロー収容所跡、共産主義国ベトナムの「はじまり」バーディン広場、ベトナム王朝1000年の「つながり」の象徴ハノイ皇城跡、黎朝の「はじまり」還剣伝説ゆかりのホアンキエム湖、1000年にわたる中国から独立したベトナムの「はじまり」ドゥオンラム村、「ベトナム4000年の歴史」の「はじまり」雄王ゆかりのギアリン山、黒タイのくにの「はじまり」の地ギアロ、黒タイとキン族の「つながり」の象徴カム・ハイン廟、黒タイの天地と人と稲作の「はじまり」ゾム川源流域、ラオスの神話上の「はじまり」ナノイ村、民族の「つながり」と現代ベトナムの「はじまり」のディエンビエンフー…。
 とくに最後の3つはすべてディエンビエン地域にある。ここは、ベトナムとラオスという国にとっての、またその二つの国をつくったキン族とラオにとっての、さらには黒タイやコムーなど少数民族にとっての、「はじまり」と「つながり」が重なりあう地域なのだ。だが、時代が露骨にはバッティングしない。
 おそらくこれは偶然ではない。この一つの地域における民族と民族のすみわけや、それぞれの民族と国家との関係といった共同体どうしの「つながり」に応じて、集団ごとの神話はたえずつくりなおされ、つじつま合わせがなされてきたからだろう。
 「つながり」には、「はじまり」も終わりもある。だとすれば、共同体の前提となる「つながり」が生む「はじまり」の神話もまたそうだ。神話は生まれ、成長し、生きのび、あるいは死ぬ。
 そんな神話の一生という観点からすれば、ここに紹介してきた神話のほとんどはすでに死んでいる。生活のなかからそれを語る場も、語る人も、聞く人も失われ、もはや文字に留めおかれた記録として読まれるだけだからだ。
 とはいえ、わたしたちは累々と連なる神話の墓碑銘をひたすらたどる旅をしてきたわけではなかった。それ以上に、わたしにとってはこの四半世紀間の生きた「つながり」を確認する旅だったからだ。実際、旅の途中でS氏にそれほどくわしく神話を紹介したわけではなかったし、むしろ語らなかったから記したのだ。 

 おもえば旅から丸3年が経過している。旅からの帰国は師走だったからめまぐるしく2019年は暮れ、新年が明けるとほどなく今度はコロナ禍がはじまった。
 この3年の前と後のちがいは大きい。そのちがいは小さな変化の積み重ねとしてではなく、時代を画する断絶として感じられる。だからこの旅も、前時代の締めくくりの出来事としてわたしには思い出される。
 このコロナ禍は、東南アジアの共産主義国ベトナムとラオスにとっても大きな画期だった。世界各国が内向きに門戸を閉ざし内外の「つながり」を厳しく制限するなか、外国からの援助頼みの経済成長もペースダウンしすでに安定期に入っていた二国にとって、国際社会での位置づけもほぼ固まった。いっぽう、対内的には党の支配体制が強まった。
 旅でわたしが再会し「つながり」を確認しあった日本人たちの生活環境も、コロナ禍で大きく変わった。
 ハノイに30年近く在住していた福田さんと小松さんは相次いで帰国した。日本料理屋「紀伊」の小林さんはコロナ禍を、ロックダウンを繰り返したハノイ中心部で耐えに耐えた。しかし、つい最近、建物のたてかえのためにオーナーから一方的に退去を求められ、ハノイ市の西郊ハドンへと店の移転を余儀なくされた。
 谷さんはわれわれの訪問直前にすでにルアンナムターから撤退していたが、彼女とわたしの古くからの知己でもあり、同じくらいラオスに長い松島さんも日本に拠点を移した。
 ここにきて初登場の松島さんを紹介しておきたい。彼女は約20年前に農業経済の専門家として渡航したのがラオスとのかかわりのはじまりだった。その後、農家が粗放的に栽培しているアラビア・ティピカ豆にこだわった老舗カフェの経営に着手した。われわれの旅はハノイから陸路としてはルアンナムターが終着点だったが、実はビエンチャンに飛んで一泊し、タート・ルアンを訪ねて彼女のカフェにも足を運んだのだった。
 なお、タート・ルアンは、仏教興隆に尽くして王国を繁栄させたセタティラート王が、現ルアンパバンからビエンチャンに遷都して1566年に造立した黄金の仏舎利塔だ。今のラオスの「はじまり」、国民の「つながり」のシンボルとして紙幣にも描かれている。

ビエンチャンがかなり牧歌的だった 2001年のタート・ルアン。
前にある像はセタティラート王

 ふりかえると、1980年代終わりにはじまったベトナムとラオスの市場経済化は、両国のそれまでの社会秩序を土台からうち崩した。新しい秩序のかたちをもとめて誰もが右往左往し混沌の熱気がまだ充ち満ちていたころ、そのなかに日本を捨てるようにして自ら飛びこんだ人たちがいた。そして、ともども社会の巨大なうねりのなかに呑みこまれ眩暈めまいのする忘我を経験した。わたし自身もおそらくその一人だったし、他にもそういう人がたくさんいた。
 そのまま現地にとどまりつづけていた人たちも、この10年のあいだに一人、また一人と、まるで順番に夢から覚めていくかのように次のステージへと静かに居場所や立場を変えていった。もちろん日本に戻ることを選んだ人もいれば、かの地にとどまることを選んだ人もいる。選択は人それぞれだが、落ち着くべきところに落ち着いたのだろう。そのうえでコロナ禍は一人一人の決定に釘をさした。こうしてひとつの時代が終わった。
 こう考えると、前時代のまさに終わりに、わたしは「つながり」を確認しにベトナムとラオスを巡行したのだった。だがもうクルマ婆は亡くなり、他にも逝った知己がかの地に多いだろう。
 新型コロナ感染症の拡大防止対策として、日本と同様にベトナムもラオスも政府が国民に蟄居をもとめ、非接触型社会にむかってコミュニケーション全般の刷新をうながした。黒タイやモンの村でさえ「つながり」は、かつてほどは対面優位ではなくなっているはずだ。スマホなどを通して、かつて想像もできなかったほど大きく複雑な「つながり」の世界へと、若い世代から足を踏み入れているのだから。
 次訪れたとき、村のようすは「古い」黒タイの人たちを知るわたしの目にどのように映るのだろうか。楽しみであり、ガッカリしないか少し不安でもある。

イネが収穫期を迎えた黒タイの盆地風景(1997年、 ベトナム ディエンビエン省)


樫永真佐夫(かしなが・まさお)/文化人類学者
1971年生まれ、兵庫県出身。1995年よりベトナムで現地調査を始め、黒タイという少数民族の村落生活に密着した視点から、『黒タイ歌謡<ソン・チュー・ソン・サオ>−村のくらしと恋』(雄山閣)、『黒タイ年代記<タイ・プー・サック>』(雄山閣)、『ベトナム黒タイの祖先祭祀−家霊簿と系譜認識をめぐる民族誌』(風響社)、『東南アジア年代記の世界−黒タイの「クアム・トー・ムオン」』(風響社)などの著した。また近年、自らのボクサーとしての経験を下敷きに、拳で殴る暴力をめぐる人類史的視点から殴り合うことについて論じた『殴り合いの文化史』(左右社、2019年)も話題になった。

▼著書『殴り合いの文化史』も是非。リングにあがった人類学者が描き出す暴力が孕むすべてのもの。


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