金セッピョル「【連載】ハルモニはどこへ眠る――私たち女三代の民族誌」|#0 プロローグ
「半憤」のゆくえ
それは、だれも予想しないことばだった。
ハルモニはそのことばをどこかへ刻印するかのように、一言一言、力を込めて吐き出した。
彼のとなりに横たわる
人の目もあるし、別々でいるよりマシだ
好きでもなく嫌いでもなく
そこしかない
彼女はいま、五十年前に自分を捨てた夫と同じお墓に入りたいと、宣言したところだった。
たった一人でこの世を渡ってきたその人生について、ハルモニ自身が口にしたことは一度もなかった。彼女は過去に背を向け決して振り返るまいと、ただ生の波に立ち向かっているように見えた。いまさら、ハルモニはそこに戻りたいと言っているのだろうか。シワに隠れたハルモニの目に何が浮かんでいるか見えなかった。私は何か大事なことを見逃していたのだろうか。
ハルモニと祖父は1954年、韓国の慶尚北道南西部にある村で夫婦の縁を結んだ。二人のあいだには叔母やオンマ、コクチ伯母、インジョン伯母が次々と生まれたが、祖父は息子を求め続けた。他所に目を向けキソという女性を妾にした彼は、彼女とのあいだでジョンムン伯父を得る【注1】。そしてハルモニや娘たちを捨てた。要らなくなった什器のように。
ハルモニは紡績産業が盛んだった大邱で布を仕入れ、釜山やソウルに売りにいく行商をはじめた。ハルモニが重い布束を頭の上に山盛り乗せ遠方に行っているあいだ、娘たちは祖父や親戚の家で居候の悔しさを味わった。晩年になって頭の病気を繰り返すハルモニに、インジョン伯母は言った。重いものを乗せすぎて脳がつぶれたんだ。
祖父は1987年、持病で死んだ。やっと半憤が解けた。ハルモニはそう言ったらしい。憤は憤りだけでなく、悔しい、惜しいなどの感情を表すことばで、ようやくその半分が解けたということだ。ハルモニと四姉妹は彼が生まれ故郷近くに埋葬されるときにせいぜい参列はしたが、その後一度も近くに足を踏み入れていない。もしいつかハルモニが亡くなっても祖父の隣に入ることだけはないだろうと、誰しもが思っていた。しかし歳月はそうまっすぐ流れず、数十年ぶりに会ったジョンムン伯父は、ハルモニがそこに入ったらどうかと姉たちに打診してきた。
自分の人生を狂わせた張本人が死んでもまだ消えなかった半憤は、いったいどこにいったのだろう。ハルモニの宣言を聞いた三人の娘は、ただ沈黙していた。
しばらくして誰からとなく呆れた笑い声が部屋に響き渡った。お母さんも自分で言っといてびっくりしたでしょ。ハルモニも、娘たちといっしょに目に涙を浮かべながら笑っていた。笑うしかない。理解を超えることの前で、人間は笑うしかない。
お母さん、自分が何を言っているかわかる?もう一度きちんと言ってみて。叔母は半ば信じられないという顔で、一枚の紙にハルモニの名前を書き、もう一枚に祖父の名前を書いた。そして二枚をくっつけて並べたり、遠く離したりしながら聞いた。これがお母さんで、これがお父さん。こうやって並んで入る?それとも別々で入る?
ハルモニは二枚の紙をくっつけて見せた。
お母さん、ちゃんとわかっているわ。望む通りにしてあげよう。
末っ子で父との記憶がほとんどなく、未婚のままハルモニと同居しているインジョン伯母はあっさり言った。普段から笑っているか泣いているか区別かつかない長女の目が、一層深まった。
コクチ伯母がこの場にいたら、お母さん気が狂ったんじゃないの?と素直に暴れてくれたのだろうか。「コクチ」とは突起のようなでっぱった形状を指すことばで、彼女の次は男性器をもった子が生まれてくるようにという願いが込められていた。その尖ったあだ名のごとく、彼女は不条理にまっすぐ抵抗する。そうしているうちに朝から焼酎を水のごとく流し込むようになったのも、きっとその奇妙なあだ名のせいだ。
それが形式的にもいいよね。過去に何があったかなんて、もう誰にもわからない。
そう冷静で達観したような見解を付け加えたのは、私のオンマ(お母さん)だ。今度は私が大声で笑ってしまった。祖父は巡り巡って、私たちに戻ってこようとしていた。
キムジャンの日の出来事
こうして集まっていると、ハルモニや伯母たちと一緒に暮らしていたときを思い出す。私が五歳になった年、両親はソウルの南の方に三階建ての家を買った。春から初夏まではライラックやあやめの香りに包まれ、もみじの緑がさわやかだった。引っ越して間もなく妹が生まれると、共働きの親を手伝うためハルモニやコクチ伯母、インジョン伯母が二階にやってきた。交通の便が悪く、急坂の上に立っていたその家までの道をハルモニが上り下りできなくなるまで、私は彼女たちの羽の下で暮らした。
ハルモニはやさしさそのものだった。たとえばアカスリをしてくれるときの手の感触とか。私たちは週一、湯船に浸かって肌をふやかし、アカスリをした。普段は母がアカスリをしてくれるのだが、忙しくて余裕のない母の手は子どもの肌にきつく当たる。痛くて泣いているとハルモニが降りてきて、オンマのせっかちさに文句を言いながらやさしくアカスリをしてくれるのだ。それでもしっかり垢は落ちて、風呂上がりはさっぱりした。
両親がいない休日は伯母たちの番だ。私たちは共犯者になった気分で、母は許してくれないビデオを借りて見たり、辛いトッポッキを食べたり、伯母の彼氏たちと遊園地や映画館に行った。ムースで前髪を浮かせた彼女たちからは、いつも洗練された匂いがした。
いまでもオンマはもちろん、ハルモニや伯母たちのことをまるで自分のハラワタのように感じる。私をつくったのは彼女たちからもらった養分だ。そんな彼女たちに起きたことを、私は中学生になって初めて知った。
それはちょうどキムジャン【注2】の日だった。お世辞にも料理が上手とはいえないハルモニは、唯一キムチづくりにはこだわっていた。おかずがそれしかなかった時代のせいだ。ある日、ライラックやもみじの木を切り落とし、美しい庭を畑にしてしまったハルモニは、毎年土地いっぱい唐辛子を育てた。子どものおしっこは良い肥料になると、春になると私と妹はハルモニが用意したバケツにおしっこをしないといけなかった。そうやって育てた唐辛子を収穫して、屋根や車の上など、日差しが当たる場所ならどこにでも並べて干す。真っ赤でつるんとした唐辛子たちは、キムジャンの数日前には香り高い粉になった。
当日は朝早くから叔母や従姉妹のお姉さんが来ていた。みんなハルモニの指示にしたがってハキハキとニンニクを潰し、ネギなどの薬味野菜、果物を切った。そこに新鮮な唐辛子の粉や牡蠣、塩辛、糊や出汁などを加え薬味をつくる。そして家中のあらゆる容器、ひいては湯船でまで塩漬けにされていた白菜に、それを塗り込んでいった。口に唾がたまる生命の匂いが、家に充満した。
忙しさも落ち着いた頃、お姉さんと私は外に出て家々のあいだをぶらついた。少しずつ暗闇が降りてきていた。私は最近初経を迎えたことを、やっとお姉さんに報告できた。従姉妹とはいえ、お姉さんは秘密を分かち合える実の姉妹のような存在だ。ずっと、この戸惑いや驚きについて彼女に話したくて仕方がなかった。
しかしそんな初々しい期待を裏切ってお姉さんは、あなたも女になったから知っとくべきだろうと、祖父やハルモニたちの話を教えてくれたのだった。叔母は長女として、いやでも向こうの家族とつながりをもつしかなく、その辛さや怒りについて娘に話していたようだ。男はそういうものだって。まだ一度も男の子と付き合ったことのないお姉さんがささやいた。
私はハルモニたちと住んでいながらも、おじいさんは早く亡くなったからいないのだとしか聞いたことがなかった。彼女たちにとってそれは「恥の歴史」だったので、あえて子どもに語ろうとしなかったのだろう。裏切られたと思った。悲しみや痛み、無力感のようなものが渦巻いた。それはおそらく私が初めて経験した不条理さである。
飛ぶように家に戻ってハルモニやオンマたちを問い詰めた。その後の記憶はなぜかかすれているが、彼女たちの涙を見てとても怖かったことを覚えている。それ以降、私たちがこの話題に戻ることは最近までなかった。
「そこしかない」
それにもかかわらず再びこの物語を掘り起こしているのは、ハルモニの人生について見逃していた何かを、いまさらながら理解したいからである。自分を捨て、娘や孫の代まで苦しみや歪みを継がせたあの男と、なぜ同じお墓に入りたいというのか。
まだ愛しているから?
死んでからでも一緒になりたいから?
憎しみは愛の一種であると私も薄々勘づいてきた歳頃だが、ハルモニは「好きでもなく嫌いでもなく」一緒に入るのだという。おそらくそんなほろ苦い理由ではなさそうだ。
「そこしかない」
ハルモニはそう言った。ぞっとした。夫の墓に合葬することで、死んでまで女を男に従属させようとする力。男を産んで、また男を産んで、その仕組みを存続させようとハルモニに要求してきた力。そこから逃れていないからこそ口にできることばだと思った。もしかしたらその裏には、本夫人としての座を奪われていたことへの償い、もしくは復讐の念がわだかまっているのかもしれないが。
このような話は、我が家に限るものではない。祖父が死んでもハルモニの憤が半分しか解けなかったのは、残りの半分が個人の次元を超えるところに起因するからだ【注3】。息子への強い執着には、儒教の影響が大きい。先祖崇拝を土台とする儒教において祭祀を行う男子を産むことは、人間の有限さを克服する上でも欠かせない【注4】。儒教は朝鮮時代(1392-1897)に統治理念として採用され、18世紀頃になると民間の生活まで浸透していった。「四代奉祀」、つまり祖父の祖父の代まで、夫婦それぞれの命日に祭祀を行う慣習も、この時期に広がっていく。さらに、それまでは息子だけでなくすべての子どもが交互に祭祀を主宰したり、夫が妻の家の祭祀を行うこともあったが、次第にその家の長男しか祭祀を主宰できなくなる一方、女性の関わりも厳格に制限されていった【注5】。こうして息子の重要性が高まると、息子が産める方法だけでなく、息子が産める女性の識別法や胎児の性別鑑定法、さらには女児を男児に変える方法が書かれた書物まで登場する【注6】。
こういう認識が現代の人々の日常生活においてどれくらい維持されているか疑問に思えるところもあるが、たとえば代々の長男の家が一年に行う祭祀の回数を考えると、少し納得がいく。「四代奉祀」だけでも年に八回の祭祀が待っているが、加えてお正月や秋夕などに行うものや、五代以上の先祖を合同で祀るものまで合わせると、さらに多くなる。いまはここまで厳しく祭祀を行う家も少なくなっているが、私の中高時代にも、自分の家では年に十二回も祭祀があると嘆く友人が何人もいた。祭祀がある日は一緒に遊べず、早く帰らないといけなかったのでよく覚えている。その家では少なくとも年に十二回、男の必要性と優越さが再確認されたのだろう。
それでも20世紀、それも半ばになって、まだハルモニのように息子を産めなかった女性は捨てられたり、そうならないために息子が生まれるまで出産を続けたり、それでもだめだったら妾や「シバジ」(タネ受け――男の精子(タネ)を受ける女性、つまり子どもを産ませるための女性)を迎えたりしていたことが、いまだに信じられない。それがオンマの世代まで変わらず継承されたことを考えると、すさまじい持続力だ。ただ、時代とともに技術が進歩したせいで、ハルモニの世代のような悲劇はいったん「聞こえなく」なった。1980年代に超音波検査で胎児の性別判定が可能になると、そもそも望まなかった女の子は生まれなくなったからだ。これを「男児選好思想」ではなく「女児集団虐殺」と呼ぶべきだという主張に共感する【注7】。
父系中心の文化で女性は従属的な位置におかれた。女性はいつかどこかの父系集団に嫁ぐ存在であるため、たとえば生まれた家系の族譜にはその存在すら書かれず、婚姻して夫の家系に属することになる。そして息子を産んでは代を継がせ、立身陽明させることが望まれる【注8】。やがて死んだら、夫と同じ墓に合葬されるか、夫のものと並ぶかたちで墓がつくられる。ハルモニは息子を産んで祖父の家系を継がせるという道からは外れたが、せめて死後は祖父と並んで埋葬されることで、再び家父長に従属されようとしているのかもしれない。
ハルモニはきっと、祖父の右側に埋葬される。私に予知力があるからわかるのではなく、夫婦の埋葬位置にまで男女の序列が反映されているのだ。男性は聖なる方向である左側、女性は右側に埋葬されるのが一般的である【注9】。父系中心の文化で女性がどういう人生を送ってきたか、いちいち説明するのも苦しいものだが、埋葬の位置関係ひとつをとっても容易に想像できる。
時代が変わったとはいえ、いまでも家父長制的秩序が生み出す軋みは韓国社会の隅々まで、不吉な低音のように響き渡っている。歪みに挟まって悲鳴をあげている人もいれば、うるさいと怒鳴る人、そもそも歪んでなんかいないと叫ぶ人もいる。他の部分の変化速度に比べると、この根強さは本当に不思議だ。数ヶ月に一回という高い頻度で韓国に帰っていても、ある日好きだったお店が跡形もなくなくなっていたり、聞いたことのない小さい街がきらびやかな繁華街に変貌していたりする。電車に乗るとき、紙きっぷの存在がなくなったことに戸惑う。コンビニで現金を差し出すと、クレジットカード一枚で出歩いている友人に笑われる。次の年に堂々とクレジットカードを差し出すと、カカオ・ペイを使うようになった友人に、また笑われる。
政治や大衆文化においてもそうだ。私が選んだことのない大統領が(嬉しくも)降ろされたり、アイドルや映画、ドラマが一世を風靡したりするのをみて、感心する日々である。しかしその映画やドラマに、依然として粘り強い家族主義が溶け込んでいることを発見すると、また背筋が寒くなる【注10】。
女三代の人生からみえてくるもの
なぜ、こんなにも変わらないのか。本連載ではその答えを、ハルモニやオンマ、私という女三代の人生から探ってみたいと思う。ただ、祖父〜男性〜加害者、ハルモニ・オンマ・私〜女性〜被害者と分け、その悲劇の数々を暴露することは本来の目的ではない。加害と被害事例のリストを増やし、互いの抑圧された経験の共通性を掘り下げていくことは、女性を被害という現実に押しとどめ、そのような事態をもたらした権力と暴力の問題を見えにくくする【注11】。
もし私が女三代の人生、とくにハルモニやオンマの人生を被害者のものとして描いてしまったら、それは彼女たちに対する欺瞞だ。たとえば、彼女たちはときどき家父長制的権力への挑戦者でもあった。ハルモニとオンマは結果的に家父長不在の人生を生きるなかで、自らの人生をたくましく開拓してきた。その背中を追ってきた私は、こうして家父長制の変わらなさを問う連載を書いている。一方、私たちは家父長制的秩序のなかで生き、またお互いを生き残らせるため、意識しないうちにその力を内面化したり、ときにはその代弁者になることもあったのだろう。たとえば自分の代においてさえ息子を切望し、息子が産めなかったと自責し続けたのは、父ではなくオンマだった。重要なのは、「誰」が「何」をしたかではなく、私たちを含むさまざまな関係性のなかで家父長制的権力がどのように振る舞われ、持続されるかだ【注12】。こういう側面もひっくるめて女三代の人生を直視し書き留めることは、ハルモニやオンマたちに対する私なりの敬意である。さらには、彼女たちの「恥の歴史」を書き換え、未来に開いていこうとする冒険だ。
したがってこの連載ではやはり「なぜ、こんなに変わらないのか」という問いを大事にしたい。唐突に聞こえるかもしれないが、これは私が近年取り組んでいる韓国の葬儀の変化に関する研究においても重要な問いだ。私は自分の研究と彼女たちの人生が交差する偶然の重なりのなかで、両方を貫く何かに気がついたのだ。
金セッピョル
1983年、韓国・ソウル生まれ、2008年に来日。 現代の人々はいかに死と向き合うかという問いについて、葬儀を手がかりに研究している。著書に『現代日本における自然葬の民族誌』(2019、刀水書房)、地主麻衣子との共編著に『葬いとカメラ』(2021、左右社)などがある。論文や学術書だけでなく、多様な表現方法に興味がある。